からりからりと歯車が回った。
私は硬い石段に座り込み、杖に顎を乗せて階下を見下ろしていた。まわりを木々に囲まれたこの石造りの階段は、人通りも少なく、一日をそのまま過ごすには最適の場所だった。私は何年ここでこうしているのか、ふとわからなくなってしまうときが多々ある。
長い長い階段の中腹で、私はいつも、ただただ座っていた。歯車の回る音を聴きながら座っていた。私の背中のずっと向こう、この階段の上に何があるのか私は確かめたことがない。興味もなかった。
あるとき奇妙な出来事があった。いつも耳にする、頭に響く歯車の音に混じって、子供の喚き声が聞こえたのだ。見ると階段の下の方から、男の子が二人駆け上がってくる。耳障りな笑い声をあげながら私の横を通りすぎていった。その二人を、今度は幼い少女がひとり、追いかけるようにして登ってくる。
歳は七、八といったところか。涙や鼻水でわけのわからなくなった顔はひどく醜かったが、普段はそうでもないのだろう。はるか上をいく少年二人をきっと睨む目はなかなか力強かった。が、私の座る五段下で足を踏み外し、ずるっという擦れた音のあと、彼女は倒れた。転げ落ちなかっただけ幸いというものだ。
嗚咽を漏らし、唇を噛み締めて、少女は立ち上がった。私の顔を見た瞬間くるりと踵を返し、とぼとぼと階段を降りる速さは少年二人を追いかけたときの半分もない。
哀れだ、と私は思った。あるいは歯車が。
やがて彼女の姿が見えなくなり、日も傾いてきたところで、背中越しにわずらわしい笑い声が二人ぶん聞こえた。私の横を通り過ぎるとき、彼らのうちのひとりが、紫色の細長いケースをいじりながら笑っていた。私は事の始まりを察した。
私はゆっくりと立ち上がった。歪な音が鳴り、二人の少年は首を傾げて振り返った。私は彼らが疑問をもつ暇もなく殴りつけ、気絶させた。
翌日、あの少女はまた現れた。うつむいて、一段一段のそのそと登ってくる。この階段の先に何の用があるのか、私には見当もつかない。
私の近くにまで登ってきたとき、私は懐から紫のケースを取り出し、そっと彼女に示した。それを目にした彼女は、ケースと私の顔をなんども交互に見つめながら、ぱちりとまばたきをひとつ。それから梅の花のようにしとやかに、涙ぐんだ笑顔を見せた。
「ありがとう、おじいさん」
幼い声で彼女は言った。
「わたしのうちは、あまりお金がないの。お母さんもいないから、体操服の名前はお姉ちゃんが貼ってくれるの。でも、お姉ちゃんあんまり上手じゃなくって。いつも笑われるんだ」
幼いわりに、少女は言葉の選び方を知っているようだった。彼女は決して、姉が嫌いなわけではないのだろう。
「おうちはボロだし、トイレはお外。電話なんてないから、お隣りで借りなきゃならないの。いっつも変な顔されるんだ」
彼女の話に私は耳を傾けはしたものの、相槌もなにもなかった。
少女は件の紫色のケースを大事そうに抱えると、言った。
「これはね、お母さんがいなくなる前に、いっつも吹いてくれたの」
そこで私は初めて、中身が楽器なのだと知った。歯車のささやきは常に私を音楽に向けさせるようできている。中身を見せてくれと私は頼んだ。少女は快くうなずく。
「でも、壊れちゃってるの」と少女が見せた中身は、なんてことはない、ただ簡単に分解されて収納されているだけだった。私がそれらをまたひとつの形に組立て直すと、少女は目を丸くした。それは丁寧に手入れされた立派なフルートだった。
「吹けるの?」と少女は、期待を含んだまなざしで私を見た。私は短く簡単な曲を演奏すると、ハンカチを取り出して乾いた吹き口を拭い、彼女に返した。無意味な動作だ、と歯車が笑う。
「すごいすごい!」
少女は感嘆の笑みで私を賞賛した。
「おじいさん、わたしにも、吹き方を教えて!」
*
それから少女は、毎日毎日私のもとへ通ってきた。その度に私は彼女に演奏の仕方を教授した。毎日フルートに触れることができた、歯車は喜んでいる様子だった。
「おじいさんおじいさん、わたし、小学校の合唱コンクールで指揮者をやるのよ」
私は彼女にリズムのつかみ方を教えた。
「吹奏楽部に入ったの。これからも教えてね、おじいさん」
丸い顔に寸胴だった少女は、すらりとしたくびれときらやかな長髪を得ていた。
「先輩がね、一緒に弾いてみないかって誘ってくれたの。ギターとフルートならどんな曲がいいのかなあ」
めきめきと上達する彼女に私はかつて毎日聴いていた曲を教えた。
「来月から働きはじめるの。でも、またフルートを教えてね?」
来る機会が少なくなった彼女に、私は変わらず教え続けた。
「お兄ちゃんが結婚したの。すっごく美人さんなんだ。もったいないなあっていったら怒られちゃった」
彼女と彼女の家族の話をよく聞いた。
「また、学校へいくことになったの」
あるとき少女はそう言った。
「働きながらね。看護師さんになるのよ、おじいさん、病気になったら教えてね」
なるわけがない、と歯車が笑ったのを私は黙らせた。
「病気になんてならないさ」
「だめよ、ちゃんと気をつけていなくちゃ」
「わかったよ」
*
「今日はお葬式だったのよ、お父さんのね」
あるとき少女はそう言った。雲が所狭しと並んだ、淀んだ日のことだった。
「あんなに元気だったのに、急にいなくなっちゃった。こんなことなら、もっと、家に帰ればよかった――」
歯車がみしりと鳴った。
「おじいさんは、急にいなくならないでね」
ああ、と私はうなずき、約束をした。
父の死から、彼女が来る頻度は多くなっていった。
「来月修学旅行があるの。でも、お金がぜんぜん足りなくって。行けないと思ってた。そうしたらお姉ちゃんが、お金と、新品のワンピースをくれたのよ。お姉ちゃんだって、ぜんぜんお金ないのにね」
隣に座る彼女はさらに続けた。
「それから、お兄ちゃんはわたしに靴を買ってくれたの。ほら、これよ。いいでしょう」
少女は靴を示すと、目元を湿らせながら笑った。私は、唐突に、自分もなにか贈ってあげられないだろうかと考えた。なにかを贈ってあげたいと、思うようになった。
そうして考えた末、一曲演奏しようかということとなったのだ。
「春によく似合ういい曲ね。おじいさん、なかなかロマンチストだわ」
少女はそう言って笑った。春を感じない身体の私は、自身が春の曲を演奏していたことに驚いた。笛の吹き口が、かすかに湿っていた。
*
それからも彼女は私のもとに通い続けていた。彼女は私に、家族の話をよく聞かせてくれた。
「お父さんも、貧乏で子沢山の家に生まれたそうなのよ。学校に行きたかったけれど行けなくて、毎日木を切る仕事をしていたらしいの」
懐かしむように語る彼女の顔から、父の死という傷の痛みを読み取ることができなかった。それは私が人でないからなのか。それすらもわからない。
「お父さんはわたしになんでも作ってくれて、なんでも教えてくれたわ。私はずっと、お父さんの作ってくれた机で勉強していたのよ」
くすくすと笑う彼女はさらに続ける。
「財産を残せないから兄弟をたくさんにしたんだ、兄弟たくさんで財産を残すとケンカするからなって、よく言ってたわ。昔は弟もいたの。お母さん子だから連れて行かれたのかなって、お父さんが泣くところ、そのとき初めて見た――」
私は、お兄ちゃんもお姉ちゃんも好き。いなくなってしまったけれど、お父さんもお母さんも、弟のことも大好き。少女はそう言う。もちろん、おじいさんのことも、大好きよ――彼女の顔をみたとき、歯車は何も言わなかった。
私は、自分の中で何かが変わっているのを感じた。歯車以外の何かで自分が動き始めたのを感じた。
いつのまにか、からりからりという音は聞こえなくなっていた。
私は、私が、「死」に向かって動き出したことを悟った。
*
「おじいさん、わたし、二人で合奏をしてみたいわ」
あるとき少女はそう言った。
「今までずうっと、おじいさんの吹くところは見ていても、おじいさんと吹いたことなんてなかったもの」
「私と合奏なんてしたところで、退屈なだけさ」
私は決められたリズムで奏でることしかできない、君のように豊かであたたかな演奏などできはしない、と私は乾いた笑みを浮かべた。
「そんなことないわ。だっておじいさん、私の演奏が豊かだって言ってくれるじゃない。私の演奏があたたかなものだって、感じてくれるじゃない。それは、あなたもそうできるってことなのよ」
私は彼女の言葉を咀嚼し、考え込んだ。「明日、また来なさい」と、小さく別れを告げた。
*
少女が帰ったのち、私は立ち上がった。長い間動かずにいたためか節々はきりりと悲鳴をあげ、私は「老い」を初めて理解した。肉のない腹の中から造物主の遺した金貨の入った袋を取り出し、私は町へと出かけた。
歯車の聞こえなくなった耳は町の息吹を驚くほど鮮明に聴きとった。今まで均等なノイズの入った雑音でしかなかった町の喧騒が、生をはらんだ隆盛の一曲となった。波打ち、脈動の聞こえる赤い一曲だ。
私は古い楽器店へと入り、時間をかけて数あるフルートを吟味した。金貨を幾枚か使って、私はひとつを選び、再び階段へと帰った。
*
翌日少女がまた来ると、私は何も言わず懐からフルートを取り出した。ところどころ傷のある、みすぼらしい見た目の代物だが、とてもいい音が鳴るのだと私は知っていた。
「何を弾こうかしら!」
少女の声は嬉しそうに跳ねた。
「何でもいいとも」
「じゃあ、あれがいいわ」
少女は言う。
「私に贈ってくれた春のうた。わたし、練習してみたのよ」
わかった、と私はうなずき、吹き口にそっと口付ける。老人の隣で、少女も同じように笛を構えた。
足で、身体で、リズムをとり、拍をうかがい、そうしてその曲は始まった。
私たちの春のうたが耳に届くと、とろけるような熱が私の身体を満たした。この感覚をなんというのか。血のようにあたたかく、春風のようにいい香りのする気持ちだ。
演奏が終わっても、しばらく私たちは口を開かなかった。心地良い余韻があたりを満たしていたのだ。
やがて、少女が口を開いた。
「おじいさん、わたしね、好きな人ができたの」
「ほう」と私は息をもらした。
「どんな男なんだい」
思えば、彼女に訊ねるのは初めてのことだった。
「とってもいい人よ」と彼女ははにかむ。
「音楽が好きな人でね、ときどき一緒に演奏するの。彼はなんでもできて、とっても上手なのだけれど、笛では私にかなわないなあ、って褒めてくれたのよ。どこで習ったんだい、って」
少女は笑顔で、快活に、ときどき照れくさそうにしながら、想い人について語った。
「それでおじいさんのことを話してみたら、いい先生に出会ったんだね、って――そういえば彼、すこしだけおじいさんに似ているかもしれないわ」
「そうかい、それはよかったねえ」
ほんとうに、いいことだ――私は目をつむりながら、何回も繰り返した。
「ねえおじいさん、もし私に子どもができたら、その子にも、フルートを教えてくれる?」
少女の頼みに、私はすぐにうなずくことができなかった。自身の「死期」が間近に迫っていることを感じていたからだ。人間はこんなときどうするのだろう、と私は考える。私はどんな決断をすべきなのだろうか。
隣に座って私を見つめる少女の顔を見て、私は柔らかく決断した。「ああ、いいよ」
少女は喜んで、ありがとうと言った。
彼女が去ったあと、私はひとり考えた。私は途方もない時間活動してきたが、そのなかで自分が生きたのはほんのわずかな時間だった。そのかすかな時のなかで、私はこの気持ちを知ることができたのだ。ああ、私は今、満たされている。
風が吹くと、石段を囲む木々が揺れる。葉のこすれあう音は心臓の鼓動に似ていた。服の下のからっぽな胸に手を当てながら、私はその音に耳を澄ました。目を閉じると、あたたかな光が頬を撫でたように感じる。それはあの子の手の感触に似ていた。
だんだんと風が止む。鼓動が遠くなる。私の機械仕掛けのこころは木漏れ日に溶けて消えていった。