最初の人
彼、ピスタチオ・加藤の生活サイクルは、甲高く甘ったるい女の声を聴くことによって始まる。同時に寝ていた彼の頭上で二次元キャラクターのホログラムが狂ったように踊り始めた。投影機の明らかな故障であるが、彼は気にせずベッドに備え付けられたアラームを止めると、その白い楕円形のベッドからのそのそと這いずり出た。
それを感知したインテリアA.Iが、すかさず円形の窓を覆っていたブラインドを上げ始め、遅々とした動きながらも、この無機質に包まれた部屋に朝日と言う、唯一有機的且つ最も朝という事を実感させてくれるものが床を舐めるようにして広がる。
まだ目が覚めきっていないのか、彼は不機嫌な表情を隠そうともせず、今も収納されつつあるブラインドを見ながら舌打ちを漏らす。それが合図だったのか、一際優秀だとネットでも評されているA.Iインテリアは、キューティクルな歌声が邪魔臭い、軽快な曲を流し始めた。
いつも通りの朝。部屋に凝縮された普遍的な日常。ピスタチオ・加藤はこの後、お気に入りのアニメのオープニング曲を聞きながら、ミクロン単位で味が調整された何千回目かの同じ味のコーヒーを飲み、その丁度三十分後に仕事場へ向かう。ここ数年間繰り返された日常である。
「あ……?」そんな日常に水を差すように、ピスタチオ・加藤が思わず声を漏らす。
高出力レーザーでも弾くと言う謳い文句の窓。その向こう側に広がるのは、遥か昔の人々が夢見た未来世界。だが、今を生きるピスタチオ・加藤が見れば取るに足らない日常風景が目に映る。その筈なのだが、今日に限り、窓の向こう側には見慣れないものが“浮かんでいた”。
「……まさかこのご時世で、立ったまま夢を見るとは。参ったな」
頭を掻きながらそう漏らすも、ピスタチオ・加藤は“それ”から目を離せずにいた。
絶世の美女、と形容できる女性は何時の時代もそう多くは無い。だが、彼の目の前、窓ガラス一枚を隔てた向こう側には、そう形容するに相応しい女性が浮かんでいた。一糸も纏わず、なんて遺物レベルの感想を頭に浮かべる格好で、だ。
地に足をつけていれば、ピスタチオ・加藤も目の保養としていつもとは違う幸運を噛み締めるだけで終わっていただろう。だが、女は宙に浮いている。二階どころの騒ぎではないのだ。この集中住宅層でも飛び切りの高さを誇るスカイピアマンション、その三百十二階に住むピスタチオ・加藤と目を合わせているのだから。
夢だ。そう結論付けるのは別段おかしくはない。ピスタチオ・加藤に限らず、現代に生きる人々すべてに言える傾向だ。現在の科学技術レベルで解明出来ない事は、見なかったことにするという思考。珍しくはないのだ。
なので、今もしっかりと水晶体を通して女の裸体と言う情報を脳に刻み続けている“幻覚または夢”であるものが、窓を片手で粉々にしながらゆっくりと部屋に侵入してきた今現在、ピスタチオ・加藤の意識が途絶える寸前であっても当然である。
只一つ誤算だったのは、その女が今まで見てきた異性の中でも一際綺麗、いや、一番・唯一・絶対の美しさを備えていた事であり、それが異常事態を否定する為の防衛本能をも跳ね除ける程の魅力を持っていた事にある。
「き、君は、一体……いや、そもそもどうやって……」
いつの間にか尻餅をつき、女を見上げる体勢となっていたピスタチオ・加藤は、日常の欠片すら見当たらなくなった現状を打破すべく疑問を口にするが、対する女はあられもない姿を隠そうともせず、只々顔に笑みを浮かべるのみ。
最早疑問の言葉すら浮かばなくなったピスタチオ・加藤。そこで、不意に起きた時から流れ続けているアニメ『マジメルンタジー』のオープニング曲がまだ終わっていないことに気付いた。この曲はフルになると途端に長くなることで有名であるが、それでも六分八秒で終わる曲。詰まる所、まだ起きてから五分足らずで、この状況に陥ったことになる。だからどうかしたのか。
ピスタチオ・加藤の思考がついに現実から遠ざかろうとしていた時だった。今まで何十秒か無言で見つめるだけだった女が、急に動いたのだ。ふくよかな乳房を揺らしながら、ピスタチオ・加藤に覆いかぶさる形で、四つん這いとなる女。
「ふふ……」
魅力的だった。何故こうまで魅力的なのか。ピスタチオ・加藤は、全ての外的情報を捨て去り、この女のみを意識の内に入れる。するとどうしたことだろうか、ウェーブのかかったブロンドに、吸い込まれるような碧眼、整った顔付き、掌に収まりきらないだろう乳房、寝間着越しに伝わる足の柔らかさ。そのどれを意識しても、そのどれもが逃避する原因どころか、十二分に意識を繋ぎ止める要因ではないか。
その女が、何故か裸で、まるで今から襲うかのように自身の上で微笑んでいる。
今ここにピスタチオ・加藤は戒めを解く。それと言うのも、彼は生まれてから二十五年間、三次元の女にはほとほと愛想を尽かしており、性的な欲求を感じることが無かった。代わりに迎えてくれたのは、二次元という無機質なヴィジョン達。……満たされる筈が無かった。A.I.により生み出されたA.I.以下の偶像達。それ等に欲求をぶつけている人間とは、果たして家畜ほどの価値があるのかも怪しい。死んでも同情されないレベルである。そう、そういった意味で、ピスタチオ・加藤の三大欲求とは、既に死んでいたのだ。
――だが、それも今日までである。見れば、ピスタチオ・加藤の男根は、その持ち主すらも見たことが無い程に隆起していたのだから。
「まさか……そんな……俺が、三次元なんかに、立つわけないじゃないか……」
本人の言葉とは裏腹に、男根は心臓の鼓動と同期しながら身を震わせている。
こんなところまで、ことごとく日常は変えられてゆく。この、一瞬の出来事だけで。その形容しがたい恐怖は、ピスタチオ・加藤に遅すぎる警戒心を植え付けるに十分な働きを見せた。
先ずは部屋から出るなり、警察に連絡するなりと、やることがあるのではないのか。まともな思考が表層意識に現れた瞬間、突如として、柔らかなものにより遮断される。
「ん、んむぅ!? むっ、んっ……」
「はぁっ、んン……」
ピスタチオ・加藤は自身の視界を覆い尽くす美貌と、唇に触れている柔らかな感触、続く滑った物が咥内に侵入してきたことにより、一瞬の混乱に陥った。しかし、一瞬。感じたことの無い、舌上で繰り広げられる快感、鼻をくすぐる甘い匂い、胸板に触れる柔らかな二つの実、そのどれもが快感を直接頭に送り込んでくるのだ。
「ふぁっ、んっ、ふふっ」
「っぷぁ、はぁっはぁ、な、なにを……くぁあ!?」
解放された、そう思った瞬間、ピスタチオ・加藤は今まで以上の快感により声を漏らしてしまう。
圧倒的な快感だった。何をされているのか、一瞬で分かってしまう。だが、見たらさらに感じてしまうのではないのか。そう思うが早く、ピスタチオ・加藤の目は自身の股間へと向かっていた。
まるで見慣れない大きさまで隆起した自身の一物が、白く細長い指で愛撫されていた。触れるか触れないかの辺りで竿を撫でながら、徐々に先端へ近付くにつれ、ピスタチオ・加藤は電撃でも流されたかのように背中を反らす。
快感が強すぎて、声にならないのだ。
おかしいと思う思考すら許されず、ピスタチオ・加藤は為す術もなく指五本のみで急激に高められてゆく。
「がっ、あっ、かはぁっ――!」
「ふふふっ」
体を震わせながら、獣のように喚き、ピスタチオ・加藤は今まで出した量全てを足しても足りない程のスペルマを男根から噴き出した。
耐える、というのはそもそも無理な話であり、結果として決壊するまでストレートに快感を与えられ続けたピスタチオ・加藤の脳は、今この瞬間、人生で最大の絶頂・快感・オルガズムを感じていた。それが、ピスタチオ・加藤の脳が最後に感じた信号である。
固い殻が割れるような音が部屋に響いた。クルミを強引に割った時のように、割ると言うよりは壊してしまった、あの不安にさせる音。だが、その音の原因はクルミではない。
続く音は、ズブズブと、粘性のある液体に何かを差し込む音。凹凸から漏れ出た空気がある種卑猥な音を響かせ、不意に一際大きな音が部屋に響き渡る。だが、音をの原因を傍観できる人間は、既にこの部屋に存在していなかった。
残されたのは、血まみれになりながらも微笑む女のみ。その手には、余り趣味が良いとは言えないピンク色の物体が握られており――。
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盛歴二五〇ニ年、人類は滅亡の危機に瀕していた。
安定期を迎えた人間社会。向こう二万年は平和で緩々とした歴史を築いてゆく、誰もがそう思っていた時代。
そんな時、突如として現れたのは侵略者。既に地球連邦が成立した世界にとっての侵略者とは言うまでもなく、地球外の知的生命体である。
一言の声明も無く、只々静かに侵略を始めたエイリアンは、今日も地球の空を覆い尽くすが如く巨大な母船をオゾン層に浮かべていた。
それは果たして、人類が滅ぶまで続くのだろうか――。