それじゃない
がつん、と突き立てたシャベルが土中で何かにぶつかった。おれは「これは石に違いない、過度に期待をすると損をするぞ」と自分へ言い聞かせながら、慎重にそれを掘り起こした。
果たして土の中から出てきたものは石ではなく、透明のビニール袋に包まれた鉄製の薄い箱だった。これが何者かの手によって埋められたものである事は明白であり、おれはシャベルを放り投げると、土臭いビニール袋の梱包を解いた。
鉄製の箱には鍵などはなく、簡単に中身をおれの目の前にさらした。
おれは中に収められていたものを見て、唾を飲みこんだ。手が震えだし、顔がひきつる。心臓が早く次の行動に移せと血液をやたらに循環させおれを急かした。
それは一丁の拳銃だった。
たしかにその場所は巧妙に隠されていた。一度掘り返したうえには落ち葉がかけられ、ほかの場所と一切変わりがないように見えた。それでも、毎日のように裏山を散歩しているおれには、そこが昨日とは違っている事が一目で分かってしまった。落ち葉に人が踏みつけた形跡がなかったからだろうか? 具体的なことは分からないが、とにかくなぜそこだけ他と違っているのか気になったおれは、そこを掘ってみようと思ったのだ。
黒光りした拳銃はずしりと重たく、じんわりとした冷たさで手の中を冷やしていく。その鉄の塊の中には、いくつもの未知の感覚がつまっているようで、おれはにやにやしながら、ぐるぐると拳銃をいろいろな方向から眺めまわした。これが手の中にあるというだけで、心臓がひっくり返りそうなほど、おれは幸せに包まれていた。
おれはぬか喜びをするのは嫌だったので、銃握をにぎると安全装置を外し、適当な木へ向かって引き金を引いた。すでにそういう場面を虚構の世界で何度となく見ていたおれは、まるで靴ひもを結ぶように、ごく自然にそれらの動作を行うことができた。しかし発砲音は思ったよりも大きく、爆竹が目の前で炸裂したような音がして、思わず顔を背けた。余計な動きをしたために反動を体で支えきれなくなり、おれはバランスを崩してその場で情けなく尻餅をついてしまった。
静かだった木立の中を、銃声の残響と、驚いた鳥たちの悲鳴と羽ばたきが駆け抜けていった。おれは地面に座り込んだまま、その現実と非現実の間を揺らす余韻が、体の中へ溶け込んでいくのをじっくり待った。
狙いをつけた木を確かめると、狙った場所よりも少し上に、樹皮にめり込んだ弾丸を発見した。おれはそれをほじくり返そうとしたが、指をつきたててもなかなか出てきそうもなかったので諦めた。なるほど、これはホンモノらしい。
その場で空へ向かってもう一度、引き金を引く。再び乾いた破裂音が鼓膜を揺らす。既に鳥たちは遠くへ逃げてしまったらしく、鉄塊の上げた咆哮に反応するものは、おれしか居なかった。余韻が遠のく。
おれは拳銃を持ってきたナップザックの中に放り込み、掘り起こした穴に空き箱を埋め戻すと、その場を立ち去った。
自宅に戻ったおれは、自室の壁に釘を二本刺した。一本は引き金の中を通し、もう一本は銃口の下にあてる。さらに銃口の上へ一本刺してバランスを崩して踊らないように固定し、拳銃をごくかんたんに、部屋のオブジェとした。おれは拳銃の前に椅子をもってくると、そこに腰かけた。
しばらく拳銃を眺めていたが、まったくマシな使い道は思い浮かばない。拳銃とは他人を傷つける目的以外では、あとは脅しであるとか、野獣をたおす程度にしか用途がないように思える。なんとも薄い人生を歩んできてしまったものだ、と途方にくれたおれはインターネットで「拳銃/使い道」と検索してみた。しかしそこにも答えはない。結局、憎むべき相手であるとかが居ないおれを拳銃という物体が変化させたのは、おれがそれを所持しているか/いないか、のON/OFFだけで、それ以上でも以下でもないのだ。裏山で拳銃がおれに見せた自身の機能についても、だいたいおれの想像した通りで、せいぜい発砲音が若干やかましいという程度しか新しい発見はなく、なんだか拍子抜けしていた。おれはこの世紀の瞬間に、もっと感動したかったのだが。
しかたがないので寝ることにした。
夢の中でもおれは、裏山の地面を掘り返していた。やはりシャベルの先は土中の何かにぶち当たり、おれはそれを掘り起こす。
しかし現われた物体は、現実のあの鉄製の箱とは異なり、黄色と黒の危険色で彩られた筒だった。表面には大きく髑髏が描かれてあり、中に秘められたものが何か得体の知れないものである事を物語っていた。このしるし以外になにか、これがなんであるのか分かるような、注意書きのようなものは無いのだろうか、とべたべた筒をいじくり回しているうちに、筒の先端がひとりでにくるくると回転を始めた。
くるくる、くるくる。
いくらも回転しないうちに、頭上で鳥たちの絶叫が響く。
くるくる、くるくる。
回転が腕に与える振動が、おれの鼓動とリンクする。
くるくる、くるくる。
だいぶ回ったはずなのに、一向に外れる気配がない。
くるくる、くるくる。
おれはついに我慢できなくなって、回転を続ける筒の頭を引っこ抜いた。
とたんに空は黄色に染まり、筒からは黒い煙が立ち昇りはじめる。
おれは歓喜の雄叫びをあげながら、筒を持って全速力で走りだす。黄色い空が、のんきな青空を侵食していき、おれの走った道筋には黒い煙が飛行機雲のように残された。おれは跳んだりはねたりしながら、山を降りた。
黒い太陽と黒い雲が浮かぶ黄色い空の下、おれは筒を振りまわしながら町中を走り回った。安全装置の外れた幸福感が、体中の穴という穴から放出されていく。しかしそれにキリはない。無限の幸福感が毛穴や耳穴や口の穴を通るたびに、おれは射精した。
翌朝目を覚ましたおれは、汗でぐっしょり濡れたシーツを背にしながら、壁へと目を向けた。そこにあるのは当然昨日掘り起こした拳銃だった。知らぬ人がみればただモデルガンを見せびらかしているだけにしか見えないだろう。おれの部屋にある限り、こいつの役目はそこ止まり――壁にかけられたつまらない鉄の塊になってしまう。こいつはもっと、有効に活用できる人間が持つべきなんだ。おれは自分自身の決定へ同意した。
「あんた、昨日部屋でガンガン壁を鳴らしていたけど、何やっていたのよ」
朝食を食べようとリビングへ降りると、不機嫌な顔をした姉が、口を尖らせて言った。
「ちょっとさ、壁にモノ、飾ろうとおもって」
「へえ、どうでもいいけど、もっと静かにやってよね。もうちょっとうるさかったら、あんたの部屋に乗り込むところだったんだから」
「うん、ごめん」
そうか、拳銃を有効に活用できる人物へ差し出すのなら、あの釘は必要ないのだから片づけなければならない。
「っていうか、釘ってあんた、壁に穴開けたの? 信じらんない」
おれはそれ以上釘の話を聞きたくなかったので、テーブルの上からパンだけ取ってリビングを出た。
鞄の中に拳銃を忍ばせたまま、おれは登校した。別におれがそれを持っていようと、周りの景色に変化はなく、現実は平常進行であり、ただおれの鞄が無駄に重たくなっただけだった。
おれのひとつ前の席には、飽きもせず花瓶が供えられていた。暇なクラスメートが美術の時間中、教師が不満を垂れるのも無視して勝手に作った木製の花瓶にささっているのは、おそらく花壇から引きちぎって来たのであろう黄色いパンジーだった。
やがてやってきた席の主は、一瞬も表情をかえずにその木瓶をロッカーの上へ移動した。その小さな背中へ二人の男子生徒が近づいていった。
「おっすー! 元気してたァ?」
このクラスの空気を支配している金髪ロングの生徒が、獲物の背中をバンバンと叩いた。叩かれるたびに、獲物の背中は縮こまっていく。
「あ、それもったいないから食っていいよ」
腰ぎんちゃく代表である腰パンが、昼飯の残りを指すように木瓶にささったパンジーを指さした。二人に囲まれて獲物の動きはよく見えなかったが、少し間を開けて、
「いいからいいから、気にすんなって!」
と金髪ロングがパンジーを木瓶から抜いた。
彼らを止めようとするものは、一人としていない。それがこの教室内のルールであり、それを破ったものが架せられるのが、いま眼前で繰り広げられているものと同一であることが想像に難くないからだった。
「うお! マジで食うの! お前ガッツあんな!」
「ヒャッヒャ! うける、こいつハムスターみてぇにして食ったぞ。ちょっとさ、もう一回やってよ、今の」
いじめる側が、いじめを続ける理由は分かる。
それがスカっとし、支配感に酔うことができて、そして楽しいから。
しかし、いじめられている側が、ただ黙っていじめられ続ける理由が、おれには分らなかった。律儀に登校し、毎日同じ様に虐げられる。その負のサイクルから、どうして逃げようとしないのか。
だからおれは彼へ、自分こそが支配者だと勘違いしている奴らへ反撃する最高のきっかけを与えることにした。彼こそが、この拳銃を手にするに相応しい人物だ、とおれはふんだのだ。彼の手の中にあってこそ、これは輝くことができるのだろう。
放課後、おれは獲物の彼の下駄箱を開け、その中へ拳銃を納めた。ごとり、という音ととともに鎮座したそれは、意外にもはるか以前からそこにあったかのように、さもそこにあって当然のような存在感を放っていた。まるで、下駄箱の中こそが自分の正しい居場所である、とおれに告げているようだった。おれは嬉しくなって、おもわず笑みを浮かべながら下駄箱を閉じた。これならば、きっと良い結果が待っているに違いない。
拳銃を手にした彼がどんな反応を示すのか気になったおれは、すこし離れたところから下駄箱を観察することにした。もし透明人間になれるのなら、下駄箱の真横に立ってじっくり皺の詳しくまで表情の機微を確かめたいところなのだが、しかたがない。おれはこのあとの展開に胸を躍らせながら、彼が拳銃と邂逅するのを待った。
獲物の彼は、下駄箱の扉を開けると同時に動きを止めた。そしてきょろきょろと辺りを見回したあと、恐る恐る下駄箱の中へ手をつっこんだ。その手が冷たい黒鉄の塊を握る瞬間を、俺は頭の中に思い浮かべる。昨日裏山であれを掘り返した時の高揚感が、ほんの少しだけ戻ってきて、おれはゾクゾクと身震いをした。きっと彼は、昨日のおれ以上に、興奮を覚えているに違いなかった。何せ彼には、拳銃の明確な使い道があるのだから。
彼は拳銃をしげしげと見つめたあと、鞄の中にそれを押しこんだ。靴を履きかえ下駄箱を閉めると、またも彼はきょろきょろとあたりを見回した。昇降口を出てからも、きょろきょろと首を動かす。どうしてもっと堂々としていられないのかと、見ていて歯がゆくなってくる。君は今無敵なんだ。胸を張っていいんだ。おれは彼に、そう教えてあげたかった。
おれが後をつけていくと、彼は近くの森林公園へと入っていった。やたらときょろきょろする癖に、彼は僕の存在にはまったく気付かず、道を逸れて窪地へと降りて行った。あれがホンモノであるか、彼も確かめようというのだろう。まどろっこしいが仕方あるまい。自分で確かめるほか、ホンモノだと知るすべはないのだから。
だいぶ聞き慣れてきた破裂音のあと、彼はあろうことか拳銃をその場に放り出して、降りてきた斜面を駆け上がりだした。あれがホンモノである事を知り、怖気づいてしまったというのか、どれだけ心臓が小さいのだ。おれはあちらへ聞こえぬよう小さく舌打ちをした。
「ひっ」
斜面をのぼり切らないうちに、彼は小さく悲鳴をあげ、その場で立ち止まった。しまった、今の舌うちが聞こえてしまったのだろうか、と一瞬うろたえたが、彼が自分のポケットの中を探っているのをみて胸をなで下ろした。取り出された携帯電話は彼の手の中で明滅し、着信を知らせている。ヴーヴーと鳴る携帯電話を、諦めと焦りの混じった目で見つめている彼の存在感が、少しづつ希薄になっていくように思えた。おれは、その様子で電話の相手が誰であるのかは大体想像がついた。
電話へ出るのか出ないのか、いまいちはっきりとしない彼の様子にやきもきしていると、深呼吸の後、ついに彼は携帯電話を耳にあてた。
「――もしもし」
終始彼の顔には、引きつった笑みが浮かんでいた。それは自分自身の現状を客観的に嘲笑いながら、必死に現実逃避しようとする――力を持たないものの顔だった。やがて電話を終えた彼は、その場にへたりこみ肩を揺らしながら嗚咽をもらした。
十分ほど経って立ち上がった彼の顔は、自分の思考力を使い果たしたかのように血の気が失せていた。そしてのろのろと緩慢に、先ほど試し撃ちをした辺りへおりると、参加開始の合図を静かに待っていた拳銃へ近寄り、逡巡したのちそれを拾い上げた。
そうだ、それこそが、君を救ってくれる、呪われた現状から解放してくれる、唯一無二の神器なんだ。
「おっ、はええじゃんか、やるねえ」
彼の向かった先にいたのは、予想通り金髪だった。
ゲームセンター脇の薄汚れた路地、おれは二人の声が良く聞こえるように、路地の反対側にまわり、ごみ箱の影へ隠れた。隣にある居酒屋の生ゴミから出る匂いでむせ返りそうだったが、出来るだけ息を吸わないようこらえた。
「持って来たんだろ? さっさと出せよ、そしたら帰っていいからさあ」
向かいあったまま動かない獲物へ、痺れをきらした金髪が一歩近づいた。
獲物は黙ったまま、じっと金髪を見つめている。
「おいおい、どうしちまったんだよ? 葛西クン、ボケちまったのか? まだ若いんだからさあ、頼むぜおい」
軽い調子の台詞とは裏腹に、語気には早くも金髪の苛立ちがありありと含まれていた。
壁一枚隔てて賑やかに重なりあうゲーム機たちのBGMが、一層この路地の張りつめた空気を際立たせる。
早く決着をつけないと、こいつの仲間がやってきて、ややこしくなるぞ。おれは彼へそうアドバイスしたかったが、しかしあくまで彼自身が一人で導き出す結論を待つおれには、それは出来ないのだ。
全ての騒音が、示し合わせたようにほんの一瞬だけ止まった。そのタイミングに背中を押されたのか、獲物の彼がようやく口を開いた。
「も、持ってきて、ない」
「はあ? 聞こえねえよ、なんだってえ!?」
充血した声が、路地の壁で何度も跳ね返る。一瞬自分自身に怒りが向けられた気がして、おれは唾を飲み込んだ。
「なんつったのか、良くわかんなかったからよ、今のは見逃してやるよ。もう一回、よく考えてから喋れよ? 今回だけ特別に、取りに戻ってもいいぜ?」
再度沈黙。
ずっと曲げたままの足が痺れてきて、おれは静かに足を組み替えた。呼吸を出来るだけ止めることが辛くなり、鼻が複雑な有機臭を何度も捕らえ、不快であると脳へ知らせる。おれの一部が、もううんざりだ、と意思表示している。必死にそれが伝染し増殖するのを抑えながら、次の展開を待った。
おれの一部が二倍に膨れ上がったころ、ようやく場面が動きだした。
「金なんか、無い、持ってきてない、渡せない、もう嫌なんだ」
耳に意識を集中してようやく聞き取れる小さな声で、彼は訴えた。それに被せるように、金髪が頭だけ獲物へ近づける。
「あ?」
「もう沢山なんだよ! お前さえ居なければ! ちくしょう!」
叫ぶと同時に、ずっとマネキンのように静止していた彼の体が動いた。
「は――ハア?」
金髪が半歩だけ後ずさる。
カチリ、と安全装置の外れた金属音が鳴った。
「死ね、死んじまえ!」
涙を溜めながら目を見開いた獲物の彼の腕が、ぶるぶると震えている。狙いは定まらないかもしれないが、あの距離であればどこかしらに当たるだろう。
「ぐうううああああああああ!」
引き絞られた口から、唾液を含んだ絶叫が漏れる。
さあ! いまだ! 殺れ! 殺るんだ! 殺るしかないだろ!
そして金髪の体が小さく揺れた。
おれの体の中心で点火を待っていた歓喜の導火線に、火がついた。
この反逆劇の絵を描いたのは、おれに他ならない。
おれが彼へ与えた力が、きっかけが、この情景を創りだしたんだ。
おれの引いた、彼らには見えない糸が、彼らを突き動かし、運命を変えたんだ。
おれは、自分が目の前の二人よりも一段高い次元に立っているのだということを実感して――
導火線が一ミリ燃えるか燃えないかというところで、火は消えた。
金髪は倒れることなく、右手を獲物へ向かってつきつけた。
その手には、拳銃が握られていた。立場はあっさりと、逆転していた。
「こんなもんでビビると思ってんのかよ、バカにすんじゃねえぞカスが」
「うっ、ひっ」
目の端から涙を流し、獲物はそれ以上動くことが出来ず彫像のように体を硬直させた。
そうか、やはり弱者が強者へ反旗をひるがえすことなど、そうそう出来ることではないのか。やはり弱者は自分自身をそこへ貶めた、天性の運の無さ、間の悪さ、決断の遅さから逃れることが出来ないのだ。
所詮、現実なんてこんなものなのか。
おれは大きく息を吐き出した。
おれは金髪が拳銃をモデルガンだと思って、そのまま帰るのだけは勘弁してくれよ、と神に祈った。
「ああ、面白くねえな! なんでお前、調子乗ってんだよ!」
金髪は銃底で獲物の顔を殴りつけた。
その一撃で、獲物はうめきながら地面へしゃがみこんだ。
「これ見せて、許して葛西さん! お金はもういらないよ! とでも言うと思ってたのか? 夢見すぎ――」さらにもう一撃。「――なんだよ! 気持ち悪りいな!」
獲物はしっかりと頭を抱えながら、地面と壁面へ体を預けて、ガタガタとだらしなく震えている。
「バアン!」
おどけたような金髪の声とともに、大きく舌打ちしたような、ゲームセンターの騒音の波長から辛うじて外れた、火薬に火の点いた音が、なんの前触れもなく鳴った。
「ギャッ!」
おれの胸を締め付けていた拘束がとけて、こころが空へ浮かび上がりそうになった。しかしそれはほんの一瞬で、獲物の体がもぞもぞと動いているのを見とめて、こころは再び汚らしい路地裏という現実へ戻ってきた。おれは自分の口元を抑えながら、どうなったのかもっと良く確かめようと、思い切って上半身を路上へ出した。背後で空の酒瓶がカチカチと鳴ったが、おれ以外にそれに気づいたものはいなかった。
弾は太ももの辺りにあたったらしく、獲物はそこを両手で押さえている。血はほとんど出ていない。ただかすっただけなのだろう。命を奪うのには程遠いダメージだ。
金髪は自分の手が握っている物の本質を知り、呆然とそれを見つめている。
そうだ。そいつは本物で、お前を狙ったんだ。そいつは明確に、お前を殺そうとしたんだ。許せないだろ? ただのクズの筈なのに、お前の一番大切なものを取ろうとしたんだ。そのままにしておけないよな。
「あぅ、んぐ」
獲物が痛みに呻いている。どれほど声に出したところで、ここに助けなどやってこないというのに。自分の決断力の弱さが、自分をこの状態へ貶めたというのに、彼はまだ、奇跡なんてものを信じて、心のどこかで救いを待っているのだ。
「ああっ!」
さらに感極まったように、獲物は痛みを叫びと共に放出した。
「ひ、ひぃっ」獲物の様子を見ていた金髪が、突然獲物とシンクロした悲鳴をあげた。続いてガラァンという金属音。「俺は悪くねえぞ! お前がこんなもん、もって来るからそうなるんだ! 俺は悪くないからな!」
地面に落ちたのは、拳銃だった。
ホンモノであると知り、それを放り出す様は、獲物も金髪も、変わらなかった。
それを使って自分の命を奪おうとしただとか、プライドどころか命まで傷つけようとしていたのだとか、そんなところまで、頭が回っていないのだ。
どうしようもない。
金髪はなんどかジリジリと足を動かしたあと、急に振り返って、獲物が倒れているのとは反対側へ――おれの隠れている方に向かって駆け出した。
金髪の顔が表現しているのは恐怖。
拳銃を持ち出した獲物を恐れているのか、拳銃という物体の破壊力を恐れているのか、拳銃で傷つけてしまったという事実を恐れているのか。
分からないが、
知りたくもない。
おれは背後の酒瓶を手に取った。
金髪がおれの横を通り過ぎる、おれの存在には一切気がつかない。
金髪の頭めがけて、酒瓶を振りおろす。
想像通りの音がして、瓶が割れる。金髪は前へつんのめりながら、顔を歪めてこちらへ振り返ろうとする。おれは半分に砕け、もう用途としてはそれしか残されていない瓶の残骸を、金髪の顎めがけて振り上げた。
家庭科の時間に、切れないクソ包丁で鶏肉を切ろうとしたときと同じような、柔らかい物体を強引に抉る感覚が手に伝わったが、すぐに消えた。
金髪は顔を手で覆った。既に獲物の血で若干汚れていた手が、一気に赤く染まる。何事か叫んでいる。おれは倒れこんだ金髪の脇腹を思い切り蹴りつけた。湿った布団を踏んだような感覚しかない。何度蹴っても、それは変わらない。ただうめき声のレベルが変化するだけである。
埒が明かないので、おれは獲物の前でこの世から忘れ去られようとしていた、鉄の塊を手に取った。獲物はおびえたような目でおれを見上げていた。
わけもわからず、ずるずるとどこかへ逃げようとしている金髪の股間へ、勢いよくつま先をめり込ませると、おれはレンガの裏にいるダンゴ虫を探すように、金髪をひっくり返した。銃口を金髪の体へ向けてうろうろさせたあと、おれは思い切って頭へ向かって引き金を引いた。結局そこが一番スカっとしそうだと、おれは思ったのだ。連続した意識の次の一ページを認識したときには、金髪は動くのを止めていた。ふうん。
油のようにぬらぬらと、血が薄汚い路上に広がっていく。
予想通り、おれはこんなものか、とため息をついた。喉の奥からつまらなさが全身へ広がっていく。
「あ……あのさ」
声をかけられて、おれは振り返る。そこには鼻から血を流した獲物が、撃たれた片足をかばいながら、辛うじて立っていた。
「その――た、助けて、くれたの?」
獲物の目は、先に転がっている、血の池に浮かんだ金髪とおれを交互に見ていた。
「あり……ありが、とう」
気づいたときには、獲物の頭から血と脳みそが噴出していた。恐れと感謝を半分づつ含んだ中途半端な表情を浮かべたまま、獲物は地面へ崩れた。
おれは弾が無くなるまで、もう大して反応しない獲物の体へ穴を開け続けた。
「空気読めよ」