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絆創膏

高校生のとき、流行ったおまじないがある。
絆創膏の裏に緑色で嫌いな人の名前を書く。そうすると、その人とは一生涯関わらなくて済むというものだ。
『へぇ。うちの高校にも、赤色で好きな人の名前を書くとその人と両思いになれるってのはあったけどなぁ』
これがおまじないの話をしたときの彼の反応だった。赤色で名前を書いて両思い。平和的で、いかにも男性が好みそうな可愛い感じのおまじないだ。
現実はそんなに可愛いもんじゃないけどね。
彼の反応を思い出しながら、私は自嘲気味に笑った。世の中の女性は打算的だ。
好きな相手と結ばれるよりも、嫌いな相手と縁を切る方が難しいことを知っている。どこでどんな繋がりになるか分からないから、どんな相手との関係も軽々に切ったりはしない。あるいは関係を切ろうと決心しても、露骨に嫌いな態度をとるというのも中々出来ない。複雑な思いの果てに、結局大嫌いな相手と毎日笑顔で食事しなければいけなかったりもすることなんてしょっちゅうだ。だから男と話すときは可愛らしい両思いのおまじないで盛り上がったりしておきながら、裏ではこっそりとえげつない縁切りのおまじないが流行ったりする。
「赤色で書いたら両思い、緑色で書いたら縁切りかぁ。」
私は自分の右手の人差指に巻かれた二枚の絆創膏に目を移した。それらは少し隙間を開けて連なって巻かれており、同じ指に二枚も貼られているというせいだろう。かなりの違和感を放っていた。
「結局高校のときは一回もやらなかったんだけどな」
高校のときは恋に苦しんだりしなかったから。適当に彼氏がいたし、友達関係もそこそこ上手くやっていけてたから、苦しんでなんかいなかった。
誰かを傷つけてまで奪いたい人も、どうしても関わりたくない人もいなかった。
今私の人差指に貼られてる絆創膏には、男の名前が赤で、女の名前が緑で書かれてる。おまじないなんて上手くいかないとわかってる。特に赤色で書いた男性の方は絶望的だ。それでも、すがらずにはいられなかった。そのぐらい追い詰められていたのだ。
「あーもう!やめやめ!私は明日も会社があるんだから!」
私は気持ちを切り替えようとして大きく伸びをした。行ってもすることはないだろうが、だからと言って行かなくていいということにはならない。会社というのはそういうものだ。
ズキンッ
不意にキュッと心臓を握られたような気がして、私は思わず胸を両手で押さえつけた。気持ちを切り替えようとして放った一言だったのだが、どうも『私は』という部分に引っかかったらしい。
そうだ。私は明日も会社がある。でも、彼に明日はないのだ。
さっきかかってきたばかりの電話を思い出す。上司が、何故か私に電話してきてくれて彼の自殺を教えてくれた。私は彼とのことは誰にも話していなかったのだが、あの人は気付いていたのかもしれない。勘のいい人だから。
「自殺しちゃうとは思わなかったな」
自殺の原因を聞いたわけではないが、私はそれを知っていた。いや、正確には心当たりがあったという程度のものなのだが、ほぼ間違いはないだろう。
大体、会社も悪いのよ。
彼が優秀な人なのは知ってたけど、その彼を全面的に信頼していろいろなデータを軽率に預けてしまっていたのだから。
ささやかな抵抗のつもりだった。彼のパソコンにウイルスが入り込んで全データが流出すれば、彼の信頼はガタ落ちだろうと。会社での彼の立場を悪くしてやろうと。私をこんなに苦しめた彼にちょっとだけ痛い目を見せてやろうと、そんなささやかな復讐のつもりだったのだ。
「月曜日に分かるはずだったんだけど、仕事熱心だね。土曜日にも出勤してたんだね」
そんなところに、彼女も惚れたんだろうな。
私は絆創膏を巻いた人差し指を折り曲げながらフフッと笑った。自分がこんなに醜い女だなんて思わなかった。浮気でいいから抱いてくれと迫ったのは私だ。同情で抱いてくれただけなのに、一度きりという約束だったのに、それに満足できなくなったのは私だ。何もかも、私が悪いことなのに。
「あーここだここだ」
突然聞こえた間の抜けたような大声に、私は思わずピョンッと飛び上がった。心臓が飛び出るかと思うような衝撃が体中に走り、気がつけば目を見開いていた。私は鍵のかかったオートロックのマンションの中におり、誰も中には入ってこれないはずなのだ。なのにこの声は一体どこから聞こえてくるのだろうか。
しかしキョロキョロと辺りを見渡すと、その疑問はすぐに解消された。彼女の目の前に、その男は堂々と立っていたからである。
「だ、誰・・・・?」
絞り出すようにそう尋ねる。驚きのあまり、すぐには声が出て来なかったのだ。
「死神さ」
そう言ってその男は、私の目の前にあぐらをかいて座った。
「あんたに、悪い報せを持ってきた」

私はしばらく動かなかった。私の目の前に座った青年も、じっと私の瞳を見据えてくるだけで、特に動こうとはしない。男が何者か分からず怖くて動けなかったというのもあったのだが、それだけではない。男は、何かを纏っていた。
目で見えるものではない。ただ、それをそれと信じさせるもの。得体のしれない何か。対峙して初めて伝わってくる、もやもやとした何かを、男は持っていたのだ。オーラとでも言うのだろうか。
「そろそろ、話してもいいかい?」
いかにも手入れされてませんと言わんばかりのボサボサ頭をかきむしりながら、二十二、三だろうか。まだ少々幼さを感じさせるその男性は、黒いスーツをパタパタと前後に動かして扇ぎながら、退屈そうな顔で尋ねてきた。
なんなんだろう彼は・・・・。
普通ならば大声を出して助けを呼ばなければいけないところだ。しかし私は声を出すことが出来ず、しかしだからと言ってすんなり談笑することも出来ず、ただ硬直しているだけだった。
「おいどうした?心配しなくてもあんたの命を取りにきたとかそういうこっちゃねぇから安心していいぜ。そもそも誤解されがちだが、俺達には別にそういう力はないしな」
「か、帰ってよ・・・・」
やっとのことで、言葉が出てきた。目の前で起きた現実が中々理解できず、今もまだなお頭がぐるぐる回ってる。こんな状態で私がなんとか言えることは、これだけだった。
「まぁそう言うなって。あんただって死んだ彼のこと、知りたいだろ?」
「え・・・・?」
「ほら、さっき自殺した彼のこと。電話かかってきただろう?」
「何で・・・知ってるの?」
驚いたなんてもんじゃなかった。このことは私もさっき電話を受けて初めて知ったのだ。しかもこのことを私に教えてくれた上司は、おそらく私にだけこのことを伝えたのだ。彼の自殺の話を知っている人間は、他にほとんどいないはずなのに。
「なんでかって言われても、死神だからと言うぐらいしか出来ないな」
私は、この時点でも全く彼のことを死神だなんて思ってはいなかった。これだけの情報でそんな馬鹿げたことを信じようなんて思わない。でも死神と名乗るこの青年は、ついさっき起きたばかりの彼の自殺を知っていたのだ。
死んだ彼のことで何か知っているのは、本当かもしれない。
その段階になって、私はようやくその青年への恐怖感より、彼の死についての情報への好奇心が勝った。相手が得体のしれない何かだという認識はしたままだったが、それでも私はおそるおそるという感じで切り出すことが出来た。
「うん・・・じゃあまぁ、それはそれでいいわよ。もうそれでいいから、彼のこと何か知ってるなら教えてよ」
そう言うと、彼は死神どうこうの話を私が信じたんだと思ったのだろう。ふぅと安堵のため息を吐いていた。
「毎回この信じてもらうって作業が一番大変だよな。まぁ後の作業っつたら伝えるだけだけどよ」
「いいから早く話して。貴方のこと、全面的に信じたわけじゃないのよ」
「分かったよ。女ってのはせっかちだな。だから誤解して復讐しちまったりするんだ」
「誤解?」
彼の言葉の意味が分からず聞き返すと、黒いスーツの青年はやれやれと言わんばかりの口調で続けた。
「あんたが彼のパソコンのデータを流出させたことさ。あれがなきゃ、そう遠くない未来にはあんたと彼は一緒になれたハズだ」
またしても私が驚く番だった。彼は、私がデータを流出させたことまで知っているのだ。私でさえ、本当にそれが行われたかを確認出来ていないのに。
それだけでも充分私を驚かせたのが、一つの台詞で二回驚かせてくれるのだから本当に凄い男だ。なにより私を驚かせたのは、その台詞の後に語られていた部分だった。
「なんですって・・・?」
「彼はあんたのことが好きだったんだ」
私があれこれと疑問を発するよりも早く、彼が先に答えた。一瞬頭の中にいろいろと言いたいことが浮かんだが、私はそれらを言うまいとして首を振った。
「証拠はねぇから信じてくれって言っても無理だが・・・」
「いらないわ」
止めることが出来ず、私の潤んだ瞳から一滴の涙が落ちていった。何でも知っている彼も知らなかったのだろう。意外そうに目を丸くしていた。
「気付いてたのか?」
「信じられなかったけどね」
そんなハズないって。そんなハズないって言い聞かせた。
どうせ同情だって。それ以上ではないんだって。
あのとき確かに感じた愛情は、きっと偽物だと思ってた・・・・
「何度か思ったことはあるの。もしかしたら、ひょっとしたらって。でもそう思う度に自惚れだって言い聞かせて、自分を止めていた。これ以上進んでしまったら、きっと私はもう二度と戻れなくなると知ってたから」
「だからこそ愛情を感じさせたあいつが憎かったわけだ」
「そうよ。好きでないなら心を通わさなければいいのに、愛情を注いできたから、私の心をこんなにも苦しめたから・・・だから彼が憎かったの」
でも死んでしまえばいいと思うほどには憎んでいなかった。あんなことで死んでしまうなんて、夢にも思っていなかったのだ。
「彼は何で死んだの?」
「俺が悪い報せを届けたからだろうな」
男は悪びれる様子もなく言った。そうか、この青年が伝えたのか。今回の騒動の原因が誰なのかを。それだけで彼は悟ってしまったのだ。私をどれだけ苦しめてしまっていたのかを。
「だから死んだのね」
「まだ今の彼女に未練も気持ちも残ってた。全てを整理するには早すぎたんだ」
分かる気がした。彼女はとても優しいが、同時にその精神はとても幼いのだ。浮気なんてされるとは夢にも思っていない。となりで一緒にご飯を食べている親友が彼と寝ただなんて、考えることさえしない子だ。だからこそ私は彼女と一緒にいるのが辛かったのだ。あの無邪気な笑顔が今の私にはとても辛くて、だから私は、彼女と縁を切りたかったのだから。
「切り出せないわよね。あんな彼女に」
「それを悩んでた。彼女自身を嫌いになったわけではないから、余計ね」
それで自殺か。あれは私と彼女、両方に対する贖罪だったのか。
「彼は、私のことが憎んだかしらね」
「さぁね。好きにならなければよかったとは、思ったかもしれないね」
男はそこまで話してようやく腰を上げた。突然のことで私は思わずビクッと身構えたのだが、彼は特に何をするわけでもなく、窓枠のところへと歩いていき、何でもない風にそこに腰をかけ直しただけだった。
「なに?」
「いや、喉が渇いたなと思ってな」
「なんか出せって言うの?厚かましい死神ね」
私は小さく笑いながら、席を立って冷蔵庫のところへと向かう。死神うんぬんの話は、私にとってはもうどうでもよくなっていた。
「紅茶とコーヒーだったらどっちがいい?紅茶ならすぐ出せるけど・・・」
キッチンに向かいながら私が尋ねる。彼には背を向けているので、その表情をうかがうことはもう出来ない。どちらがいいのか、彼の返事を待つだけであった。
でも何故だろうか。全く視界には入っていなかったのだが、そのとき私は彼が笑っているような気がしていた。
「そういやあいつ、指にあんたの名前が書かれた絆創膏を巻いてたらしいぜ」
死神は私の質問など聞こえなかったかのように、穏やかな口調で告げた。
「え?」
私の手が止まる。そして彼の言葉に、ゆっくりと後ろを振り返って行った。
「どっちの色で書かれてたんだろうな」
やっと彼が視界に入るところまで振り向いた・・・そのハズだったが、そこには誰もおらず、普段となんら変わることのない私の部屋があるだけだった。


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