トップに戻る

<< 前 次 >>

メンとヘラーの物語

単ページ   最大化   



 その時、僕は「コーンとチーズの大盛グラタン」を食べていた。きつね色したチーズの層をスプーンでめくるようにして、その下に敷き詰められたマカロニを掬い、咥えていた。不快な音をたてながらマカロニの中に詰まったホワイトソースを吸い取ろうとするけれど、マカロニが軟らかいからだろうか、買ってから時間が経ってホワイトソースがかためになったからだろうか、一向にマカロニからソースが出てこない。挙句の果て、唇で圧を加えながら吸い込んでいるからだろう、マカロニがぺちゃんこになって口の中に入って来る。筒の中のホワイトソースは押し出されて、容器にこぼれてしまう。
「汚いね、食べ方。」
一瞬、何が起きて今の状態に至っているのか掴めなかった。ただ、声の方を向くと、なるほど少し前に空気の入れ替えをしようと窓を少し開けていたのだった。北海道の冬に虫が飛ぶ事は殆ど無く、通りかかる人は僕の家だけが網戸を下ろしているのに疑問を感じる事もあるかも知れない。ただなんとなく、なんとなく癖で下ろしてしまっていたその網戸の向こうに、妙齢の女性が――というよりは、「女の子」という表記の方がまだ適切な気がするが――こちらをじっと覗き込んでいた。縦横に網が走り、まるで映りの悪いテレビを見ているようだったが、ブラウン管越しでさえ、彼女の肌のきめ細かなこと、そして本物のブラウン管を通して番組を賑やかす女性たちに引けを取らない美貌であることははっきりと解った。
「ああ、すいません」
僕はいきなりの事で少し恐縮してしまった。
「ううん、いいから。はやく、たべちゃいなよ。」
なるほどこの美貌に伴ったきれいな高音だなぁ。僕は一人で感心した。アニメーション声優のような声だとも思った。
「じゃあ遠慮なく……とはいかないですよ。何か、御用ですか?」
「いや特には。ただ、おいしそうに食べてるなぁ、って思っただけなんです。」
「でも、あなた『汚い食べ方だ』って、言ってませんでした?」
彼女が少し笑ったのが見えた。少し前のめりになって覗いているから、笑い声と同期して胸元が揺れる。
「あれ。そんな事言ってましたっけ? わたし。」
予想していた回答パターンに無い、不意打ちの変化球を投げ込まれて私は逸球してしまった。ボールは拾ったが、投げ返すことに躊躇ってしまう。
「ほら、グラタン冷めちゃう。」
「……でも、人に見られながら食べるのが苦手な性質(たち)でして」
「あなたさ、もし三日間何も食べてない状況でも、同じこと言えるの?」
「はい?」
「今食べないと死んじゃうって時も、『人に見られるの駄目なんで……』とか言って食べないでいるの?」
余りにも飛躍した論理から繰り出されていく意地悪な言葉。さすがに僕もむっとして、そこに少しの諧謔心も混ざったものだから、
「そうでしょうね。きっと食べずに死ぬと思いますよ。」
と、自身稀に見る堂々たる態度で言い放ってやった。どうせ行きずりの会話。ここから会話の世界が広がっていくというならば、それはそれで面白い。たとえゴミだらけの世界でも。
「なるほど、その言葉に嘘は? 嘘は無いですか? 嘘なら嘘と、早めに言って頂ければそれで良いんですけど」
またしても僕の予想を裏切る返答。彼女は行きずりの会話に表出される情趣というものを感じられないのだろうか? この『おはなし』を『楽しい』ものとしていく気が無いのだろうか。まったく。僕は少しだけ苛立ってしまった。ただ、その場ではいかにも平然を取り繕いながら、口を開いた。
「嘘じゃありませんよ。それに、だいいち嘘かどうかなんてどうでも良いことですよ。」
「どうでも良くなんてありませんよ。じゃあ証明してみせてください。」
「は? ……にしても、どうやって?」
取り繕っていたほころびが一気に破ける。文字通り「あたふた」していた自分がいた。まごついている僕に向かって、彼女は言った。
「とにかく、入れて頂けます?」
薄い桜色の爪が網戸を柔らかく引っ掻く。どうすることもできず、僕は網戸を開けた。窓枠とサッシが擦れ合う、乾いた高い音がした。


 僕は相変わらず「コーンとチーズの大盛グラタン」と向き合っていた。無造作に、そして半ば強引にチーズの層を抉っていく。中からマカロニが出てくる。スプーンにのせられたそれらは千切れていて、僕には不機嫌そうに見えた。そもそもマカロニを裂いたり切ったりする食べ方は僕の流儀に反する。それなのに、目の前にはスプーンにのせられたグラタン。顔を出す細切れになったマカロニ。
 僕の意思に反して行動が為されているようで、歯痒い。もどかしい。
「おいしそうですよね。わたし、グラタン大好きなんです。」
そう言いながら、さらにスプーンを突き出す。もう唇に触れそうだ。わずかに舌を伸ばせばスプーンに届く距離。ただ、僕は拒んでいる。
「本当に食べないんですか? 意地っ張りなんですね」
網戸の代わりに、今度は卓を隔てて彼女の笑い顔を見る。右頬の上部がすっと持ち上がる。含み笑い……というのとは、ちょっと違う。ただ、少しばかりの甘美が感じ取れる。僕は拒否の意思をもっと明確に伝えようと、軽く仰け反った。気づいた彼女は、少し驚いた顔で僕の目を見て、すぐにまたスプーンを突き出す。さっきより近づいた。唇にそっと触れているのを感じる。
「あら、ペンネ、ちぎれてる」
彼女は手を引いてスプーンで掬ったグラタンをじっと見つめる。僕は上唇の違和感を舐め取るべきか迷っていたが、そのまま放っておく。ホワイトソースがゆっくりと乾いていく。
「わたしねぇ、ちぎれたペンネを食べるのが嫌いなんです。」
おもむろにスプーンを口へ運ぶ彼女。
「ペンネは茹でたまんまの形であって、初めてペンネだと思うんです。」
さらに一口食べようと、優しくグラタンを掬い上げる。わざとらしく僕の目を見つめながら、ゆっくりと口めがけてスプーンを動かす。
「うん、やっぱりペンネはおいしい。」
「そうですか」
正直返答に困っていた。
 今のところ、一つだけ解っていることは――いや、解りかけていることは、これは「僕がグラタンを食べたら終了」というルールのみが設定された、ある珍妙極まりないゲームなのではないかということ。もっと漠然と言えば、彼女と僕の身も蓋もない生活にミクロン単位ではあるが確実に風穴を空ける、一種の営為なのではないかということだ。
9, 8

  



 正直なところ、僕にも過失はあった。安易な諧謔心と、意地っ張りな性格。そして彼女の侵入を許したこと。ただ、これまでの結果と、これからの展開が悪いものかどうかは解らない。というよりむしろ、悪くはないと思えるのだ。思いたいのだ。
 最後の会話の後、僕は返答に困っていたが、果たして困る必要は無くなった。それから彼女はどこか可笑しな目で僕を見つめたり、笑っていたりした。そこに会話は無かったのである。ただ、彼女がグラタンを食べなくなったのは悔やまれた。
「食べてもいいよ」
「食べなよ」
「食べなよ、どうせ僕は食べないんだから」
何を言っても、彼女はゆっくりと首を振った。そのたびさらさらと黒髪が揺れた。やさしい甘い匂いがした。押し倒してやりたいとは思わなかったけれど、とにかくもう一度グラタンを頬張って欲しかった。
 ゆっくりとした間があった。ちょうど彼女を入れた時に窓を閉めたから、部屋の空気は再び澱み始めていた。甘い匂いはしばらく僕の鼻を擽(くすぐ)ったのちクッションフロアのほうへと沈んでいった。

 薄いカーテンが、陽を受けて少し明るく染まる。彼女が来てから時計の針は一周とちょっと回転を続けた。二人は交互にうとうとしたが、どちらかの腹の音で意識を取り戻した。グラタンが、固くなっている。
 ふと、彼女が喋り始める。
「おなか、減ったでしょう。温めなおしてきますから。」
そう言って徐(おもむろ)に立ち上がり、台所の方へ――といっても、ほぼワンルームの部屋なので正確には台所のある一角、とでも言うべきなのだろうが――歩いていく。
「……あれ、あなたの家、電子レンジ置いてないんですか?」
「ああ、ごめんなさい。そこの布をめくってもらえば」
彼女は暖簾でもくぐるかの様に裏拳で布を払いのけた。
「コンセント、抜けてますね」
僕は他人事のように忠告した。温めなおす意味を考えても無駄。全ては僕と彼女との無意識下にある筈だ。少なくとも、僕の意識下には無い。会話から行動。無意味なること塵屑の如きながら果たして面白くなってきた、などと考えながらレンジがグラタンを温める音だけを聞いていた。電子レンジがグラタンの中の水分子を震わせることそれ自体、僕にとっては無意味な事だ。結果として温かくなったグラタンにこそ僕はその意味を見いだす。この不思議な一日にだって、それ自体に意味は見出せない。ただこれが何かに結実していくであろうことは、何となく感じられた。
 と僕の思考の余韻を鋭くレンジの音がかき消した。彼女が素手のまま、グラタンを持って戻ってくる。机に置かれた瞬間から、僕の五感を突いてくる。五感を介せずに直に脳髄に届いた感すらある。その証拠に、無意識に食指が、まさに食指がスプーンに触れようと軽く動いた。
「はい、おたべ」
彼女の丁寧な言葉が、余計に心地よく響く。食指が微かに動きを見せる。じっと堪えたつもりが、少しずつ震えながら動いているようだ。
「さあ、ほら」
言葉とは裏腹に彼女はスプーンを持ち、グラタンを一杯に掬って自ら頬張った。陳腐な表現をさせてもらえば、僕に電流が走り抜けていた。もう、いけない。
 半ば強引にスプーンを奪って、大きく掬い上げる。それでも彼女は笑っている。スプーンをはみ出す程のグラタンを、ゆっくりと口元へと持っていく。……ああ、彼女がじっと僕の目を見る。ずっと視線を外さない。吸い込まれそうだ。吸い込まれたい。快感が、僕の箍を外していく。呼吸が荒くなって、彼女に吸い込まれるようにして、そしてそれから僕は意識を失った。

 それからの事は書くに忍びない。僕の知らない無意識の片隅で勝手に発芽して、そのまま結実してしまった恋愛美談を語る事が面映いからではない。今僕の向かいに座って、あの時と同様スプーンを突き出しながら「あーん」と甘やかなる睦み言を差し向けてくる彼女も存在しない。
 正直なところ、あれからは何も無かった。また空虚とした日々が続いた。何も無かったけれど、何か変わりそうではあった。思考の糸を手繰り寄せるための、きっかけにはなったのかも知れない。
 二週間が経った。そろそろ記憶もぼんやりと曇り始め、その細部を丁寧になぞっていく事は困難になってきた。いいタイミングだろうと、僕は小さな決断をして机に向かう。輪郭がぼやけてきたくらいが丁度良い。
「メンとヘラーの物語」
思わず唸った。まるで意味が無い。でも、良い。タイトルに意味なんか求めなくて良い。タイトルに意味を見出す必要もまた、無いのだから。
 筆は進んだ。昔ながらの原稿用紙に文豪気取って万年筆と洒落込む。紙とペン軸とが乾いた音をたてていく。心地よい。何となくあの日と同じ気持になれた気がしていた。
10

江口眼鏡 先生に励ましのお便りを送ろう!!

〒みんなの感想を読む

<< 前 次 >>

トップに戻る