1.「先輩と僕」
バスルームからはシャワーの落ちる音に混じって、京子先輩のやけに楽しげな鼻歌が聞こえてくる。僕はそれに耳をそばだてて、これから起こる展開を想像して悶々としては6畳の少しばかり狭い部屋の端、そこからまた端までをせわしなく往復していた。
とあるマンションの302号室――そこは僕が県外の高校に通い始める事になってから住み始めた1DKの小さな部屋だ。最初の一学期ももう少し、後一ヶ月もすれば夏休みに入ってしまうような時分の事。
「どうしてこうなっちゃったんだろうな……」
京子先輩が遊びに来るからと片付けておいた部屋を――こういう展開になる事を心の隅で期待していたのかもしれない――特に入念に片付けておいたベッドを見やり、そしてまたバスルームの方へと視線をやる。
落ち着かない。
それもそのはずだ。ついさっき『西原(僕の事だ)、先にシャワー浴びて来なよ』なんて京子先輩に言われて、素直にそれに従った後に彼女は部活帰りの制服姿のままでバスルームに入っていった。そこまで話せば、僕と先輩がこれからしようとしている事はおおよそ推測がつくと思う。
風紀委員会から言わせてみる所の、いわば乱れた不純異性交遊という奴になるのだろう。まあ、そういうところだ。
「はぁ……」
僕は湯上がり姿の腰にバスタオルを巻いたままの姿でベッドに腰掛けて、一つため息をついた。
「本当に、どうしてこうなったんだろ……」
もう一度同じ言葉を繰り返していると、バスルームの引き戸がガラリと開いた。
「お待たせ」
そう言って、身体にバスタオルを巻き付けた京子先輩が部屋に入ってくるのに思わず僕はびくりと肩を縮めた。
彼女を見ようと思うのだけれど、視線を据える位置に困って結局視線をベッドの脇に反らす。どうにも落ち着かなくて、膝のあたりが小刻みに震えているのがわかる。
この際だからはっきりと言っておく。僕は京子先輩の事が好きだ。
彼女と同じ演劇部に入ったのも、高校に入学してすぐの新人勧誘の時に舞台の上でヒロインを演じている彼女に一目惚れをしたという理由からだ。
先輩――榊京子(さかき きょうこ)先輩は一歳上の二年生で演劇部の部長だ。
ぱっちりとした猫のようなつり目と伏せ気味の長い睫毛、顔は端正で長身かつモデルのような扇情的な体つき。シャギーのかかったショートヘアの見目から推測できるように、スポーツは万能で武道も嗜んでいたらしい。容姿はアイドルや女優クラスと言っても遜色が無いレベルで、やはりと言うべきなんだろうけど、うちの高校の中では快活でリーダーシップのある性格も相まってか人気がある。
男子と女子の両方の間で密かにファンクラブができていて演劇部の大会の度に応援に来ているくらいだ。
対して、僕と言えば絵に描いたような文系男子をそのまま現実に持ってきたような冴えない男子高校生だった。大人しくて、自分で言うのも何だけど真面目な性格で、趣味は小説の執筆。身長は男子の平均程度だけれど、これと言った特徴はなく強いて言うなら細いくらいで、案の定スポーツは得意でもないし勉強は中の中くらい。目立たない存在、永遠の二番手、緑色のほう。京子先輩を太陽と例えるなら僕は月を通り越してスッポン。しかも今はスッポンポンだ。
僕のような奴がそんな彼女とこんな状況になっているのかは今度説明するとして、僕はこのシチュエーションに戸惑っていた。
確かに願ってもない展開のはずなのだ。だけど、それに若干納得がいっていない。それにはちょっとした理由がある。
「やっぱり……こういう事するのは……」
おずおずと言う僕に、京子先輩が部屋の入り口からそのまま歩いてきて僕の隣――同じベッドに座るとふくれっ面を浮かべてグーで軽く頭をコツンと小突いてきた。
「バカ。西原も小説家目指してるんだったら雰囲気の作り方くらいわかっておくもんだろ」
「ああ……ごめんなさい。でも、一応聞きますけどこれって“ごっこ”なんですよね?」
ごっこ、それが僕と京子先輩の間にある関係だ。今から行われる行為というのはちゃんとした確かな関係があってする事じゃない。恋人関係をイメージした遊戯さながらの関係が僕と先輩の間にあって、そんなかりそめの関係だというのにそういう事をしてしまうのだから僕の心の隅には納得の行く感じというのがぶっちゃけて言うと存在していなかった。
「そうだよ」京子先輩が瞳を艶やかに細めて、ニッと笑う。「恋愛物の脚本が書けないって西原が言うから、こうやって西原に恋愛経験を積ませようってあたしが恋人ごっこに協力してるんじゃない。だったらそうカタくならないで、もう少し雰囲気作りとかを気にしてよ。あたしに失礼じゃないか」
「そうは……言っても……うわっ!?」
反論の余地を、京子先輩は僕に与えてはくれなかった。
バスタオルが巻かれたままの肢体を僕の胸に押しつけ、そのままベッドに押し倒すように覆い被さってきたのだ。
そのまま二人の間に空いているわずかな隙間さえも埋めてしまうように、強く抱擁をしてくる。距離が詰まって押しつぶされる豊かな二つの淡い感触が僕の胸板をいたずらに刺激する。
間髪入れず、京子先輩の顔が近づいてきたかと思うと唇に柔らかい感触が触れて、離れた。
「フフッ……うん、ごめん。西原の言いたいことはわかるけど、聞いてあげられないや。だってさ……」小悪魔のような悪戯な笑みを浮かべて、京子先輩が舌をぺろっと出した。
まるで身動きの自由を奪うように、先輩が両手を僕の頭の両脇に置いてまたがる姿勢になった。
「うわっ……!? うあ……あ……せ、先輩……?」
巻き付けられていたバスタオルがはらりとはだけて、彼女の裸身が露わになって僕は眼前に晒された豊かなそれに視線をそらせずにただ顔を灼熱させていた。
「だって、西原には良い脚本書いて貰わないといけないからさ――」
先輩のその言葉に、僕は数週間前に彼女にとある相談をした時の事を思い返していた。
どうしてこんな事になったんだろう――そう僕が思ってしまったこのシチュエーションにまで至るきっかけになったあの日の事を。