どう好意的に見たって、僕の人生が標準以下だということを否定することはできなかった。
テレビや小説の青春ストーリーのような誰からも好かれる人気者でしかも可愛い恋人がいてさらに日常がパラレルワールドみたいな展開なんてのはありえないにしても、現実世界においても皆それなりに楽しそうな生活を送っているというのに。それに比べ僕はどうだ。友達なんて数えるほどしかいないし、彼女どころか一日中女の子と会話しないなんてのもザラだ。青春なんて遥か彼方、前世のそのまた向こうにでも置いてきてしまったとでもいうのか、とにかく僕の青春は恋愛もイベントも希望だってなかった。
僕がその馬鹿みたいな噂話を聞いたのは、こんな高校生活も半年を過ぎた頃だった。
体育館の舞台に向かって右隅の、もう使ってない用具倉庫には異世界に通じる扉があって、そこからは自分の望む夢のような世界へと繋がっている────
なーんて話。アホか。中学生だってそんな噂信じるどころか広めもしないだろう。無論僕だって信じちゃいなかった。当たり前だ。僕の思考回路はこれまでのつまらない人生に擦り切れてしまって、ファンタジーやSFやその他なんやらを信じる気になんてなれなかったのだ。
だからこそ、確かめてみたかったのかもしれない。そんな噂なんてないんだって自分で確かめてみて人生に改めて見切りをつけ、これからの生活を現実的に計画的に考えて暮らす準備でもしてやろうと思っていた。友達? 恋人? そんなんで飯が食えるのか。どーせそんな古臭い用具倉庫なんて異世界への扉どころか埃とカビくらいしかないのだ。そこで笑ってやろうじゃないか。お前らみんな夢だけ見てる馬鹿ばっかりなんだ、って。
そんなことをしたって、むなしいだけなんてことはわかっていたけれど。
白状すると僕は「ぶって」みたかったのだ。何もない倉庫の前に立って「ふっ、やっぱりな……」なんて呟くのはちょっとドラマチックでしょ? 僕だってちょっとくらいそういう思いだってしたいのだ。
だから、倉庫の中に見慣れない不自然な扉があるのを見た時、正直言って困った。不意打ちなんて卑怯じゃないか。ついに僕の頭はどうにかなってしまったのかと疑う。いや、コレはただの外への出口であって決してそんなもんじゃないんだ、そうに違いない。だって異世界ってそんな馬鹿話あるわけがないじゃないか。どうする、開けるべきが開けざるべきか。いやいやいや、そもそもただの扉にこんなに悩んだってしょうがないじゃないか。開けたって開けなくったってどっちだっていい。でも、もしかしたら、ひょっとしたら──
覚悟を決めるよりも前に、扉を開けてしまっていた。
初めに感じたのはまず、温度。そして、空気の匂い。間違いなくそれは朝の匂いだった。しかも、今立っている場所は体育館でもその外でもなく、なぜか校門の前だった。僕は恐怖していた。こんなのあるわけがない。さっきまで僕は倉庫にいたはずだ。扉を開けた瞬間ワープしたとでもいうのか。実際に起こっていることをどう否定すればいいんだ。冷や汗が滝のように出てくる。冷たい風が吹いて、僕は身震いした。足が震える。自分がどこにいるのかわからなくなる、その瞬間、
「おーすっ! おいおい、早くしないと遅刻するぞってお前、なんで朝っぱらから校門の前に突っ立ってるんだ? 顔色も悪いぞ?」
同じクラスの人気者、木下が僕にそう話しかけてきた。普段教室の隅っこにひっそりと生息している僕は彼とはほとんど話した事なんてない。壮絶な違和感を感じつつも、木下が僕の背中をばんばん叩きながら早く教室に行こうぜなんて急かすので、僕はなにがなんやらわからないまま教室まで来てしまった。
「おはよー。今日はおそかったじゃーん」
「おいっす。重役出勤とはお前も出世したもんだな」
「ういーっす」
「おっはー」
「お前今時おっはーは死語だろ」
教室はいつものように喧騒に包まれていた。ただ、いつもと決定的に違うのは、皆の挨拶が僕に向けられているという事だ。そもそも普段は皆僕になんか挨拶などしない。いつも誰にも気付かれずに教室に入り、誰も気にかけてくれなかった机の上の椅子を下ろしてHRが始まるまで突っ伏して寝るだけだ。最初は、競走馬かなにかと勘違いしてるんじゃないかと思うくらい僕の背中をバンバン叩いている木下にみんな挨拶しているのかとも思ったのだが、彼らの視線は間違いなく僕に向けられていたし、僕の名前を呼ぶやつだっていた。こんなことは地球がひっくり返ってもありえない。なんだこれは。新手のいじめか?
僕の頭は混乱を通り越してもはや何も考えることができず様々な事が頭の中で洗濯機の中身のようにグルグル回り、いつのまにかすでに一限目の英語の授業が始まってしまっていることにすら気付くことができなかった。だから突然教師に当てられて英訳を求められたときは動揺してしまい、
「わっ……えっ? すみま、あっわかりません……」
などと、どこぞの萌キャラかというような奇声を発してしまった。もちろん僕は天然キャラでも美少女でもなんでもないのでただの気持ち悪い不審者なだけである。僕は赤面し縮こまる。どうしよう。気持ち悪いなんて陰口を叩かれてしまう。ただでさえギリギリのポジションなのに。ああ、もうしにたい。
だが、ふと気がつけば皆が笑っていた。最初は嘲笑だと思った。でも違っていた。彼らは純粋に心の底から笑っているようだった。勘違いでも思い違いでもない。狐につままれたような気分で周りを見渡すと、みんなやさしい目で僕を見ていた。いつもみたいに、教室の隅に転がっている消しゴムを見るかのような興味ゼロの冷たい視線なんかじゃなく。やっぱり僕には何も理解できなかった。休み時間になっても全てどこかおかしかった。自分の机に座っているだけでもわざわざ話しかけてくる奴がいたし、僕が適当な相槌を打つだけでみんな笑っていた。どうもわからない。なぜなんだ。僕の日常はどこへ行ってしまったというのか。
何一つわからないまま昼休みがやってきた。そのときになってやっと弁当なんて持ってきていないことに気がついた。なにせ用具倉庫にいたと思ったら突然朝の校門の前に立っていたのだ。教科書の類はロッカーに置きっぱなしだったからよかったのだが、弁当なんて持ってるはずがない。しかたない、購買に行って自腹を切ってパンでもを買うしかないかと教室から出ようとしたところ、
「あの……お弁当作ってきたんだけど……。よかったら、一緒に……だめかな?」
なんとクラス一可愛いと僕がこっそり思っている女の子、井上さんが僕をお昼ごはんに誘っているのだ。眩暈がする。地面が揺らぐ。どういうことなんだ。ここはいったいどこなのか。夢なのかドッキリなのか一体僕は誰なんだ。いやいやあせりすぎだろう、自分。もうありえないを通り越してなんだかもうわからない。普段は僕のことなんて気にかけるどころか見てもいないのに。急なお誘いに僕は上手く対処できずにただ頷くことしかできなかった。もっとも、例え冷静であったとしても断るなんてしなかっただろうが。
そうして僕らは屋上に来た。確かここは鍵が掛けられていて立ち入り禁止だったはずなのに、この日は開いていて結構な数の生徒がそこで弁当を食べたり走り回ったりしていた。僕らは人が少ない木陰に来て、井上さん手作りのお弁当を広げた。いつも親が作る弁当に入っているレンジでチンまるだしの冷凍食品なんてない。全部手作りだ。
「どう? おいしい?」
これぞ青春という味がした。まさかおいしくないわけがない。ないのだが、彼女が作ったおかずが僕の味覚を刺激したとき、朝からまともに機能していなかった頭が回りはじめた。
「ああ……おいしいよ」
気の利いたことなんて言えない。もやもやしたまま、僕はそんなに会話をせずに彼女の手作り弁当を食べた。緊張していたから何も話せなかったんじゃない。それより、僕が考えていたのは別のことだった。弁当を食べ終わると井上さんは、
「もしよかったら……明日からも私と一緒に食べない? だめかな……?」
井上さんは今にも泣き出しそうな顔をして言った。そんな彼女の頼みを断るはずがない。僕にそんなことができるわけがない。そんなの当たり前だ。当たり前なんだけど、僕は気がついてしまった。ああ、そうなのか。だから朝からどこかおかしかったのか。簡単な事じゃないか。噂にあった通りだったんだ。
これが、僕が望んでいた世界なのだ。
どんなに強がったって、つまるところ僕は皆と同じような生活が送りたかったのだ。そして僕は自分の求めていた世界に来た。でもそれは本物じゃない。ここは僕が求めていた世界なんかじゃない。
「こんなの、うそっぱちじゃないか」
井上さんは明らかに困惑していた。それでも、僕は続ける。
「僕はなんでも思い通りになる世界に来たかったんじゃない。僕は元の世界でこうなりたかったんだ。こんな偽者の世界で幸せになったって、むなしいだけなんだ」
気がつけば僕は泣いていた。確かに、わからないほうが幸せだったのかもしれない。このままここにいたほうが幸せなのかもしれない。それとも、元の世界で強がったまま生きていたほうがよかったのかもしれない。それでも僕は元の世界で幸せになりたかった。流れ続ける涙をなんとか拭って井上さんを見た。彼女は微笑んでいた。
「やっとわかったんだね」
井上さんはそう言った。今度は僕が困惑する番だ。彼女がどういうことを言っているのか咄嗟に理解できないでいると、ふいに背後から声が突き刺さった。
「やっとわかったみたいだな」
僕は驚いて振り返る。聞いた事がないような、でも一番聞き覚えがあるような声が聞こえた。 そして、そこに立っていたのは『僕』だった。
「そのとおりだよ。ここは君がいるべき世界じゃない。ここの世界の『君』は『僕』なんだからね。」
僕と同じ顔をしている人間がそこにいた。でも、よく見ればそれはいつも鏡でみる自分よりどことなく格好がよく、話しやすい雰囲気を持っていた。もうひとりの僕が言う。
「君はこの世界を拒絶した。だから、君は元にいる世界に戻るべきなんだ。そこで君の望む世界を君自身で作るんだ」
僕は相変わらず理解できない。彼はいったい何者なのか。
「そろそろお別れだ。君が望む世界はあっちなのだから」
彼はそう言った。突如世界が歪む。比喩ではなく、本当の意味で地面が回る。重力感覚がなくなって視界がぼやける。一瞬井上さんの顔が見えた。彼女は微笑んで手振っていた。
始まりと同じく突然に、僕は埃にまみれた用具倉庫にいた。僕は倉庫の隅でうずくまっていて、制服のズボンはぬれていた。僕はようやくわかった。
本当に僕がいるべき世界は、僕が望んでいた世界は、こっちなのだ。
「確かにそっちの世界は君に厳しく冷たく、思い通りになんか行かないことのほうが多いのかもしれない」
不意に彼の声が聞こえた。僕は振り返りその姿を探す。
「だけど、君はそっちを選んだんだ。君が選んだ世界が、君にとっての正解なんだよ」
彼はどこにもいない。僕は見えない彼に向かって叫ぶ。
「いままでできなかったんだ。みんなと同じような生活なんてできるわけないじゃないか!」
彼は答える。
「できるかできないかじゃない。やるんだよ。やれば、そうなるんだ」
僕は見渡した。でも、どこにも彼はいない。僕は周りを見渡して言う。
「もうだめなんだよ……。僕だって皆と同じような青春を送りたかった。でももう遅すぎるんだ……」
彼は答えた。
「君の青春は終わったんじゃない。まだ始まっていないだけさ」
僕は動くことができなかった。
「君の青春を始めるのは君だ。そして終わらせるのも君自身だ。君の人生の価値なんてこれから決めればいい。君の世界は、君が作るんだ」
やはり彼はどこにもいない。それでも僕は彼が言っている事がなんとなくわかったような気がした。
「それでいいんだ」
彼は言う。
「だれだって自分の人生を完全に理解することなんてできない。なんとなくわかるだけでいいんだよ。なんていったって君の世界はこれから始まるのだから」
彼はどこにもいない。此処にいるのは僕だけだった。
「さようなら、僕」
僕は入ってきたほうの扉を開けた。もう一つの扉──異世界に通じるとかいう噂の扉ははもうなくなっていた。噂は本当だったのかそれともただの幻覚だったのかはわからない。外は夕暮れに染まってた。見慣れた、僕のいるべき世界がそこに広がっている。
僕はもう振り返りはしない。