ひとりぼっちはいやだ……ひとりぼっちはいやだ……ひとりぼっちはいやだ……ひとりぼっちはいやだ……ひとりぼっちはいやだ……
協定世界時 23時45分
深海のような闇の中に、ひときわ輝いている月。地球はというとやや遠慮がちに月の後ろに半分隠れている。月や地球や星たちも、やがて無粋な白い塊に隠されてしまった。船窓いっぱいに広がった白い十字架の中心部分が宇宙船に近づいて来る。
でも宇宙船はこちらから近づいて来るように見えるだけで、本当は宇宙船のほうが近づいているんだよ。息子がいっしょにいたらきっとそう説明するだろうなとアルバートは考えていた。今日からこの月周回軌道上の国際宇宙ステーションで過ごす事になる。次に妻と息子と会えるのは1週間後だ。それまではこの宇宙ステーションが我が家であり、一緒に滞在する宇宙飛行士3人が生活を共にする家族だ。すでに5ヶ月間この宇宙ステーションに滞在し独りで維持してきたアダムスキー、その交代要員でエンジニアのケイン、紅一点の宇宙医学の専門家で全員の体調管理を担当するノヴァ。
「ようこそアルバート船長。長旅でお疲れでしょう。ディナーの準備は整っていますよ。こちらへどうぞ。とは言っても肉汁したたるステーキはありませんが。」
アダムスキーが案内した。
ステーション内は余計なスペースがない。通路の天井に設置されているLEDライトを除けば、上下の区別もつかないほどで、他はすべて壁面に収納されていた。側面の窓からは月の地平線に沈みかけた地球がまだ見えている。
通路の突き当たり、厳重にロックされた扉にアダムスキーが手をかざす。この部屋は共用研究棟だが、管理責任者であるアダムスキーの静脈認証でしか開けることができない。内側からでも外側からでも扉に手をかざすだけでロック、解除ができる仕組みだ。
中はここも殺風景で、中央に宇宙食のチューブが浮いている。アダムスキーが用意したのだろう。アルバート達はここでささやかな夕食を済ませた。
アルバートは持ってきた資材を自分の研究棟に運び込み、実験器具を組み立て始めた。半ばまで組み立てたところで、睡魔に襲われ、途中で断念した。明日、ケインに頼もう。あいつならものの数十分で組み上げてしまうだろう。薄ぼんやりとした頭の中でそう決めると、動かないようにベルトで壁に体を固定した。窓から入る月面の照り返しが少しづつ弱まり、地球は完全に月面の地平線に沈んでしまった。
宇宙ステーションが月の裏側に入る。この宇宙ステーションはちょうど十字架の形をしていて、月面を背にして、頭にあたるのがアダムスキーが管理する共用研究棟、中央が共用生活スペース、下端がノヴァの研究棟、右側のブロックがケインの研究棟、左側のブロックがアルバートの研究棟になっている。それぞれの研究棟の扉は本人の静脈認証でしか開閉できない。
アルバートの眠りを妨げるように、遠くで誰かのノックする音が聞こえる。だんだんと近くなって、最後には耳元で鳴っているくらい大きな音になって目を覚ました。
自分の実験棟の扉がノックされていることにようやく気づく。アルバートはロックを外して扉を開けた。
協定世界時 7:55
翌日、アダムスキーは違和感を感じて目を覚ました。何かが昨日と違っている。目を瞑っているとどこを向いているのか分からなくなる感覚に似ていた。寝る前と姿勢が変わっている。寝相が悪すぎて、いつの間にかこんなことになったのだろうか。
昨日窓の下側いっぱいに広がっていた月面は、今は窓の上半分を占めている。かなりの時間寝ていたようだ。他の連中が心配してるかもしれない。アダムスキーはシャワーのついでに各研究棟に顔を出すことにした。
シャワー室の前でケインと会い、「君たちのほうが疲れているだろうに、一番最後に起きてきて済まなかったな。」とアダムスキーは謝った。
「君が最後じゃないよ。まだ、アルバートが起きてないから。」
「アルバートはまだ寝ているのか。さすがに遅すぎやしないか。ちょっと見てくるよ。」
胸騒ぎがするのは起きたときの奇妙な感覚のせいだろうか。自然とアルバートの研究棟へ向かう足が速くなる。アダムスキーはアルバートの顔を見て、早く安心したかった。
アルバートの研究棟の前までやってきたアダムスキーはノックすると、手に力が入っているのか思ったよりも大きく音が響いた。
しかし返ってくるのは反響ばかりで、アルバートの声はしない。不安からだんだんと扉を叩く力は強くなる。
「どうしたの。」
騒ぎを聞きつけてノヴァとケインが駆けつけた。
「アルバートが起きない。ケイン、お前エンジニアだろ。扉のロックを解除してくれ。」
ケインの手を掴んで扉に近づける。ケインはアダムスキーの手を振り解いて言う。
「落ち着けって。さすがに俺でもロックは外せないよ。」
「共用スペースから電動丸ノコ持ってくる。」
「おいおい。そこまでするのか。」
一時間かけて扉を壊し、三人はアルバートの研究棟に入った。扉の穴に向かって赤い水玉の群れが飛んでいく。ノヴァの腕に当たって、青い船内作業服に赤黒い染みを作る。ノヴァじゃなくても、それが血液であることはすぐに分った。そしてそれがアルバートの血であることも。
アダムスキーがアルバートの遺体を発見する。アダムスキーは何か別のことでも考えているように力なくつぶやいた。
「なんてことだ。宇宙は国境も争いごととも無縁の世界だったのに、こんなことが起こるなんて。」
アルバートの遺体はさかさまになって漂っていた。無重力状態だから、それはあまり問題にされなかった。それよりも殺人現場が扉のロックによって密室になっていたことが問題だった。
ノヴァの検死によって、死因は頚動脈損傷による出血多量であること、死亡推定時刻が協定世界時の四時から五時の間であることが明らかにされた。
頚動脈に達していた首の刺し傷は星型か十字のような形をしていた。凶器は近くに落ちていなかったから犯人が持ち去ったということで間違いない。だが犯人がどうやって密室を作り出したのかが謎だった。
協定世界時 9:18
共用生活スペースで三人は集まって、これからのことを話し合っていた。
「だめだ。やはり月の裏側に入ってしまって、NASAとの連絡は取れなかった。月の裏側から出るまで、丸一日はかかるだろう。」
「丸一日ですって。殺人犯がこの中にいるのに。」
ノヴァがヒステリック気味に叫んだ。
「まだ殺人犯がこの中にいると決まったわけじゃない。」
「私たちの知らないだれかが、こっそりと忍びこんでいたとでもいうの。それとも宇宙ステーションに進入したエイリアンのしわざかしら。」
「ノヴァ、茶化すのはやめてくれ。俺たちはまじめに話し合っているのだから。」
「NASAとの連絡が回復するまで、ここで一日中三人で固まっていれば安全なはずだ。お互いにけん制できるからね。」
「一日中こんな息の詰まるところにいられないわ。」
そう言ってノヴァは席を立った。自分の研究棟に入ろうとするノヴァを二人は止めようと追ってきた。
「アルバートはロックされた自分の実験棟の中で襲われたんだぞ。そこは危険だ。」
「だったらどこにいても同じじゃない。私たちは宇宙という密室に閉じ込められているんだから。」
そう言い残すと、ノヴァは実験棟の扉を閉ざし、内側からロックした。
協定世界時 9:45
ノヴァが実験棟にひきこもってしまった。いっしょにいる意味がなくなったアダムスキーとケインも自分の実験棟で待機している。アダムスキーは心を落ち着けるために、音楽を聴いていた。iPodのイアホンから聞こえてくるのはフランク・シナトラのフライ・ミー・トゥ・ザ・ムーンだ。目を瞑って、アルバートのことを考える。無残に飛び散った血、さかさまの遺体。確か、アルバートには奥さんとまだ小さい息子さんがいたはずだ。宇宙飛行士は危険が伴う仕事だ。奥さんは送り出すときに覚悟はできていたかもしれないが、夫が宇宙初の殺人事件の被害者になるなんて、夢にも思わなかっただろう。アダムスキーにも大事な妻子がいる。残された家族のことを考えると、胸が苦しくなった。
思えば今朝の奇妙な違和感は虫の知らせだったのかもしれない。膝を抱えると体が前のめりになり、慣性でそのまま回転する。再び方向感覚が失われていく気分が蘇る。
目を開くと、世界はひっくり返っていた。アダムスキーは窓から見える月を見て、自分のほうがさかさまになっていたことに気付く。窓の下半分を埋める月面は相変わらずでこぼこしている。英知の海が見えるから、宇宙ステーションはいまだに月の裏側を出ていないのだろう。アダムスキーは、今朝から感じていた違和感の正体に気づいた。
「5ヶ月も待ち続けたんだぞ。ふざけるな。こんなところで死んでたまるか。ここで座して死を待つより、犯人をとっ捕まえてやる。」
アダムスキーは頭の中を整理するために実験棟を出た。通路で自分の推理を補強するための証拠をくまなく探すと、案の定アルバートの実験棟に繋がる通路の天井に、血痕を見つけた。LEDライトの下に半分隠されていたそれは、調べてみると間違いなくアルバートの血液だった。
確認のためにノヴァの実験棟の扉を叩く。返事がないので叩き続ける。「うるさい」という声が聞こえてきたので、安心してケインの実験棟に行くことにした。
ケインの実験棟に行くと、入り口の扉は開かれていた。
「ケイン。なぜロックをかけないんだ。」
アダムスキーの問いかけに、ケインが工具を持ったまま入り口から顔を出す。
「ロックしたところでアルバートは殺されたんだぞ。お前が言ったんじゃないか。」
部屋の中にはさかさまに設置された、アルバートの実験装置が組まれている。まだ組み立て途中のようだ。アダムスキーは確信を深めた。
「なあ、ケイン。そろそろ本当のことを話してくれ。なぜアルバートを殺したんだ。」
「何を言い出すんだ。俺が犯人だって言いたいのか。俺がエンジニアだからと言って、アルバートの実験棟のロックは静脈認証でしか閉められない。」
「いいや、お前が閉めたのは自分の実験棟のロックだ。」
「何を言っているんだ。」
ケインの顔つきが厳しくなる。
「ずっと、アルバートが殺されていた場所は彼の実験棟だと思い込んでいた。だが、もし宇宙ステーションの上下が逆になっていたら、君の実験棟とアルバートの実験棟の位置は入れ替わることになる。」
「宇宙ステーションの上下が逆だって。いくら上下の感覚がない宇宙でも、上下が逆になってて誰も気付かないわけがないじゃないか。」
「私たちが上下の基準にしていたのは、照明の位置だ。お前なら皆が眠っている間に照明を取り外して床に設置し直すことができたはずだ。」
「そんなのお前の突飛な空想だ。LEDライトを付け替えた、しょ、証拠はないだろ。」
「アルバートの研究棟に繋がる通路の天井に、血痕を見つけた。」
「そんなもの、証拠になりはしない。アルバートの研究棟の扉を壊したときに、外に飛び出した血液の水玉が付着したんだろ。」
「それはありえない。血痕はLEDライトの下に半分隠れていた。ライトを一度外さない限りはこの痕は付かない。君は自分の部屋にアルバートを連れてきて、そこで殺害し、外からロックをかけ、自分の実験棟をアルバートの実験棟に見せかけるために、天井に付いていたライトをすべて床に付け替えた。そのとき君に付いていたアルバートの返り血がライトの下に付いたんだ。」
ケインは何事か叫びながら、手にしたプラスドライバーを振り回した。
「やかましいわね。」
さわぎを聞きつけて駆けつけたノヴァの背後に回り込んだケインは、ノヴァの首筋にプラスドライバーを食い込ませた。
「動くなよ。」
「どうしてこんなことを。アルバートやノヴァがいったい何をしたっていうんだ。」
「誰だってよかった。何か事故があれば俺が国際宇宙ステーションに一人で滞在することが中止になる。」
「そんなことのためにアルバートを……。」
アダムスキーは絶句した。
「そんなこと、そんなことだと。アダムスキー、お前なら分るはずだ。こんな地球から遠いところで、一人きりがどんなに辛いことなのか。」
「一人ぼっちは確かに辛かったが、俺が耐えられたのはこんなに遠く離れていたって、家族とは心が繋がっていたからだ。心が繋がっていれば、近所のショッピングモールにいたって、月の裏側にいたって、同じことだ。ケイン、お前だって耐えられたはずなんだ。だがお前はこれから本当に一人ぼっちになるんだ。冷たい牢獄の中で。」
手からドライバーを離したケインはその場にうずくまった。