太陽がやけに眩しく感じる。
いつもと変わらない町、いつもと変わらない道。それなのに何かが違うように感じるのは、僕の異変のせいなのだろうか。
近くで聞こえる団欒の声、遠くで聞こえる笑い声、頭上のスズメのさえずりまでもが、僕を嘲笑の的にしているのではないか…そんな勘繰りがとまらない。
時折向こうからやってくる歩行者を見つけては緊張が走り、すれ違っては胸を撫で下ろす。
そのうちに、あんまり僕が挙動不審なのか、サラリーマンと目が合った。
かと言って向こうは何の意識もしていないのだろうが、こちらは気が気ではないのだ。
見た目は普通かもしれないが、僕の内心は単なる女装した男。この違和感に慣れるのには、ずいぶん時間が掛かりそうだった。
やがて最寄り駅に到着した時、体中の水分が抜けきったかのような感覚になっていた。
まだ5月の半ば。穏やかな日差しだったが、僕にとっては真夏のそれに感じられたのだ。
ヘロヘロになりながらも、改札に向かって歩く中、通学バッグから定期入れを探り出す。
そして思い出した。定期入れに、学生証を挟んでいた事を。
僕は慌てたように定期入れを取り出すと、学生証を引っ張り出した。
それには、今朝鏡で見た女の顔が写っていた。が、そんな事はどうでもいい。
「―椎名雪子」
僕が一番知りたかった事。そう「今の僕」の名前だ。
これで一つは、合点のいく事実が浮かび上がった。
母さんが「ユキコ」と言っていたことからも、「今の僕」=「椎名雪子」で間違いない。
そして新都中学の2年D組16番であることも確認した。
これは僕に残っていた記憶とも合致している。2年D組…校舎も、クラスメイトも覚えている。
しかし、出席番号だけは思い出せない。
「16番…だったかなぁ」
そんな事を呟きながら、僕は改札に定期を通した。
元々が何番だったかも覚えていないが、この16番にも確信的な記憶が無い。
なんとも都合の悪い記憶だなぁとしょ気ながら、僕はプラットホームで電車を待った。
僕が通っている新都中までは、乗り換え1回。
最寄駅から祇子線、都会線と経由して新速駅で降りればいい。
しかし、この都会線がやっかいなのだ。ちょうどラッシュ時の8時前、都会線の乗車率はピークに達する。
そのプレッシャーに、僕の精神はもちろん、この小柄な体も耐えられるのだろうか…。
結論から言うと、先に参ったのは精神だった。
都会線のラッシュは凄まじい。分かってはいたけれど、実際満員の電車を前にすると足がすくむ。
祇子線のような平穏さとは打って変わって、これはもう戦場の様相を呈していた。
次から次へと人間が吐き出されては飲み込まれ、しばらくするとホームはまた一杯になる。
こんなものに毎日乗ってたのか…
うんざりしながらも、僕は列に並ぶ。そして電車というモンスターの口の中に、飲み込まれていった。
目の前にはサラリーマンの広い背中。横からは荷物やら肩やらが飛び出して、僕を押しつぶす。
150センチ程度と思われる僕の小さな体は、情けないほど身動きが取れなくなっていた。
「この先カーブがございます。ご注意ください」
機械的なアナウンスの後、大きな重力によって振られ、体が半分浮いた。
ご注意しろと言われても、どうにかなるものではない。
気づくと僕は、前のサラリーマンの汗ばんだ背中に乗りかかっているような、そんな体勢になっていた。
サラリーマンが鬱陶しそうに、チラッと振り返る。
こちらだって離れたいのは山々なのだが、しかしどうしようもない。
このまま新速まで我慢できるかな…弱気になりかけたその時だ。
ゾクッとする感覚が下半身に走った。
…え、な、なに…?
その感覚はやがて生々しいものとなる。誰かが…僕の太ももを触っているのだ。
そしてその手は、ゆっくりと、這うように上ってくる。
ゴツゴツした感触が気持ち悪い。
…ちょ、ちょっと…マジでやめてよ…
僕は抵抗しようと足を動かすが、それも限られた範囲。
そのうちに、手はとうとう一つの膨らみに到達していた。
遠慮がちに、しかしながら大胆に、僕の尻を撫で回す。
触ってくる5本の指それぞれが、まるでそれ自身意思を持っているかのように動き回る。
恐怖と緊張の時間。
余裕のない僕にとって、もはやその手から逃れる術は…無かった。
「根良―、根良―」
扉が開くと同時に、僕は飛び出した。他の乗客などお構いなしに。
後ろから迷惑そうにたしなめる声が聞こえたが、僕が振り返ることはなかった。
女子か男子か気に留めている余裕など無い。
僕は女子トイレに駆け込むと、空いていた一室に飛び込み、急いで錠をかけた。
そして息を切らせながら、錠を見つめる。
数十秒は触られていただろうか。先ほどの生々しい感覚がよみがえり、吐きそうになる。
「…うっうっ…」
涙が溢れてきた。嗚咽のせいで息が苦しい。
…何で僕が…こんな目に…
心の整理のつかないまま色々な事が起こりすぎて、おかしくなりそうになる。
もう、この場にへたり込んでしまいたい気分だ。
―コンコン
その時突然、ドアが叩かれた。不意を突かれた僕は思わず引きつりこわばる。
「あの、大丈夫?」
ドアの向こう、と言っても目の前と変わらぬ所から声がした。
そういえば僕がトイレに駆け込んだ時、洗面所に誰かいた気がする。恐らくはその人が心配してくれているのだろう。
「大丈夫…です…」
黙っているのも申し訳なく、とりあえず返事だけでもする。
「……替えの下着、必要?」
いきなり、理解に苦しむ言葉が飛んできた。
「……へ?」
「だから、替えの下着。あたし買ってくるよ?」
「……」
僕は黙ってしまった。どうやらドアの向こうの女性は、何か勘違いをしているようだった。
だが無理もない。必死に駆け込んだ人間がトイレに入って泣き出したら、そう汲み取られてもおかしくない。
「…別に漏らしたとか…そういうのじゃないんですけど…」
「……」
今度はドアの向こうの女性が黙ってしまった。
気づくと僕の嗚咽はすっかり止まっていた。
「…ごめんなさい」
ドア越しに、女性の謝る声がする。何だか変な会話。
「出ます…」
僕は独り言のように呟き、錠を外し、ドアを開けた……そして。
目の前で気まずそうに立っていたのは、制服を着た同じくらいの女の子だった。