二〇〇八年四月十五日
「第二川崎中出身、橋本佑介です。趣味は読書です。一年間よろしくお願いします」
そんなアホみたいに標準極まりない自己紹介を終えてから、もうすぐ曜日が一周しようとしている。早くも仲良しグループは形成され始め、昼休みになると女子は女子男子は男子、稀に男女混合のグループで囲んで弁当片手にくっちゃべっていた。僕は運が良いのか悪いのか真ん中の列の最後尾の席になった――本当は窓際がよかった――ので、手製の弁当の蓋を開け、昨夜の余り物のハンバーグに手をつける。
高校は当然中学校よりもクラスの人数が多く、加えて他のクラスから遊びに来る連中なんかも多々いるので、教室内は想像以上に騒がしかった。どうやら昨日放送された連続ドラマの話が台頭しているようで、とても居心地が悪い。当然、僕はそんなものに興味がないからだ。
薄く開いた窓からぬるい風が流れ込む。若干温まっている弁当とあいまって気持ち悪さすら感じてくる。これだけの人間が集まれば気温が上がってしまうのは自明の理なんだろうけど。
「なーにシケた面してんだよ、橋本」
それよりも早急に、僕の居場所を探す必要があるかもしれない。あまり人がいなくて、静かで、出来れば空が見える場所。でも、学校の中にそんな都合のいい場所があるわけないよな。
「おい聞いてるのか橋本。お前のことだよ橋本佑介君!」
待てよ……あそこなら全ての条件を満たすかもしれない。よし、今から行くことにしよう。
「何回呼ばせるんだこの野郎!」
教室内にやかましい叫び声が走る。うるさいなあ、何ださっきから。
「君が誰かは知らないけど、僕はこれから用事があるんだ。放っといてくれるかな」
「まあまあちょっと落ち着けってンだ橋本」
会話を避けて立ち上がろうとする僕の肩を力ずくで押さえるのは、赤茶の短髪に片耳ピアス、形容するなら「ヤンキー」と言う単語がとても良く似合いそうな男子生徒。周囲の騒がしさに怒鳴り声はかき消されたが、僕にははっきりと聞こえた。あと、落ち着いてないのはむしろそっちでは。
「おっと、勘違いするなよ。別にお前をシめようってんじゃねえ。俺は野蛮なことはしねえからな」
短髪男が肩から手を離す。そして、両の手のひらを振って見せた。危害を加えないアピールだろうか。
「……そんな身なりをしておいて、よくずけずけと言えるもんだね」
「この格好は俺の趣味だ! 髪は赤が好きだからこの色に染めてピアスはカッコ良さそうだったからちょっとあけてみた」
カッコつけて顎に手を当てているけど、僕にはどうもただのバカにしか見えない。
「大した用事じゃないなら後にしてくれるかな。僕は今忙しいから」
「忙しい? 何もしてないじゃないか。それともあれか、呼吸をするので精一杯なのか」
「生憎バカの相手をしてる暇はない」
取り押さえる手を振り解いて、僕は強引に立ち上がる。
「第一、君の方こそ何なんだ? 見ず知らずのくせにいきなり話しかけてきて、ありがた迷惑だよ」
「おう、良くぞ訊いてくれた! 俺の名前は鞍馬映二!」
ダメだ、全然話聞いてないコイツ。
「……急いでるから、僕はこれで」
「あっ、ちょっと待てよ橋本!」
後ろから追ってくる声を無視して、早歩きで教室を後にする。僕が探しているのは不良かぶれの男子生徒じゃなくて、今後三年間安住の地となるだろう場所だ。悪いけど相手にしている時間も暇もない……って、これじゃ同じ意味か。まあ、どうでもいい。
廊下の窓から見えた校庭には、人影が驚くほどいなかった。一週間経った今でも不思議に思う。中学校の頃は昼休みになった途端、先を争うようにして男子生徒が脱兎の如く飛び出し、グラウンドでサッカーやソフトボールを営むのが日常風景だったのに。年を重ねるにつれ運動が面倒になるんだろうか。
階段ですれ違う女子生徒は、無防備に携帯を見ながら歩いていた。そういえば、この学校は携帯の持込が許可されていたんだっけか。まあ、持ってない僕には関係ない話なのだけど。
「だから、ちょっと待てって言ってるだろ橋本」
……階段を上っても、窓の外の風景を見て意識を別の方向に向けても。
背後をつけてくる男子生徒――鞍馬映二だったか。その鞍馬の気配は絶える事がなかった。そんなに僕を追いかけて、何が楽しいんだろうか?
痺れを切らした僕は、踵を軸に回って後ろを向く。
そして、言い募る。
「君は何のつもりなんだ? 僕をストーカーのようにつけ回して、何を企んでいるんだ? 弱みでも握って昼食代でもたかるつもりか? それとも、どこかに追い込んで集団でシめるつもりか?」
「だーかーら、そんなつもりはねえって言ってんだろ」
「それじゃあ、一体何が目的で僕をつけ回しているんだ」
「そ、それは……」
急に口篭る鞍馬。十中八九、図星なんだろう。
「君みたいな人間の考えそうなことだ。生憎だけど僕はそんな人間と関わりを持とうとは思わない。僕以外にもやりやすそうな生徒ならいくらでもいるだろう。そっちの方を当たってくれ」
僕は言うだけ言って吐き捨てると、最後の階段を上っていった。
この先にある目的地が、僕の安住の地になる事を期待して、ドアノブに手をかける。
――――と、ここに来て僕は、今日最大のミスに気付いた。
「しまった、鍵を……」
そう呟くと同時に。
「…………やっぱり、考えてることが同じだと思ったぜ」
背後の言葉に釣られて僕が後ろを振り向くと。
鞍馬が右手に持った鍵を掲げ、唇を舐めて笑っていた。
「俺も、なかなかクラスに馴染めないで困ってたんだ」
扉を開けると一面の青空とコンクリート製の地面が僕らを迎え入れた。漫画やドラマで見るような極普通の殺風景な屋上で、当然錆びきれた貯水タンクもある。片田舎の学校の屋上からは頑張れば町の全景が見渡せそうだった。少し強めの風が、前髪を撫ぜる。
僕はそのあたりの地面に座り、小さく溜め息を吐いた。
「……それで、こっそり屋上の鍵を手に入れて常備してたってわけか」
「そういうことだな。夜の学校の忍び込むのは大変だったよ」
鞍馬は外柵に寄りかかって、胡坐をかく。口元には勝ち誇ったかのような笑み。
「こうして屋上に来て鍵を閉めれば、他に誰も来ることはない。つまり一瞬にして、ここは俺たちのプライベートルームになったってわけだ」
「……しかし、何故君のような人間が馴染めずにいた? 外見上、君のようなタイプはすぐにクラスの中心に上り詰めそうなもんだけど」
「ま、人には人に理由があるってことよ。にしし」
良く理解できないが、嬉しそうに笑う鞍馬。全く、面倒な奴と出会ってしまったもんだ。
どうせなら一人のほうが良かったけど、この際文句は言うまい。コイツがいなければ、この屋上に立ち入ることすらできなかったんだ。同じ空間に入るくらいは目をつむろう。
「というわけで、橋本」
掛け声と共に鞍馬が立ち上がる。見開いた目は精気で満ち溢れていた。
「突然なんだが、俺と友達になってくれないか!」
……前言撤回。こんな騒がしい奴と同じスペースにいるなんて耐えられない。
なるほど、コイツは金じゃなくて友人が目的だったのか。教室の中で独りぼっちにならないために――――コミュニケーションスキルの無い奴だと思われないために、僕みたいな同じ一人の奴をこの屋上に誘い出して、「俺の友だちになれ。さもなくばこの屋上は譲らない」みたいな軽い脅迫を行っていたのか。そこらの不良とベクトルは違えど、やってることは似たようなもんじゃないか。
「それは却下する」
当然即答し、僕は目を閉じて俯いたまま吐き捨てる。
「“お友だちごっこ”がやりたいなら、他を当たってくれ。何度も言うけど、僕は一人が一番落ち着くんだ。赤の他人のいる空間の何処がプライベートルームだ。巫山戯るのは大概にしてくれ」
「ちょ、ちょっと待てよ。それだったら俺だって一人のときが一番落ち着くよ。当たり前だそりゃ」
「じゃあ何で、君はそこまでして友人が欲しいんだ?」
うぐ、と鞍馬が言葉に詰まる。そこを狙って、僕は一気にたたみかける。
「友人なんていても窮屈なだけだ。自分の金と自由な時間が減る一方で、見返りなんてあるわけがない。そんな人生に役に立たないものを作ろうとしてどうする。増やそうとしてどうする」
一呼吸置いて、再び、
「いいか。友達なんて言う表面上の付き合いは必要ない。一番大事にするべきは自分自身だ。友人のために尽力しても何も返ってこない。だが、自分のために尽力すればそれなりの見返りは戻ってくる。投資すべきは自分、棄却すべきは友人なんだ」
「で、でもよ、そんなの…………」
「勘違いしないでくれよ。別に君がどう考えようと僕は一向に構わない。君が友人至上主義ならそれでいい。単に僕と君のベクトルが合わなかっただけだ。君みたいな思考の人間はこの学校にはゴマンといるだろう。彼らをこの作戦で誘導すれば良いだけの話だ」
僕は立ち上がって、鞍馬に背を向ける。
「生憎だが、僕は君とは相容れない。この場所は少し勿体無いけど、去らせてもらうよ」
返答は無い。当然かな。これだけ言われれば普通の人間は黙り込んでしまう。こうやって今まで何人の沈黙を作り上げてきたか、……まあ、数えるほどしかいないが、覚えてはいない。
僕は屋上のドアノブに手をかけ、扉を引いた。
風の流れが変わったのは、その瞬間だった。
「………………?」
一瞬首を傾げ、進めかけていた足を止める。先刻まで涼しげに吹いていた風が急に生温くなり、同時に周囲の音が――――いや、鳥の声や枝葉の掠れる音といった類の音だけではなく、空気が耳に流れ込む音や血液の流れる音までが停止してしまったように、“聴覚から音が消えた”。
心地よい騒がしさが消え、辺りに静寂が落ちる。
「……おい、どうしたんだよ橋本。急に立ち止まって…………」
鞍馬が問いかけてくるが無視して、じっと息を殺す。
この時直感的な何かが働いたのか、僕の脳裏には一つの文章が浮かび上がっていた。
“何かがいる気がする”。
この屋上の僕と鞍馬以外の、何かがいる気がする。物理的に考えれば絶対にありえないだろうけど、ふつふつと第六感が湧き上がってきた。酷く緊張しているわけでもないのに、額に汗が流れる。
ちょうど今立っている扉――――その上にある貯水槽の、上。そこに何かが潜んでいるような、奇妙な気配を咄嗟に感じた。勿論、十中八九気のせいには違いない。でも、この時ばかりはどうしても確認しておかなければいけないような気がしてならなかった。
「少し黙ってろ、鞍馬」
僕は顔を向けずに左手でそう制し、錆びて塗装の剥げた梯子をゆっくりと上る。一段上るたびに、何者かがいる気配はどんどん強くなっていった。梯子を上り終え、貯水槽の前に立つ。更に貯水槽の裏側にある梯子まで歩み寄って足をかけると、更に上へと上って行く。
この時僕の頭は大分沈静化し、落ち着きを取り戻していた。鍵が閉まっていたのだから人間がいるわけでもないし、いたとしても小動物や鳥の類だろう、と高をくくっていた。まさか、結果的にそれが予想外の驚きを生むことになるだろうとは思いもしなかった。
僕は最後の段に手をかけ、貯水槽の上に顔を出す。
その直後、僕は目を見開いて、その場でしばらく硬直してしまった。
ステンレスか何かで出来た、まだ新しいようにも見える貯水槽の上には。
この喜多川高校の制服を着た女子生徒が、横向きになって寝息を立てていた。
一瞬まるで、絵本の中から飛び出した王女でも眠っているのかと、錯覚した。
目を何度も強く擦ったが、目の前の光景が豹変することは勿論ない。大事なことなのでもう一度言うけれど、僕の眼前には今、クリーム色のロングヘアーを纏った女子高生がいわゆるえびぞりの状態で、音も立てずに眠り込んでいる。
「…………何が何だかわからない」
無意識に口元から感想がこぼれ落ちる。僕が驚いているのは何故彼女がここにいるのかではなく、彼女が一体「どうやって」ここに来たかだった。屋上の扉は固く閉ざされていた。男子ならまだしも女子が蹴って壊せるほど脆くはなかったので、鍵を破壊して進入するなんて不可能だ。もっとも、僕が来た時点で鍵は正常に作動していたから鍵を壊して入ったなんてのは賢い意見じゃないんだけれども。
「おい橋本? 一体何があったんだよ、らしくねーアホ面して」
僕がしばらく呆けたまま梯子に掴まっていると、やがて下から声が届いた。出会って数分足らず相手にアホ面とは、この鞍馬という男も存外失礼な奴みたいだ。
「お前は黙ってろ。僕は今頭の整理をしていてお前のような人間と話している余裕がない」
「ひっで! じゃあせめて何がいるかだけでも教えてくれよ!」
僕がしたように梯子を上ってきて、貯水槽に手を付く鞍馬。
やれやれ、と僕は何度目かの溜め息を吐いて、渋々答える。
「……女子生徒がいる」
「は? ……いやすまん、意味が分からん」
「この喜多川高校の制服を着た女子生徒がいる。腕につけているバッジの色からして、恐らく同じ一年だ」
僕がそう答えると、鞍馬は一瞬目を丸くしたが、すぐに可笑しげな表情を浮かべて、
「バーカ、そんなことがあるわけないだろ! ここに来たのは俺たちが最初だぞ? それより前に女子生徒が来てるだなんて、俺はそれだったら真夏に雪が降る方を信じるね」
「……何が言いたいのか良く分からないが、疑わしいなら自分の目で見てみろ」
そう言って僕は梯子をするすると降り、その代わり今度は鞍馬が騒々しく音を立てて梯子を上る。僕がわざわざ起こさないように静かに下りたのに、アイツはそういう配慮はないんだろうか。
そんな愚痴を小声で漏らしているうちに、頭上から短い悲鳴(というより叫び)が聞こえ、次いで体格の良い赤茶髪の男子生徒が尻餅ついて落っこちてきた。
「何してんだお前……」
僕が哀れみの視線を投げかけると、鞍馬は即座に立ち上がり、慌てふためいた様子で僕の肩を掴んだ。
「は……橋本! た、大変だ親方! 女の子だ! 空から女の子が降ってきた!」
「だからそれを今しがた報告したってのにバカだなお前は。あとラピュタの見すぎだ」
額やこめかみから汗をだくだく流す鞍馬を振り払い、僕は様子を見るためにもう一度梯子を上る。まさかの不意打ちだった。怪我をした動物でも迷い込んでいたとばかり思っていたが、動物は動物でも同じ種族、それどころか同じ学校の生徒とは恐れ入る。しかし一体どうやってこの屋上に入り込んだのか非常に気になるところだ。どうせだったらその方法を僕に伝授して、いつでもここに来れるように……
「うーん、とっても、良く寝たの、です」
どうやら僕は、悪い夢を見ているようだ。出来るならこの高校三年間は一人で快適に過ごし、そこそこの勉強を重ねていずれは有名大学に進学して、大学でいい成績を残して会計士や税理士に就職して人々の役に立とうと思っていたのに、一週間目からいきなり変な奴に目をつけられ、屋上に来たのはいいものの謎の女子生徒を見つけてしまい、しかもちょうど目の前で目覚めてしまったなんて、全く悪い夢だ。
「あ、おんなじ、制服、です」
「そうだ。これは夢だ。夢ならきっとここから落ちても痛くない」
一人呟いて、僕は梯子から身を離す。一呼吸後にコンクリートに激突する。とても痛い。小さく蹲る。
「……お、お前こそ何やってるんだ、橋本」
「うるさい黙ってろ。これはきっと夢なんだ。悪夢の名を持つ幻想だ」
「何だよ今度は一体何が……って、のええ!?」
鞍馬が驚きの声を漏らす。痛みをこらえながら目線を上にずらすと、そこには再び信じがたい光景が――――分かりやすく言うと、女子生徒が貯水槽の端に座り込んで、此方を覗き込んでいた。その拍子に鞍馬の奴も尻餅落下した。コイツの場合は二度目だが。
「あなたたち、この学校の、生徒さん……です?」
首を傾げて訊ねる女子生徒。僕はまだ正常な判断が出来ずにいる。この場合は何と答えればいいのか。確かに僕と鞍馬はこの学校の生徒だが、果たして正直に答えていいんだろうか。彼女が本当にこの学校の生徒なら問題ないのだろうけど、もしも仮に「そうだ。俺とコイツは喜多川高校の生徒だぜ」
はっ、と脳内を過っていた思考が弾け飛び、顔が鞍馬のほうを向く。奴は最初こそ焦ったような表情を浮かべていたが、今はまるで数年来の友人と話すかのような実にリラックスした顔に切り替わっている。
「そうなんですか、良かった、ここ、誰もいなくて、困ってた、です」
「そりゃここ屋上だもんよ。人を探すなら教室だぜ。……っと、自己紹介が遅れたな」
言いながら、鞍馬は制服のネクタイを調える。
「俺の名前は鞍馬。鞍馬映二だ。んで、コイツの名前は橋本佑介」
そして勝手に人の名前を教えやがった。なんて奴だ。処罰ものだ。
「くらまくん、と、はしもとくん、です?」
「そうそう。君の名前はなんて言うんだ? そして、どうやってここに来たんだ?」
にしても鞍馬の奴、実際は軽快に喋ると見える。コミュニケーションスキルはあるくせに、何故クラスに馴染めずにいる? 何か言えない理由でもあるのか? 関係ない他人事とは言え、若干気になる。
「ええっと、私の、名前は、空野陽奈(そらのひな)、です。えっと……」
コイツには他の奴と違う理由があるに違いない。
僕はそう考えてしばらく鞍馬を訝しく眺めていたが――――
「私は、空から、やって、来たの、です」
――――直後、そんな思索は吹っ飛んでしまった。
目を何度も強く擦ったが、目の前の光景が豹変することは勿論ない。大事なことなのでもう一度言うけれど、僕の眼前には今、クリーム色のロングヘアーを纏った女子高生がいわゆるえびぞりの状態で、音も立てずに眠り込んでいる。
「…………何が何だかわからない」
無意識に口元から感想がこぼれ落ちる。僕が驚いているのは何故彼女がここにいるのかではなく、彼女が一体「どうやって」ここに来たかだった。屋上の扉は固く閉ざされていた。男子ならまだしも女子が蹴って壊せるほど脆くはなかったので、鍵を破壊して進入するなんて不可能だ。もっとも、僕が来た時点で鍵は正常に作動していたから鍵を壊して入ったなんてのは賢い意見じゃないんだけれども。
「おい橋本? 一体何があったんだよ、らしくねーアホ面して」
僕がしばらく呆けたまま梯子に掴まっていると、やがて下から声が届いた。出会って数分足らず相手にアホ面とは、この鞍馬という男も存外失礼な奴みたいだ。
「お前は黙ってろ。僕は今頭の整理をしていてお前のような人間と話している余裕がない」
「ひっで! じゃあせめて何がいるかだけでも教えてくれよ!」
僕がしたように梯子を上ってきて、貯水槽に手を付く鞍馬。
やれやれ、と僕は何度目かの溜め息を吐いて、渋々答える。
「……女子生徒がいる」
「は? ……いやすまん、意味が分からん」
「この喜多川高校の制服を着た女子生徒がいる。腕につけているバッジの色からして、恐らく同じ一年だ」
僕がそう答えると、鞍馬は一瞬目を丸くしたが、すぐに可笑しげな表情を浮かべて、
「バーカ、そんなことがあるわけないだろ! ここに来たのは俺たちが最初だぞ? それより前に女子生徒が来てるだなんて、俺はそれだったら真夏に雪が降る方を信じるね」
「……何が言いたいのか良く分からないが、疑わしいなら自分の目で見てみろ」
そう言って僕は梯子をするすると降り、その代わり今度は鞍馬が騒々しく音を立てて梯子を上る。僕がわざわざ起こさないように静かに下りたのに、アイツはそういう配慮はないんだろうか。
そんな愚痴を小声で漏らしているうちに、頭上から短い悲鳴(というより叫び)が聞こえ、次いで体格の良い赤茶髪の男子生徒が尻餅ついて落っこちてきた。
「何してんだお前……」
僕が哀れみの視線を投げかけると、鞍馬は即座に立ち上がり、慌てふためいた様子で僕の肩を掴んだ。
「は……橋本! た、大変だ親方! 女の子だ! 空から女の子が降ってきた!」
「だからそれを今しがた報告したってのにバカだなお前は。あとラピュタの見すぎだ」
額やこめかみから汗をだくだく流す鞍馬を振り払い、僕は様子を見るためにもう一度梯子を上る。まさかの不意打ちだった。怪我をした動物でも迷い込んでいたとばかり思っていたが、動物は動物でも同じ種族、それどころか同じ学校の生徒とは恐れ入る。しかし一体どうやってこの屋上に入り込んだのか非常に気になるところだ。どうせだったらその方法を僕に伝授して、いつでもここに来れるように……
「うーん、とっても、良く寝たの、です」
どうやら僕は、悪い夢を見ているようだ。出来るならこの高校三年間は一人で快適に過ごし、そこそこの勉強を重ねていずれは有名大学に進学して、大学でいい成績を残して会計士や税理士に就職して人々の役に立とうと思っていたのに、一週間目からいきなり変な奴に目をつけられ、屋上に来たのはいいものの謎の女子生徒を見つけてしまい、しかもちょうど目の前で目覚めてしまったなんて、全く悪い夢だ。
「あ、おんなじ、制服、です」
「そうだ。これは夢だ。夢ならきっとここから落ちても痛くない」
一人呟いて、僕は梯子から身を離す。一呼吸後にコンクリートに激突する。とても痛い。小さく蹲る。
「……お、お前こそ何やってるんだ、橋本」
「うるさい黙ってろ。これはきっと夢なんだ。悪夢の名を持つ幻想だ」
「何だよ今度は一体何が……って、のええ!?」
鞍馬が驚きの声を漏らす。痛みをこらえながら目線を上にずらすと、そこには再び信じがたい光景が――――分かりやすく言うと、女子生徒が貯水槽の端に座り込んで、此方を覗き込んでいた。その拍子に鞍馬の奴も尻餅落下した。コイツの場合は二度目だが。
「あなたたち、この学校の、生徒さん……です?」
首を傾げて訊ねる女子生徒。僕はまだ正常な判断が出来ずにいる。この場合は何と答えればいいのか。確かに僕と鞍馬はこの学校の生徒だが、果たして正直に答えていいんだろうか。彼女が本当にこの学校の生徒なら問題ないのだろうけど、もしも仮に「そうだ。俺とコイツは喜多川高校の生徒だぜ」
はっ、と脳内を過っていた思考が弾け飛び、顔が鞍馬のほうを向く。奴は最初こそ焦ったような表情を浮かべていたが、今はまるで数年来の友人と話すかのような実にリラックスした顔に切り替わっている。
「そうなんですか、良かった、ここ、誰もいなくて、困ってた、です」
「そりゃここ屋上だもんよ。人を探すなら教室だぜ。……っと、自己紹介が遅れたな」
言いながら、鞍馬は制服のネクタイを調える。
「俺の名前は鞍馬。鞍馬映二だ。んで、コイツの名前は橋本佑介」
そして勝手に人の名前を教えやがった。なんて奴だ。処罰ものだ。
「くらまくん、と、はしもとくん、です?」
「そうそう。君の名前はなんて言うんだ? そして、どうやってここに来たんだ?」
にしても鞍馬の奴、実際は軽快に喋ると見える。コミュニケーションスキルはあるくせに、何故クラスに馴染めずにいる? 何か言えない理由でもあるのか? 関係ない他人事とは言え、若干気になる。
「ええっと、私の、名前は、空野陽奈(そらのひな)、です。えっと……」
コイツには他の奴と違う理由があるに違いない。
僕はそう考えてしばらく鞍馬を訝しく眺めていたが――――
「私は、空から、やって、来たの、です」
――――直後、そんな思索は吹っ飛んでしまった。
整理すると、彼女の名前は空野陽奈。同じクラスらしいのだが、聞いた事のない名前だ。僕たちと同じ喜多川高校一年生。これはまあ納得できる。それで、空からやってきたらしい。意味が分からない。目を覚ましたらここにいたという。いよいよ訳が分からない。入学式には遅れて参加できなかったらしく、今日初めて学校に来たらしい。
そして、一番理解に苦しむのはこの言葉。
「私は、空から、やって、来た、天使なの、です」
おぼつかない日本語でそう言う少女。本来なら即否定してしまいたいところなのだが、僕でさえつい発する言葉を選んでしまう無垢な瞳に、僕も鞍馬の奴も困り果てていた。
「えっと……空からやって来た、ってのは本当なんだな?」
「はい、ほんとう、です」
何回訊いても同じ返答だから、どうしようもない。言葉は違えど、こう言ったやり取りが十数回も続いていた。静寂に包まれていた屋上にはいつの間にか生活音が戻り、そして彼女――空野の周りには鳥がたくさん集まってきていた。
「あはは、とりさん、いっぱい、です」
こっちは、あはは、なんて気分じゃないんだけどな。
「まあまだ訊きたいことは山ほどあるが……とりあえず空野、一つだけどうしても訊いておきたいことがある」
「はい、なんでしょう」
鞍馬が半ばあきれた表情で、問い詰めるように再三言う。
「お前が空からやって来た、ってのは本当なんだな? 信じてもいいんだな?」
「はい、信じてもいい、です」
否定のし難い、屈託のない笑みを浮かべて答える空野。
僕と鞍馬は一度だけ目配せすると、二人して同時に首を傾げる。当然だ。俄かには信じがたい。僕の場合今日だけでも信じがたい出来事がいくつも起こっているだけに空から舞い降りた天使とまで来ると思考回路が追い付かない。
「こんな美少女と知り合っちゃって、俺どうしていいかわからねえよ……」
どうやら僕とコイツの悩みは一ミリも掠ってないみたいだが。
「とりあえず、このまま放置しておくわけにもいかないだろう」
僕は足元に近寄ってくる鳩を払い除けながら、平板に言う。
「今日初めて学校に来たんだって言うなら、まずは校長教頭辺りに顔見せしておかなければ流石にまずいだろう。そこまで連れて行って、事情をいろいろ説明してやればいい。空から来た点については……まあ、それとなく誤魔化してだ」
「まあ、それが利口な手段だよなあ……色々疑われそうだけど」
「というわけで、後は任せたからな、鞍馬」
それだけ言い残し、僕はさっさと出入り口に足を進める。
「……へ? お、おいちょっと待てよ橋本! お前も行ってくれるんじゃないのかよ!?」
「いつ誰が何処でそんなことを言った」
驚きと焦りの混じった感情を浮かべる鞍馬に、僕は言い放つ。
「これ以上他人同士のいざこざに巻き込まれるのは御免だ。言っただろう。僕は一人でいるのが一番気楽なんだって」
口には出せないが、空野と関わるとどうもおかしなことに巻き込まれそうだからな。念のため、釘を刺しておこうか。
「だから僕はここでお別れだ。これからは姿を見かけても絶対に話しかけてくるんじゃないぞ。仮に話しかけられても僕は無視を決め込むからな」
「い、いやちょっと待てよ……」
「待ってやる義理なんてどこにも存在しない」
背を向けたまま拒絶の一言を投げかける。これでいい。これでいいんだ。空野のことは若干気になるが、関わりを持つより一人でいた方が気が楽に決まってる。今まで通りの生き方に戻るだけだ。そこに躊躇なんて、一瞬でもあるわけがな――――
「喜多川高校規則、第七条」
――――後に鞍馬映二は、この時のことをこう語っている。
『あれは例えるなら……風ですね、風。疾き風が橋本の腹部を突き抜けていました』
僕が屋上の扉に手をかける、まさにその刹那。
「既定の始業時刻を守ることが出来ない者は発見次第――――」
古くなった扉が勢いよく開かれ、驚いて身を引いた僕の目の前に飛び込んできたのは、肩まで伸びた黒髪が特徴的な、眼鏡をかけた女子高生だった。
ええ、と慄く僕に、彼女は鋭い眼光を向け、そして。
「死ね」
その辛辣な二文字と共に腹部に放たれたのは、凄まじい威力の鉄拳。
「ぬああああああっ!?」
情けない声を上げて、二転三転して五メートルほど転がる僕の身体。こうして冷静に実況出来ているのが不思議なくらいだ。普通なら気絶というか、悶絶しているところだろう。一瞬の判断で腹筋に力を込めたのが幸いした。
「は、橋本っ!?」
「はしもとくんっ!?」
鞍馬はおろか、空野でさえ驚きの声を上げるまさかの展開。
「昼休みが終わってもダラダラしていようなどとは、暢気なものだな貴様ら」
何とか顔を上げると、少し離れたところで黒髪女子生徒が、演説するように僕の方を
向いて侮蔑の言葉を言い放っていた。
「そのような行為は、委員長である私、今御堂結花が許さんぞ!」
……どうやら本当に、面倒なことになってしまったようだ。
腕時計で時間を確認すると、昼休み終了からもう十分も時間が過ぎていた。
「そもそも何故私たちが学校に通っているか知っているのか? いや、知るはずもあるまい。いいか、私たちは学問を励むため、教養を身に付けるために学校に通っているのだ。学問を請うのは将来的に勉強をする習慣をつけるため。教養を身に付けるのは将来的に社会で恥をかかぬため。こういった理由付けがされているがゆえに、授業をさぼるなどという愚行は決して許され」
みたいなお説教がかれこれ二十分は続いている。僕と鞍馬、そして何故か空野までもが正座を強いられ、屋上に三人並べられている春の昼下がり。
多分うちのクラス……一年四組の委員長である今御堂結花(いまみどう ゆか)は、ものすごい剣幕とはいかずとも冷淡とした語調で、何の遠慮もなしに説教を垂れる。
「そもそも、屋上は立ち入り禁止であるにもかかわらず、なぜ貴様らはずけずけと立ち入っている。理由を述べよ」
「知らねーよ、開いてたんだから別にいいだろ」
真っ先に口を開いたのは、不満そうな顔の鞍馬。
「そんなことより委員長様は授業に行かなくていいのか? これじゃ委員長様まで俺たちと同じサボり扱いになっちゃうぜ?」
「戯言を言うな。私は許可を得たうえでの行動だ。加えてその発言を聞く限り、授業を著しく妨害しているのは貴様らだということがまだ理解できていないようだな」
「妨害してないし。別に俺たちがいなくても世界は回ってるし」
「そのふざけた口を今すぐ聞けないようにしてやろうか……」
眉間に皺が寄り、怒り心頭に発する委員長。これ以上刺激するとまずいと判断したのか、若干ふざけ気味だった鞍馬もようやく閉口する。しかし怒りが収まらない様子の委員長は、大げさな足音を立てて俺たちの前を何往復もし、ふと止まったかと思うとこちらに爪先を向け、一段大きな声で言い放った。
「いいか! この私が委員長を務めるクラスにいる限り、勝手な行動は慎め! 学業と無縁なことには手を出すな! 授業には毎回出ろ! 最低限それが出来なければ、立派な高校生だとは言い切れん!」
「……なんか一方的に僕らが悪いみたいになってるけどさ、」
僕は正座を崩して立ち上がり、委員長――――今御堂結花の目を見て言う。
「僕は別に何も悪くない。君が言っていた箇条は元々守る気満々だったし、本来なら僕はこんな場所に来ることもないはずだった」
と、唇を舐めながらあからさまな嘘をつく。
「成り行き上ここに来てしまっただけなのに、そこまで責められるのはどうも納得がいかないな。何でもかんでも規則で縛りつけるのは良くないと思うよ」
「黙れ。成り行きだろうがなんだろうがここに来て、そして昼休みが終わってもまだ留まっていた事実に変わりはない。いいか、思考がどうであれ、最も重要なのは結果だ。いくら努力を積み重ねたところで結果が出なければどうにもならん。努力など結果の過程にすぎん」
「これだから委員長様タイプは頭が固くて困る……」
僕は態とらしく頭を掻きながら、ちらりと空野の方に目くばせする。そうだな、ここで利用すれば何とか窮地は抜けられそうだ。
「そんなことよりも委員長、空野のことを任せてもいいかな」
「空野? 誰のことだ、私のクラスにはおらんぞ。それに、私に名前を聞くな。私がおぼえているのはその者の出席番号だけだ」
何なんだ、この委員長。
「今日来たばっかりで、入学式にも来れなかったらしい」
「うむ? ……いや待てよ、そういえば確かに入学式当日に来れず、遅れて学校に来るといった生徒がいるという話を聞いた事があるやもしれん」
そして絶対人の話を聞いていない。テンプレート通りかって聞かれると、肯定できる。
「おい! 空野というのはお前か!」
「えっ、あ、はい」
一瞬小動物ライクにおびえた空野に、今御堂はずかずかと詰め寄る。
「お前はなぜ入学式に出れなかったんだ? 入学式とはセレモニーだ。学校生活を送る上でのスタートラインとも言えよう」
対して、答える空野。
「えっと、まだ、お引越しできて、なかった、です」
「引っ越し? なるほど、転校に近い扱いというわけだな」
謎の納得を繰り返す今御堂。僕はもう関係ないから帰てもいいんじゃないか。
「それで、空野。お前はどうして、いや、」
……そして、何度目かのその質問を、今御堂が口にする。
「お前はどうやって、この屋上にやって来たんだ?」
一呼吸置いて、空野が答えると。
「……はぁ?」
委員長らしからぬ声を上げ、今御堂は呆れたように手で顔を覆う。
▽▽
「あはは、鳥さん、いっぱい、飛んでる、です」
そう言って笑いながら歩く空野の後ろを、僕は薄汚れた眼鏡を拭かないまま歩く。
黒がかった空の下、山の中は想像しているよりも薄暗い。僕は時折足元を確認しながら、汚れたクリーム色の髪を見つめて歩く。もう二度と、見失わないように。
色々と考えたいことも、後悔したいことも、数えきれないほどあった。
あの日からもう一年が経ったなんて、信じられない思いでいっぱいだった。
歩く道には蜘蛛の巣や苔むした小石がたくさんあり、注意して歩いていないとすぐに足を取られたり、視界がなくなってしまいそうで、怖かった。
もちろん、こんな木々の群れの中に、鳥なんて飛べたもんじゃない。
でも、空野には鳥が見える。
なぜなら彼女は、天使だから。
親愛なる神様から見捨てられてしまった、天使だから。
「はやく、はやく、じゃないと、置いてっちゃう、です」
急かす空野の姿を見て、僕は僅かに歩みを速める。
後悔だけは、したくない。だけど、いずれ来る事実から目を逸らしたくなる。
その葛藤を何度も繰り返した後に、僕は自分を裏切ったような気分で、今こうして空野の後ろを歩いている。薄ぼんやりとした気持ちの悪い空気が肺に流れ込んできて、時々むせ返る。
自分の働いた行為に関しては、後悔の念も何もない。
今日一日を無事に終えることが出来る、
とか。
明日の朝日を果たして拝むことが出来る、
とか。
僕が憂えているのはそういう類のことではなかった。別に僕がいつ死ぬかなんて、ひいては人間の一個体がいつ死ぬかなんて事は誰かが取り決めているわけではない。僕たちは神様から一から一二〇くらいの目が書かれている賽子を受け取り、それを適当に振って明るみになった数字だけを見つめて生きているだけ。その気になれば引っくり返すなんてこと、造作もない。
自分の意思で、変えられるうちは。
僕は今、自分の賽を握り締めながら、歩いている。残された時間がなくなるにつれて、拳の握力が無くなっていくような錯覚に陥る。落とした時に顔を出した目が、僕の持ち時間だとは限らない。それを決めるのも神とかそれに近い意識とかではなく、また僕だからだ。
その瞬間だけ、僕は僕の中で全能になる。
そして次の瞬間には、また無能の人間になってしまう。来る瞬間に立ち会いたくないと思いながらも、僕は震える足で獣道を上り、空野のあとを追いかける。
僕は最後の瞬間まで、自分の犯した行為の責任を取る必要がある。
この一年間の全てを無碍にしないためにも。
時間切れまで、あと、
「良いか、世の中にはついていい嘘とついてはいけない嘘がある。誰かのためを思っての嘘など、他人のための嘘ならば問題はない。だが、自分の私利私欲を満たすため、もしくは何かやましいことを覆い隠すための嘘はついてはいけないのだ。かつて誰かはこう言った。『嘘はいつか身を滅ぼ」
空野が嘘をついていると考えたらしい今御堂によって、再び説教が始まった。腕時計を見る限り、授業が始まってからもうすぐ四十分が経ちそうだ。むしろ授業が終わりそうだ。しかし一向に終わりの兆しが見えてこない。授業を受けろと言ったくせにこんなことで時間をつぶしてもいいのだろうか。
「おい、橋本。こんな説教長々と聞かされて何か為になるのか。教師じゃあるまいし、時間の無駄だぜ」
痺れを切らしたらしい鞍馬が小声で語りかけてくる。同調するのは癪だが、言っていることはもっともだ。
「まあ、それには概ね同意だな。もうじき授業も終わる頃合だ」
「だろう? だったらさあ、今すぐ逃げ出さねえか? 空野を連れてさ、こう、びゅーんと」
「……なぜ空野を連れていく必要がある?」
僕は眉根をひそめ、鞍馬に訊ねる。
「え? いや何故って、そりゃ俺たちが最初に出会った人だからその、安心感っつーか」
「彼女は委員長に預けていれば何とかなるだろう。今日初めて学校に来たというのが事実なら尚更だ。僕たちがあちこち連れまわす必要はない。その方がむしろ不自然だ」
「だ、だけどよ……」
「いいか鞍馬、よく聞けよ」
軽く咳払いをしてから、僕は冷たく諭すように言う。
「何度も言うが僕は「よく聞くのは貴様らの方だ!!」
直後、僕と鞍馬の頬に凄まじい鉄拳が飛んできた。そのあまりの衝撃に、またもや二人揃って頭を地面に叩きつけられた。もしかしたら少しめり込んでいたかもしれない。頭蓋骨が割れるように痛い。一瞬だが脳震盪も起こしたかもしれない。なるほど、委員長は空手有段者に違いない。
なんとかのそりと起き上がると、至近距離に立っている委員長様からはまるで漫画みたいなオーラが立ち昇っているような幻覚が見えた。これは幻覚じゃないかもしれない。
「人が熱弁していたら無駄口を叩きおって……貴様らには反省の意は微塵たりともないのか!」
いよいよ腸が滾って来たらしい委員長だったが、ふと纏っていた怒気を弱めると、深い溜め息一つとともに、呆れの混じった声で言う。
「もう良い、お前らには言うだけ無駄だということが身をもって分かった!」
「だ、だろ? だからこれに懲りたらお説教なんてぶッ」
発言の途中で顔面に膝蹴りを入れられる鞍馬。何処までも哀れな男だ。
「懲りるのは貴様らの方だ! いいか、今後また同じようなことを繰り返してみろ! 今度は手加減の一つもせずに、徹底的に貴様らを痛め嬲り付けるからな!」
委員長がその発言はどうかと思うんだけど、なんて思っているうちに、階下から鐘のような電子音が聞こえてきた。授業の終わりを告げるチャイムだ。
「……やれやれ、授業も終わってしまった。貴様らの指導を行うためだけに、私までもが授業を受けることが出来なかったのだ。その贖罪を胸に、今後は己を省みて生きていくんだな!」
と、なにやら凄みのある科白を残して、委員長は騒々しく扉を閉め、去っていった。
途端に静謐に包まれる屋上。僕はまだ骨が軋んでいるような身体を起こして、制服に付いた砂を払う。
「だ、だいじょうぶ、です、はしもとくん」
空野が浮ついた日本語で訊いてくる。多分「大丈夫ですか橋本君」とでも言いたいんだろうか。
にしても、喋り方が異様に不自然だ。場面緘黙症とか、そういうレベルじゃない。まるで元々喋ることが叶わない生き物に無理矢理言語を仕込んだような違和感がある。どういう教育をされたんだろうか。
「いっ、ててて……なんだよあの馬鹿力委員長はよ……教育委員会に訴えるぞ……」
鞍馬が寝そべったままうわ言のようにぼやく。最後の顔面直撃がよほど効いたのか、起き上がる素振りすら見せない。いっそそのまま死んでしまえばいいのに。
「いっそそのまま死んでしまえばいいのに」
「ちょっと待て橋本。思っていることが口に出ている気がするのは俺の気のせいか」
おっと、つい本音が出てしまった。まあ、別にどうでもいいけど。
「ともかく、委員長様の説教は終わったんだ。僕がこれ以上ここにいる理由は一つもない」
三度目の正直。僕は再び屋上の扉に向かい、ドアノブに手をかける。
「なっ……、ちょっと待て橋本」
瞬間、少し語調の変わった鞍馬の声に、僕は足を止めた。
「お前……この期に及んでまだ逃げようってのか」
「逃げる? 一体何のことだか分からないな。僕がここに来て、これまでの仕打ちを受けたのも、全ては成り行き上のことだ。これ以上お前や空野に関わる義理もなければ義務もない。僕はここで失礼させて貰う」
「それじゃあお前は、見捨てられるってのか」
「何?」
後ろを振り向くと鞍馬の横には、不安そうな表情をした空野が制服の袖を握り締めて立っていた。
「空野のことか? それだったら、お前が何とかすればいいじゃないか。別に二人も必要ないだろう。空野を校長室かどこかに連れて行くぐらい、お前一人でも……」
僕が半身だけ振り向きながら、そう言挙げした、
直後。鞍馬がものすごい形相で、僕の襟元に掴みかかってきた。
あまりの勢いに僕は鞍馬に押し倒され、階段手前の踊り場に仰向けになる。鞍馬の顔にははっきりと確認できるほどの青筋が浮かび上がっていた。
「!? な、なんだよお前……」
「橋本てめえなあ!! 自分勝手もいい加減にしろよ!!」
怒声を上げる鞍馬の顔からは、あの少しふざけたような表情は消えていた。
「目の前にな、右も左もわからない女の子がいるんだぞ!? お前はそれを見捨てて、のうのうと歩いて去って行けるって言うのか!?」
「ま、待て。いったん落着け鞍馬」
冷静な口調でそう諭すが、鞍馬の顔から激昂は途切れない。
「落ち着くなんて出来ねえな。お前がこれ以上空野を見捨てて逃げようって言うんなら、俺は力ずくでもお前を引き止める。これ以上先にはいかせねえぞ」
例えるなら……そう、脅迫。荒げた声で放たれた脅迫の言葉が、僕の心底に深く突き刺さる。訳が分からない。何故、コイツはここまで怒っているんだ。
「鞍馬。別に僕は逃げているわけじゃない。ただ一人が好きなだけで、これ以上僕の周りに付きまとうのは止めてくれと言っているだけなん」
「それが逃げてるってことの確かな証拠じゃねえのか!?」
鞍馬の大声にかき消され、僕は思わず沈黙する。
「橋本佑介。今だから言うが、俺はお前のことがずっと気になっていた。入学式の日からずっとな。別に最初から友達になりたいとか思ってたわけじゃねえ。ちょっと浮いてるやつだな、って思ってただけだ。教室の中で一人でいても、何一つ嫌な顔せず座っている。俺はそれが不思議でたまらなかった。だから今日、こうしてお前に歩み寄ったんだ」
風の音が、少し強くなる。
屋上に止まっていた鳥の群れが、蜘蛛の子を散らしたように飛んでいく。
「俺はお前みたいな人間が理解できない。お前は何で、一人でいて平気なんだ」
神妙な面持ちで尋ねる鞍馬。
いきなり何かと思えば、なんだ、そんなことか。
「……煩わしいんだよ、どいつもこいつも」
僕は胸ぐらを掴まれたまま、眼を細くして言う。
「何でそう他人ごとに首を突っ込みたがる? お前はお前で、自分のしなければいけない事だけを見ていけばいいんだよ。他人のことなんか考える必要はない。ましてや、僕のことなんてな」
「それじゃあお前はそんな生き方で、今後どうしていこうってんだ」
「さあな。大学まで何とか行って……それからは未来の僕しか知らない」
呟くと、鞍馬は首を横に振る。
「いや、俺には分かるな。お前はこのままじゃいずれ社会に溶け込めず、職を失くして野垂れ死にしてしまう。お前の人生はそんな感じだ、俺が予想する限り」
これはまた、随分と皮肉な予想だ。
「……ま、でもそれも悪くはない」
僕はうっすらと笑みを浮かべると、嘲るように言う。
「結構僕らしくていいじゃないか。一人で生き、故に社会から拒絶されて一人取り残され、誰とも介することなく野垂れ死にして行く。存外悪いとは思わない」
「お前はそれでいいだろうけどなあ、それで迷惑がかかる人もいるだろうが!」
激情して言う、鞍馬。さっきからコイツは、何のことを言っているんだ。
「……迷惑? 僕は一人で生きているのに、誰が迷惑するって言うんだ?」
「誰って、お前そりゃ――――」
その時僕は、瞬間的に察知した。
この男、鞍馬映二が何を言おうとしているのかを。
そして…………
「“両親”はもちろん、“他の家族”だって――――」
赤茶髪の男の口から、濁った言葉が流れ出した。洪水のように畝って僕の耳に届くその一語一句は、聴覚を著しく刺激し、鼓膜を破り咲いたような感覚が広がった。頭の中見渡す限りに不快感が満ち満ちた。脳がその言葉に汚染されたようにぶすぶすと蝕まれて、激痛が頭蓋に走った。世界が一瞬暗転しては真っ白に焼かれ、激しく明滅し、僕は無意識に視界をすべて腕で振り払った。
気が付くと僕はその場に立ち上がり、肩で息をしていた。
眼前にいるのは、地面に腰から崩れ落ちている鞍馬に、少し離れて驚きの色を表している空野。そんな情報はすぐに脳に入って、そしてすぐに遮断された。
「両親? 家族? なんて言った鞍馬お前、もう一度言ってみろ」
僕は目を見開いて、畳み掛ける。
「両親? 家族? 父親母親? 知らないなあ、僕は一度も聞いた事ないなそんなの」
「お、おい、どうしたんだ橋」
「僕の!」
鞍馬の言葉はもはや耳には届いていなかった。
ただ、自分の言葉を吐き出すだけで精いっぱいだった。
「僕の、僕の両親? そんなものは当に吐き捨てた。知らないな、両親? 母親? 父親? おとう、さん? おかあさん? 記憶にない、そんなもの聞いた事もないし覚えてもいないそんな屑以下の存在欠片も持った覚えはない。何だよ、なんだよそれ、鞍馬おい。何だよ両親って。それが何か僕のためになるとでも思ったのか、ええ?」
「何言ってるんだ橋本、意味が」
「黙れ黙れ黙れ! 知らないな両親なんて知らない! 僕は一人だ! 誰もいない! 僕は一人だ、僕は一人だ、僕は一人だ、僕は一人だ、僕は、僕は、何も――――要らない! 一人でいい! 帰れ! 今すぐ消えろ! 消えちまえ!」
次に目を開けた時、僕は無我夢中で走っていた。途中で人や物にたくさんぶつかった。何度も呼び止められたけど、無視をした。聞こえなかったふりをした。それでも構わなかった。あの忌まわしい存在からすぐにでも逃げ出してしまいたかった。
八年前のあの日。
僕は両親から、捨てられた。
△△
朝学校にやってくると、下駄箱の上履きが片方だけなくなっている。
重い足取りで教室に向かうと、机には油性ペンの落書きが、椅子には画鋲が幾つも置かれている。
机の中にあるはずの教科書がない。
机の横にかけた鞄は窓から放り投げられる。
給食はわざと溢され、掃除は意図的に埃を舞い上げられたり、水をかけられたりする。
ノートのページが全て破られることもあれば、マジックで塗り潰されることもある。
放課後には荷物持ちをさせられ、クラスメートのそれぞれの家まで届けさせられる。
僕は昔から――――小学校一年生の頃からいじめの槍玉とされ、過酷な日々を送っていた。しかもいくら注意されても一向に収まることはなく、とてもタチが悪かった。
僕に安息の瞬間はない。少しでも机に俯こうものなら、頭に水をかけられる。少しでも立って茫としていようものなら、ズボンをずりさげられる。だからといって教室の隅っこで大人しくしていると、何人かで見えないように囲って殴られたり、蹴られたりする。
地元は田舎も田舎超ド田舎で、子どもは遊びに飢えていた。秘密基地を作っても大人に壊されてしまうし、おにごっこやかくれんぼも最初はいいが次第に飽きてくる。そうなると残されたものは一体何なのか。
彼らの中では、「いじめごっこ」という採決が下された。
彼らが僕に行う行為は、あくまで「ごっこ」なのだ。
最初はごっこの名にふさわしく、ちょっと転ばせたりする程度のものだったが、当然それは日を増すごとにエスカレートしていった。しかも幼い故に、彼らは加減というものを知らない。そう、これは遊びだ。彼らはただ純粋な気持ちで「いじめごっこ」に全力で興じているだけなのだ。
結論から言うと、僕はそれで精神も身体もぼろぼろにされた。
毎日家に帰っては虐めの痕がバレないように服や授業道具を洗い、両親や兄にいじめの事実が知られないように明るく気丈に振舞った。我が家は決して裕福とは言えず、両親は共働きで毎日遅く帰ってきていたので、余計な心配をかけたくなかった。十つ年の離れた兄も勉強で忙しそうだったので、迷惑をかけたくなかった。結局、真実は全て自分の中に隠したまま、何に怯えているのか分からないまま生きていくことになってしまった。
そんな日常は約二年間もの間続いた。
転機が訪れたのは小学校三年生の頃。
毎度の事情でクラスメートの荷物を運んでいる途中、僕は道路にふらりと踏み出し、
気付いた時にはかすんだ視界の中に猛進するトラックがあって。
骨を思い切り打ち砕く音が体内外から響いて。
太陽熱で炙られたアスファルトの上に投げ出されて。
付近を歩く人間の叫び声が聞こえた。
僕は交通事故の餌食になった。
目を覚ますと、教室と同じ模様の天井が見えた。
しかし周りは驚くほど殺風景だった。真っ白に塗りたくられた壁には机や棚が整然と置かれ、窓の半分ほどをピンク色のカーテンが隠して光を遮っていた。傍の机には香りのきつい花が置かれていた。汚れた普段着の代わりに薄い青の服を纏っていた。近くに居た看護士に聞くと、ここは教室ではなく病室だということだった。奇跡的に命に別状はなかった。ただ身体を動かすと少し痛みがして、両足は白い布でぐるぐる巻きにされていた。
やがて備え付けのテレビのニュース映像を見て、自分が交通事故に巻き込まれたのだと思い出した。
その直後に身体の中に色々な感情が湧き出した。
いじめから開放された喜び、
家族に迷惑をかけてしまった悲しみ、
自分の身体をこんなことにしたやつらに対する怒り。
その他諸々の思いは若干一三〇センチの男子小学生にはあまりにも大きすぎて、僕は数日間突然泣き出したり、怒り狂ったり、笑い出したりしたらしい。この辺りは後日談。
一週間程度経った頃、僕をいじめていたクラスメートたちが見舞いに来た。皆ばつの悪そうな顔を俯かせ、最初にいじめの主犯だった背の高い野球クラブの男子が涙を流しながら深く頭を下げた。僕はもう特に許す気も許さない気も起こらなかったので返事をせずに眠ったふりをした。寝てると思ったらしい担任の先生は皆で書いたという手紙を机の上に置き、クラスの皆を連れて帰っていった。
誰も居なくなった病室の中、僕は静かに目を開けて、手紙を屑箱に押し込んだ。
その後、完治するには二ヶ月はかかるといわれた。この状態のまま二ヶ月も過ごすのは嫌気が差したが、そんなことも徐々に思わなくなった。両親も短い時間だけど毎日見舞いに来てくれたし、先生や看護士もいい人ばかりで居心地が良かった。担任の話を聞く限り、どうやら退院した後も再びクラスメートがいじめてくることはなさそうだったので、行く末を不安が覆い尽くすことはなかった。その内僕はこれはきっと神様がくれたチャンスだと思い始めて、神様が僕に「新しい人生」をくれたのだと考え、快哉を叫んだ。
そこに霹靂が打たれたのは、入院から一ヶ月が経とうとしている時。僕は怪我の状態が次第に良くなり、車椅子なら病院内の自由行動も許されて備え付けの図書室で読書に耽っていた。そのうちに日が暮れて、病室に戻ろうと病院の廊下に出た、瞬間。
「もう、こんな毎日は、うんざりです」
一つ曲がった先の廊下――僕の病室の前辺りから、女性の声が落ちてきた。
それはとても乾いていて、感情のない声だった。
「お母さん……?」
それが自分の母親の声であることは、何となく分かった。いつもの優しいお母さんの声とはかなり違っていたけれど、本能的に察知した。僕は音を立てようとしたスリッパを制止し、手すりを掴んでゆっくりと廊下を歩く。前に進めば進むほど、女性の声ははっきりと聞こえてきた。
「しかしですね……やはり親としての務めというものもありますし」
「いえ、それでももう限界です」
その次に喋ったのは、渋い声の男性だった。確か、僕の担当の医者の先生だ。その言葉を遮るように、かすれた声の女性――僕のお母さんは搾り出すように言った。お母さんの答えに対して、先生はどこか悩ましげな溜め息を吐いて、言葉を続ける。
「医者としては……、いえ、一人の人間として、私はそのようなことを容認することは出来ません。何故なら、いつか貴方の方がその行為を後悔するということが分かりきっているからです」
「ええ、その後ずっと生きていれば、後悔することもありましょう。だから私たちは、後を追うことにします」
お母さんは「私たち」と言った。ということは、お父さんもそばにいるということだ。普段仕事が忙しくてなかなかお見舞いに来られないお父さんが、今ここに来ている。純粋な当時の僕は、心の中で無邪気に喜んでいた。今すぐに駆け出して、お父さんの胸の内に飛び込んでしまいたかった。
だけど、その後に耳に届いた言葉が、僕を堰き止めた。
「何故、何故そのようなことをなさるんですか」
先生が少し怒りを込めた口調で言ったので、僕は思わず足を止める。
「自由になるためです。あの子を苦しみから解放して、自由にしてあげるためです」
お母さんは嗚咽の混じった声で、懇願するように言う。
お母さんは僕を自由にすると言った。ということはつまり、僕はもう退院できるということなのだろうか。先生が必死になって止める理由は、もしかしたら僕の怪我はまだ完治しておらず、それでもお母さんが連れて帰りたいと言ったからなのだろうか。そう考えると、僕の心は更に高揚した。一人、快哉を叫んだ。
「私からも、お願いします」
直後、お父さんと思われる男性の声が、低く響いた。
「あの子は私からしてもとても愛しい子です。しかし、どうしてもそうしなければならないのです」
お父さんの言葉に、僕は少しだけ違和感を覚えた。意訳すると、「僕のことは愛しいけれど連れて帰らなければならない」となって、矛盾が生じた。もしかしてさっきからお母さんの言っている「行為」とは、単に僕を病院からつれて帰ることではないのかもしれない。でもお母さんは、「僕を自由にしてあげたい」と言っていた。一体、どういうことなのだろう。
僕は息を潜めて壁に張り付き、じっと耳を澄ました。
「……私が何を言った所で、貴方たちの意志はもう変わらないということですか」
「そうです。もう、腹をくくりました。覚悟を決めました」
「たとえ犯罪者扱いされても……いえ、立派な犯罪者ですが、構いません。どうせ、すぐに私たちも後に続いて行くのですから」
お母さんは幾分落ち着きを取り戻したように、言う。
「これが今の私たちに出来る、最良の解決手段なんです」
「将来的に苦しむことになるのなら、できるだけ早くきっかけが欲しかった。折角掴んだ時機を、みすみす逃すつもりはありません」
将来的に、苦しむ? もしかして、僕には後遺症でもあるのだろうか。
僕は角までぎりぎりに近づいて、聴覚に神経を集中させた。
そして、後悔した。
「私たちはあの子を殺します」
足元のリノリウムが昏闇に変わる。頭の中で渦巻いていた腐りかけのものがぶちゅりと踏み潰される。半意図的に視界の中の風景がぐちゃぐちゃに攪拌され、胃袋を握りつぶしたような痛みが身体の奥底から顔を覗かせる。網膜を焼いたように頭蓋の中の思考が停止し、両目の視線が同じ場所を捉えられなくなる。全身の汗腺から一斉に汗が噴出すような感覚に襲われ、僕は屈んで震える足を掴んだ。
殺す? 誰を、お母さんが? お父さんが? 僕が? 誰が? 誰を?
僕を、殺す?
お母さんが、お父さんが、殺す?
誰を?
僕を?
「最初は、何度も悩みました」
「昔から何度も、機会は窺ってきました。でも、あの子の表情を見ていると、罪悪感に駆られて実行に移すことが出来なかったのです」
「しかし、今の状況ならば可能です。なんなら病院食に劇物を混入させても構いませんし、点滴に混ぜてくださっても構いません。とにかく、世の明るみに出ない殺しかたならば何でも構いません」
「今の私たちでは、あの子の世話をするのはこれ以上は無理です」
激しい動悸が小さな身体を襲った。隠れて聞き耳を立てていることを悟られないように、息を殺すので精一杯だった。しばらく何も考えることが出来なかった。様々な感情が頭の中で狂い巡っていて、思考回路がパンクしてしまいそうだった。右手で押さえた口から、ひゅこうと息が漏れる。両足ががくがく震えてうまく立てずに、僕はその場にへたり込んだ。嘔吐感が、身体の底から湧き出してくる。
「人の命を救う医者としては、殺人行為など如何なる理由があろうと絶対許されません」
「ならば私たちが行使してもよいのです。先生は、そのことを黙っていてくださればいいのです」
「その通りです。何も先生が殺すことはない。一瞬の濡れ衣を被るのは、私たちだけでいい。先生はただ目撃者になればいいのです。私たちの一家心中の目撃者に、立会人に」
「しかし…………」
「先生は犯罪者にはなりません。犯罪の罪を被るのは私たちです」
「それに、こうなればこれは私たち家族での問題です。それを抑止する権利は先生にはありません」
「しかし、殺人を行う現場を知っておきながら見逃すことなど」
「別に警察に通報してもらっても構いません。何方道私たちもすぐ死ぬのですから」
少しずつ、頭が正常に働いてきた。俄かには信じられないけど、
どうやら、お父さんとお母さんは僕を殺して、自分たちも死ぬつもりらしい。
――――どうして?
なんで、お父さんとお母さんが僕を殺さないといけないの?
僕は心の中で何度も、返ってこない問いを投げかけた。震える肩を両手で掴みたかったけど、今口から手を離したら、全てを吐き出してしまいそうだった。昼の病院食だけではない。今まで両親と過ごした日々、思い出、記憶、愛、絆…………いままでお父さんとお母さんからもらった全てまでまとめて吐き出してしまって、空っぽになってしまいそうで怖くて、余計に身体が震えた。流れていた汗が急に引いて、張り付くような冷たさが僕を覆った。
大丈夫、大丈夫。
今は何か辛くて、お父さんとお母さんは僕を殺そうとしているけど、きっと話せば納得してくれる。僕はどれだけ辛くても大丈夫だから。一人でも大丈夫だから。そう言えばきっと大丈夫。
僕は頼りない足で立ち上がり、手すりを松葉杖代わりにのろのろと歩く。今すぐに思っていることを言えば、何かのドラマで見たように、お父さんもお母さんも心変わりしてくれるはず。だって、二人は僕のかけがえのない肉親なんだ。その二人を失ってしまうと思うと、僕はとても耐えられなかった。
「どうしてもというのなら……一つだけ、聞かせてください」
僕が三人のいる廊下に顔を覗かせようとした時、先生がぽつりと言った。
「彼を……佑介君を殺すのは、どういう理由があるのですか?」
先生、やめて。聞きたくない。
第六巻が警鐘を鳴らした。それを聞いたら、僕は、
僕は、
僕はもう立
「あの子は、私たちの子ではありません」
僕は廊下に膝を付き、びちゃびちゃと音を立てて“全て”を吐き出した。
それが自分の母親の声であることは、何となく分かった。いつもの優しいお母さんの声とはかなり違っていたけれど、本能的に察知した。僕は音を立てようとしたスリッパを制止し、手すりを掴んでゆっくりと廊下を歩く。前に進めば進むほど、女性の声ははっきりと聞こえてきた。
「しかしですね……やはり親としての務めというものもありますし」
「いえ、それでももう限界です」
その次に喋ったのは、渋い声の男性だった。確か、僕の担当の医者の先生だ。その言葉を遮るように、かすれた声の女性――僕のお母さんは搾り出すように言った。お母さんの答えに対して、先生はどこか悩ましげな溜め息を吐いて、言葉を続ける。
「医者としては……、いえ、一人の人間として、私はそのようなことを容認することは出来ません。何故なら、いつか貴方の方がその行為を後悔するということが分かりきっているからです」
「ええ、その後ずっと生きていれば、後悔することもありましょう。だから私たちは、後を追うことにします」
お母さんは「私たち」と言った。ということは、お父さんもそばにいるということだ。普段仕事が忙しくてなかなかお見舞いに来られないお父さんが、今ここに来ている。純粋な当時の僕は、心の中で無邪気に喜んでいた。今すぐに駆け出して、お父さんの胸の内に飛び込んでしまいたかった。
だけど、その後に耳に届いた言葉が、僕を堰き止めた。
「何故、何故そのようなことをなさるんですか」
先生が少し怒りを込めた口調で言ったので、僕は思わず足を止める。
「自由になるためです。あの子を苦しみから解放して、自由にしてあげるためです」
お母さんは嗚咽の混じった声で、懇願するように言う。
お母さんは僕を自由にすると言った。ということはつまり、僕はもう退院できるということなのだろうか。先生が必死になって止める理由は、もしかしたら僕の怪我はまだ完治しておらず、それでもお母さんが連れて帰りたいと言ったからなのだろうか。そう考えると、僕の心は更に高揚した。一人、快哉を叫んだ。
「私からも、お願いします」
直後、お父さんと思われる男性の声が、低く響いた。
「あの子は私からしてもとても愛しい子です。しかし、どうしてもそうしなければならないのです」
お父さんの言葉に、僕は少しだけ違和感を覚えた。意訳すると、「僕のことは愛しいけれど連れて帰らなければならない」となって、矛盾が生じた。もしかしてさっきからお母さんの言っている「行為」とは、単に僕を病院からつれて帰ることではないのかもしれない。でもお母さんは、「僕を自由にしてあげたい」と言っていた。一体、どういうことなのだろう。
僕は息を潜めて壁に張り付き、じっと耳を澄ました。
「……私が何を言った所で、貴方たちの意志はもう変わらないということですか」
「そうです。もう、腹をくくりました。覚悟を決めました」
「たとえ犯罪者扱いされても……いえ、立派な犯罪者ですが、構いません。どうせ、すぐに私たちも後に続いて行くのですから」
お母さんは幾分落ち着きを取り戻したように、言う。
「これが今の私たちに出来る、最良の解決手段なんです」
「将来的に苦しむことになるのなら、できるだけ早くきっかけが欲しかった。折角掴んだ時機を、みすみす逃すつもりはありません」
将来的に、苦しむ? もしかして、僕には後遺症でもあるのだろうか。
僕は角までぎりぎりに近づいて、聴覚に神経を集中させた。
そして、後悔した。
「私たちはあの子を殺します」
足元のリノリウムが昏闇に変わる。頭の中で渦巻いていた腐りかけのものがぶちゅりと踏み潰される。半意図的に視界の中の風景がぐちゃぐちゃに攪拌され、胃袋を握りつぶしたような痛みが身体の奥底から顔を覗かせる。網膜を焼いたように頭蓋の中の思考が停止し、両目の視線が同じ場所を捉えられなくなる。全身の汗腺から一斉に汗が噴出すような感覚に襲われ、僕は屈んで震える足を掴んだ。
殺す? 誰を、お母さんが? お父さんが? 僕が? 誰が? 誰を?
僕を、殺す?
お母さんが、お父さんが、殺す?
誰を?
僕を?
「最初は、何度も悩みました」
「昔から何度も、機会は窺ってきました。でも、あの子の表情を見ていると、罪悪感に駆られて実行に移すことが出来なかったのです」
「しかし、今の状況ならば可能です。なんなら病院食に劇物を混入させても構いませんし、点滴に混ぜてくださっても構いません。とにかく、世の明るみに出ない殺しかたならば何でも構いません」
「今の私たちでは、あの子の世話をするのはこれ以上は無理です」
激しい動悸が小さな身体を襲った。隠れて聞き耳を立てていることを悟られないように、息を殺すので精一杯だった。しばらく何も考えることが出来なかった。様々な感情が頭の中で狂い巡っていて、思考回路がパンクしてしまいそうだった。右手で押さえた口から、ひゅこうと息が漏れる。両足ががくがく震えてうまく立てずに、僕はその場にへたり込んだ。嘔吐感が、身体の底から湧き出してくる。
「人の命を救う医者としては、殺人行為など如何なる理由があろうと絶対許されません」
「ならば私たちが行使してもよいのです。先生は、そのことを黙っていてくださればいいのです」
「その通りです。何も先生が殺すことはない。一瞬の濡れ衣を被るのは、私たちだけでいい。先生はただ目撃者になればいいのです。私たちの一家心中の目撃者に、立会人に」
「しかし…………」
「先生は犯罪者にはなりません。犯罪の罪を被るのは私たちです」
「それに、こうなればこれは私たち家族での問題です。それを抑止する権利は先生にはありません」
「しかし、殺人を行う現場を知っておきながら見逃すことなど」
「別に警察に通報してもらっても構いません。何方道私たちもすぐ死ぬのですから」
少しずつ、頭が正常に働いてきた。俄かには信じられないけど、
どうやら、お父さんとお母さんは僕を殺して、自分たちも死ぬつもりらしい。
――――どうして?
なんで、お父さんとお母さんが僕を殺さないといけないの?
僕は心の中で何度も、返ってこない問いを投げかけた。震える肩を両手で掴みたかったけど、今口から手を離したら、全てを吐き出してしまいそうだった。昼の病院食だけではない。今まで両親と過ごした日々、思い出、記憶、愛、絆…………いままでお父さんとお母さんからもらった全てまでまとめて吐き出してしまって、空っぽになってしまいそうで怖くて、余計に身体が震えた。流れていた汗が急に引いて、張り付くような冷たさが僕を覆った。
大丈夫、大丈夫。
今は何か辛くて、お父さんとお母さんは僕を殺そうとしているけど、きっと話せば納得してくれる。僕はどれだけ辛くても大丈夫だから。一人でも大丈夫だから。そう言えばきっと大丈夫。
僕は頼りない足で立ち上がり、手すりを松葉杖代わりにのろのろと歩く。今すぐに思っていることを言えば、何かのドラマで見たように、お父さんもお母さんも心変わりしてくれるはず。だって、二人は僕のかけがえのない肉親なんだ。その二人を失ってしまうと思うと、僕はとても耐えられなかった。
「どうしてもというのなら……一つだけ、聞かせてください」
僕が三人のいる廊下に顔を覗かせようとした時、先生がぽつりと言った。
「彼を……佑介君を殺すのは、どういう理由があるのですか?」
先生、やめて。聞きたくない。
第六巻が警鐘を鳴らした。それを聞いたら、僕は、
僕は、
僕はもう立
「あの子は、私たちの子ではありません」
僕は廊下に膝を付き、びちゃびちゃと音を立てて“全て”を吐き出した。
「あの子は私たちの子ではありません」
「捨て子ですらもありません。病院から盗んだ子どもです」
「それでもあの子は、私たちに懐きました」
次に目を覚ました時、そこはもう元の日常ではなかった。
淡い色のカーテン越しに、太陽の光が降り注いだ。僕は人に気付かれない程度に薄く瞼を開け、ぼやけた天井を眺める。意識ははっきりしなかった。病室にたむろする独特な匂いに刺激され、徐々にどっちつかずだった焦点が合わさってくる。僕は魂が抜け落ちたような顔を汚れた手で擦る。
シーツから体を起こすと、傍の椅子には医者の先生が座っていた。
僕の視線に先生は気づき、一瞬目をそらそうとしたけどすぐにこっちを見つめ、そして絶望の淵に立たされたような溜息と共に、静かに、
「君は聡い子だ。何が起こったのか、理解できる……かな」
泣き出した子をなだめるように、先生は静かに、言った。
記憶には鮮明に残っていた。廊下で母親の述懐を立ち聞きして、僕は胃の内容物を吐き出してその場に倒れ込んだ。そのあと駆けつけた先生や看護師さんに病室まで運ばれた。途中見た両親の顔は一切の感情が残されていないように見えた。
「だけどもう、あの子を育てることはできません」
「だからあの子は私たちと共に死ぬんです」
「だって今日は、あの子の誕生日なんだから」
幼い僕は、言った。
「うん、覚えてる。だから何も、言わないで」
後から聞いた話では、僕の瞳は恐ろしいくらいに黒ずんでいたらしい。もちろんそれは状況の生んだ錯覚だとは思うけど、この時既に僕の精神は決壊を始めていた。
先生は何も言わずに、僕の頭に手をやった。
先生の手はごつごつしていて、お父さんの手よりだいぶ堅かった。
「君は強いね、佑介君」
「別に……強くはない。強い人だったら、吐いたりしない」
「そんなことはないよ、私だって昔は吐いたりしたさ」
笑う先生の目は、生気で満ちていた。
「失礼し……あら、佑介君目を覚ましたんですね」
「おお、有田君。ちょうど良い何か、佑介君に温かい飲み物を持ってきてくれ」
先生は病室を覗いた看護師にそう言い、再び僕に向き直る。
その顔から、笑みは失われつつあった。
「さて、佑介君……。今から私の言うことは、誰にも口外してはいけないよ」
真摯に語る先生の目は、小さな涙で満ちていた。
「君は、あんな大人になってはいけない」
強く、強く、語りかける。
「生きるんだ。強く、生きるんだ。そして、自分のことだけを信じるんだ。医者の私がこんなことを言うのはおかしいと思うかもしれないが、他人は信じてはいけない」
僕は茫然としたまま……鼓膜に流れてくる言葉に耳を傾けた。
「いいね。この世の人間なんて、絶対に信じてはいけない。信じられるのは自分だけだ。自分自身で行動が――思考が読めるのは、自分自身だけだ。私は医師という職に就いて、それを嫌というほど思い知らされた。人間なんてのは私利私欲のために動く生き物だ。まだ幼い佑介君に言っても理解に苦しむと思うけど、他人のために尽力する人間なんてそうそういるもんじゃない。私は一応、他人に尽くす一人として今、こうして働いているつもりだ。だけどね佑介君。他人のために尽くしても碌な生活は遅れない。現に私は狂ったような人と毎日山のように接することになっている。こんなことを言うのはその人たちに失礼かもしれない。でもね、これが現実なんだ、佑介君」
先生は静かに、力強く、言葉を紡ぐ。
「大切なことだから、何度も言う。自分だけを信じるんだ、佑介君」
自分だけを信じる。
自分だけを信じる。
その言葉の重みを、当時の僕はまだ理解できていなかった。
だけど、医者の先生の言うことなのだから、決して間違ってはいないのだと悟った。
――――「信じる」って、どういうことなんだろう。
意味が解らずとも、僕はその言葉を胸に強く焼き付けて、生き続けた。
ある日のニュースで若い二人の男女が焼身自殺をした。
ある日のニュースで見覚えのある老夫婦が交通事故で亡くなった。
白黒のフィルムは、単調に回り続けた。
†
そういえば空は青かったのだと、公園のベンチに寝転んでから気づいた。
碌に運動もしていない僕は肩で息をしながら、糸の切れた人形のように木製のベンチへと頽れた。肺が痙攣している感覚に時々息が詰まりそうになって、そのたびに深く息を吐いて胸をなでおろす。日光で照らされた肘掛けは熱い。仰向けになってやけに眩しい太陽を遮りながら、過呼吸患者のように喘ぐ。
「何が――――何が、家族に迷惑かける、だ、畜生」
ぶつ切りの言葉で悪態をつき、僕は頭を押さえたまま横を向く。
「簡単に言うんじゃ、ねえよ……、僕に家族、なん、て、いないに等しい」
いない、と断言はしない。一年に数回顔を合わせる程度だが、僕には年の離れた兄がいる。今は企業を起こしている最中で忙しいらしいので、しばらくは顔を見ることもないだろう。もとより、そこまで仲がいいわけでもない。
「みんな、みんな、いなかった方が良かったんだ。父さんも、母さんも、あいつ、鞍馬も。出会いさえしなかったら良かったんだ。どうして僕の周りには、こうも邪魔な奴が集まるんだ。消えろ、みんな消えろ」
独り言は通りすがる電車の音にかき消され、空に解ける。落ち着きを取り戻して、僕はベンチに深く座り込む。いやに周囲が静かすぎる。列車の走り去った後ということもあって、静寂が強調されているように感じる。虫の音もない沈黙が刷り込まれて、頭の中まで真っ白に塗り潰されていく。何も考えたくないと考えた頭が、白紙に戻される。僕は今、何をしているんだろうか。何かから、逃げているんだろうか。もしくは、何かを追いかけているんだろうか。その何かとは、何なのか。
思考が独り歩きして、僕は茫然と空を見上げる。青ざめた空が見下ろしている。今この瞬間、僕の目の前に蜘蛛の糸が下りてきたならば、僕はそれで首を吊っただろう。
しかし、僕の目の前に降りてきたのは、釈迦の差し伸べるそれではなかった。
「………………羽根?」
ふわりと舞い落ちる、真っ白に澄んだ鳥の羽。
鼓膜をくすぐる、羽ばたきの音。
視線を前に落とすと、鳥に囲まれた少女が、僕の方を向いて立っていた。
「捨て子ですらもありません。病院から盗んだ子どもです」
「それでもあの子は、私たちに懐きました」
次に目を覚ました時、そこはもう元の日常ではなかった。
淡い色のカーテン越しに、太陽の光が降り注いだ。僕は人に気付かれない程度に薄く瞼を開け、ぼやけた天井を眺める。意識ははっきりしなかった。病室にたむろする独特な匂いに刺激され、徐々にどっちつかずだった焦点が合わさってくる。僕は魂が抜け落ちたような顔を汚れた手で擦る。
シーツから体を起こすと、傍の椅子には医者の先生が座っていた。
僕の視線に先生は気づき、一瞬目をそらそうとしたけどすぐにこっちを見つめ、そして絶望の淵に立たされたような溜息と共に、静かに、
「君は聡い子だ。何が起こったのか、理解できる……かな」
泣き出した子をなだめるように、先生は静かに、言った。
記憶には鮮明に残っていた。廊下で母親の述懐を立ち聞きして、僕は胃の内容物を吐き出してその場に倒れ込んだ。そのあと駆けつけた先生や看護師さんに病室まで運ばれた。途中見た両親の顔は一切の感情が残されていないように見えた。
「だけどもう、あの子を育てることはできません」
「だからあの子は私たちと共に死ぬんです」
「だって今日は、あの子の誕生日なんだから」
幼い僕は、言った。
「うん、覚えてる。だから何も、言わないで」
後から聞いた話では、僕の瞳は恐ろしいくらいに黒ずんでいたらしい。もちろんそれは状況の生んだ錯覚だとは思うけど、この時既に僕の精神は決壊を始めていた。
先生は何も言わずに、僕の頭に手をやった。
先生の手はごつごつしていて、お父さんの手よりだいぶ堅かった。
「君は強いね、佑介君」
「別に……強くはない。強い人だったら、吐いたりしない」
「そんなことはないよ、私だって昔は吐いたりしたさ」
笑う先生の目は、生気で満ちていた。
「失礼し……あら、佑介君目を覚ましたんですね」
「おお、有田君。ちょうど良い何か、佑介君に温かい飲み物を持ってきてくれ」
先生は病室を覗いた看護師にそう言い、再び僕に向き直る。
その顔から、笑みは失われつつあった。
「さて、佑介君……。今から私の言うことは、誰にも口外してはいけないよ」
真摯に語る先生の目は、小さな涙で満ちていた。
「君は、あんな大人になってはいけない」
強く、強く、語りかける。
「生きるんだ。強く、生きるんだ。そして、自分のことだけを信じるんだ。医者の私がこんなことを言うのはおかしいと思うかもしれないが、他人は信じてはいけない」
僕は茫然としたまま……鼓膜に流れてくる言葉に耳を傾けた。
「いいね。この世の人間なんて、絶対に信じてはいけない。信じられるのは自分だけだ。自分自身で行動が――思考が読めるのは、自分自身だけだ。私は医師という職に就いて、それを嫌というほど思い知らされた。人間なんてのは私利私欲のために動く生き物だ。まだ幼い佑介君に言っても理解に苦しむと思うけど、他人のために尽力する人間なんてそうそういるもんじゃない。私は一応、他人に尽くす一人として今、こうして働いているつもりだ。だけどね佑介君。他人のために尽くしても碌な生活は遅れない。現に私は狂ったような人と毎日山のように接することになっている。こんなことを言うのはその人たちに失礼かもしれない。でもね、これが現実なんだ、佑介君」
先生は静かに、力強く、言葉を紡ぐ。
「大切なことだから、何度も言う。自分だけを信じるんだ、佑介君」
自分だけを信じる。
自分だけを信じる。
その言葉の重みを、当時の僕はまだ理解できていなかった。
だけど、医者の先生の言うことなのだから、決して間違ってはいないのだと悟った。
――――「信じる」って、どういうことなんだろう。
意味が解らずとも、僕はその言葉を胸に強く焼き付けて、生き続けた。
ある日のニュースで若い二人の男女が焼身自殺をした。
ある日のニュースで見覚えのある老夫婦が交通事故で亡くなった。
白黒のフィルムは、単調に回り続けた。
†
そういえば空は青かったのだと、公園のベンチに寝転んでから気づいた。
碌に運動もしていない僕は肩で息をしながら、糸の切れた人形のように木製のベンチへと頽れた。肺が痙攣している感覚に時々息が詰まりそうになって、そのたびに深く息を吐いて胸をなでおろす。日光で照らされた肘掛けは熱い。仰向けになってやけに眩しい太陽を遮りながら、過呼吸患者のように喘ぐ。
「何が――――何が、家族に迷惑かける、だ、畜生」
ぶつ切りの言葉で悪態をつき、僕は頭を押さえたまま横を向く。
「簡単に言うんじゃ、ねえよ……、僕に家族、なん、て、いないに等しい」
いない、と断言はしない。一年に数回顔を合わせる程度だが、僕には年の離れた兄がいる。今は企業を起こしている最中で忙しいらしいので、しばらくは顔を見ることもないだろう。もとより、そこまで仲がいいわけでもない。
「みんな、みんな、いなかった方が良かったんだ。父さんも、母さんも、あいつ、鞍馬も。出会いさえしなかったら良かったんだ。どうして僕の周りには、こうも邪魔な奴が集まるんだ。消えろ、みんな消えろ」
独り言は通りすがる電車の音にかき消され、空に解ける。落ち着きを取り戻して、僕はベンチに深く座り込む。いやに周囲が静かすぎる。列車の走り去った後ということもあって、静寂が強調されているように感じる。虫の音もない沈黙が刷り込まれて、頭の中まで真っ白に塗り潰されていく。何も考えたくないと考えた頭が、白紙に戻される。僕は今、何をしているんだろうか。何かから、逃げているんだろうか。もしくは、何かを追いかけているんだろうか。その何かとは、何なのか。
思考が独り歩きして、僕は茫然と空を見上げる。青ざめた空が見下ろしている。今この瞬間、僕の目の前に蜘蛛の糸が下りてきたならば、僕はそれで首を吊っただろう。
しかし、僕の目の前に降りてきたのは、釈迦の差し伸べるそれではなかった。
「………………羽根?」
ふわりと舞い落ちる、真っ白に澄んだ鳥の羽。
鼓膜をくすぐる、羽ばたきの音。
視線を前に落とすと、鳥に囲まれた少女が、僕の方を向いて立っていた。
日光を浴びて白みが増した長髪に、何を考えてるか分からない双眸。
丈の合っていないだぼだぼの制服に加え、そこらに従えている烏合の衆。
出会ったのは短時間であれど、それを見間違えるはずはない。
僕のことを見ていたのは、紛れもなくあの空野陽菜だった。
いつから僕のことを見ていた、もしくは後をつけていたのかは分からないが、空野はあたかも今しがた僕を見つけたように、驚きの表情を浮かべている。存在にさえ気づかなかったなんて、一体いつからそこに立っていたんだ。
「あ、えっと、えっと、橋本、くん、です?」
服の袖を握りしめ、妙な日本語でおずおずと尋ねる空野。
僕は答えることなく、再び俯いて息をつく。
正直あの委員長や鞍馬じゃなくて安堵している自分がいる。奴らみたいな人間なら僕を見つけた瞬間、首根っこを掴んで学校まで引きずって行きそうだから、逃げる暇もなかっただろう。その点、僕を見つけたのが空野で良かった。空野なら僕に無理強いをすることも恐らくない。
だが空野が人畜無害だとしても、僕の生きる道において邪魔な奴の一人であることには変わりない。真っ直ぐ進んでいく先にいる人間は、誰もがただの障害物。
僕の生き方を曲げるやつは誰だって、僕の敵だ。
そして、その敵に貸す言葉なんてものは、生憎持ち合わせていない。
空野の周りにいる鳥たちが、音を立てて一斉に飛び立つ。
僕は何も答えずに立ち上がり、肩ほどの背丈しかない空野を背にする。
これ以上ここで休息を取っていても仕方がない。早いところ家に帰るなりして、十分な休養をとる必要がある。しばらく学校を休むことになっても致し方ないだろう。そしてほとぼりが冷めたころ、何食わぬ顔でまた学校に行けばいい。今度は……そうだ、誰も近づかないように毅然とした態度で拒絶すればいい。そうすればきっと、僕に関わろうとする奴はいなくなる。快適な学校生活の完成だ。
「あ、待って、橋本、くん」
僕が歩き出そうとすると、空野が呼び止める。当然振り向かずに自宅の方へと足を進める。放っておいてもあの委員長様や鞍馬が何とかするだろうし、僕が世話を焼く必要はない。
後ろで空野が走っているような音が聞こえるが、気に留めずに帰路に着く。
走り過ぎで棒になった足がふらふらと痛みを訴えるが、我慢して歩みを続ける。僕は背後の足音が聞こえなくなったことを確認すると、横断歩道の前に立ち止まった。昼間だとは言え大通りの交通量は多く、排気ガスで視界が若干霞んでいる。
「……にしても、妙だな」
心がある程度落ち着いたところで、僕は脳裏の疑問を引っ張り出した。
僕はこの公園まで十分ほど、学校から着の身着のままほぼ全力疾走でやって来た。運動神経がないわけではないから、それなりに学校から距離はある。それに住宅地の路地を大分走ったから、それなりに入り組んだ場所に来ているはずだ。
にも、かかわらず。
(……なぜ空野は、僕の近くにまでやってきていた?)
車で来たのだとしても、それならば車の運転手も同伴していなければおかしい。加えて僕が走ってきたのは車の通れない狭さの路地だ。車で追いかけたのならば見失うに違いないから、その可能性は消える。
だとしたら、走ってここまでやって来たとしか思えない。
だが、現時点で早歩きの僕に追いつけていない空野が走っている僕に追いつけるとは到底思えない。そうなると、残されている方法は無い――――
ここまで考えたところで、僕の頭にあの非現実的な台詞がよみがえる。
『私は、空から、来たの、です』
「……まさかな」
馬鹿馬鹿しい。僕は一瞬でも非日常なことを想像した自分を即座に否定した。
そんな可能性があるわけない。何の変哲もない女子高生が空を飛んでくるなんて、もし事実だったら今頃大事件だ。翼も何も生えてない人間に、空を飛べるはずがない。小学生でも分かることだ。ここがライトノベルやゲームの世界だったらそういう可能性も考慮されるかもしれないが、残念ながらここはどうしようもない現実世界だ。僕は思わず苦笑する。
「まさか、って、何、です?」
「いや、大したことじゃない。人間が空を飛ぶのは不可能だって話だ」
「えっと、私、人間、じゃない、です」
「馬鹿か、何言ってるんだお前――――」
違和感を覚え、目を見開く。
周囲の景色に、変わったところは特にない。相変わらず馬鹿みたいに晴れていて、春とは思えない日差しが照りつける。さっきより少しだけ風が強くなった気がする。
だが、僕が今見るべきものは、そんなものではなかった。
違和感は、すぐ隣に立っていた。
「私、天使、です。だから、空、飛べる、です」
僕はまず耳を疑った。あまりに不審に思いすぎて、きっと幻聴でも聞こえたに違いないと推した。その割には鮮明で、しかしか細い声だった。
僕は視線、顔の順に横へ向けていく。
頭の中でどれだけ幻覚だと思い込もうと、視覚は正直にその姿を映す。
「橋本くん、どうして、ここに、いる、です?」
空野は僕の隣――歩行者信号機にもたれるようにして、まるで今までそこで僕が来るのを待っていたかのような笑みを浮かべ、両手を後ろで握って立っていた。
訳が分からない。今、空野は僕の遥か後ろにいるはずじゃないのか。そう思って振り返ってみるが、どっちにしろその姿が見えることはなかった。
横に視線を戻す。
足元に鳥を従えた少女が首を傾げ、僕の返答を待つように佇立している。
今度こそ、疑う余地は残されていなかった。僕が路地裏から大通りに出て来た時には、まだ空野の姿はどこにもなかった。もちろん、空野が今立っている信号機の傍にもだ。だから僕がここまで歩いてきて、息をついている合間に音も立てずやって来たとしか思えない。
だけど、そんな人間離れしたことを、空野がやってのけるとは思えない。
確かに先刻、僕の早歩きについてこれずに、空野はどんどん遠ざかって行った。足音が漸進的に小さくなったのがその証拠だ。
それなのに空野は、僕の横にいる。
息切れ一つなく、何も考えてなさそうな表情を浮かべて。
(……何が何だかわからない)
僕は狐につままれたような気分になった。今日一日で奇妙なことが起こりすぎて、思考回路がショートしかけているのかもしれない。特にこの空野には何回驚かされたか、数えるのも煩わしかった。
渦中の当人は、相変わらず僕の返事を待っているのか、口をわずかに「へ」の字に曲げている。今の状況を分かっているのか、はたはた疑問に思う。
何度目かの溜め息を大きく吐く。
耐えかねた僕は空野の方を向いて、皮肉を込めた詰問をぶつけた。
「逆に訊くが、空野。お前は何の為にここにいるんだ」
丈の合っていないだぼだぼの制服に加え、そこらに従えている烏合の衆。
出会ったのは短時間であれど、それを見間違えるはずはない。
僕のことを見ていたのは、紛れもなくあの空野陽菜だった。
いつから僕のことを見ていた、もしくは後をつけていたのかは分からないが、空野はあたかも今しがた僕を見つけたように、驚きの表情を浮かべている。存在にさえ気づかなかったなんて、一体いつからそこに立っていたんだ。
「あ、えっと、えっと、橋本、くん、です?」
服の袖を握りしめ、妙な日本語でおずおずと尋ねる空野。
僕は答えることなく、再び俯いて息をつく。
正直あの委員長や鞍馬じゃなくて安堵している自分がいる。奴らみたいな人間なら僕を見つけた瞬間、首根っこを掴んで学校まで引きずって行きそうだから、逃げる暇もなかっただろう。その点、僕を見つけたのが空野で良かった。空野なら僕に無理強いをすることも恐らくない。
だが空野が人畜無害だとしても、僕の生きる道において邪魔な奴の一人であることには変わりない。真っ直ぐ進んでいく先にいる人間は、誰もがただの障害物。
僕の生き方を曲げるやつは誰だって、僕の敵だ。
そして、その敵に貸す言葉なんてものは、生憎持ち合わせていない。
空野の周りにいる鳥たちが、音を立てて一斉に飛び立つ。
僕は何も答えずに立ち上がり、肩ほどの背丈しかない空野を背にする。
これ以上ここで休息を取っていても仕方がない。早いところ家に帰るなりして、十分な休養をとる必要がある。しばらく学校を休むことになっても致し方ないだろう。そしてほとぼりが冷めたころ、何食わぬ顔でまた学校に行けばいい。今度は……そうだ、誰も近づかないように毅然とした態度で拒絶すればいい。そうすればきっと、僕に関わろうとする奴はいなくなる。快適な学校生活の完成だ。
「あ、待って、橋本、くん」
僕が歩き出そうとすると、空野が呼び止める。当然振り向かずに自宅の方へと足を進める。放っておいてもあの委員長様や鞍馬が何とかするだろうし、僕が世話を焼く必要はない。
後ろで空野が走っているような音が聞こえるが、気に留めずに帰路に着く。
走り過ぎで棒になった足がふらふらと痛みを訴えるが、我慢して歩みを続ける。僕は背後の足音が聞こえなくなったことを確認すると、横断歩道の前に立ち止まった。昼間だとは言え大通りの交通量は多く、排気ガスで視界が若干霞んでいる。
「……にしても、妙だな」
心がある程度落ち着いたところで、僕は脳裏の疑問を引っ張り出した。
僕はこの公園まで十分ほど、学校から着の身着のままほぼ全力疾走でやって来た。運動神経がないわけではないから、それなりに学校から距離はある。それに住宅地の路地を大分走ったから、それなりに入り組んだ場所に来ているはずだ。
にも、かかわらず。
(……なぜ空野は、僕の近くにまでやってきていた?)
車で来たのだとしても、それならば車の運転手も同伴していなければおかしい。加えて僕が走ってきたのは車の通れない狭さの路地だ。車で追いかけたのならば見失うに違いないから、その可能性は消える。
だとしたら、走ってここまでやって来たとしか思えない。
だが、現時点で早歩きの僕に追いつけていない空野が走っている僕に追いつけるとは到底思えない。そうなると、残されている方法は無い――――
ここまで考えたところで、僕の頭にあの非現実的な台詞がよみがえる。
『私は、空から、来たの、です』
「……まさかな」
馬鹿馬鹿しい。僕は一瞬でも非日常なことを想像した自分を即座に否定した。
そんな可能性があるわけない。何の変哲もない女子高生が空を飛んでくるなんて、もし事実だったら今頃大事件だ。翼も何も生えてない人間に、空を飛べるはずがない。小学生でも分かることだ。ここがライトノベルやゲームの世界だったらそういう可能性も考慮されるかもしれないが、残念ながらここはどうしようもない現実世界だ。僕は思わず苦笑する。
「まさか、って、何、です?」
「いや、大したことじゃない。人間が空を飛ぶのは不可能だって話だ」
「えっと、私、人間、じゃない、です」
「馬鹿か、何言ってるんだお前――――」
違和感を覚え、目を見開く。
周囲の景色に、変わったところは特にない。相変わらず馬鹿みたいに晴れていて、春とは思えない日差しが照りつける。さっきより少しだけ風が強くなった気がする。
だが、僕が今見るべきものは、そんなものではなかった。
違和感は、すぐ隣に立っていた。
「私、天使、です。だから、空、飛べる、です」
僕はまず耳を疑った。あまりに不審に思いすぎて、きっと幻聴でも聞こえたに違いないと推した。その割には鮮明で、しかしか細い声だった。
僕は視線、顔の順に横へ向けていく。
頭の中でどれだけ幻覚だと思い込もうと、視覚は正直にその姿を映す。
「橋本くん、どうして、ここに、いる、です?」
空野は僕の隣――歩行者信号機にもたれるようにして、まるで今までそこで僕が来るのを待っていたかのような笑みを浮かべ、両手を後ろで握って立っていた。
訳が分からない。今、空野は僕の遥か後ろにいるはずじゃないのか。そう思って振り返ってみるが、どっちにしろその姿が見えることはなかった。
横に視線を戻す。
足元に鳥を従えた少女が首を傾げ、僕の返答を待つように佇立している。
今度こそ、疑う余地は残されていなかった。僕が路地裏から大通りに出て来た時には、まだ空野の姿はどこにもなかった。もちろん、空野が今立っている信号機の傍にもだ。だから僕がここまで歩いてきて、息をついている合間に音も立てずやって来たとしか思えない。
だけど、そんな人間離れしたことを、空野がやってのけるとは思えない。
確かに先刻、僕の早歩きについてこれずに、空野はどんどん遠ざかって行った。足音が漸進的に小さくなったのがその証拠だ。
それなのに空野は、僕の横にいる。
息切れ一つなく、何も考えてなさそうな表情を浮かべて。
(……何が何だかわからない)
僕は狐につままれたような気分になった。今日一日で奇妙なことが起こりすぎて、思考回路がショートしかけているのかもしれない。特にこの空野には何回驚かされたか、数えるのも煩わしかった。
渦中の当人は、相変わらず僕の返事を待っているのか、口をわずかに「へ」の字に曲げている。今の状況を分かっているのか、はたはた疑問に思う。
何度目かの溜め息を大きく吐く。
耐えかねた僕は空野の方を向いて、皮肉を込めた詰問をぶつけた。
「逆に訊くが、空野。お前は何の為にここにいるんだ」
歩行者信号が、青色に変わる。
えっ、と小さく声を漏らしてたじろぐ空野。
僕は何も、間違ったことや疾しい事を聞いたわけではない。
鞍馬とかその辺が僕を連れ戻すためにここまでやって来たなら話がつくが、空野がわざわざ僕の元までやってくる理由が見当たらない。それに理由があったところであの場所にいた奴らが空野を遣るとも考えられない。
となると、考えられるのは一つ。連中に見つからないように、何かしらの手段を使ってやって来たとしか考えられない。肝心のその手段は不明のままだが、考えるとキリがないのでこの際それは置いておく。
焦点となるのは、空野に「僕を連れて戻る意志」があるかどうか。
前の言動からして、空野は僕がせんとしていることを理解できてはいない。それならば一番都合がいい。どこまで着いてきたとしても、流石に他人の家に無断で上がり込むようなことはしないだろう。そうすればあとは門前払いすればいいだけだ。
だがもしも、空野が僕を連れ戻そうとしたら、どうするか。物理的な強制力がない以上、空野が僕を引き止めるのは難しい。先刻のようにトリックじみた行為で僕を追いかけてくるだけだったら何ら問題はない。結局行き着く答えは、どちらも同じだ。
こうやって、どんな返事が返ってこようが拒絶しようと考えていた時、
「え、えーっと、」
空野は言った。
「あんまり、分からない、です」
僕は自分の頭の中で、何かが音を立てて千切れる感触を覚えた。
筋道立てて考えていた自分が一気に馬鹿馬鹿しくなった。まともに会話も出来ない人間とキャッチボールを成り立たせようとしている行為が阿呆らしく思えた。思考回路が正常でない生き物に答えを求めたのが愚かだった。
空野は、今、分からないと言った。
何のためにここに来たのか、分からないと言った。
ならばなぜ、空野は今ここにいる? 何のために、空野はここまでやって来た? 僕を連れ戻すとかそういうわけではなく、ただ何となくでここまで辿りついたのか?
疑念は頭の中でせめぎ合って、一つの言葉になる。
「ふざけるな」
僕は苛立ちに顔を引き攣らせながら、低く言った。
「天使だの訳の分からない事を言いながらここまで来た上に、自分がここにいる理由は分からない? 馬鹿げたことを言うのは大概にしろ。いいか空野、僕は今気が立っているんだ。生憎、お前の妄言狂言の類いに耳を傾けている暇は持ち合わせていない」
空野は、何も言わない。
信号機の色の変化に、僕は気付かない。
「僕が求めているのは……誰にも邪魔されない自分だけの世界だ。誰も信じない、誰とも関わらない、僕一人の世界だ。そこへ歩み寄ろうとするのを阻むのならば、空野。僕は誰であろうが手段は選ばないつもりでいる」
僕の足が、白黒の縞模様へと一歩踏み出される。
そこにあるはずの轟音が、僕には聞こえない。
「だから、最後に警告する。もうこれ以上、僕に関わるな。その行為は僕にとって、そしてお前にとっても有益なものじゃない。これは何があっても絶対に変わり得ない事実だ」
「本当にそう思うのならば、貴様は貴様の道を進めばいい」
野太くしゃがれた声が、背中をひっかいた。
「あ、おと…………、じゃなくて、神様、です」
空野の声が、鼓膜を震わせた。
神、様?
「だがその道がどうなるのかを決めるのはお前ではない。だからと言って、陽菜でもなければ、私でもない。運命は最初から決められている。そこから足を踏み外せば待つのは死、進んでゆけばそれなりの壁が待ち受けていよう。貴様は今、その壁の前にいるのだ」
背中に、大きな掌が当てられる。
「その壁をお前がどうするかまでは知らん。壊すもよし、乗り越えるもよし、挙句の果てには壁を通らずに先へ進む道を見つけ出してもよし。だが、貴様に限ってはその壁を超えることを諦める行動は断じて許さん。誰よりもまず、『神』である私がな」
ひどく明瞭な声で、
「お前は、天使に見初められたのだ」
直後、体当たりを喰らったような衝撃を受けて、僕の身体は宙に投げ出された。
鉄の生き物が激しく往来する中へ身を投じられた僕に、驚きを見せる隙はなかった。
痛みはほとんどなかった。断続的に、僕の世界がスローモーションになる。視界はモノクロフィルムのように色褪せ、アスファルトに落ちる僕以外の全てが速度を失くした。身体は大気の中を滑らかに遊泳して、天と地が逆さまになった。無重力に放り出されたように、身体が無意識のうちに動く。呼吸を止めてしまった世界の中、僕は空に手を伸ばしながら地面に堕ちて行く。
それまで背後にあった空間が視界に入ったとき、空野の後ろに一人の男が立っているのが分かった。腰ほどにもある長い白髪を伸ばし、白衣のようなものを纏っている。不健康な肌と口元の髭だけが、白色を呈していなかった。
男の目は、白かった。
空野と男が視界から消える。
色も音も失くしてしまったトーキーの中に、一人取り残される。自分を取り囲んでいる高いビルや汚い車が、幻覚じみて大きく見える。
こんな現象を、何かの本で読んだことがある。小さな子どもの発症率が高い。認識した外界の物の大きさや自分の体の大きさが通常とは異なって感じられることを主症状とする、精神病の一種――――
ああ、そうだ、
「不思議の国の――――アリス」
世界が、息を吹き返す。
えっ、と小さく声を漏らしてたじろぐ空野。
僕は何も、間違ったことや疾しい事を聞いたわけではない。
鞍馬とかその辺が僕を連れ戻すためにここまでやって来たなら話がつくが、空野がわざわざ僕の元までやってくる理由が見当たらない。それに理由があったところであの場所にいた奴らが空野を遣るとも考えられない。
となると、考えられるのは一つ。連中に見つからないように、何かしらの手段を使ってやって来たとしか考えられない。肝心のその手段は不明のままだが、考えるとキリがないのでこの際それは置いておく。
焦点となるのは、空野に「僕を連れて戻る意志」があるかどうか。
前の言動からして、空野は僕がせんとしていることを理解できてはいない。それならば一番都合がいい。どこまで着いてきたとしても、流石に他人の家に無断で上がり込むようなことはしないだろう。そうすればあとは門前払いすればいいだけだ。
だがもしも、空野が僕を連れ戻そうとしたら、どうするか。物理的な強制力がない以上、空野が僕を引き止めるのは難しい。先刻のようにトリックじみた行為で僕を追いかけてくるだけだったら何ら問題はない。結局行き着く答えは、どちらも同じだ。
こうやって、どんな返事が返ってこようが拒絶しようと考えていた時、
「え、えーっと、」
空野は言った。
「あんまり、分からない、です」
僕は自分の頭の中で、何かが音を立てて千切れる感触を覚えた。
筋道立てて考えていた自分が一気に馬鹿馬鹿しくなった。まともに会話も出来ない人間とキャッチボールを成り立たせようとしている行為が阿呆らしく思えた。思考回路が正常でない生き物に答えを求めたのが愚かだった。
空野は、今、分からないと言った。
何のためにここに来たのか、分からないと言った。
ならばなぜ、空野は今ここにいる? 何のために、空野はここまでやって来た? 僕を連れ戻すとかそういうわけではなく、ただ何となくでここまで辿りついたのか?
疑念は頭の中でせめぎ合って、一つの言葉になる。
「ふざけるな」
僕は苛立ちに顔を引き攣らせながら、低く言った。
「天使だの訳の分からない事を言いながらここまで来た上に、自分がここにいる理由は分からない? 馬鹿げたことを言うのは大概にしろ。いいか空野、僕は今気が立っているんだ。生憎、お前の妄言狂言の類いに耳を傾けている暇は持ち合わせていない」
空野は、何も言わない。
信号機の色の変化に、僕は気付かない。
「僕が求めているのは……誰にも邪魔されない自分だけの世界だ。誰も信じない、誰とも関わらない、僕一人の世界だ。そこへ歩み寄ろうとするのを阻むのならば、空野。僕は誰であろうが手段は選ばないつもりでいる」
僕の足が、白黒の縞模様へと一歩踏み出される。
そこにあるはずの轟音が、僕には聞こえない。
「だから、最後に警告する。もうこれ以上、僕に関わるな。その行為は僕にとって、そしてお前にとっても有益なものじゃない。これは何があっても絶対に変わり得ない事実だ」
「本当にそう思うのならば、貴様は貴様の道を進めばいい」
野太くしゃがれた声が、背中をひっかいた。
「あ、おと…………、じゃなくて、神様、です」
空野の声が、鼓膜を震わせた。
神、様?
「だがその道がどうなるのかを決めるのはお前ではない。だからと言って、陽菜でもなければ、私でもない。運命は最初から決められている。そこから足を踏み外せば待つのは死、進んでゆけばそれなりの壁が待ち受けていよう。貴様は今、その壁の前にいるのだ」
背中に、大きな掌が当てられる。
「その壁をお前がどうするかまでは知らん。壊すもよし、乗り越えるもよし、挙句の果てには壁を通らずに先へ進む道を見つけ出してもよし。だが、貴様に限ってはその壁を超えることを諦める行動は断じて許さん。誰よりもまず、『神』である私がな」
ひどく明瞭な声で、
「お前は、天使に見初められたのだ」
直後、体当たりを喰らったような衝撃を受けて、僕の身体は宙に投げ出された。
鉄の生き物が激しく往来する中へ身を投じられた僕に、驚きを見せる隙はなかった。
痛みはほとんどなかった。断続的に、僕の世界がスローモーションになる。視界はモノクロフィルムのように色褪せ、アスファルトに落ちる僕以外の全てが速度を失くした。身体は大気の中を滑らかに遊泳して、天と地が逆さまになった。無重力に放り出されたように、身体が無意識のうちに動く。呼吸を止めてしまった世界の中、僕は空に手を伸ばしながら地面に堕ちて行く。
それまで背後にあった空間が視界に入ったとき、空野の後ろに一人の男が立っているのが分かった。腰ほどにもある長い白髪を伸ばし、白衣のようなものを纏っている。不健康な肌と口元の髭だけが、白色を呈していなかった。
男の目は、白かった。
空野と男が視界から消える。
色も音も失くしてしまったトーキーの中に、一人取り残される。自分を取り囲んでいる高いビルや汚い車が、幻覚じみて大きく見える。
こんな現象を、何かの本で読んだことがある。小さな子どもの発症率が高い。認識した外界の物の大きさや自分の体の大きさが通常とは異なって感じられることを主症状とする、精神病の一種――――
ああ、そうだ、
「不思議の国の――――アリス」
世界が、息を吹き返す。
■
「もういやだ、ぜったいにいやだ」
暗闇が広がっていた。
それは不快感を与えるものではなく、どちらかと言うと安らぎさえ感じる暗闇がそこにはあった。恐らく胎内とはこんな感じなんだろうなと突拍子もないことを考えながら、暗闇の中を漂っている。何も考えずに、ゆらゆらと。
「だれもしんじない、だれもしんじない」
子どもの声が聞こえる。涙交じりに何かを必死に呟いている。
声の聞こえる方に、耳を寄せる。
「いやだ、いやだいやだいやだ」
「何が、一体嫌なんだ?」
囁くように口を開くと、子どもは泣き声を止めた。
「……だれ? だれかそこにいるの?」
「僕の名前は橋本佑介だ。君の名前は?」
するとその子どもは、次第に笑い出した。
「うそだ。そのなまえ、ぜったいにうそだ。うそつきだ、うそつきだ」
「なるほど。君がそう言うのならそうなのかもしれない」
言葉を続ける。
「それで、君の名前は?」
「……ぼくのなまえは、はしもとゆうすけ」
子どもは、僕と全く同じ名前を持っていた。いや、でも彼がその名前を持つのなら、もしかしたら僕は橋本佑介ではないのかもしれない。じゃあ、僕は誰だ?
「だれもしんじない。うそつきはもっとしんじない」
そう言って、彼は口を閉ざした。
何だかおかしくなって、笑ってしまった。
「まるで、いつかの僕を見ているようだ」
「うそつきは、しんじない」
「嘘じゃない。僕だって誰も信じていない。小さいころ医師の先生に諭されて、一人で生きて行くと決めたからな。まるで、君はいつかの僕のようだ」
「……その、せんせいのなまえは?」
「××先生」
「うそだ。だってぼくのせんせいもそのひとだもん」
「嘘じゃない。さっきから僕を嘘吐き扱いするけど、君の方こそ嘘をついているんじゃないのか?」
「うそつきは、しんじない」
話しながら、懐かしい記憶を一つ一つなぞっていった。
「僕は昔、親に捨てられた。その親の本当の子どもじゃなかったからな。その直後に、親族は大体自殺した。病室のテレビでよく見ていたよ。その時にはもう、先生以外誰も信じられなくなってたんじゃないかな」
「やめろ」
「それで、いつの日か先生にこう言われたんだ。この世の人間なんて、絶対に信じてはいけない。信じられるのは自分だけだ。自分自身で行動が――思考が読めるのは、自分自身だけだ」
「やめろ」
“はしもとゆうすけ”の声が、強い怒気を孕む。
「おまえはだれだ、だれなんだ、きえろ、きえろ」
「僕には分かるよ。誰が何と言おうと、君は僕だ」
「きえろ、きえろ」
「やはり昔からずっと変わっていないんだな、僕は。語彙はもう少し増えて、少しはオブラートに包むようになったとは思うけど、相変わらず同じようなことばかり言っている」
「きえろ、きえろ」
「でも、もう少し変わった方がいいかもしれないな」
返答を待たずに言う。
「遠い将来、君はある選択肢にぶつかることになる。それはとても重くて、場合によっては死を招く危険性もある。その時まだ、君のように拒絶反応を示しているままでは、恐らく死を受け入れることになる。だけどそれじゃ僕が困る。君が死んだら僕がいないことになってしまうからな」
彼は何も答えない。
「だから、昔の君に向けて、未来の僕から一つだけアドバイス」
諭すように、ゆっくりと。
「少しずつでもいい。人を信じないなんてことにこだわるのは止めて、もっと世界を積極的に受け入れること。君が体験したことは確かに衝撃的でもう立ち直れないかもしれないけど、僕より前の僕は確かにそこをがんばって乗り越えたんだ。だから君にもできるはず。だって、何よりも先に君は僕なんだからな」
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BI @ @ メTXET lyts ? TNOF @' RSPM ・7 H RSWL ・ ( TXETァ lytsキ TNOFヌ RSPMラ RSWL・ PFTWL
一人の青年と一人の少年が、小さな声で会話をしていた。
僕はその光景を、少し離れた所から見つめていた。闇が蠢く真っ暗な空間だった。その中に二つ灯るようにして、その二人の存在だけは確認できた。
ただ、その二人の事を眺めていた。
彼らが誰なのか、そもそもここはどこなのか。そういう事は考える気もしなかった。
白昼夢のような空間に、僕の意識が吸い取られていたのかもしれない。
もしかしたら僕がその二人を「視」ていたのではなく、視覚がたまたまその二人がいる場所を捉えて映し出しているだけなのかもしれない。
今、僕は無心で、吊り下げられた人形のように立っている。
意識だけは妙にはっきりしている。だけど思考回路はどこかうすぼんやりとしていて、しっかりと物事について考えられない。以前はこういった状況に陥っても冷静に物事の把握を行えたのだが、今ばかりは頭の中が空白で埋め尽くされている。
遠くで話していたらしい二人は、やがて闇に紛れるようにして姿を消した。
瞼を擦って確認するが、そこにはもうシルエットさえも残っていなかった。
一人暗がりの中、僕は静かに息をする。
――ここは一体どこなんだろう。
ようやくそういったことに頭が追い付くようになった。
寝ぼけていたのか、もしくはどこかで頭を打ったのかもしれない。
……頭を、打った?
ああ、思い出した。
そういえば僕は、誰だかわからない男に背中を押されて――――車の行き交う中に放り出されたんだ。もしかしたらその時に車にはね飛ばされて、記憶が断片的にしか残っていないのかもしれない。そんな風に冷静に考えているのが、自分でも異常と感じた。
両手でゆっくりと自分の身体に触れてみるが、目立った痛みはない。背中は「あの時」強く押されたせいで少し痛みが走るが、それ以外は痒みすらなく、血も流れていなかった。
――ここは一体、どこなんだろう。
二度目の問いが駆け巡る。
あの時間が止まったモノクロの世界で、車に轢き殺されそうになったことだけは何となく覚えている。だとしたらこんな左右も分からない空間にいること自体がおかしい。病院で目を覚ますか、二度と目を覚まさないかの二択のはずだ。
だとしたら、ここは。
ここは、大怪我を追って気絶している僕の、眠った意識の中だろうか。
精神的な話になるが、その可能性には得心がいく。
昔読んだ本によれば、人は交通事故などで身体に大きな障害を受けた場合、とても長い夢のようなものを見るらしい。ある人は三日間程度しかその夢を見なかったと言うが、ある人は数年以上もその夢の空間で過ごしたと供述したらしい。メタフィジカルな話はオカルトと同義としてやや軽蔑の眼差しを向けていたが、現状を鑑みれば決してありえない事ではないと確信出来た。
僕の考える仮定が正しければ、現実世界の僕は交通事故によって大怪我を負い、病院に搬送されているに違いない。もし死んでいれば意識も何もかも途絶えるだろうから、その可能性は考えられない。先述したように、僕は死後の世界といったオカルトを信じていない。
そうであるならば今ここにいる僕は、哲学的に言うなら僕の中の精神体、なのだろうか。
確証がないと、どうも腑に落ちない。
頬をつねってみると、痛みを感じた。だとしたら夢ではないのだろうか?
僕が思考を巡らせて考えに考えていた、その時だった。
「ようこそ」
声が聞こえた。はっきりとした、男の声がどこからともなく聞こえてきた。
ふと前を見ると、見知らぬ男が胡坐をかいて、おどけた顔で僕の事を眺めていた。
「……誰だ、お前は」
「誰だ、だって? おいおいとぼけるなよ」
男は大儀そうに立ち上がると、腕を組んで、言う。
「俺は誰でもない、お前だ」
にっ、と恭しい笑顔を浮かべ。
「では改めまして――――ようこそ、二回目の人生へ」
†
橋本が学校を飛び出したという報せは、瞬く間に学校中に広まった。
学校はすぐに手の空いている職員全員に捜索を開始させ、授業は中断されて生徒は一斉下校させられることになった。
自分の学校の生徒が、学校からいなくなった。
とは言え、そこまで重大に考える生徒は少ない。
むしろ一部を除いて、午後の授業が中止になって喜んでいる生徒のほうが多かった。もちろん、心配する生徒の数も少ないというわけではない。自分からすすんで捜索に加わる心優しい者も何人かいた。
だが、一人だけどちらにも属さない生徒がいた。
「出席番号十七番…………」
臨時HRが終わった、教室の中。
彼女が今の状況に対して抱いているのは、喜びでも、憂いでもなく。
「午後の授業をふいにした業、許すまじ!!」
今御堂結花は、鬼のような形相で怒り心頭に発していた。勉学に携わることを至上の喜びとする彼女にとって、授業が中止される、しかも授業を放棄して屋上で駄弁っていた者によってこの事態が引き起こされたとなれば、その怒りは果てしなかった。
「出席番号七番」
「ひっ」
鋭い目が、出席番号七番――――教室を去ろうとしていた鞍馬映二に向けられる。
今御堂はゆらりとした動作で立ち上がると、鞍馬の背後に迫る。
「貴様確か、かの十七番と共に行動をしていたな?」
「……それが何なんだよ」
「つまり貴様は、午後の授業を放棄する羽目になった原因である彼奴と、同罪なわけだ」
「理不尽にもほどがあるだろそれは!! 俺は別に学校から飛び出してねえぞ!?」
「五月蝿い! 貴様に発言権は与えていない」
鞍馬の襟首を引っ張り上げて、今御堂は言い募る。
「貴様には罰として、私の課外授業を受けてもらう」
「か、課外授業!?」
「……全ての元凶である、出席番号十七番を捕らえ、厳重な罰に処することだ」
抵抗していた鞍馬の動きが、大人しくなる。
それを見て、今御堂も強く握り締めていた手を解いた。
「つまり、俺に橋本を捜せと?」
「名前は知らん。出席番号十七番だ」
「だからそれは橋本だって。名前覚えてやれよ」
やれやれこれだから委員長様は、と鞍馬は呆れて溜息を吐く。
「言われなくても捜すさ。橋本のヤロー、あのまま放っておいたら自殺でもしそうだからな。こうやって話してる時間が勿体ねえ。行くならとっとと行こうぜ」
「待て」
教室から飛び出そうとした鞍馬の首根っこを、再び掴む今御堂。
「貴様に……いや、『貴様ら』に課す課外授業は、もう一つある」
「な、何だよ。もったいぶらずに言えよ」
すると、怒りの表情を落ち着けた今御堂は、僅かに顔を曇らせる。
「空野のことだ」