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お題③/俗物フィーリング/53

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 この世に確かな物なんてない。
 ベッドの上に寝転んで、天井を見つめながら思う。
 例えば、数メートルしか見たことない津波が一気に何十メートルの高さになるように、世界一だって明白なボルトがフライングで失格してしまうように、右肩上がりだったドルやユーロがバカみたいに下落するように、外資系に就職した私が単純ミスと上司の不機嫌で退職するように、三年付き合って結婚間近だと思っていた年下の彼氏にフラれるように、この世に確かな物なんて何もない。
 でも、全てに土台はある。津波だって石碑で注意を促されていたし、フライングも一回で失格なんてバカルールがあったせいだし、世界経済はいつか破綻するってマネーゲームが始まった時から言われてきた。それを考案した経済学者はノーベル賞を貰っているって話じゃない、返せよクソが。



 私の作成書類に記載ミスがあって、ギリギリで気付いたから訂正をして事無きを得た。けれど上司にはもちろん気付かれた。
 ミスがあると一々皆の前で声を張り上げて叱る課長とは、最初からソリが合わなかった。その課長が不機嫌な時に(どうせ不倫相手と上手く行かないとか、娘に何か言われたとかそういうプライベートな理由なんだろうけど)、私のミス発見が被って彼は大激怒した。
 こっぴどく叱られた。三十路手前になって叱られるなんて、久しぶりだし、拷問だった。前の課長は穏やかな人で声を荒げる事はなかったし、人の仕事に口出しなんて基本しなかった。そんな人の下に居たから、今の課長の下は辛い。その叱責中に私は切れた。
 何故切れたかよくわからない。
 疲労困憊、神経衰弱、そんなボロボロの状態で課長から、だから女は使えないんだよ、という言葉で切れた。女を切れさせる常套句に私は切れた。そんな言葉今まで何度もかわして来たはずなのに。
「だからって何が理由ですか。女だったら使えないんですか。その使えない女に振り回されてるのは課長でしょう。それに、男だって上手く使えてないじゃないですか」
 よくもまぁそんな言葉がぽんぽん出て来たものだ。普段思っていて喉元で止めていた言葉が堰を切ったように飛び出てきた。
 課長の顔はさらに真っ赤になって、対照的に背景の大きな窓から見える空は真っ白だった。雲が一面に広がっている感じ。赤と白と課長のスーツの灰色。どう見ても日本人体型のくせにイタリア製に無理やり収めこんだ身体が破裂しないだろうか。
 固まった課長の目の前で、私は笑顔ですみません、辞めますと自ら辞意を表明した。そのまま笑顔で自分の席に戻って、簡単に荷物を纏めて全部投げ出して、帰宅した。終始憑き物が取れたような笑顔の私に、課内は騒然とした。


 
 爽快な気分になったのも数日くらいで、その後は失った物の大きさと、自分の精神の脆弱さに嫌になった。
 悪いことは重なるもので、会社を辞めて二日くらい引きこもり、出社して退職願と引継ぎと荷物の引き上げをしたその日に、三歳年下の彼氏から別れて欲しいというメールが来た。彼も就職をして四年目だったし、付き合って三年くらいだったから結婚は目前だと思っていた。だからこそ、すっきりと退職もしてしまったのだ。
 未練がましく、どうして?とメールを返すと好きな人が出来たと、ずっと前から限界を感じていたと返って来た。
 なるほど、それは修復は無理かもしれない。というか、別れ話をメールでするんじゃねぇよ。そう思って、ふと自分もメールで返信したこと、今の今まで彼に退職を告げていなかったことに気付いて、終わってたんだなと納得した。
 でもずっと前から無理だったんなら誕生日に送った時計返せよ。守銭奴が。
 更に泣きっ面に蜂とはこの事で、友達から子供が誕生したと、幸せそうな写メ付きのメールが届いた。自分が不幸のどん底にいる時の他人の幸せほど心を抉るものはない。私は携帯の画面を睨みつけて、ヘッドボードの角に何度も打ちつけた。鈍い音が響いて、六回目でついに画面は砕けた。使い物にならない携帯は床に転がした。
 その時に床、部屋全体が目に入った。
 汚い。
 脱いだ服と洗濯した服が床に混ざり合いながら積み重ねられていて、その横にコンビニの袋やら通販のダンボールやらショッパーやらが散乱している。至る所にペットボトルと酒の空き缶が散りばめられている。小説や雑誌、資料用の紙も散らばっている。テーブルの上には同様にいくつもの缶が並べられている。
 十畳の部屋は足の踏み場が無いくらいに物で溢れていた。
 よくこんな場所で生活出来たものだ。泥棒に入られても泥棒が退散していくだろう。
 会社に着て行ったスーツだけがクローゼットに綺麗に掛けられ、アクセサリーと化粧品はデスクの上の収納箱に詰め込まれ、新品のストッキングとブラウスがダンボールに大量に買い置きしてあった。
 何を、何をしているんだろう。人間性を失って、表面だけ取り繕って、それも簡単に壊れる脆さで。私の人生設計はどこから狂ったんだろう。いや、狂ったのは一年前から、二十八で結婚出来なかった時初めて狂った。
 でもそれにも土台がある。勉強しかせず、頭の良い男に取り入るために処女を捧げた高校時代。サークルを利用しまくって人脈を広げて、留学やらコネやらを奪い取った大学時代。同期を蹴落としたり、上手く立ち回って生き残ってきた社会人時代。
 その全てのツケが今一気に襲い掛かってきたのだ。今相談出来る友達も居ないのに結婚なんてお笑いだ。
 大きく寝返りをうつと左手と左足が勢い良く覆いかぶさってきた。無駄に長い手足は山羊のような肌で爪楊枝のような細さがあって気持ち悪い。肉は消え、老衰死するみたいだ。
 女として終わっている。
 女への侮辱発言で職を失ったくせに私は女として終わっている。ぞっとした。コンプレックスだからこそ切れるのだと。本当に女らしい人はそんな事を言われても切れるはずがないのだ。だって女である事に自信があるから。
 ベッドのスプリングを軋ませて起き上がった。
 薄着に着替えて、ブラにパットを幾つか入れて、付け睫を二重に付けて部屋を出た。
 
 学生時代によく行っていたクラブに入る。数年振りだったから、内装が少し変わっていた。でも、それ以外は全部一緒だった。DJ側に人が集まって、疎らに立っているテーブルに何人かが陣取って話しをしていて、壁に数名が寄りかかって、バーは一つが手渡し作業になって、一つは女と話し込んでいて。薄暗く、爆音が響く。それぞれ場所によって、ここに来た目的がわかる。
 バーでチケットを交換すると壁に寄りかかった。
 不味い酒。屑みたいなシロップとエタノールの味と臭い氷。一口飲んで、すぐに飲むのを止めた。前はよく何杯も飲んで、奢ってもらって、済し崩し的にセックス出来そうな場所はどこででもやったのに。 
 寄りかかる壁は防音効果のためか凸凹していて背中が痛い。一口飲んだだけだったのに、身体が熱い。手持ち無沙汰でもう一口飲んでみたけれど、やはりダメだった。
 一人でいても、誰も話しかけて来ない。こんな虚しい気持ちになるために来たわけじゃないのに。でも、そうだとしたら私は確実に選択を間違っている。ここでは高学歴も、トリリンガルも、数ある資格も、高収入も、全てが無駄で、私を支援はしてくれない。ああ、もう高収入は無いんだっけ。
 泣きそうになって、バーに飲み物を返してトイレに向かった。途中の通路で絡まっている男女を横目に、トイレに入ろうとすると、後ろから押し込まれた。便器の洗浄タンクに抱きつくような形になる。
 後ろに振り向く暇もなく後頭部を掴まれて、そのタンクに押し付けられる。スカートを捲り上げられてパンツを下ろされた。間も無く体内に異物が侵入する。
「ぅあっ……!」
 痛くて、中がひりひりして、熱い。必死に肘鉄をしようと腕を動かしたら、もう一度顔をタンクに叩きつけられた。陶器がおでこに当たり、脳天に響いた。今になって鍵のかかる金属音がした。目の前を白い陶器が覆う。
「抱いてやるだけありがてぇと思えよババア」
 全身から力が抜けた。そうか、私の評価なんてそんなもんか。穴ついてるだけマシぐらいなもんか。
 ごつんごつんと陶器に私の頭はぶつかり続け、男もずっと私の身体を揺らして恥骨をぶつけている。白い陶器の上から赤い血液が流れ落ちてきた。今度は雲と課長じゃなくて、便器と私だ。腰にあった男の手がウエスト辺りを叩く。
「ねーおばさん、ちゃんと締めてくんね?がっばがばなんだけど」
 膣内が分泌液を出し始めた途端これか。本当に私は最下層だな。こんな人種のサラダボウルみたいな場所でも最下層。人種のサラダボウルか、バカみてぇ。そんな事言っている場所が一番で差別的で救えないんだ。これって逆説的。ファッキンアメリカ。
 そう思っているともう一度頭をタンクに叩きつけられた。痛い。後ろから聞いてんのかよババアと聞こえる。聞いててもやりたくねぇんだよボケ。
 この状況、脳内にタンク広がる廃棄物。一句出来たじゃない。意味わからない、言葉のサラダみたい。サルレシアの朝は、鰐が踊る狂宴。大好きなあの子の右手は、散弾銃に射精。あははは、何これ楽しい。
 私の笑い声を聞いて、男の動きが止まった。舌打ちと共に、ずるりと性器が引き抜かれ、男は私を便器に押し出して出て行った。便器に抱きつくように崩れ落ちる。

「チョコチップの床の疫病は、ジョンも蹴り飛ばす。君の破壊の二十一は、今学期に先生と噛み切る。彼女の心のえんがわは、誰もむしゃぶりつけはしない。騎馬戦の屑は、光成の代案ゴシックを反る。あはは、次々思いつくこれ」

 私は便器にキスをして額を拭いた。もう茶色くなった血が手に付く。
 キスをした便器を蹴り飛ばして、パンツをはき直して、トイレから出た。
 ねぇ、現世で拘束されうる金色の家城を、殺した雷鳥を平家物語に投げ、苦みを蓄えて行こう。アイムサタン。
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