どれだけ有能な人間でも、ちょっとしたミスによって失態を犯したりする可能性がある。
故事で言えば弘法も筆の誤り、昨今の出来事で言えば一昨日の世界陸上で、ウサイン・ボルトがまさかのフライングを犯し、得意とする一〇〇メートル走決勝レースに出場できなくなってしまったことが記憶に新しい。いくらその道の雄と呼ばれる人物でも、ちょっとした油断で全てを台無しにすることだってある。
無論、何かに秀でているわけではない僕にそんな言い訳は通用しない。行雲流水、路上をさすらうビニール袋のようにふわふわりと生きてきた僕は特筆できるような趣味特技日常習慣を持たぬまま、とうとう御年が四分の一世紀に到達した。平均寿命の三分の一は使い切ってしまったというのに、大丈夫なのだろうか、僕の人生。まだ息をしてくれているといいけど。
テレビでは毎日のように様々なニュースが流される。時代の流れも無常。韓国のアイドルがお茶の間を席巻しては、五年越しの誘拐事件の捜査が再開されたり、有名映画監督の浮気性を描き、美味しい栗の見分け方なんてのも放映する。僕の人生もこれくらい波乱万丈であれば、もう少し楽しめただろうに。
「ういーふただいまー」
と、僕が奥ゆかしい人生の有様に懊悩している所へ、この部屋のもう一人の住人が帰ってきた。セミロングの茶髪を揺らす彼女ことユウ。僕の彼女である。ややこしい。関係ないことだけど、女性の三人称とマイスウィートの呼称を同じにした日本語にはどういう暗喩があるのだろうか。
「おかえり。今日は何人?」
「七人。もーしんどくて疲れたー」
僕の彼女は平たく言ってしまえばキャバ嬢である。彼女自身は「そんな軽い職業じゃない」と言い張るが、仕事内容を見る限りどう考えてもキャバ嬢である。職についていない僕を養うために彼女が自分から始めたのだけど、僕は二つの意味であまり気が進まなかった。
「今日も早かったね。お誘いは受けなかったの?」
「んあー、三回くらい誘われたけど、全部断っちゃった」
これだけは自慢させてもらうと、僕の彼女は可愛い。これだけは二十余年の人生で胸を張れることの一つだ。テレビに出ている女優よりも可愛いし美しい。時々二次元から飛び出したのかもしれないと勘違いしてしまいそうになる。お誘いと言うのは、勿論仕事先での客のアレなお誘い。普通のキャバ嬢なら喜んで食いつくそうなのだが、彼女だけは全く誘いに乗ろうとしない。この仕事についてから、ずっとだ。
「それは受けなくても大丈夫なの? 相手から嫌われたりしない?」
「大丈夫だって」彼女はヘアゴムで髪をまとめながら言う。「あんたはそこまで心配してくれなくてもいーんだよ。私を信頼してんだろう?」
「まあ、それを言ってしまえば元も子もないけど」
「それじゃ、私を信頼するあんたを、私は信頼する」
「……そりゃどーも」
僕は苦笑しながら、テレビのニュース画面に目を落とす。
本当は、そこまで信頼される身ではないんだけど。
「それに、あんたは私の命の恩人なんだ。だったら死ぬまで尽くすってのが恩義ってもんさ」
「随分と義理堅い人情ですこと」
彼女は孤児だった。両親をなくし、一人彷徨っているところを僕に拾われた。もう何年も前になることだ。それから僕はずっと彼女の紐として、彼女は僕の彼女として(ほら、ややこしくなった)、ずっと一緒に過ごしている。そして今日は、ちょうど五年目の記念日だ。
「ねえ、覚えてる? あの日からもう、五年が経つんだよ」
「あの日? ……あー、カイが私を拾ってくれた日ねー。そっかー、あれからもうそんなに経つのかー。相も変わらずカイは大絶賛ニート中だけどね」
「ニートではなく、働きたくても働けないといって欲しいね」
「はいはい」と、笑いながらユウは缶ビールを二本取り出して、テーブルの上に置く。働けないってのは、まあ、正当化できる理由があるっちゃあるんだけど、これは絶対に彼女には言えない。
「そっか、もうユウもお酒が呑める年齢だっけ」
「仕事先でいくらでも呑んでるんだけどね」
言い合いながら、僕たちはビールを飲み交わす。ユウはいつも一気に飲み干すけど、僕は今日ばかりはちびちびと呑む。これにもれっきとした理由がある。僕たちの記念日を祝ってくれているのか、今日は外も幾分にぎやかだ。僕の心臓も、自然に高鳴っていく気がする。
「今日はビールはあんまり飲まないで、」僕は半分ほど嚥下したところで、彼女に提案する。「記念日って事で、今日はどこか食事にでも行かない?」
「お、いいね」彼女は言う。「それじゃあ準備するから、先に出といていいよ」
「準備のお手伝い、しましょうか?」
「はいはい分かったから先に出ておいてくださいねー」
両手をわきわき動かす僕を無視して彼女は背中を蹴って追い出す。散々な扱いだ。彼女なりの愛だと信じたい。ボロアパートの二階通路の錆が顔に付着して気持ちが悪いし臭い。愛って、臭いんだね。
「……参ったね、こりゃ」
僕は胸ポケットの煙草を取り出し、火を点ける。そしてそのまま彼女を待つことなく、足音を立てないように静かに路地へ歩いた。空には満天の星空が広がっている。きっとこんな空の下、夜景の見える高層ビルのお洒落なレストランなんかで食事すると最高にロマンチックなんだろうな、とガラにもないことを考える。僕にそんな資格はない。
彼女が好きなのは事実だけど、彼女が愛をもっとも注ぐべき存在は僕ではない。見ず知らずで、別に彼女の恩人でもなんでもない僕は情愛を注がれるべき存在ではない。僕はただのニート。彼女は親をなくした女の子。境遇が違いすぎる。彼女はもう僕無しでも立派に生きていける。そう考えた結果の行動だ。携帯電話から印鑑に至るまで、僕の痕跡は既に部屋から消しておいた。彼女がいなくなった僕を追いかけたりしないようにと、念を押すためだ。
こんな小細工をしなくても、自ずから彼女は僕を探さないようになる。
拠り所を失った彼女の心の頼りになる人は、誰もいない。
彼女の外でも内でもない面――――言うなれば彼女の本能、彼女のえんがわには、誰もむしゃぶりつけはしない。ここで「縁側」と寿司ネタの「えんがわ」を掛けたのは、僕のユーモアたっぷりな一面がこんなシリアスな場面に耐えられなかったからに違いない。好きな寿司ネタは雲丹です。
周囲を彩る音声が、生活音から次第にサイレンへと塗り替えられてゆく。僕は一度だけもう見えないアパートのほうを振り向くと、似合わない敬礼をした。
「僕の元彼女が、どうか、幸せな人生を、送れますように」
そう願って、僕は路地裏へと走り出す。
最後に付け加えておくと、僕は良く嘘をつく。もうこれ以上ここにいることは出来ない。ここからは残りの寿命を掛けた僕と一億人の鬼ごっこだ。
彼らはもうすぐそこにまで迫っているのだから。