間もなく、深夜の十一時を回ろうとしている辺りだろうか。
時計を見ていないから正確な時刻は分からない。いっそのこと時が止まってくれないかとも思うのだが、そんなことが叶うはずはないし、今の俺にとってそれは叶ってはならない願いですらあった。
明かりを一切つけず、カーテンを隙間なく閉め切った自室の片隅。俺はそこで膝を抱え、ガクガクと震え上がっていた。
心臓は病的に高鳴り、吐き出す息も不規則で荒々しく、頭や背中は冷たい汗でびっしょりと濡れている。少しでもこの震えを止めようと膝を抱える腕に強く力を込めるのだが、そんなことはなんの意味もなさなかった。
俺はこれから、旅に出ようとしている。
その旅は、決して単純で平凡な旅などではない。それは、ここではない、悠久のように遠くに存在する世界の、さらに遙か彼方の最果てを目指す旅なのだ。
その世界の最果てへの旅路に対し、俺が心底から希求する宿願はただ一つである。
それは、俺の最愛の人――俺の魂の片割れを求める思いだ。
俺は震える手で、床に放り出していた携帯電話を拾う。携帯を開くと同時に、液晶にポウッと光が灯る。そして俺は一枚の写真をそこに映し出した。
そこに映し出されたのは中学生くらいの男女二人。学生の制服に身を包んだ二人は、本当に幸せそうな笑顔を浮かべている。
わざわざ他人行儀に言うのはよそう。
その写真に写されている男子は、他でもない中学一年生の時の俺自身だ。
世慣れしていることを無駄にアピールするように学生服を着崩して、能天気とも能なしとも取れそうな笑顔でピースをする俺。
始めて買ってもらった携帯電話で始めて撮った写真。この日のことは良く覚えている。
今からおよそ四年前。中学校の入学式に向かう直前に俺の家の前で撮った写真なのだ。
そしてその隣にいるのは、黒のロングヘアーに、真っ白な肌が光るように映える少女。彼女の清楚な美しさは、神々しいという表現でさえ相応しく思えるほどである。
彼女はとても照れくさそうにはにかみ(俺が写真を撮ろうと言い出した時、とても恥ずかしそうに顔を赤らめたのも、本当に懐かしくて心地のいい記憶だ)、ぎこちなくピースを形作りながら控え目に、しかし息を飲むほどの存在感を伴いながら佇んでいた。
彼女の名は大島晴香(おおしま・はるか)。
俺の幼馴染であり――俺にとって、それこそ魂の片割れのように大切だった女性である。
この写真を赤の他人に見せたら、さながら甘酸っぱい初々しさを漂わせるカップルに見えるのかもしれない。
実際にそのことで何度も冷やかされたこともあったし、これを理由に蔑みの視線を浴びたこともあった。そして――本当に恋人同士だったことすらもあった。
しかし、今となってはその全てが遠い過去の話である。
晴香は既にこの世にはいない。
他でもないこの俺こそが、晴香を死へと追いやったのだ。
魂の片割れを失った後の、自分が生きていることさえもどうでも良くなるような、絶望を通り越した虚無の日々。
そんな時、奴は嫌らしい笑みと共に突如、俺の目の前に現れたのである。
――叶えたい願いがあるだろう?
――魂の奥底から欲する思いがあるだろう?
――その脆く儚い命を賭してでも果たしたい宿願があるだろう?
――何を隠そうこの私こそが、キミの“宿願”を果たすための道しるべを知る者だ。
――キミの知る絶望の中の絶望でさえ、希望の灯火に思える程の絶望の旅路へ誘うものだ。
――この旅路でキミの向かうべきは世界の最果て。その地に辿り着きし者のみが、森羅万象なる運命の全てを変革しうる力を……キミの求める宿願を果たす力を得るのだ。
奴の、“水先案内人”の声が俺の頭の中にまとわりつくように響き渡る。
シルクハットに燕尾服というふざけた格好をしたそいつは、余りにも悪質にふざけた旅路へと誘ってきたのである。
俺はこの旅路の過酷さについて、的確に描写する言葉を知らない。
空想の世界の中でさえ見たこともないような怪物たちに立ち向かうその旅路。
その声を聞いただけで全身が萎縮し、その姿を見ただけで込み上げる吐き気を押さえられず、その双眸と視線がぶつかるだけでもこの世の終わりを一度に五回も感じるような絶望感を想起させる、そんな怪物の大群の中を永遠に駆けていくような旅路を、一体どうやって表現すれば的確に伝わるのか。少なくとも、浅学な俺には全く検討もつかない。
それでも、何とかありもしない知識を総動員して表現しようとするならばこうなる。
これは、この世のあらゆる類の惨苦が降り注ぐ嵐の中を突き進む旅路である。
かつてこの旅路において、世界の最果てに行き着いた者はいまだかつて存在しない。俺だってきっと、その中の一人になるのだろう。
到達か死滅。
一度この旅路についた者に用意される結末は常にそのどちらかだ。
例えどれほどの絶望を嘆き叫ぼうとも、自らの旅に決着をつけるまでは永遠に孤独に前へと進み続けるしかない。この平和な世界へ逃げて帰ることなど、決して許されないのである。
それが旅人の定め。
正気の沙汰ではない旅である。恐らく百人いたら九十九人が一笑に付すような旅だろう。そもそも、その残りの一人が真剣にこの旅路について考えると想定する方がおかしいくらいだ。
――キミが生きてここに帰ってこられる可能性は、限りなく零に近いと言わざるを得ない。
――だけどそれでも、キミにはどうしても叶えなければならない願いがある。
――自らの望む未来を歩むためにも、この血塗られた旅路を歩むための覚悟がある。
――己の身に降りかかる死の恐怖にすら、真正面から立ち向かおうとする勇気がある。
――ならば踏み超えるといい。絶対なる零という絶望を踏破してキミの宿願を遂げるんだ。
水先案内人の舌先三寸が、悪魔的な笑みとともに俺の意志を無責任に後押しする。
もちろん俺は、自分の意思でこの旅路に着こうとしている。
しかし、俺の本能はそれを狂おしいまでに拒絶するのだ。首を絞められて暴れ狂う獣のような本能を、意思という名の重石で上から無理やりに押さえつける心理状態。
俺はこの背反を恥ずべきことだと思っているが、しかし同時にこうも思うのである。
果たしてこの世界のどこに、絞首台へと歩いて行くことに恐怖しない囚人がいるだろうか?
それほどまでに、これから俺のなそうとしていることが恐ろしいのだ。俺がこれまで生きてきた決して平坦でなかった十六年間の人生ですら、この恐怖の前に霞んでしまいそうだった。
そのような心境の中では、今、自分を包んでいるこの部屋の中の闇でさえ恐ろしく思える。
明かりをつければいいじゃないか。能天気な誰かがそんなことを言うかもしれない。しかしそんなことをしてしまえば、俺はこの恐怖から逃げ出したことになるのだ。
しかしその恐怖は、今までの俺だったら、余りにも耐え難いものであったに違いなかった。今の俺でさえ、今すぐにでも逃げ出したいと強く思うのだから。
この闇は、まるで自分自身の凄惨な死を暗喩しているようなのだ。
つま先から少しずつ蝕まれ、やがては自分自身が闇という死の暗喩の中に消えてなくなってしまうような錯覚。
俺が俺でなくなる――いや、俺でなくなった俺を俺自身で知覚することすら出来なくなるという、途方もないほどに恐ろしい消滅。
第三者から見た俺は、そんな恐ろしい有様になろうとしている自殺志願者であるに違いない。そしてその中でも特に悪趣味で破滅的な人間であるに違いない。
それは一人では到底背負いきれないような恐怖だった。しかし、それを共有してくれる相手は誰一人として存在しない。そもそもの話、そんなグロテスクな恐怖を共有してくれる人間が、一体この世のどこにいるというのだろうか。
そして思うに、自分自身の凄惨な死、その暗喩と真っ向から向き合うことも出来ないような人間に、自らおぞましい死を選ぶような旅に出るなんてことが出来はしない。
だから俺は、震える五体を自覚しながらも、必死になって耐え抜くのである。
――今から二週間後に訪れる満月の夜。旅立ちへの扉はその時にこそ開かれる。
――キミが最果てへの第一歩を踏みしめようと思うのならば、ボクのところに来るといい。
――絶対なる絶望に満ちた、宿願へ連なるただ一つの道へとキミを誘おう。
かつて世界は美しかった。
世界はかくも美しいことを晴香によって知ったあの日から、俺は晴香と共にその美しい世界の中で生きてきた。それはまるで賛美歌の中で軽やかに踊るように素晴らしく、そんな世界の中で晴香と共に手を取りあって生きる俺は例えようもない程に幸せだった。
しかし鮮やかだった世界はやがて色あせてくすんでゆき、染みほどの跡形もなく闇の中へと消えてしまった。
その日から俺は、俺にとっての生きる意味をなくしたのだ。俺はこれまでの日を、全ての光が閉ざされた世界の中を不感症の患者が漂うように生きてきた。
全てがどうでもよかった。
ただ自分から死ぬ理由がないという理由だけで生きてきた。
そんな俺が、これから死へと向かうような旅に出る。久しく忘れていた死への恐怖が、圧倒的な臨場感を持ってして、不感症だった俺の本能を震え上がらせる。
宿願が俺の行く先にあるのかも知れないという希望と、そこに至るまでの余りにも濃密な絶望。そして、宿願への可能性を行く先に感じながらも、その途上で無残に命を落とすことがほぼ確定ししているという、更なる絶望。
恐らくこの旅路に、完全なるハッピーエンドなどは決して有り得ないのである。
「乗り越えてやるんだ……!」
それでも俺は、俺の存在を確固として打ち立てるように、強い意志を持ってして呟く。
しかし、その声は余りにも小さく、ちょっとした衝撃だけで砂上の楼閣のように、脆くも崩れ落ちてしまいそうだった。
決意と怯惰のアンビバレント。この旅立ちにあたって、それは是が非でも克服されなければならない命題だった。この命題の克服のないことには、俺の生還は決してありえない。少なくとも俺はそう確信しているのである。
「こんな恐怖、乗り越えてやるんだ……!」
その為に、俺がこれからすべきことは何か。そう考えた時、俺の中ではもはや自明だった。
克明に思い返すのだ。
晴香と共に生きてきた美しい世界を。
晴香と共に灰色にくすませていったかつて美しかった世界を。
晴香がいなくなった後のモノクロームに包まれた失われた後の世界を。
だから俺はこれから思い返そうと思う。
俺が今日まで生きてきた日々を。
俺が今日まで歩んできた世界を。
俺が今日まで刻んできた感情を。
これから俺が語ることは決してハッピーエンドに連なる物語などではない。
その後に俺が成すことは決してハッピーエンドに至るための物語足り得ない。
ただ、自らの宿願の為に、約束されたバットエンドに向けて歩む決意をするための物語だ。
そんな救いのない物語を、俺は今敢えて語りたいと思うのである。
旅立ちへの第一歩を踏みしめるために。