一晩中叩きつけるように降り続けた雨は、すっかり森を濡らしつくしてしまった。草木には滴が残り、風が吹くたびに彼らは飛び散っている。
翌日、昼すぎにようやく太陽が顔を覗くと、私は祖母の古い長靴を借りて森へと向かった。ただでさえ狭い散歩道を、泥濘を避けながら奥深く、小屋がある方へと向かう。濡れた小屋の中には、腰を下ろして少女が一人イヤホンで音楽を聞いていた。
「床、濡れてるのに尻餅なんてよくつけるね。」私は揚羽を見下ろしながら言った。
「昨日の帰りはもっとお尻が汚れるどころじゃなかったからね。私も和子さんも、傘を差してたのに全身びしょ濡れ。それと比べれば大したことないよ。」
片方のイヤホンを耳から外し、揚羽はそのコードを指で投げ縄のようにくるくる回しながら私の方を見た。
「……どういう心境の変化?」責めるようで、怖がるような声で揚羽は私に尋ねた。
「昨日はごめんなさい。無視し続けたのはひどかったと自分でも思ってる。」
「気にしなくてもいいよ……シカトされるだけのことを私はやった。それは分かってる。」
アゲハトハ、ナカヨクナッタ?―――
和子さんの言葉に返事を詰まらせていた私のために、揚羽は嘘をついてくれた。実際には行われなかった会話を捏造し、言葉巧みに大人たちに私から無視された事実を隠ぺいした。
私は本当のことは何も言えず、揚羽の言うことに適当に合わせた。嘘に合わせた際のぎこちなさは、父らには初対面故のまだ打ち解けきれてない様子に映ったようだった。
揚羽を無視したことが知られれば、私は父に怒られただろう。ほっとした反面、私は私が傷つけてしまった彼女の嘘に救われ、かろうじて体裁を保ったことへの自己嫌悪に陥った。
「確かにあなたは、私にここでいやらしいことをした。けれど、だからと言ってああやって無視したのは人として良くなかったと思う。」俯きながら私は言った。
「自分に厳しいんだね。」
「自分がしたことを棚に上げて、あなたを責める権利はないと気づいただけよ。あと、昨日はありがとう。」
「なんのこと?」揚羽は首を傾げた。
「和子さんに、私があなたに構ってあげたことにしてくれたこと。」
「ああ、あれね。ああでもしないと、君は怒られるから。」
「でもあなたにしてみれば、別にあなたを無視した私をかばう必要はなかったよね。無視されて嫌だったでしょ?」
「私が困るんだ。私が。」た
そう言うと揚羽は息を深く吸い込むように少し黙り込んだ。そして、大きなため息を吐くように話を続けた。
「君に無視されたことがバレるイコール、私が君にいかがわしいことをしたのがバレるってことだからさ。ただでさえ、私は問題児としてこの村にやって来たんだ。そんなことやったのが知れたらこの村にますます居づらくなるよ。」
「この村での生活が嫌なの?」
「……東京にいた頃よりはマシさ。でも、村の人たちが学校に行かない子供を見る目がまちまちでさ、冷たい目だったり、哀れむような目だったり……どちらにせよ私には辛いよ。和子さんは優しいけど、やっぱりあの人も私は可哀そうな子として見ているんだ。」
「それでも、あなたはここにいるのは、よっぽど東京で嫌な思いをしたのね。」
「うん……。どういう目で見ようが、ここでは誰も私が存在することに文句を言う人がいないから。君は私をどう思う?」
私は彼女の問いへの答えを慎重に考えた。言葉次第では、彼女を傷つけてしまう。かといって、嘘を言えばまた自分自身を嫌悪してしまうだろう。しかしながら、上手な言葉は見つからなかった。
「……人のおっぱい触る変態さん。」少し可愛いらしい声を作って、なるべくソフトに私は言った。
「まぁ、事実だから仕方がないね。ごめんね。」揚羽は虚を突かれたような顔で答え、質問を続けた。
「じゃあさ、同性愛についてどう思う?」
「異性愛についても私、全然理解できないの。そもそも、人を好きになったことがないし。」
「どっちも理解できないってこと?」
「そういうこと」と言って私は静かに頷いた。「でも、好きになるって感情は理解できないけど、なんとなく想像はできる。友情の延長線上にあるようなものでしょ?」
「そうとも言えるけど、そこには性欲があるんだ。」そう言うと、揚羽は遠くにあるものを見るような表情で少し黙り込んだ。雨に濡れた木材の臭いが、小屋の中を漂っている。気づけば雨が止み、日の光が差しだしたことで蝉が鳴きだし始めていた。
「愛してしまうと、その想いは友達としての『好き』とは違ってくる。相手の胸とかあそことか……触りたいと思うようになってしまう。」
「どうして?」
「上手くは説明できないけど、友達としてなら絶対許してもらえないことを、してみたいと思うようになるんだ。相手にそれを許してもらいたい、受け入れてほしいってね。」
「それが『性欲』?」
「厳密にはそうじゃないかもしれないけど……」そう言うと彼女は唇を噛むように口を閉ざした。蝉が、土砂降りのような激しい声で鳴いている。
「じゃああなたは、私が好きだからいやらしいことをしたの?初対面の私に。」
「好きだから、じゃない。」揚羽は言う。「君が、村に来たことは知っていた。だから、私は会わないようにここにいたんだ。歳の近いの女の子には会いたくなかった。いやらしいこと、したくなっちゃうから。」
私は彼女の言っている言葉の意味が分からなかった。正確には、どうしてそういう思考に至ってしまうかが分からなかった。なぜ、歳の近い女の子に遭うと、いやらしいことがしたくなるのか。その発想は、もはや痴漢や強姦魔と同じだ。
「ちょっと長くなるけど、話していい?私がこうなっちゃった経緯。」そう言った揚羽の目には、涙が浮かんでいた。
「うん、聞くよ。」私は彼女にハンカチを差出しながら、彼女の申し出を受け入れた。私は彼女と言う生き物がよく分からなかった。彼女の言う愛も、性欲も、何もかもが私と遠く離れた場所にあった。
ピーターパンと私
○
一年前、尾野揚羽は都内の中高一貫の私立の女子校の中等部に通っていた。
当時の彼女は、周囲から見て、そして彼女自身から見てもいたって普通の少女だった。強いて言えば、年相応に他の思春期の少女たちが色気づく一方で、揚羽は洒落っ気もなく、色恋沙汰にも興味のない点で彼女は周りと違っていた。
彼女の髪は当時から短かった。長いとテニスをするときに邪魔だというのがその理由だった。当時の彼女の享楽のほとんどがテニスと競技にあった。小学校からテニススクールに通っていた揚羽は入部早々中等部の硬式テニス部の有力選手となり、初めて出場した都大会では、一年生ながら団体戦のメンバーにも選ばれ、個人においても上位入賞する活躍を見せた。
ある日、揚羽は一学年上のテニス部員から告白を受けた。その上級生は、テニス部の中でも上位の実力者で、団体戦で揚羽とダブルスを組んでいた。背は彼女より少し高く、毎日太陽の下でラケットを振っているとは思えないほど色が白く、丸みを帯びた身体をしていた。目鼻立ちは小さく整っていて、清楚で美しい印象があった。色黒で華奢な、少女らしい発育のない身体の揚羽とは対照的だった。
揚羽は、彼女の通っていた女子校では人気者だった。それは運動部のエースの男子部員が、校内の女子たちの羨望の的になるような人気で、男子のいない女子校で揚羽は生徒たちからその役目に当てはめられていた。身体つきは女らしくはないが、華奢で色が黒く、中世的な顔立ちの揚羽は、一見すれば美少年のようであり、テニスが上手かったことも相成り、流行っていたテニス漫画になぞらえ陰では「テニスの王子様」と呼ばれていた。揚羽自身はその扱いには戸惑っていたものの、周囲の熱狂ぶりはお構いなしだった。そして、遂に同棲であるかの彼女に恋愛感情を抱くものまで現れたのだ。
その時揚羽はテニス以外の事柄に興味がなく、恋愛、ましてや同性愛を受け入れられるような気分ではなかった。ダブルスのパートナーとして、親しくさせてもらっている先輩で人としての好意はあったものの、恋愛感情には結びつかなかった。恋愛感情とは離れたところにいた揚羽ではあったが、先輩後輩の関係が崩れる覚悟で、しかも同性愛を告白するには相当の覚悟が必要だということは彼女なりに想像できた。それを考えると揚羽はその上級生の気持ちを無下にはできず、形としては「フッた」ものの、先輩の想いを真摯に受け止め、結果としては彼女ら二人の関係は先輩後輩の関係としてそれまで以上に深くなることになった。
そんな彼女たち二人の関係に、一つの転機が訪れた。猛暑の襲われたその夏、揚羽は練習中にフットワークを乱して膝を負傷した。靭帯が断裂していた。揚羽の怪我は彼女の日常から一時的にテニスを奪ってしまった。テニスは彼女の享楽であり、それができなくなったことへのショックに彼女は落ち込んでいた。しかし、それだけではない、と彼女は気付いてしまうこととなる。
当時二年の揚羽は、三年生、つまりは彼女に告白した先輩が引退する最後の夏の大会へ並々ならぬ熱意を持っていた。その先輩が彼女を愛してくれたという事実は、恋愛関係としての交際を断ったものの揚羽の中では嬉しいことだった。自分の存在を、自分以外の誰かに強く求められた喜びは、その上級生を特別な存在へと変えた。しかしながら、恋愛関係という構図に揚羽は先輩を当てはめられずにいた。彼女への感情が恋かどうか揚羽には分からなかった。同性愛への躊躇い以前に、それは友情や敬意と同質なもので、俗にいう恋愛感情とは違うものであると当の彼女がみなしていた以上、彼女たち二人の関係がそれ以上進展することはありえなかった。上級生の愛が嬉しかったのは事実ではあったが、あくまでも揚羽にとってはその上級生とはテニス部の先輩後輩でしかなく、テニス部を離れれば交友の機会はほとんどなく、あくまでも二人はテニスを通じた関係だったのだ。
揚羽の負傷はテニスという、先輩と彼女のたった一つの接点の消失を意味していた。復帰不可能の重傷ではなかったものの、先輩が引退する最後の大会には間に合わない。
失意の揚羽だったが、このまま全てが終わってしまうのは嫌だと、松葉杖をつきながら練習を見学しに部活に一度訪れた。プレーができないならせめて雑務で貢献しようしても、歩くことさえままならぬ彼女にはボール拾いも用具の片づけもできない。揚羽は先輩が必死に汗を流すコートを逃げ出すように離れ、体育倉庫に籠って見つからないように一人で涙を流していた。そこに、先輩が現れた。
練習中に揚羽のもとへやってきた先輩の顔を見て、揚羽は全てを理解した。先輩は変わらず彼女を愛していたこと、そして彼女の先輩への感情が、愛というものだということを。
体育倉庫の片隅で泣く揚羽を先輩は抱きしめ、その唇と唇を重ねた。近付く顔から、もう共に流せない汗の酸っぱい臭いがした。そのまま先輩の暖かい舌が彼女の中へ入り、言葉のない世界で二人は意識が遠のくほど長いキスをした。
やがて先輩は揚羽のセーラー服に手を伸ばし、彼女の小ぶりな胸を手のひらで覆った。躊躇は、もうなかった。揚羽はこのまま先輩に殺されたとしても嬉しいくらいだった。先輩が彼女にした、している、これからすること全てが先輩の愛そのものであり、それを己の肉体で受け止められることへの多幸感に揚羽は酔いしれていた。
先輩の指先や舌が、彼女の肌を撫でる感触。吐息に混じった「好き」という言葉。そして太陽の熱とは違う、優しく暖かな体温。五感で感じる愛は、揚羽に一生忘れられないほどの高揚をもたらした―――
○
「以上、私と先輩のとろけるように熱いラブストーリーでした。」揚羽はおどけた声を無理矢理作って言った。
「で、感想は?」と見当はずれな質問を投げかける揚羽に、答えることは何もなかった。沈黙。そして重なる沈黙。
「言いたくないなら、これでハッピーエンドということでもいいけど。」私は言う。小屋が少し暗くなる。太陽が雲にまた隠れたようだった。
「ハッピーエンドなら、今も私は先輩とよろしくやってるんだけどね。」揚羽は力のない声で答えた。
「ほんと、無理して言うことはないよ。私、ほとんどあなたと初対面のようなものだし。あなたの心に踏み込む権利なんて私にはないから。」
「うん。ごめん、でも続けさせて。」掠れるような声だったが、はっきりと聞こえた。気が付けば、蝉が鳴くのを止んでいた。
「結局、その後私は先輩と付き合いだした。デートもしたし、エッチなこともたくさんした。それまでは宝塚の男役みたいにちやほやされた私だったけど、いざ女同士で付き合いだすと周りから白い目も合ってさ。でもそれはよかったんだ。先輩がいたし。先輩が私の傍にいてくれる間は、私は何があっても幸せだった。でも……。」
私はじっと黙って彼女の話を聞いていた。弱弱しかった揚羽の声は、だんたんと自棄になったように大きくなっていく。
「先輩の親は、理解してくれなかったんだ。先輩のお父さんからある日『娘と関わるな!汚らわしい!』ってさ、電話がかかってきたんだ。それっきり、先輩は私に会ってくれなかった。けっこう厳しい親だったらしくてさ……そんなことはいいよ。私は先輩と一緒にいたかったけど、先輩はそれ以来私に会ってくれなかった。卒業するちょっと前のことだったよ。高等部に上がらずに、他の高校に進学しちゃったんだ。」
「……うん。」
「その時には私は学校でも、部活でも百眼視される存在になってたよ。レズビアン。普通じゃないって。もう友達はいなかった。学校に行っても私は気持ち悪がられて、無視されるだけだった。でも、一人だけ、私に話しかけてくれる子がいたんだ。」
ぱらぱらと、外で雨が降り出した。
「その頃からオナニーしだしてさ。昨日も和子さんに気づかれないようにしてた。……引かないでね?」
「気にしないで。ちゃんと聞いてるから。」
「初めは先輩のこと考えてしてたけど、彼女が話しかけてくれるようになってからは彼女のこと考えてオナニーしてた。大人しくて目立たないけど、お人形さんみたいに髪が長くて小っちゃくて、かわいい子でさ。彼女もいじめられっ子で、ひとりぼっちだったんだ。純粋に、私と仲良くしたかったんだろうね。でも、私は彼女を呼び出して、無理矢理押し倒しちゃったの……。」
雨が降っているとき、誰かが泣いているんだ―――そんなことを誰かが言っていたのを思い出した。激しい雨音に混じって、揚羽の嗚咽が聞こえてくる。
「……彼女としたくて……してほしくて……こんな私を受け入れてほしくて……私病気なんだと思う……先輩としてから、あの感じが忘れられなくて、いっつもいやらしいことしたいって考えちゃうんだ……その子はさ、初めは抵抗したんだけど、諦めるように私のされるがままになって、私はそのまま彼女を穢した。罪悪感はあったけど、体が止まらなかった……そのことが知られて私は停学になって、そのまま学校に行かなくなった。それから同年代の子としばらく会わないようにって、この村に来た。でも君が来て……。約束したんだ。和子さんと。絶対にこういうことはしないって。私、和子さんの前ではいい子にしてたから、彼女は私を信用してくれた。でも、私はしちゃった。君とも、しようと……。」
雷と豪雨が、古びた小屋を激しく打つ。愚かに、哀れに、涙ながら懺悔をする揚羽を、私は気が付けば抱きしめていた。自分を穢そうとした、異常なまでに性欲に支配された彼女を。
「やめてよ……そんなことしたら、また私……」その手は、行き場を失った猫のように、彷徨い震えていた。
「雨が降っていて、傘も持たずにびしょ濡れになってる人がいたら、傘を差しだしたくなるでしょ?」
「え?」
「なんでもない、忘れて。」
揚羽の体の、ひんやりとした感触が私の手のひらに何かを訴えかけていた。
震える揚羽の手は、初めて会った日のように私の体を求めていた。また私の胸に触れようとしていた。それでも、彼女はできなかった。彼女は彼女なりに、私が彼女を抱きしめた意味を理解していたからだ。
抱擁は、無意識の行動だった。思えば、私を辱めようとした揚羽に体を預ける義理はない。抱きしめながらも、私は揚羽のことが怖かったし、このまま彼女に押し倒されるのではないかという不安に苛まれていた。しかし、私は段々と理解していく。
彼女は私の腕の中で、彼女の胸の奥にある何かと戦っているように泣いていた。私を求める彼女の手は、欲望を押さえつけるように震えていた。誰かに受け入られたい―――それが彼女が他人に求める全てで、その想いごと彼女を突き動かす衝動を封じ込めるために、揚羽は年寄りばかりのこの村へやってきた。彼女を受け入れようとする誰かを、傷つけないように。受け入れてくれる誰かに、会わないように。
雨はまだ降り続いていた。先ほどと比べれば、雨脚は大分落ち着いていた。
「もういいよ。」
雨に呼応するように、揚羽は落ち着きを取り戻し私が絡めた腕を離した。
「まだ大丈夫じゃないけど、ずっとこうしてるわけにもいかないし……」揚羽は私から離れると、立ち上がり窓から外を見上げた。
「でも、まだ降ってるね。さあ、どうしようか。びしょ濡れになりながら二人で帰る?」
ピークは過ぎたとはいえ、雨だれは絶えずしっかりと地面を打ち続けていた。
「もう少し、収まるのを待たない?」
「そうだろうね。もっと雨が弱くなったら急いで帰ろうか。……じゃあそれまで何しよう?」
「何をすると言われても……じゃあ、アレやらない?」
そう言うと私は、拳を二つ突き出し、おもむろに親指を上げて揚羽に見せる。
「『いっせっせーの』?」
「そう。分かる?」
「分かるけどさ……うーん……」そう言いながら、揚羽も両こぶしを突き出す。『いっせっせーの』。数人で集まって、親指を立てながら順番に数字を言い合い、数字と上げられた親指の数が合っていれば勝ちと言う子供の遊び。揚羽はあまりやりたそうに見えなかったが、かといって本当にすることがない。渋々と、彼女は声を上げる。
「いっせっせーの、いち!」
乾いた声に釣られる、一本の親指が頭を上げた。それは私の右手の親指だった。親指を上げなかった揚羽は、少し得意げな顔で私を見ている。
「はい、あと一回で私の勝ち。次は君の番。」
つまらなそうな顔をしておきながら、少しいい気になっている揚羽の表情に、思わず私は熱くなった。声に力がこもる。
「じゃあ、いっせっせーの、ゼロ!……あっ……」
しかし意気込み虚しく、私の視線の先には全てを見透かしたように上げられた揚羽の左手親指があった。
「私、これで負けたことないんだよね。」
まるで、私では相手にならないと言わんばかりに、揚羽は勝ち誇った顔をする。特別私は負けず嫌いな性質ではないが、馬鹿にされるような態度をされるのは気に入らない。しかし、言葉通り揚羽は強かった。何連勝だったかも分からないほど彼女は勝ち続け、「いい加減やめよう」と言われるまで私は一度も勝つことができなかった。
勝ち飽きた揚羽は壁にもたれかかると、ズボンのポケットからiPodのイヤホンを取り出し耳にかけた。
「ねえ、聴かない?」片方のイヤホンを私に差し出す。私は彼女の横に行き、黙ってそれを受け取り右耳につけた。子守唄のような、優しい夢見心地な歌声が流れていた。
「槇原敬之じゃないんだね。」
「マッキーがよかった?」
「ううん、これでいい。知らないけど、いい曲。ディズニーっぽいね。」
私と揚羽は一緒に音楽を聴いている。彼女の隣で、同じiPodから流れる同じ音楽を聴いている。
「これで、嘘じゃないね。」揚羽は俯きながら笑っていた。私をかばうために、和子さんに彼女がついた嘘。仲良く一緒に音楽を聴いたという嘘を、私たちは今、本当のことにしている。
「この曲、『ピーターパン』の曲なんだ。『右から二番目の星』って曲。私ね、ピーターパンに憧れてたんだ。ちょっと恥ずかしいけど……。ピーターパンは大人にならない。大人の世界で生きなくていい。ずっとネヴァーランドで生きていく。」
雨はすっかり止んでいた。ようやく顔を見せた太陽が、沈んで一面を橙に染めていた。星はまだ見えない。
「私も、ここで生きていたいんだ。ここで生きていたかった。ここでなら、誰も傷つけないで済むし、私も傷つかないで済む。でもね、ずっとひとりなんだ。ひとり……なんだよ。」
私は俯いて、片方の耳たぶから彼女の言葉を聞いていた。優しく流れる音楽を聴き入れるように、彼女の声を聴き入れた。
「……ねえ、もう変なことは絶対しないから、これからも会いに来てよ。」
そういうと揚羽はそっと私の手を握った。恐れはもう、なかった。答えるように、私は彼女の手を握り返した。
抱擁は、無意識の行動だった。思えば、私を辱めようとした揚羽に体を預ける義理はない。抱きしめながらも、私は揚羽のことが怖かったし、このまま彼女に押し倒されるのではないかという不安に苛まれていた。しかし、私は段々と理解していく。
彼女は私の腕の中で、彼女の胸の奥にある何かと戦っているように泣いていた。私を求める彼女の手は、欲望を押さえつけるように震えていた。誰かに受け入られたい―――それが彼女が他人に求める全てで、その想いごと彼女を突き動かす衝動を封じ込めるために、揚羽は年寄りばかりのこの村へやってきた。彼女を受け入れようとする誰かを、傷つけないように。受け入れてくれる誰かに、会わないように。
雨はまだ降り続いていた。先ほどと比べれば、雨脚は大分落ち着いていた。
「もういいよ。」
雨に呼応するように、揚羽は落ち着きを取り戻し私が絡めた腕を離した。
「まだ大丈夫じゃないけど、ずっとこうしてるわけにもいかないし……」揚羽は私から離れると、立ち上がり窓から外を見上げた。
「でも、まだ降ってるね。さあ、どうしようか。びしょ濡れになりながら二人で帰る?」
ピークは過ぎたとはいえ、雨だれは絶えずしっかりと地面を打ち続けていた。
「もう少し、収まるのを待たない?」
「そうだろうね。もっと雨が弱くなったら急いで帰ろうか。……じゃあそれまで何しよう?」
「何をすると言われても……じゃあ、アレやらない?」
そう言うと私は、拳を二つ突き出し、おもむろに親指を上げて揚羽に見せる。
「『いっせっせーの』?」
「そう。分かる?」
「分かるけどさ……うーん……」そう言いながら、揚羽も両こぶしを突き出す。『いっせっせーの』。数人で集まって、親指を立てながら順番に数字を言い合い、数字と上げられた親指の数が合っていれば勝ちと言う子供の遊び。揚羽はあまりやりたそうに見えなかったが、かといって本当にすることがない。渋々と、彼女は声を上げる。
「いっせっせーの、いち!」
乾いた声に釣られる、一本の親指が頭を上げた。それは私の右手の親指だった。親指を上げなかった揚羽は、少し得意げな顔で私を見ている。
「はい、あと一回で私の勝ち。次は君の番。」
つまらなそうな顔をしておきながら、少しいい気になっている揚羽の表情に、思わず私は熱くなった。声に力がこもる。
「じゃあ、いっせっせーの、ゼロ!……あっ……」
しかし意気込み虚しく、私の視線の先には全てを見透かしたように上げられた揚羽の左手親指があった。
「私、これで負けたことないんだよね。」
まるで、私では相手にならないと言わんばかりに、揚羽は勝ち誇った顔をする。特別私は負けず嫌いな性質ではないが、馬鹿にされるような態度をされるのは気に入らない。しかし、言葉通り揚羽は強かった。何連勝だったかも分からないほど彼女は勝ち続け、「いい加減やめよう」と言われるまで私は一度も勝つことができなかった。
勝ち飽きた揚羽は壁にもたれかかると、ズボンのポケットからiPodのイヤホンを取り出し耳にかけた。
「ねえ、聴かない?」片方のイヤホンを私に差し出す。私は彼女の横に行き、黙ってそれを受け取り右耳につけた。子守唄のような、優しい夢見心地な歌声が流れていた。
「槇原敬之じゃないんだね。」
「マッキーがよかった?」
「ううん、これでいい。知らないけど、いい曲。ディズニーっぽいね。」
私と揚羽は一緒に音楽を聴いている。彼女の隣で、同じiPodから流れる同じ音楽を聴いている。
「これで、嘘じゃないね。」揚羽は俯きながら笑っていた。私をかばうために、和子さんに彼女がついた嘘。仲良く一緒に音楽を聴いたという嘘を、私たちは今、本当のことにしている。
「この曲、『ピーターパン』の曲なんだ。『右から二番目の星』って曲。私ね、ピーターパンに憧れてたんだ。ちょっと恥ずかしいけど……。ピーターパンは大人にならない。大人の世界で生きなくていい。ずっとネヴァーランドで生きていく。」
雨はすっかり止んでいた。ようやく顔を見せた太陽が、沈んで一面を橙に染めていた。星はまだ見えない。
「私も、ここで生きていたいんだ。ここで生きていたかった。ここでなら、誰も傷つけないで済むし、私も傷つかないで済む。でもね、ずっとひとりなんだ。ひとり……なんだよ。」
私は俯いて、片方の耳たぶから彼女の言葉を聞いていた。優しく流れる音楽を聴き入れるように、彼女の声を聴き入れた。
「……ねえ、もう変なことは絶対しないから、これからも会いに来てよ。」
そういうと揚羽はそっと私の手を握った。恐れはもう、なかった。答えるように、私は彼女の手を握り返した。