第十話「The Real me」
隣で蜜柑は歌を口ずさんでいた。
何の歌なのか聞いても、彼は微笑むばかりで何も答えようとはしなかった。
ステージ上では次の演奏が始まっている。空は汗だくで気持ちが悪いからと先に外に出て行ってしまった。私も少し汗臭いし、疲労からかとても眠くて堪らない。蜜柑だけとっても元気に楽屋でギターを手にしている。
多分、彼はまだ夢の中にいるのだと思う。私達よりもずっと長く、彼はその場所にいられるのだ。どこまでもどこまでも、呼吸をすることを忘れてしまうくらい深く潜り続けていられる。
それが、とても羨ましくて堪らない。私なんでまだ息苦しくて、すぐに溺れてしまいそうになるのに、隣で彼は平気な顔をしているのだから。
「ねえ蜜柑」
「どうした?」
ギターを爪弾くのを止めて、蜜柑は私の方を見た。
「私ね、今すっごく満足してるの」
「それは良かった」
「でもね、その満足になんだか自信が持てないの」
軽音楽部の備品で雑然として楽屋で、私はその隅に座り込んだまま考えていた。本当にこれは正解だったのだろうかと、私は果たして本当に私がすべきと思っていたものを放り出してまでこうするべきなのだろうか。
演奏後にやってきてくれた母の顔は、今まで見たことが無いくらいとてもいい笑顔をしていて、随分とはしゃいでいた。もう随分と前の学芸会で舞台に立っていた私の話をしていた。小学生の時の話だ。もう六年かそこらの。そんな昔の話を母はとても嬉そうに語っていた。
多分、それが母が私の立っている舞台を見た最後だからなのだろう。
そんな母を放っておいて、私はこんなことをしていていいのだろうか。私がいい人であろうと思ったのは、どうしてだったか、こうやって今大好きになれた事をやり切った今だからこそとても深刻に思ってしまう。
十分息抜きできた。
だから、私はまた戻るべきじゃないのか、と……。
「安藤さんは、一つの決意をしてここに立った」
蜜柑はギターを置いて目の前までやって来ると、しゃがみ込み私の顔を覗き込む。真っ直ぐで力強い目が、私の顔を映していた。
「そしてその決意に対してお母さんはとても喜んでいた」
「そう、だね……」
私が俯くと、蜜柑は小さく笑い声を漏らして、それから私の頭に手を置いた。
「俺はさ、安藤さんじゃないし、空でも無いから、必ずしも全てを知ってるわけじゃない」
うん、分かってる。言葉には出来なかったけれど、私はその言葉に頷きを返す。
「俺は自分が良いと思った事に真っ直ぐ向かいたいだけなんだ。それに付いてく来てくれる人を皆引き連れて。そう、それこそ笛吹き男みたいに」
でも、私だって貴方のようになれない。
だんまりを決め込んでいると、蜜柑は立ち上がって、再びギターを手にする。フレットにカポを押し込んで何度かチューニングを確認すると、やがてコードストロークと共に彼は歌い始める。
力強くて、それでいて澄んだ響きのその歌声は、私の心にするりと入り込んでくる。滑るように滑らかなストロークから生まれた開放弦混じりの音が楽屋に小さく響く。たかがエレキギターの生音。けれど今の私にはアコースティック・ギターよりも魅力的に聴こえた。
やっぱり私は、蜜柑の歌が好きだ。
多分彼じゃなかったら、こんなにも音楽を好きにはなれていなかったと思う。
音楽で何かを変えたいなんて高望みはしない。自分の心ですら迷い続けているのに、人に何かを訴えることなんてとてもじゃないけれど出来ない。
でも、せめて大好きな人の隣で音楽を愉しむくらいは許して欲しい。初めて自分が決めた道なのだから。誰の目も気にすること無く、ただ好きという言葉だけで決める事の出来た道なのだから。
「今のは何の歌?」
蜜柑が歌い終わって一息つくのを見て、私は尋ねる。
蜜柑は暫く考えた後、口の前に指を一本立てて「秘密」と言った。
「いじわる」
笑う蜜柑を見て不貞腐れていると、彼はギターを置いて
「おじさんが、俺のために初めて歌ってくれた曲なんだ」
「おじさんが?」
「そう、自分に自信が持てなかった頃の俺を一発殴って、この曲を聴かせてくれた。それがかっこ良かったんだ」
「大切な曲なのね」
蜜柑は私の言葉ににっこりと笑みを返すと、それからたった一言
「信じることを止めるなよ」
と口にして、それから楽屋を出て行ってしまった。
楽屋に一人になって、私はステージから漏れる音を聴きながら目を閉じた。キーボードの音がきれいな曲だ。誰の曲だろう。
そんな時、携帯電話が鳴った。ディスプレイを確認すると、母からだった。
私が電話に出ると、母は周囲の生徒の活気に大分やられたのか疲れた声で、しかし新鮮な出来事ばかりなのか嬉そうに今自分が体験してきたことを口にしていた。ディッピンドッツなんてアイスがあるのね、とか、調理部の食べ物が美味しかったとか、写真部の展示会は活き活きとした写真が多くて良かったとか。
それを聞いていると、私はなんだかおかしくなってきて笑ってしまう。突然笑い出した私に母は少し機嫌悪そうになによ、と低い声で言ったが、私はなんでもないと言ってから、一つ提案をした。
母は、その提案を二つ返事で受け取ると、玄関口で待っているとだけ言って電話を切ってしまった。最後は機嫌を直したのか、明るい口調に戻っていた。
立ち上がってから、部屋の隅に置かれた自分のギグバッグを見て、それから適当に置かれた空のスネアとペダル、蜜柑のギターを眺め、携帯と財布だけポケットに突っ込むと、楽屋を飛び出した。
――答えは、もう少しだけ待ってもらおう。
母はどんなところを回ったのだろう。下見くらいはしていたけれど、実際に楽しんだところは一つも無いから、一つ一つお勧めを紹介してもらいながら回ってみよう。
きっと母の事だから、子供みたいになってはしゃいでるんだろうな。
制服姿に混ざって出し物を満喫している姿を想像したら、少し可笑しくて、私は走りながら笑ってしまった。でも、悪くはないなと思う。
玄関先に見つけた母の姿を見て、私は名前を呼ぶ。
母は私を見つけると、にっこりと笑みを浮かべて、駆け寄ってくる私にそっと手を振ってくれた。
それに手を振り返して、私も笑った。