父が亡くなったのは私が生まれて間もなくであったため、あまり覚えがない。元々体が弱い方で、死んだ理由も病気が原因であったという。幸い私は体も強く、これまで病気といった病気もせずに過ごせている。
父がいなくなって再び働き出した母の姿は、私の眼に最も強く焼き付いているの。いつも疲弊した表情で帰宅しつつも、私を見ると強がるのだ。ベッドに倒れ込みたい気持ちで一杯であるのにも関わらず、夕飯少し遅くなったけど今から作るね、と笑い、今日学校では何があったのか、学校は楽しいか、そうやって私の今日一日の出来事を必ず聞くのだ。
そして、最後に決まって言うのだ。
明日ももっと楽しくなるわよ、と。
それがあってからなのかわからないが、高学年にもなると私の胸中には一つの感情が張り付いていた。少しでも母の負担を減らしたいという、そんな考え。
母が帰ってくるときには食事ができているようにしよう、洗濯も、お風呂も、家事という家事は私がやって、母が休める時間を増やさなくてはならない。
それが、今の私を形成した根本的な理由なのだと思っている。母に私は一人でも大丈夫だと、自分は完璧だから、何も心配しなくていい。だからゆっくり休んでと。
それがいつの間にか私に対するプレッシャーとなったのはいつだったろうか。完璧でなくてはならないという気持ちに急かされるようになったのは、いつごろだろうか。
――第二話「生活」――
ベルを押すと、じりりり、と連続した金属の打ち合う音が響き、それから「はい」と彼の声が扉の奥から聞こえた。私はむずがゆい気持ちを抑えながら、背負っているそれをちらりと見た。
扉を開けて、やはりというか、予想通り彼はその私が背負っているものを見て驚いていた。そんな彼を見てしてやったりと思いつつ、私は悪戯に微笑むと首を傾け、言った。
「買っちゃった」
「そんな、いや、まさかもう買ってくるなんて……」
動揺を隠せないでいる彼を見て少しだけ満足した私は、お邪魔します、と大きな声と共に靴を脱いで上がる。蜜柑は扉を閉めると、あきれたような、少し嬉しそうに微笑む。
蜜柑の部屋は思ったよりも広かった。家庭の事情で一人で暮らしている、という話は聞いていたが、小さなアパートとかそんなところだと思っていたが、キッチンはあるし、トイレとバスも別になっている。更に部屋はそれとは別に二つあって、一人では少し大きいと感じられるくらいだった。
玄関を上がるとあの時の子犬が尻尾を振ってこちらに寄ってくる。この間の時に顔を覚えて入れ暮れたのだろうか。私はしゃがみこみ、よってきた犬を撫でる。毛並みがとても気持ち良く、潤んだ瞳が私を映している。
「でこぽんがすぐ懐くなんて、珍しい。大体こいつ寄ってきた奴を噛むから……」
「でこぽん?」
ああ、と彼は不機嫌そうに頷く。
「俺が蜜柑だから、でこぽんでいいだろって、うちの親がつけたんだ」
安易過ぎるそのネーミングに私は思わず噴き出しそうになる。それを必死にこらえてから、私はふと気になっていることを口にした。
「園田くんのご両親は、その、なんていうか……」
私の言葉で察したのか、いやいや、と手を振って彼は否定する。
「父さんが海外へ仕事に行くことになって、母もそれについていっただけ。そのまま向こうに住むつもりだったんだけど、俺が残りたいって揉めた結果、ここに一人で住むことになったっていう」
まったく我儘で面倒な息子だよ。蜜柑は皮肉っぽくそう言って笑った。その言葉に私はほっとする。
「今でも連絡は?」
「向こうから来る。生きてるか、とかちゃんとしたもの食べてるか、とか金は足りてるか、とか。バイトもしてるし何も問題ないって言ってるんだけど、しょっちゅうね。初めのころは週に一回のペースだったなぁ」
「愛されてるのね」
私がそう言ってほほ笑むと、彼は少し恥ずかしそうに視線を反らし、頭を掻きながらさあて楽器触ろうかと言って玄関から見て右側のドアを開けた。どうやらまんざらでもないらしい。
そんな彼を見ていてなんだか私も嬉しくなって、少しスキップ気味に彼の後を追って部屋に入った。
「ほんとは、暫く俺のベースを貸すつもりだったんだ。専門じゃないから安いのしかないんだけどね」
そう言ってから、彼は壁に掛けられたギターを手に取った。私は彼のギターを見てから、周囲を見回す。
音楽室、とでも呼べばいいのだろうか。キーボードだったり、電子ドラムだったり、アンプがそこらに並んでいて、床にはエフェクターが点々と転がっている。この空間を作り上げるのに一体どれくらいの労力を使ったのだろうと少し考えてみる。
「園田くんのそのギターは、エレキ?」
「蜜柑でいいよ。楽器について少しは勉強してきたのかな」
彼はにっこりと笑う。
「ベースを買う時に色々お店の人に聞いたの。何もわからな過ぎて店員さんには呆れられちゃった」
あはは、と彼は声をあげて笑ってから、シールドをアンプに差し込み、ボリュームを軽く上げてからピックを手にする。
「元々初めて触ったのは、エレキの方なんだ」
そう言って、彼はピックを握った手を振りおろし、弦を鳴らした。力強い六つの音が混ざり合って、部屋中に響き渡る。それから彼はこちらを見てにやりと笑うと、続いて弦を鳴らし続ける。右足をテンポよく動かし、左手を器用に動かしながら。
「あ、Heaven and hell……」
「正解」
聞き覚えのあるイントロのギターの音に私は高揚する。高揚すると同時に、この裏で鳴っていたあの低音を思い出す。左耳から聞こえてくるベースのあの複雑で、それでいて耳にしっかりと残る演奏。もし私に技術があれば、今ここで彼の横であのベースを弾くことができるのに、と少し悔しさを覚える。
暫くして彼は演奏をやめる。
「まあ、フーはまだまだ先だね。初心者がやるには難しすぎる」
「じゃあ、何からやるの?」
「難しすぎず、それでいて単純ではない曲と、本当に簡単な曲の二曲」
彼はそう言ってから部屋の隅に接しされた机上のコンポに触れ、それから再生を押した。歯切れの良い音と共に、少しけだるそうな男性の歌声が入ってくる。歌が入ってきたところで、ああアジカンだ、と浅いなりに浮かんだバンド名を口にした。正解、と彼にはまた微笑む。しばらくそれを聞き続けてみるが、確かに基本的に非常に難解そうに思えるフレーズはどこにも入ってこない。
「ループ&ループっていう曲で、ベースは基本的にエイトビートしか出てこない。初めて楽器に触った人にとっても易しい曲だね」
「この曲をやる意味は? 少し難しいのをとことんやるんじゃだめなの?」
少しだけ正しい、彼は腰に手を当てて首を振る。
「簡単な曲でやることはリズム感を養うこと。実際エイトビートを奇麗に刻める人間なんて本当に限られてる。初心者なら尚更ね」
それから彼は譜面を私に手渡す。音符と、その下にタブの入った譜面。抑える場所が数字と弦の数で入っているのは非常に有難い。慣れてくるときっとこんなのを見る必要もなくなってくるのかもしれないが。
「それから、もう一曲はこっち」
そう言うと蜜柑は二曲目を流し始める。コードのストロークから始まり、それからドラムとベースが入り、最後にどこか投げやりに聞こえる歌声が響く。
「Syrup16gの生活。こっちは複雑ってわけでもないけどベースが動いてる曲だ。運指のトレーニングとしても良いと思ってね。まああとは俺がこの曲を歌いたかったっていうのもあるんだけど」
彼に手渡された譜面と、二曲の入ったCDを眺めながら、少し不思議そうに彼を見る。
「意外と邦楽はクソだ、とか言ってるもんだと思ってた」
「そんなイメージあったの? 別に良いなって思ったら邦洋問わずに手にとってる人間だし、邦楽も結構好きだよ。日本語で歌いやすいしね」
結局のところ、その辺りが理由な気がしなくもないな、と感じたが黙っておいた。
「それで、君はどんなベース買ったの?」
彼は私の背負ったベースカバーに触れた。私はそれを下してジッパーを開け、ベースをとり出した。ブルーの塗装がかかったジャズベース。彼はそれをまじまじを見つめ、それから感心したように「バッカスか」と呟いた。
「店員さんも丁度良いのを選んでくれたね。酷いとフォトジェニックとかプレイテック、レジェンドを薦めてくる人もいるからなぁ」
「色が良いなって思って、値段も予算分だったし」
なんだか褒められたことが嬉しかったのか、顔が熱を帯びていく。
「うん、素敵だと思うよ」
彼は満足そうに頷いた。
―――――
暫く彼に楽器について教えてもらったり、ベースの練習に付き合ってもらって、その日は彼の家を出た。日はすっかり暮れているし、家に着くころには母も帰ってきているかもしれない。できれば楽器を持っている姿を見られたくないという気持ちがあったので、駆け足気味に帰路を走る。
少しして家が見えてきた。窓からは、明かりが確認できる。母はもう帰宅しているようだった。私は更にペースを上げて駆け、飛び込むように家の扉を開けた。
「おかえりなさい……ってどうしたのそんな息を荒げて」
母はそう言って驚き、それから私の背負った楽器をちらりと見る。
「何も準備できてなくてごめん、今から手伝うから、ちょっと待ってて」
そう言って、私は逃げるように自室に入るとベースをカバーから取り出し、スタンドにたてかけ、リビングに顔を出した。机の上には既に料理が並んでいるし、今朝干した洗濯物は折りたたまれている。母はエプロン姿でそれじゃあ食べましょ、と言って椅子に座った。
その光景が、母の家事をする姿を見た瞬間、胸が締め付けられるように痛くなった。何か言おうと思うのだが、うまく言葉が出てこない。私は無言でうなづいてから、向かいの椅子に座った。
それじゃあいただきましょう、そう言った母の目には、数日前より更に濃くなった隈ができている。湯気の立った母の料理を眺め、それから私はなんとか絞り出したいただきますと共に、それを口にした。
母の味だ。私がどう頑張っても出せない味だ。
「何か楽しいことでもあったの? あんな元気に走って帰ってきちゃって……」
私は、小さく頷く。
「もしかして好きな人でもできたの?」
そう言われて、蜜柑の姿が一瞬浮かんだが、私は首を振った。
「そんな暇ないよ。やること一杯あるし……」
「そうなの? そういえばあの楽器は――」
「大丈夫、ちゃんと両立はするから」
そう言って、私は母の言葉を遮った。大丈夫だ、他が億劫になってしまうことだけはしない。バランスよくやれば私ならできるのだ。母が心配しないように、何も困らないように。
「……そう、分ったわ」
母は薄らとほほ笑んだ。私はその表情が少しだけ苦手で、食事を終えると自分の食器を洗って乾燥機に突っ込み、後で片付けは私がやるから、と母に言って部屋に戻った。
そういえば、頼まれた仕事がいくつかあった。楽器を触りたい気持ちもあるけれども、これができていないと周囲に迷惑がかかる。私は机に向かうと鞄の中からクリアファイルを取り出す。
ふと、今日もらってきたCDを思い出し、私プレイヤーにセットするとスピーカで曲を流し始める。音楽を流しながら作業すると、案外さっさと終わったりすることに気づいてから、音楽を聴きながらなことが多くなった。最近はずっと彼から貰ったthe whoばかり聴いていたからか、日本語の歌詞がとても新鮮に感じる。
――生活はできそう?
そうやって投げかけられた言葉に、ふと自身を重ねる。私は、一体何に追われ続けているのだろう。いつから、自分がプレッシャーになりはじめたのだろうか。
ダウナーな空気の中で、手を動かしながらも、それでもそんな疑問ばかりが頭に浮かび続けていた。