第八話「Photograph」
すっかり陽の落ちた町中を一人歩く。喫茶店で随分な時間を過ごしていたからか、今日も帰宅が遅くなりそうだと携帯のディスプレイを見て溜息をついた。母親の為に夕飯を作らなくてはいけない。それに洗濯もできていない。バンドにかまけ過ぎて自分自身の生活が億劫になってはいけない。
耳元でamazing journeyが鳴り響いている。この曲とsparkの繋がりは何度聴いてもわくわくする。ウォークマンの中の曲数はまだ少ないもので、やったことのあるアーティストと二人から勧められた音楽しか入っていない。が、それでも帰り道にこうして音楽を聴きながら帰るのが楽しくてたまらなかった。頭を揺らしながら歩くと背負ったベースが肩にずっしりと乗っかる。でもそれすらなんだか心地よかった。
喫茶店からいつもの道を通って商店街に出る。週末であることと、時間帯を考えて仕事帰りに食材を買いに来ている人が多いのだろう。随分と人で賑わっている。すごく辺鄙なところに建っている喫茶店はしかし裏道を知ることで実はどこにでも行きやすい位置にあるのだと知った。
人込みの中をなるべく邪魔にならないように立ち回りつつ、私は目的のCDショップへと身体を滑り込ませ、イヤホンを外した。少し先に大きくて品揃えの豊富な店があるのだが、おばさんは「あっちの方がなっちゃんや蜜柑、宙ちゃんには合ってる」と言ってこちらを教えてくれたのだ。話によると最近蜜柑はこの店を使っていないらしい。おばさんは「あの子は頑固なのよ」と苦笑いをしていたが、何か問題でも起こしたのだろうか。
店の中は随分と狭くて、左右の壁と中央にそれぞれ棚があって、一番奥にカウンターがある。できたばかりの頃は真っ白かったであろう壁紙やポスターはすっかり黄ばんでいて、それが時代の経過を感じさせた。
「いらっしゃい、安藤奈津くん、だったね」
奥からやってきた男性はそう言うと私を見て微笑む。シャツにベスト、ベージュのスキニーと落ち着いた服装で、白髪混じりの髪は櫛でしっかりと整えられている。その風貌からなんとなく私の中で「紳士」という言葉が浮かんだ。彼がスーツに皮靴、そして帽子を被って煙草を吸っていたら……。そんな想像とすると胸が高鳴った。
「何が欲しいのかな?」
カウンターに腰かけると頬づえをつき、入口に立ったままの私を静かに見つめる。
「特に決めて来たわけではなくて、なんとなくこういうCDやレコードの並んだ店に入ってみたかったんです。私、本当にこれまで音楽はジャンルすら知らなかったから、買ったことがなくて」
実際、これまではクラスメイトに今流行の音楽を借りて、とりあえず聞いて話題作りに使うくらいだった。今後来そうだねとか、この歌詞すごいよと言っておけば大抵相手は喜んでくれた。味方や支持者を増やそうといった理由で音楽を使っていた時期は、こうしてベースを持っている今の私からするととても恥ずかしいものだ。できればそっと蓋をしてしまっておきたいくらい。
「そうだね、なら何かこんな曲が聴いてみたいとか、具体的じゃなくてもいいから言ってごらん。私が幾つか見繕ってみるから」
紳士に言われて、私は考えを巡らせる。
「じゃあ、ドラムがカッコいいのを……」
頭の中を巡らせていて、ふと浮かんだのがドラムを叩く宙の姿だった。
「ベースがカッコいい曲じゃあないんだね。今組んでいるバンドのドラマーが好きなのかな」
彼に言われて私は体が熱くなるのも感じた。好き、なのだろうか。けれどリズム隊という立場として彼女のドラムにぴったりと合うベースを弾きたい気持ちはある。蜜柑と宙に比べて私はまだまだ初心者で、実力も備わっていない。「Undo nut’s」は本当に贅沢なバンドだ。私よりも上手いベーシストなんて沢山いるのに、二人は私を選んでくれた。
「そうだな、なら試しにこんなバンドはどうだろう」
紳士は立ち上がると壁際の棚に目を下ろし、暫く目だけを動かしたあと、一枚のCDを引き抜いて私を手招きした。入口から全く動いていなかった私はそこでやっと足を動かし、彼の横に駆け寄った。
三人の男性が並んだジャケットで、左上には「THE POLICE」と彼らのバンド名が白抜きで印字されている。
「ポリス?」
「そう、ポリス」
彼はそう言うと私の手にそれを握らせた。
「スチュアート・コープランドというドラマーが私は好きでね。ドラムがカッコいいものと言われてぼんやりと浮かんだのが彼だった。ロックだけでなく他のジャンルも取り入れている楽曲が多いから、今まで君が聴いてきたジャンルとは少し色合いが違っているかもしれないが、こんなドラムを叩ける人がいたら私は興奮するね」
嬉しそうに言う彼の姿に私は微笑み、それから再び渡されたCDに目を落とした。
「白いレガッタ」
「そう、白いレガッタ」
どんな声で、どんなメロディで、どんな演奏なのだろう。期待と不安の混じった不思議な感覚だ。でも、ケースは様々な想像を私にさせてくれるから好きだ。蜜柑を過ごすようになってから曲をネットで購入する機会が減ったのも、この手にしてから帰るまでの焦燥感がたまらなく好きになってしまったためだった。
「一曲目は特に有名なものだし、君の好みに合ってくれたら私も嬉しいよ」
財布からお金を取り出し、紳士に手渡すと私は深く頷いた。おばさんが紹介するくらいの人なのだから、彼の勧めるものがハズレな筈がない。
「そういえば、みっちゃんは元気かな?」
「あ、はい。今日もスタジオで一緒に練習してきたところです」
「そうか、彼はまたバンドを組んでいるんだね。この間のデスペラードを聴いてまた成長していたから嬉しくてね。みっちゃんをよろしくね」
にっこりと彼は微笑んだ。蜜柑の話になると皆こうなる。誰もが彼の歌声に魅了され、その姿勢を気に入っている。それこそ自分の子供であるかのように蜜柑を見ているのだろう。そんなことを思うと、少しだけ嫉妬したくなって、それからその小さな感情は羨望へと色を変えていく。
「また来ます」
「ああ、いつでもおいで」
蜜柑に対して覚えた感情を購入したCDと一緒に抱いたまま私は店を飛び出した。イヤホンをはめて再生ボタンを押すと、My Generationの印象的なフレーズが大音量で流れ出す。最近、蜜柑のことを思うと心のどこかがちくりと痛むのだ。演奏している彼、気持ちよさそうに歌う彼、私を引き込んでくれた彼、そのどれもが思い出すたびに私を暖かくさせる。
早くこの曲が聴きたい。この店の隣に家があったらいいのに。湧き上がる感情を零しながら私は人込みの中を駆け抜けていく。地面を蹴るたびに背負っているベースが肩に食い込むけれど、気にしない。うまくバランスを取りつつどんどん速度を速める。
ベースソロが私の高揚感を更に高めていく。曲のリズムに合わせて跳ねる自分の姿は今この商店街の中で一番異様なのだろう。けれど気にしないで商店街を抜け、駅前の横断歩道で止まる。体を揺らして信号が青になるのを待つ。ここを抜けて十分程歩けば家に着く。家事をして、ああ、風呂も沸かさないといけない。それまで今日買ったものがお預けと思うと少し恋しい。
「―――――――」
信号が青になると同時に聞こえてきた声に、私ははっとした。丁度楽曲が終わり、次の曲へと移り変わる一瞬の間だった。私はイヤホンを外してから歩道を渡って、それから駅前の広場に目を向ける。
一つだけ設置されたオレンジの街灯の下に、彼はいた。目が隠れるくらい長い前髪のせいで顔は良く分らない。ボーダーのゆったりとしたカーディガンを着ているが、それでも随分と輪郭は細く、やせ型だ。手にしているアコースティックギターと比べるとなんだか彼が小さく見える。
そんな彼から出ている声はとても太く重いもので、その対照的な外見と声質に、私はとにかく驚いた。澄んだ蜜柑の声とは全く違う。彼のように繊細に歌い上げるわけでもなく、どちらかというと粗く投げやりな歌なのだが、その歌声が耳に入ってきた瞬間、私はイヤホンを外して、気がつけば自然と彼のすぐ傍でその声に耳を傾けてしまっていた。
弦を引き千切らんばかりに掻き鳴らし腹部にずしりと響くその声でただひたすらに言葉を叫ぶそれは、一つの楽器として成立していた。
広場には私と同じように彼の歌声を聴いて驚いたのか、数人が彼を注視していて、特に仕事帰りのサラリーマンの姿が目立った。くたびれたスーツを着込んだ男性は、しかし凛と火の付いたような眼で彼の歌う姿を見つめ、耳を傾けていた。不思議と私の胸の奥がじわりと熱を帯びていく。吐く息が少しだけ熱くなった気もする。
「……ありがとうございました」
アコースティック特有の反響が響く中、汗をにじませた彼は小さな声でそう呟くと、これまた小さなお辞儀をする。
一瞬だけ生じた間の後、サラリーマンが、それから立ち止った私を含めた数人が拍手を始める。その光景に彼はもう一度お辞儀をすると、ハードケースを目の前に置き、それからミネラルウォーターを口にしていた。
小銭の音が何度か響く中、私はギグバッグを背負いなおし、深呼吸をひとつすると、彼に歩み寄る。突然の来訪者に彼はペットボトルを傾け喉を鳴らしながらこちらに顔を向けると、その長い髪の間からスッと横に切れ目を入れたような細い目で私を見た。
「すごく、よかったです」
何故だか、そう言いたかった。歌声を聴いて感動するのは蜜柑以来で、それも彼とはまた違った声質に出会えたことがとても嬉しくてたまらなかった。
「聴いてくれたんだね。いやあ嬉しいよ」
ボトルから口を離した彼は小さく囁くような声でそう言うと微笑む。歌っている時よりも高くて小さなその声に私は少し戸惑ったが、多分そういうものなのだろうと理解した。歌と日常は違うのだと。
「バンド、やってるの? 大きさを見たところ、ベースかな」
私が頷くと彼は器用にギターで指弾きの真似をしてみせる。話しかけてみると案外気さくでいい人じゃないか。
「もう一曲、歌うんですか?」
「ああ、今日はそれで終わり。歌うのは四曲って決めてる。とてもキリが良いんだ。弾き語りで五曲だと僕も疲れてしまうし、お客さんも飽きて行ってしまう。三曲で終わった時は少し物足りなそうな顔をされたから、何度かやって行き着いた結果が四曲」
「じゃあ、もう一曲分貴方の歌が聴けるんだ」
良かったとギグバッグを彼の腰かけている椅子の傍に立て掛け、それから正面に戻るとしゃがみ込んだ。スカートを丁寧に股の間に織り込んでから、アコギを構える彼を見た。
「最後にやる曲は決めてるんだ。一番得意な曲だから」
彼はそう言ってコードを抑えると、弦をピックで弾いた。透明感のある音がスッと私の中を通り抜けていった。彼はすうっと深く息を吸って、残響の中でその息を吐き出した。多分彼はスイッチを入れた。なんとなく、そんな表現が今の彼にうまく合致するものだと思った。歌うモードに入ったのだ。何かを伝える為に、誰かに聴いてもらう為に、誰かの心を揺り動かす為のモードに。
「今日はこれで終わりです。最後に聴いてください」
その一言が。何故だろう、とても寂しく響いた気がした。
彼はどこか遠くを見ながら、ギターをストロークした。コード音が広がる中で、大きく口を開けると、叫んだ。
――Look at this photograph
次第に激しくなっていくギターのストロークに合わせて、彼の重たく、太い歌声が響き渡る。透明感のあるコードは彼の地面を踏み締めるようにどっしりした歌を際立たせていく。
その歌声は、その表情は、とても哀しげで、何か戻ることのできない過去を悔んでいるようにも見えた。何故彼はこんなにもさびしげに音楽を奏でるのだろう。寂しさがギターの音に乗って周囲に響き渡る中、私はぎゅっとスカートを握り締めた。
――Every memory of looking out the back door
ねえ、貴方はなんでそんなにも悲しげにギターを弾くの。寂しそうに歌を歌うの。
サビに入って彼の声は更に伸びやかになり、何度も練習したのだろう、とても流麗に英詩を歌いあげていく。
――It’s hard to say
――It’s time to say it
――Good bye,Goodbye
さよならと唱え続け、昔を思い出すような歌詞を得意と彼は言った。一番唄った曲なのだろう。歌いながら奏でるギターはスムーズで、一点の迷いもなく抑えたコードをストロークしていく。その指と腕の動きにつられずに吐き出すように声が放たれる。
ふと後ろを向くと、やはり彼の歌声に釣られて数人が彼を囲むように立っていた。しゃがんでいるのは私だけで、少しだけ恥ずかしい気持ちになったけど、それでも私はこの真正面で彼の訴えを聞こうと思った。彼について何も知らないけれど、寂しいって気持ちだけはちゃんと理解できたし、共感できる部分だったから。
君はちょっと前の私に似てるんだ。ぽっかりと空いた穴をどうすれば良いかわからなくて、戸惑いながらもどうにか前に進もうと必死になってる。いや、私よりも立派かもしれない。蜜柑がいなければあのままだった私に比べたら。
――この写真を見てくれ、いつも俺を笑わせてくれるんだ。いつだって俺のことを……。
寂しくて力強い彼の歌を聴きながら、私は目を袖で拭った。
――――――
「聴いてくれてありがとう」
アコースティックギターをハードケースにしまいながら彼は微笑む。私は首を振って、まだ潤んでいる瞳を袖で拭った。
「また来てもいいですか?」
「ああ、いつもここでやってるから是非来てよ」
ハードケースの金具を止めて右手に持つと、彼はそれじゃあと私に背を向けた。駅の方に向かう彼の後ろ姿を眺めながら、一つだけ聞き忘れていたことを思い出す。
「名前は、なんて言うんですか?」
「ああ、言い忘れてたね」
彼は振り返ると、長い前髪の間から穏やかな瞳をこちらに向け、言った。
「弾き語りしてる時は「ラッコ」って名乗ってる。可愛いでしょ」
ラッコと名乗った彼は駅に消えてしまった。
蜜柑とは何もかもが違う。向こう岸にいるような男性だと思った。明るく、そして楽しそうに歌う蜜柑と、寂しげに、感情を叫ぶラッコ。しかしどちらもがそれぞれの想いを歌という楽器に乗せて歌う。
ハッとして時計を見る。随分暗くなった駅前で家事が残っていることを思い出した。多分帰宅は母と同じくらいの時間になってしまいそうだ。
急いで駅に向かうと改札に定期を当てて通り抜け、階段を二段飛ばしで下りてホームに向かうと、黄色い点字ブロックの前で立ち止まり、電車が来るまでまだ時間があることを確認し、それから周囲にあまり人がいないこともあって、私は目をそっと閉じた。
「るぎにずふぉーぐらふ……」
歌い方を真似しながら、私はその初めの歌詞を口ずさんでみた。
――――――
ギグバッグを担いでいつもの部室棟の階段を上り、四階へと足を踏み入れる。イヤホンからは昨日ラッコが歌っていた曲が流れている。あの後すぐにアルバムを借りて、それから寝るまでずっと聴き続けていた。アコースティック色の強いバンドかと思ったら、意外とヘビィな音も鳴らすバンドで、その這いずるような重低音がとても新鮮だった。
寂れた空気だけはいつも通りであるが、今日はなんだか違うことがあった。部室の方がやけに騒がしいのだ。ギグバッグを背負いなおすと騒ぎのする部室の方へと足を向ける。
「なんだよ、戻ってきたのかよ。ずっと待ってたんだぞ蜜柑」
「全く部長とマジ喧嘩したくらいで辞めんなよな」
「うっせ、あんなのと一緒にいたくないんだよもう」
「宙ちゃんがしょっちゅう使ってくれてたからか幾分か奇麗じゃない。掃除をする手間省けたわ」
「斉藤、ベース使った痕跡もあるけど、タダシ辺り来たの?」
「あ、いや、先輩達が来るまで私のバンドで使ってて……」
「なんだよ、もうちょっと部活停止解除が早く伝わってたら俺も使ったのに」
「てか宙ちゃんとうとうバンド組んだんだ。あれだけサポートにこだわってたのに」
「そこの蜜柑がギタボです」
「蜜柑の野郎、辞めた癖にうちのマスコットさらっと奪いやがって」
「で、ベースは誰? 何人編成なの?」
取っ手に手をかけたが、その言葉で私は固まった。
会話を聞く限り蜜柑と宙と、他の部員達だろう。だがそんなところに私が顔を出していいのだろうか。こんな部外者が勝手に部室を利用していたと知ったら、彼らはどんな顔をするだろうか。
それに私は周囲に良い顔をすることで有名で、宙からはいけ好かないと思われていた。それはつまりこの部員にも同じような感情を抱かれていてもおかしくはないということだ。
恐怖はある。けれど私はもう一歩前に足を出すことができた筈だ。怖がったって何も起きない。何も変わらないことは知っている。
もうあの頃の周囲の評価を怖がる自分じゃない。音楽が楽しいから、ベースが楽しいから、母親を助けることで母の役に立てているのが嬉しいから。自分のしたいことを精一杯することにしたからここにいるのだ。
――誰かが君を愛してくれるようにしなよ。
分かってる。私は昨日彼がしていたように深く息を吸い、吐き出した。蜜柑と宙がいるのだ。音楽が好きなのだ。迷うことはない。
――この写真を見てくれ、いつも俺を笑わせてくれるんだ。
沢山思い出は貰った。
お腹の辺りにぎゅっと力を込め、目の前の取っ手を横に引いた。
がりりと、錆の擦れる音と共に扉が開いた。