6
女が私の身体の上に乗っていた。
彼女は右手を私の胸につき、左手でベッドを押さえて自分の体を支えていた。部屋は暗く、ベッド脇の窓から月明かりが差し込み、女の丸みを帯びた下腹部を青白く照らしている。肩より少し長い黒髪がうつむいた彼女の目元を隠していて表情は見えない。
部屋には静かで、冷たく、そして同時に熱気のこもった空気が満ちていて、彼女がゆっくりと身体を動かすたびにその空気が揺れ、欠落し、その欠落がすぐに充填され、空気に波が生まれる。湿った体液の音と、抑え気味の吐息がその波と共鳴する。
彼女の身体を支えるために私は手を伸ばそうとした。けれど手は動かない。身体は動く意思を放棄しているのに感覚だけがひどくクリアだ。そしてなぜかその感覚からは、性的な刺激だけが完全に取り去られてしまっていた。あらゆるものを精密に知覚するだけで興奮は伴わない。
それで私は黙ったまま彼女を見ていた。揺れる髪の向こうに時折覗く口元は、密かに端が吊り上げられている。彼女が身体を揺するたびに、私の腰にやわらかな太ももがこすれ、かけられる重みが増えては遠ざかるのを繰り返す。汗をかいた手のひらが私の胸を強く押している。彼女は行為に没頭しているようだった。
けれどそこはひどく静かな場所だった。やたらと高い湿度も、薄い膜一枚向こう側にあるようにどこか距離感がある。
やがて彼女の呼吸の感覚がずっと短くなる。それは激しさを増し、切実な色を帯びていく。泣き声のような低いうめき声が暗闇にかすかに這い出してゆく。彼女は私に覆いかぶさるように前のめりになり、顔の横に手をついた。ベッドが軋み、相手の髪が私の耳を撫でる。月の光が遮断されて私の視界が奪われる。大人しく目を閉じると、目蓋の裏で光の粒が舞っていた。
暗闇の中で囁かれた。
「重たい?」
吐息のあいだの、短く鋭い囁き声。
「ねえ、忘れないで」
声に感情の色はなかった。それはむしろ忘我の状態で呟かれるうわごとのように思えた。
「忘れないでね」
彼女の手が私の額に添えられ、頬をゆっくりと撫で下ろす。皮膚の表面を柔らかな手のひらの気配が流れていく。その感覚に、何か違和感があった。私は目を開ける。
視界をまだらに占めているものが何か理解するまでしばらくの間があった。それが指のない手のシルエットだと認識した瞬間、視界が真っ暗になりすべてが遠ざかる。
いつも通りの時刻に穏やかに目を覚ます。部屋には朝の光が満ち、すぐ近くで雀の鳴き声が聞こえる。なにひとつ特徴のない典型的な朝だが、全身はひどくこわばり、身体を起こすだけであちこちの関節が痛み、ぎこちなくきしんだ。
脳に汚水が溜まっているように思考がぼやけている。不快なほど激しい喉の渇きを覚えた。起き上がってすぐに台所でコップ一杯の水を飲み干す。それが身体に染み込んで行くと少しだけ気分がマシになる。それからもう少し水を飲み、顔を洗い、パジャマを着替えながら、私は今朝の夢を反芻した。
それは夢と呼ぶには明らかに異質なものだった。密度の濃い影を伴った、はっきりと質量のある、熱気と呼吸の熱さを含んだイメージの塊だ。誰かが脳の奥底に直接ねじ込んだみたいに思えた。唐突で支配的過ぎる。
あれは過去に実際に起こったことなのかもしれない。記憶にはない。ただ、登場人物には覚えがあった。
ひとつわからないのは彼女の指が欠けていたことだった。私の記憶では彼女の指は十本きちんと揃っていたはずだ。仮に忘れてしまったのだとしても、少女との奇妙な共通点が引っかかる。
私はベッドの上に横たわっている少女を注視した。いつも通りに静かに寝かせられたその身体からは十本の指が欠けている。一見しただけでは目立たないが、一度目に付くとそれは嫌というほど存在感を主張した。
けれど夢に出てきたのは少女ではない。それだけは断言できる。私の身体の上に乗っていた女は完全に成熟した身体つきをしていた。あちこちが骨ばっていて細く、丸みに乏しい身体つきではあったけれど、腰周りや鎖骨の熟れ方は確かに成人女性のものだった。
あれは少女ではない。とすると、私はかつての恋人の指の欠落さえ忘れてしまったのだろうか。忘れないで、と彼女は囁いていたのに。
夕方になると少女は目を覚ます。
「『月の光』が聴いてみたい」
その言葉に従い、買ってきたレコードをプレーヤーにセットして小さな音量で音楽を流す。しばらく黙ってそれを聴いた後、少女が話しかけてくる。
「ねえ、私がここに来てから、誰か尋ねてきた人はいた?」
「いないよ」
「あなたって友達はいないの?」
「ほとんどいない上、訪ねてくるような距離の相手はいない」正直に答える。
「そういうの寂しくない?」
「どうかな。もう慣れてしまった」
「慣れる? 慣れられるものなの?」
「人によるだろうね。元々一人が好きなんだ」
少女は少しのあいだ黙る。それから、「羨ましい」と小さな声で言った。
「私は駄目だった。一人でも、誰かに好かれたり認められたりしなくても、平気になろうとしてたけど、でも全然平気じゃなかった。いつもいつも寂しくて辛かった」
「僕だって君の頃にはそうだった。みんなそうだよ」
「いつ頃から平気になったの?」
「さあ。三、四年前くらいからかな。気がついたら平気になってた」
「そんなの、気が遠くなるくらい先にしか聞こえない。私には待ってられなかったと思う」
「僕もそう思ってたよ。十五、六の頃には」
「でもなんとか耐えたのね?」
「そういうことになるのかな」
もっとうまい年齢の重ね方だってあったのだろう。もっと何かを失わずに、傷つけずに、遠回りせずに、湾曲せずに、素直に年を取れたはずだ。耐えたと言えば聞こえはいい。でも耐えていただけだ。
「恋人はいる?」
「以前はいたよ。今は居ない」
「別れてしまったの?」
「そうだね。そう表現することも出来る」
私は少しだけウイスキーに口をつける。苦味を口先に湿らせて、続きを口にするか一瞬だけ考えた。
「死んでしまったんだ」
口にした途端、その言葉はひそやかに重みを纏い、しんと空気に沈んでいく。少女は沈黙した。息を飲み込む気配が伝わってくるような気がした。私はグラスをテーブルに置く。ガラスのぶつかる硬質な音がこん、と響いた。
「気を遣わなくてもいいよ。本当に答えたくなければ僕は答えないし、君が何を訊いても不快にはならない。それに君の起きていられる時間は長くない。話したければ話せばいいし、音楽を聴きたいならそうすればいい」
「どうして亡くなったのか、訊いてもいい?」
「自殺だった」
「……どうして?」
「わからない。急に居なくなってしまった。遺書には何が辛いとか、理由みたいなものは一切書かれていなかった。自分の持ち物の処分についてだけ。とはいえそれだってほとんど処分済みで、僕にできることなんかほんの少ししかなかったけど」
「どんな風に亡くなったの」
「わからない」
「わからない?」
「覚えてないんだ」私はソファに寝転がり、足を組んだ。
「君が来てから気がついた。僕の記憶にはいくつかの欠落があるらしい。今までなんの疑問もなく同じ生活パターンを繰り返してきたから気づかなかったけれど。思い出せないことがいくつもあるんだ」
「例えば」
「例えば、」
クラシックのレコードが家にある理由。そう言おうとしてふと記憶が蘇った。これは彼女の遺品なのだ。なぜ忘れていたのだろう。洋服や生活用品のほとんどを彼女は処分していたけれど、数少ないレコードだけは遺されていた。それを私が引き取った。
それならばおそらく、あの中古レコード屋を気に入っていたのも彼女なのだろう。単純な推理だが間違いないはずだ。でもそれを記憶と照合することは出来ない。私はあの店に居た彼女の姿を覚えていない。そう、彼女の容姿さえうまく思い出せない。
「今まで自分に恋人がいたことも忘れていた。忘れていたというより、思い出す機会がなかった。このレコードを買ってきた店のこともどうやって知ったのか覚えてない。たぶん恋人に教えてもらったんだと思う。それから昨日君と行ったあの岩場も、いつどうやって知ったのか思い出せないんだ。ただ知っていた」
「そう」少女は冷静な声で相槌を打ち、それから言う。「大丈夫よ。少しずつ思い出す。現に、あなたはもういくつか記憶を取り戻しているみたい」
「そうだといいけれど」
私は答える。本当にそうなのだろうか。これはただ時間のせいで忘れてしまったのとは違う種類のもののような気がする。思い出したくないから、覚えていたくないから、忘れてしまったのではないだろうか?
「私とは反対ね」
少女が呟く。
「私は少しずつ色んなことを思い出せなくなっていくみたい。霞がかかっていくように、記憶の手触りがどんどんぼやけてあやふやになっていくの。自分が何歳だったのか、正確に思い出せなくなっていることにさっき気がついた。十五歳だった気もするし、十六歳だった気もする。ううんもっと若かったかも」
彼女は淡々と話す。
「そのうち全部忘れてしまうのかもしれない。生きていたときのことも、こうやって話していたことも、自分がどうして死んだのかも、どんな風に死んだのかも。そうしたら私はどうなるんだろう。消えてしまうの? それとも消えずに残り続けるの? 何も思い出せなくなってしまっても」
何か言おうと試みても、確定的なことは何一つ言えない立場に私は居た。少女がどうなるのか私にはわかりようもない。何を言ってもそれは無責任な慰めにしかならない。
「話せばいいよ」
それさえ無責任だとわかっていて、私は言う。
「話したいことがあれば話せばいい。忘れたとしても、僕が代わりに覚えていればいいんだ」
「でもあなたもいつか忘れてしまう」
「そうだね。でもみんなそうだ。いつかは忘れられてしまう。僕が覚えていたってその記憶はほんの少し生き長らえるだけに過ぎない。だからどうしたって君の自由だ」
そう口にしたところで、急に脳の奥に鋭い痛みが走った。私は思わず反射的に強く目を閉じる。
「忘れないでね」、と恋人は言った。でもそれは夢の記憶にすぎない。その声が発せられたオリジナルの瞬間を、私は忘れている。こんなに脆弱な記憶を頼りにしろだなんて傲慢な言葉でしかない。
それでも、どんなに稚拙な選択肢であったにせよ、私はそれを差し出すしかないのだった。もう少女のように潔癖な年齢でもなかった。自分にできることしかしてやれないのだとわかっていた。
「そうね」
少女は呟いた。感情のこもらない中立的な声だった。ちょうどレコードが途切れ、部屋に深海のような沈黙が訪れた。
それから私たちはまた夜中に海へ向かう。
少女はその日腕を失った。二の腕の付け根から、それはまるで果実を収穫するようにほんの少しの力で身体から離れてしまう。指よりもずっと脆いような気さえした。白い腕の付け根の辺りに紫色のあざがあちこちに見えた。細長い何かで殴打された痕だ。私はそれを月の光に当てて眺めてから、静かに海に放ち、波にさらわれてそれが別世界に届くのを見つめていた。
少女が私の腕の中で静かに呟いた。
「私もあなたの恋人と同じだった」
自殺したの、と。