辻堂朝乃の秘密
辻堂という珍しい名字から、名簿だけで2人の名前を見た人物はまず誰でも、双子かもしれないと疑う。そして実際に2人を見比べてみて、絶対に違うと確信する。たまたま同じ名字に、朝と夜という相反した名前がついていただけであって、こんな偶然もあるものだ、などと勝手に納得する。それほどに2人は、共通点の無い双子の兄妹だった。
兄の夜次が、無口で他人を寄せ付けない態度を保ち続けるのに対し、妹の朝乃はお喋りで明るく、社交的なので友人が多い。成績も、兄の夜次が数学と日本史と現代文が得意なのに対し、妹の朝乃は地理と化学と英語が得意で、両者ともその逆はあまり芳しくない。夜次が左利きなら朝乃が右利きであり、夜次が卵の黄身を苦手とするなら朝乃は白身が苦手。夜次はA型、朝乃はB型。顔は、横に並べて比べてみるとよく似ているのだが、いつも怒ってるような仏頂面と、子供が勝手に懐いてくる笑顔では印象が違いすぎて、似ていると認識する事が出来ない。
ミラーツイン、という、2人でつむじが逆だったり、ともすれば臓器まで左右対称になっている双子がいると聞くが、性別、趣向、個性まで逆となるとその比ではない。とにかく何もかもが正反対だったので、辻堂夜次にはともかくとして、朝乃にさえ誰も尋ねもしなかった。学校で2人が会話を交わす事は一切ないし、廊下ですれ違っても挨拶もない。「2人は双子なのか?」まるで幼稚な冗談みたいな質問のように思えて、誰も出来なかったのだろう。しかし2人は、確かに双子なのだ。
単一の受精卵が分裂して2人分の人間を形作る一卵性双生児とは違い、元々が別々の受精卵から発生するという所以で、二卵性双生児は、似ていない事がままある。男女も、血液型も、時には人種が違う事もあるので、辻堂兄妹が真逆の性質を持って生まれた事もそれほど不自然な事ではないかもしれない。しかしながら、私はこの取材において、「より真実に近い物」を求めている。試合中の辻堂兄妹の動きは、「双子ならではの息のあったプレー」と評するには全く持って物足りない、まるで目が4つ、手が4つ、足が4つの人間が、セカンドとショートを守っているように感じられたくらいだった。とはいえ、八戸心理の口にした「超能力」という言葉を丸々信じ、それをここにそのまま書いて片付けてしまうほど私は愚かではない。よって、検証の必要があった。
許可を取り、2人のDNAを採取し、専門家に鑑定をしてもらった。すると、辻堂兄妹の遺伝子は、正確に「75%」一致していた。
これが何を意味するのか。少し専門的な話になるが、同時にこれは辻堂兄妹の秘密を理解するのに必要かつ重要な手がかりかもしれない。
双子には、「一卵性双生児」「二卵性双生児」の他に、「半一卵性双生児」という分類が存在する。これは、受精卵が2つに分裂するのではなく、受精する前の卵が分裂するという極めて稀な、というより、理論上の存在は示されているが、実在する事が確認されていないような幻の存在である。この70億分の2の特殊性が、寸分たがわず完璧に一致した呼吸を生んでいるという可能性は大いにある。
参考までに、ある実例をあげよう。
カナダのとある州に、頭部が繋がった状態で生まれた結合体双生児、いわゆるシャム双子の姉妹が生まれた。名前をタチアナとクリスタといい、今年で5歳、無事に生活している。彼女達は、別々の思考、正常な頭脳を持ちながら、同時に感覚を共有している。例えば片方をくすぐれば、もう片方もくすったがるし、片方の喉が渇けば、もう片方の喉が乾いたように感じる。性格も別、発育も別、感情も別でありながら、その根本となる感覚を共有しており、彼女達は言葉を交わさなくても何を伝えたいかを理解する。
結合体双生児が、健康に成長する事自体が稀であるのに、共有している部分が脳であるというこの奇跡じみた運命の悪戯は、脳科学に対して様々な難問と、新たな可能性を啓示している。感覚、意識、思考、いずれも形には見えないが、ごく普通に存在し、そして誰もが知っている物。脳というブラックボックスは、未だその全貌を明かさない。これはあくまでも極端な例ではあるが、双子ならではの意思疎通というものは、確かに存在する。同じ台詞を同じタイミングで喋る双子は、誰でも見た事があるだろう。
さて、辻堂兄妹の話に戻ろう。言うまでもなく、彼等は結合体双生児ではない。しかし2人の間には、普通の兄妹にはあってはならない関係が存在していた。どのような経緯で関係を持ったのか、それは最後まで語ってはくれなかったが、とにかく辻堂兄妹は、普通の双子では無かった。
男女の関係が、意思の疎通をもたらす事があると唱えるのは、ややロマンチスト過ぎるかもしれない。しかし、これはそもそも万人が納得のいく説明などつけられる代物ではないようにも思える。関係が先か、共有が先か、それすらも明確ではない。
だが、これだけは言い切れる。辻堂夜次の伝説が行われた時、すぐ傍には辻堂朝乃が居た。辻堂夜次は確かに目隠しをしていたし、暗闇の中を疾走した事になるが、辻堂朝乃は目隠しをしておらず、まるで他人のフリをしてその伝説が成し遂げられるのを見守っていた。
秘密は秘密であるべきだとは思うが、私はこれを暴かなければならない立場にいる。もちろん、八戸心理のようにそれを使って脅す事はしない。あくまでも本人達の許可を得て、出来るだけ完璧な取材を心がけた。
その結果、導き出された結論は、なんとも形容しがたい物だった。親友以上、家族以上、恋人以上に意思を疎通してきた2人の、ほとんど生まれて初めてと言ってもよい行き違い。それを発生させたのは他ならぬ八戸心理であるし、回りまわってその恩恵を受けたのもまた、八戸心理だった。
「田中さん、具の準備出来た!? あと2分で炊き上がるから急いで!」
沈み行く夕日に追いかけられるように、放課後の調理室は慌しかった。目的は、正規野球部員達の空腹を満たす事。これが、他の学校に負けない為の「もうひとがんばり」を引き出す秘訣であると、テキパキと支度を進めるマネージャー達は自負していた。
「梅干は1つ! 鮭は2切れ! 塩多めにね! ほらそこ! 机運んだ後はきちんと手を洗う!」
芹名高校3年辻堂朝乃は、正規野球部の筆頭マネージャーだった。筆頭というからには、他のマネージャーとは仕事量が違う。
まずは資金の管理。学校からは、他の体育会系の部活とほとんど同額の部費とは別に、強化費という名目の資金が出ており、そこに地域からの支援が加わると、7桁はゆうに超える金額の活動費になる。これを上手に運用し、なおかつ明瞭に会計を執行し管理する事は並大抵の努力ではない。ほぼ毎日の給仕にかかる食費。練習道具の老朽化をチェックして新しい物と入れ替える備品代。それとは別にかかる、ロジンバッグ、ボール、酸素スプレー、絆創膏やシップの類など、消耗品費用も積もれば大きな金額になる。ましてや芹名高校正規野球部の規模は通常の高校の比ではない。年度の初めにあった多額の資金も、新しい1年生が入学してくる頃には底をつく。筆頭マネージャーの運営能力が認められるのは、この時を置いて他にない。
更に、他の高校との交流、野球雑誌の記者や私のようなスカウトマンから取材の申し込みがあれば、そのスケジューリングもしなければならない。他校ならば監督がやるような仕事も、芹名高校では筆頭マネージャーに一任される。それだけに重圧は重く、能力が求められる。
辻堂朝乃が筆頭マネージャーに就任したのは2年生の冬からであり、その後に行われた春季選抜で芹名高校が見事に優勝を収める事が出来た事に、辻堂朝乃の助力があったのは間違いない。私の経験上、強い野球部には優秀なマネージャーが存在する。
「出来上がった物から順番に運んでいって! 1軍と2軍はまだノックが終わってないから、第2グラウンドからね!」
辻堂朝乃の指揮のもと、10数名のマネージャー達がきびきびと動く。毎日の洗濯、そして食事の準備と、その労働環境は苛酷を極め、野球部の人気からマネージャーを志望する生徒は多いが、この戦争のような状況で1週間持つ女子はなかなかいない。見ているだけでいるのと実際にやるのは大違いだが、支えるというのはどちらかというと後者に近いようだ。
元々、辻堂朝乃は中学まで野球をやっていた。兄である辻堂夜次が、陸上や水泳や体操などが得意なのに対し、その正反対である所の辻堂朝乃は球技が得意だった。小学校のリトルリーグではピッチャーでレギュラーをしていた事もあったが、成長につれて筋力が追いつけなくなると、柔軟さを生かしてセカンドの守備をこなすようになった。そして芹名高校に入学すると、一旦は女子ソフトボール部に入ったものの、やはり野球が忘れられなかったのと、甲子園という目標に向かって努力する事に魅力を感じ、マネージャーとなった。そして、選手に惹かれて入部した他のマネージャーとは違い、純粋な野球への愛がある故にか、マネージャーとしての手腕を発揮していったという訳だ。
しかし綻びは突然訪れた。大好きな野球をやれないストレスは、丸々2年、辻堂朝乃の肩にのしかかり続けた。選手を応援し、全力で支える一方、その活躍に嫉妬していた。晴れ晴れとした高気圧のど真ん中に、一陣のつむじ風。それは次第に大きくなって、耐えられない痛みを発生し始めた。辻堂朝乃は野球を愛していた。兄にかたむける愛情とはまた別の、だが同じように歪んだ愛情だった。
「八戸心理、というのを知っているか?」
1日の終わり、自宅のベッドの上で、2人は背中を向け合って横になっている。行為が終わり、しばらくして辻堂朝乃が眠りにつきかけた頃、辻堂夜次はそう尋ねた。普段は言葉を嫌う辻堂夜次も、朝乃と一緒の時だけは少し喋った。
「知ってるけど……」
知らないはずがない。八戸心理は以前、杵原良治にフラれた後、正規野球部にマネージャーとして入部している。1週間の後、下剤混入事件が発覚したその日にやめてはいるが、少なくともその1週間は、先ほど述べたマネージャーとしての激務を全うしていた。
「今日、八戸心理に脅された」
そこに戸惑いや怒りや意見を求めるようなニュアンスは無く、ただ事実を目の前に並べるだけのように辻堂夜次は言う。その一方で、辻堂朝乃の鼓動が早くなる。警告を繰り返す。眠っていた罪悪感が目を覚ます。
「証拠写真もあるらしい」
「ど、どうして……いつ、そんなものを……」
辻堂朝乃は慟哭する。殺してやりたい、そんな感情が浮かんで、すぐに錆び付く。
「これをバラされたくなければ、私の野球部に入れ、と言ってきた」
「『私の』野球部?」
「ああ。八戸心理が個人で野球部を作って、本物の野球部を倒す気らしい」
馬鹿げているがスケールだけは大きなその発想に、辻堂朝乃は困惑というよりはイラつきの感情を覚える。何様のつもりなのか、しかし気づくと棘は自分に返ってきている。
思わず、辻堂朝乃が夜次の背中を抱きしめた。今すぐに体温を交換しなければ、凍えて死んでしまうような気がしたからだ。得体の知れない霧の中にいるような気分だった。自分のした事がフラッシュバックして、目も開けられず、ただ涙を零す。
そこに辻堂夜次の、短いが強い言葉が刺さる。
「俺は、屈するつもりはない」語気を緩め、顔は見せないが微笑んで続ける。「だけど、お前がどうしてもというなら……」
「お兄ちゃん、ごめんなさい」消えていまいそうになりながらも、必死に、「私は馬鹿だったの。自分の気持ちが、分からない。……怖い」
「お前が謝る事じゃない」
「でも、私の、私のせい……」
吐く言葉は嗚咽に飲み込まれて、形を失っていく。
「私が、私があんな事をしなければ……」
「……朝乃?」
「どうしてっ? でも、耐えられ……私、野球がしたくて……」
「朝乃、待ってくれ。どういう事だ?」
辻堂夜次が振り返る。その胸に朝乃の頭部を抱きながら、優しく尋ねる。
「……え?」
「何かが違う。俺達の関係が八戸心理にバレたんだぞ?」
「嘘……」
「嘘じゃない。……お前、何をしたんだ?」
例の下剤混入事件の時、他のマネージャーと一緒におらず、食材に下剤を入れるチャンスがあった生徒が実は2人いた。片方は、何をするか分からないと噂の狂犬。もう片方は信頼も厚く、頼りになる筆頭マネージャー。必然、容疑は片方に絞られたが、その生徒は自白もしれなければ証拠も現れなかった。
辻堂朝乃はある罪を犯した。そしてその濡れ衣を被ったのが、八戸心理だった。
兄の夜次が、無口で他人を寄せ付けない態度を保ち続けるのに対し、妹の朝乃はお喋りで明るく、社交的なので友人が多い。成績も、兄の夜次が数学と日本史と現代文が得意なのに対し、妹の朝乃は地理と化学と英語が得意で、両者ともその逆はあまり芳しくない。夜次が左利きなら朝乃が右利きであり、夜次が卵の黄身を苦手とするなら朝乃は白身が苦手。夜次はA型、朝乃はB型。顔は、横に並べて比べてみるとよく似ているのだが、いつも怒ってるような仏頂面と、子供が勝手に懐いてくる笑顔では印象が違いすぎて、似ていると認識する事が出来ない。
ミラーツイン、という、2人でつむじが逆だったり、ともすれば臓器まで左右対称になっている双子がいると聞くが、性別、趣向、個性まで逆となるとその比ではない。とにかく何もかもが正反対だったので、辻堂夜次にはともかくとして、朝乃にさえ誰も尋ねもしなかった。学校で2人が会話を交わす事は一切ないし、廊下ですれ違っても挨拶もない。「2人は双子なのか?」まるで幼稚な冗談みたいな質問のように思えて、誰も出来なかったのだろう。しかし2人は、確かに双子なのだ。
単一の受精卵が分裂して2人分の人間を形作る一卵性双生児とは違い、元々が別々の受精卵から発生するという所以で、二卵性双生児は、似ていない事がままある。男女も、血液型も、時には人種が違う事もあるので、辻堂兄妹が真逆の性質を持って生まれた事もそれほど不自然な事ではないかもしれない。しかしながら、私はこの取材において、「より真実に近い物」を求めている。試合中の辻堂兄妹の動きは、「双子ならではの息のあったプレー」と評するには全く持って物足りない、まるで目が4つ、手が4つ、足が4つの人間が、セカンドとショートを守っているように感じられたくらいだった。とはいえ、八戸心理の口にした「超能力」という言葉を丸々信じ、それをここにそのまま書いて片付けてしまうほど私は愚かではない。よって、検証の必要があった。
許可を取り、2人のDNAを採取し、専門家に鑑定をしてもらった。すると、辻堂兄妹の遺伝子は、正確に「75%」一致していた。
これが何を意味するのか。少し専門的な話になるが、同時にこれは辻堂兄妹の秘密を理解するのに必要かつ重要な手がかりかもしれない。
双子には、「一卵性双生児」「二卵性双生児」の他に、「半一卵性双生児」という分類が存在する。これは、受精卵が2つに分裂するのではなく、受精する前の卵が分裂するという極めて稀な、というより、理論上の存在は示されているが、実在する事が確認されていないような幻の存在である。この70億分の2の特殊性が、寸分たがわず完璧に一致した呼吸を生んでいるという可能性は大いにある。
参考までに、ある実例をあげよう。
カナダのとある州に、頭部が繋がった状態で生まれた結合体双生児、いわゆるシャム双子の姉妹が生まれた。名前をタチアナとクリスタといい、今年で5歳、無事に生活している。彼女達は、別々の思考、正常な頭脳を持ちながら、同時に感覚を共有している。例えば片方をくすぐれば、もう片方もくすったがるし、片方の喉が渇けば、もう片方の喉が乾いたように感じる。性格も別、発育も別、感情も別でありながら、その根本となる感覚を共有しており、彼女達は言葉を交わさなくても何を伝えたいかを理解する。
結合体双生児が、健康に成長する事自体が稀であるのに、共有している部分が脳であるというこの奇跡じみた運命の悪戯は、脳科学に対して様々な難問と、新たな可能性を啓示している。感覚、意識、思考、いずれも形には見えないが、ごく普通に存在し、そして誰もが知っている物。脳というブラックボックスは、未だその全貌を明かさない。これはあくまでも極端な例ではあるが、双子ならではの意思疎通というものは、確かに存在する。同じ台詞を同じタイミングで喋る双子は、誰でも見た事があるだろう。
さて、辻堂兄妹の話に戻ろう。言うまでもなく、彼等は結合体双生児ではない。しかし2人の間には、普通の兄妹にはあってはならない関係が存在していた。どのような経緯で関係を持ったのか、それは最後まで語ってはくれなかったが、とにかく辻堂兄妹は、普通の双子では無かった。
男女の関係が、意思の疎通をもたらす事があると唱えるのは、ややロマンチスト過ぎるかもしれない。しかし、これはそもそも万人が納得のいく説明などつけられる代物ではないようにも思える。関係が先か、共有が先か、それすらも明確ではない。
だが、これだけは言い切れる。辻堂夜次の伝説が行われた時、すぐ傍には辻堂朝乃が居た。辻堂夜次は確かに目隠しをしていたし、暗闇の中を疾走した事になるが、辻堂朝乃は目隠しをしておらず、まるで他人のフリをしてその伝説が成し遂げられるのを見守っていた。
秘密は秘密であるべきだとは思うが、私はこれを暴かなければならない立場にいる。もちろん、八戸心理のようにそれを使って脅す事はしない。あくまでも本人達の許可を得て、出来るだけ完璧な取材を心がけた。
その結果、導き出された結論は、なんとも形容しがたい物だった。親友以上、家族以上、恋人以上に意思を疎通してきた2人の、ほとんど生まれて初めてと言ってもよい行き違い。それを発生させたのは他ならぬ八戸心理であるし、回りまわってその恩恵を受けたのもまた、八戸心理だった。
「田中さん、具の準備出来た!? あと2分で炊き上がるから急いで!」
沈み行く夕日に追いかけられるように、放課後の調理室は慌しかった。目的は、正規野球部員達の空腹を満たす事。これが、他の学校に負けない為の「もうひとがんばり」を引き出す秘訣であると、テキパキと支度を進めるマネージャー達は自負していた。
「梅干は1つ! 鮭は2切れ! 塩多めにね! ほらそこ! 机運んだ後はきちんと手を洗う!」
芹名高校3年辻堂朝乃は、正規野球部の筆頭マネージャーだった。筆頭というからには、他のマネージャーとは仕事量が違う。
まずは資金の管理。学校からは、他の体育会系の部活とほとんど同額の部費とは別に、強化費という名目の資金が出ており、そこに地域からの支援が加わると、7桁はゆうに超える金額の活動費になる。これを上手に運用し、なおかつ明瞭に会計を執行し管理する事は並大抵の努力ではない。ほぼ毎日の給仕にかかる食費。練習道具の老朽化をチェックして新しい物と入れ替える備品代。それとは別にかかる、ロジンバッグ、ボール、酸素スプレー、絆創膏やシップの類など、消耗品費用も積もれば大きな金額になる。ましてや芹名高校正規野球部の規模は通常の高校の比ではない。年度の初めにあった多額の資金も、新しい1年生が入学してくる頃には底をつく。筆頭マネージャーの運営能力が認められるのは、この時を置いて他にない。
更に、他の高校との交流、野球雑誌の記者や私のようなスカウトマンから取材の申し込みがあれば、そのスケジューリングもしなければならない。他校ならば監督がやるような仕事も、芹名高校では筆頭マネージャーに一任される。それだけに重圧は重く、能力が求められる。
辻堂朝乃が筆頭マネージャーに就任したのは2年生の冬からであり、その後に行われた春季選抜で芹名高校が見事に優勝を収める事が出来た事に、辻堂朝乃の助力があったのは間違いない。私の経験上、強い野球部には優秀なマネージャーが存在する。
「出来上がった物から順番に運んでいって! 1軍と2軍はまだノックが終わってないから、第2グラウンドからね!」
辻堂朝乃の指揮のもと、10数名のマネージャー達がきびきびと動く。毎日の洗濯、そして食事の準備と、その労働環境は苛酷を極め、野球部の人気からマネージャーを志望する生徒は多いが、この戦争のような状況で1週間持つ女子はなかなかいない。見ているだけでいるのと実際にやるのは大違いだが、支えるというのはどちらかというと後者に近いようだ。
元々、辻堂朝乃は中学まで野球をやっていた。兄である辻堂夜次が、陸上や水泳や体操などが得意なのに対し、その正反対である所の辻堂朝乃は球技が得意だった。小学校のリトルリーグではピッチャーでレギュラーをしていた事もあったが、成長につれて筋力が追いつけなくなると、柔軟さを生かしてセカンドの守備をこなすようになった。そして芹名高校に入学すると、一旦は女子ソフトボール部に入ったものの、やはり野球が忘れられなかったのと、甲子園という目標に向かって努力する事に魅力を感じ、マネージャーとなった。そして、選手に惹かれて入部した他のマネージャーとは違い、純粋な野球への愛がある故にか、マネージャーとしての手腕を発揮していったという訳だ。
しかし綻びは突然訪れた。大好きな野球をやれないストレスは、丸々2年、辻堂朝乃の肩にのしかかり続けた。選手を応援し、全力で支える一方、その活躍に嫉妬していた。晴れ晴れとした高気圧のど真ん中に、一陣のつむじ風。それは次第に大きくなって、耐えられない痛みを発生し始めた。辻堂朝乃は野球を愛していた。兄にかたむける愛情とはまた別の、だが同じように歪んだ愛情だった。
「八戸心理、というのを知っているか?」
1日の終わり、自宅のベッドの上で、2人は背中を向け合って横になっている。行為が終わり、しばらくして辻堂朝乃が眠りにつきかけた頃、辻堂夜次はそう尋ねた。普段は言葉を嫌う辻堂夜次も、朝乃と一緒の時だけは少し喋った。
「知ってるけど……」
知らないはずがない。八戸心理は以前、杵原良治にフラれた後、正規野球部にマネージャーとして入部している。1週間の後、下剤混入事件が発覚したその日にやめてはいるが、少なくともその1週間は、先ほど述べたマネージャーとしての激務を全うしていた。
「今日、八戸心理に脅された」
そこに戸惑いや怒りや意見を求めるようなニュアンスは無く、ただ事実を目の前に並べるだけのように辻堂夜次は言う。その一方で、辻堂朝乃の鼓動が早くなる。警告を繰り返す。眠っていた罪悪感が目を覚ます。
「証拠写真もあるらしい」
「ど、どうして……いつ、そんなものを……」
辻堂朝乃は慟哭する。殺してやりたい、そんな感情が浮かんで、すぐに錆び付く。
「これをバラされたくなければ、私の野球部に入れ、と言ってきた」
「『私の』野球部?」
「ああ。八戸心理が個人で野球部を作って、本物の野球部を倒す気らしい」
馬鹿げているがスケールだけは大きなその発想に、辻堂朝乃は困惑というよりはイラつきの感情を覚える。何様のつもりなのか、しかし気づくと棘は自分に返ってきている。
思わず、辻堂朝乃が夜次の背中を抱きしめた。今すぐに体温を交換しなければ、凍えて死んでしまうような気がしたからだ。得体の知れない霧の中にいるような気分だった。自分のした事がフラッシュバックして、目も開けられず、ただ涙を零す。
そこに辻堂夜次の、短いが強い言葉が刺さる。
「俺は、屈するつもりはない」語気を緩め、顔は見せないが微笑んで続ける。「だけど、お前がどうしてもというなら……」
「お兄ちゃん、ごめんなさい」消えていまいそうになりながらも、必死に、「私は馬鹿だったの。自分の気持ちが、分からない。……怖い」
「お前が謝る事じゃない」
「でも、私の、私のせい……」
吐く言葉は嗚咽に飲み込まれて、形を失っていく。
「私が、私があんな事をしなければ……」
「……朝乃?」
「どうしてっ? でも、耐えられ……私、野球がしたくて……」
「朝乃、待ってくれ。どういう事だ?」
辻堂夜次が振り返る。その胸に朝乃の頭部を抱きながら、優しく尋ねる。
「……え?」
「何かが違う。俺達の関係が八戸心理にバレたんだぞ?」
「嘘……」
「嘘じゃない。……お前、何をしたんだ?」
例の下剤混入事件の時、他のマネージャーと一緒におらず、食材に下剤を入れるチャンスがあった生徒が実は2人いた。片方は、何をするか分からないと噂の狂犬。もう片方は信頼も厚く、頼りになる筆頭マネージャー。必然、容疑は片方に絞られたが、その生徒は自白もしれなければ証拠も現れなかった。
辻堂朝乃はある罪を犯した。そしてその濡れ衣を被ったのが、八戸心理だった。
時は前後する事になるが、内海立松が入部した頃から辻堂夜次に交渉もとい脅迫を持ちかけるまでの間に、八戸心理はマネージャーとしての仕事も並行して進めていた。チームをチームたらしめる要素、即ち「部室」「練習場」「ユニフォーム」の3つ。本来、部活として成立させるならばこれに加えて「顧問」と「校長の許可」が必要になるが、私怨を消化する為の復讐機関を正式な部活として登録する事にメリットが無いと判断した八戸心理はこの2つを無視し、八戸心理的やり方ではあったが、先の3つを入手する為に努力していた。
まずは部室。正規野球部を打倒する為の作戦会議と、練習準備、道具の手入れをするのに必要な場所は、不法占拠という形で手に入れた。犠牲になったのは、男子ラグビー部。15年前までは、芹名高校の各名門部活陣に加わる強豪だったのだが、段々と人が減り最終的にチームを維持するのも難しくなり、自然消滅も時間の問題と思われていた所が狙い打たれる形になった。方法は単純。まずは部室の鍵を勝手に新しい物に交換し、その鍵を久我修也が所持する。現在のラグビー部の中には、久我修也にタックルをくらわせられる度胸のある人物がいないので、必然的に部室に入れるのは第二野球部のみという事になった。
鍵を管理するように命じられた久我修也が大人しく従うはずもなく、当然文句を言って対価を要求するだろうと芦屋歩は予想したが、それは無かった。何故ならその数日、ドーピングの成果が早速出てきた久我修也の肉体は、1人でゆっくりと強化に専念出来る空間を欲していた。利害さえ一致していれば、八戸心理と違って久我修也は大人しい。元々サボり気味だった授業も完全に放棄するようになり、部室に簡単なトレーニングマシンが導入されると、久我修也はそこに引きこもる形になった。
次に練習場。これは労働力の不法搾取という手段を用いたようだ。
芹名高校の敷地内ぎりぎりの所にある、最も古くて狭い『旧グラウンド』と呼ばれる場所がある。そこは長らく使っていないだけあって雑草も生え放題の荒れ地で、手入れの必要があった。全くのゼロから野球をやろうという第二野球部に対して、まさにおあつらえ向きの場所であり、努力や根性を重んじる物語であれば、ここはマネージャーである八戸心理が汗水垂らして整備をするのがスジという物だが、当然そうはならなかった。
八戸心理は、まず芦屋歩と内海立松に正規野球部員を名乗らせ「これから使う予定がある」と芹名高校の用務員に嘘を吹き込み、まずは除草機で大雑把に雑草を刈らせた。次に環境委員会と文化祭実行委員を篭絡し、「文化祭における野外空きスペース確保と環境改善の為」という名目で委員会に所属する生徒達に石を取り除いたり細かい雑草を引き抜く作業をさせた。仕上げに、他校への練習試合に正規野球部が赴いてる間隙を突き、普段から1軍が使うメイングラウンドの整備にきていた専門業者を騙して旧グラウンドに誘導し、土の整備はおろかラインまで引かせた。結局、専門業者が過ちに気づいた時には既に遅く、正規野球部のマネージャーを名乗った謎の女子生徒は、グラウンドの整備が終わると同時にどこかに消えていた。
結局、八戸心理は自らの手を一切煩わせる事なく口先だけで練習場を手に入れる事に成功した。
最後にユニフォーム。こればかりは、例え八戸心理といえどもお手上げだったようだ。正規野球部と同じ物を用意しようとして窃盗を試みるも、当然ユニフォームには全員名前が書いてある。業者に発注し、請求書を正規野球部に押し付ける事も考えたが、それには筆頭マネージャー辻堂朝乃のサインと判子が必要な仕組みになっていたので断念した。
私服や体操着で練習させる訳にもいかない。そこで仕方なく、八戸心理は身銭を切った。練習用のユニフォーム9着と、試合用ユニフォーム同じく9着。貯金を全額下ろす事になったが、勝つには必要な出費だった。試合用ユニフォームはチームが全員揃ってから注文するとして、先に購入しておいた練習用のユニフォーム9着が届いたその日、八戸心理は辻堂夜次に答えを求めた。ユニフォームを差し出し、「これがお前のだ」と、一言。求めた答えは1つだった。
「断る」
辻堂夜次は毅然とした態度で八戸心理と対峙していた。昨夜、今まで兄の自分さえ気づかなかった妹の一面と、そして自分が断ったときに目の前の悪魔が取るであろう行動に悩まされ、ぐるぐると思考の迷路を彷徨った。しかしその迷路では結局、屈するという選択肢は見つからなかった。どのような不利益を被ろうと、納得のいかない事には賛同はしない。例の伝説の根源にもこの反骨心がある。
「いいだろう。この写真は焼き増しして学校中にバラまいてやる。もちろんお前の両親にもな」
八戸心理が負けじと立ち向かう。それでも辻堂夜次は怯まない。
「好きにしろ」
そう言い残して、奪いたてほやほやの第二野球部部室を後にしようとする。既に辻堂夜次を入部させる事が確定事項となっていた八戸心理は、彼をなんとしても引き止めなければならなかったが、そこで声をかけたら交渉としては負けになる。腹いせに写真をバラまく事は出来ても、それをすれば交渉材料を失い、2度と辻堂夜次は手に入らない。かといって止めなければ、辻堂夜次は出て行ってしまう。打つ手なし。顔には出ない焦りがある。
辻堂夜次がドアに手をかけ、そこを開いたとき、立ちふさがるように表に人が立っていた。その姿がぴったりと重なっていたので、真後ろにいた八戸心理は気づかなかったが、隣にいた芦屋歩は気づいた。瞬時に自分が正規野球部を名乗って詐欺に加担した事を思い出して、立ち上がる。そこに居たのは、正規野球部筆頭マネージャー、辻堂朝乃だった。
「お兄ちゃん……」
顔は見えなかったが、声でそこにいるのが辻堂朝乃と気づくのと同時に、2人が双子である事を八戸心理は初めて知った。そしてそれを生かして何か新しい脅迫材料を手に入れる事が出来ないか考えたが、思いつかなかった。下剤混入事件の犯人が自分ではない事は知っていたが、辻堂朝乃である事には気づいていない。といより、もしも八戸心理がこれを知っていたら、最初から脅迫の材料に使った事だろう。
「何も言うな朝乃。もう済んだ」
「でも……」
「言うな」
辻堂夜次は朝乃を押し出すように出て行こうとした。悪党がこれを見逃す訳はない。
「何か言いたい事があるなら言ってくださいよ。朝乃先輩」
八戸心理は一応、元正規野球部マネージャーなので、ほんの一時期ではあったが辻堂朝乃の後輩にあたる存在なので、「先輩」とつけるのは決して不自然ではないが、もちろんそこに尊敬という感情は一切こもっていない。
「黙れ八戸。帰るぞ朝乃」
ぐいと引っ張る辻堂夜次の手を、辻堂朝乃はそっと払った。そして制止を振り切って、八戸心理の前に出ると、頭を下げた。
「八戸さん、ごめんなさい」
兄に自分の本性を晒してから、辻堂朝乃は一晩かけて考えた。知らず知らずの内にずっと押さえつけてきた感情と向き合い、1つの答えを出した。人の感情という物は、そもそも人の手に負えるような物ではない。取材をして、事実関係を突き止める事までは可能だが、1つ1つの行動に理由や理屈を求める事は不可能だ。しかしながら、少なくともその時、辻堂朝乃はこう考えた。どういった結果になろうが、ケジメをつけなければ前へは進めない。黙っている事で無事を得るのは、誰かを騙したり脅したりして利益を得ようとする行為と同じ事だ。
「ごめんなさい。あの事件の犯人は、私です」
八戸心理が悪質な微笑みを見せた。きちんと考えて出した正しい答えが、利益を生むとは限らない。私が思うに、元々辻堂朝乃には「衝動的」な部分がある。感情を優先し、計画性を唾棄する癖。事件の根本的原因もそこにあり、癖が自分の首を締め付ける事には気づいていない。
「こうしよう」
どのような事実があれ、脅しには屈しないと繰り返し主張する辻堂夜次と、抱え込んでいた物を吐き出してすっきりした辻堂朝乃に、八戸心理は提案する。
「辻堂夜次、お前がうちの部員と野球で勝負をして、負けたら朝乃先輩と一緒に入部してもらう。ついでに、朝乃先輩には私に濡れ衣をかけた罰としてある事に協力してもらう。もちろん、勝てれば私は何もしない。例の写真も処分するし、朝乃先輩のした事も黙っておく」
勝てば利益があり、負ければ何も無し。八戸心理の提案は理不尽ではあったが唯一建設的でもあった。辻堂夜次は既に学校を辞める覚悟までしていたが、それを揺るがすには、万事が無事に済むような可能性を示さなければならなかった。
「もちろん、野球未経験者を相手に同じ条件で勝負をしろとは言わない。変則3打席で、夜次先輩には『足』で勝負してもらう。おい、お前ら」
芦屋歩と内海立松が、また知らず知らずの内に巻き込まれていた事に気づく。久我修也はダンベルの上げ下げを止めず、聞いているのかいないのかは分からない。
「うちからはお前らを出す。歩、お前は変化球禁止で、必ずストライクゾーンど真ん中にスローボールを投げろ。それを夜次先輩がバントをして、3打席中のうちに1回でもセーフティバントを成功させれば勝ちだ。キャッチャーは内海、一塁は久我がやれ」
バットに触った事のないド素人でも、コースが分かっている棒球をバントするのは比較的に楽だと言える。肝心なのは、ピッチャーが転がったボールを拾い、送球するまでにホームベースから一塁までを走りきれるかどうか。確かに、これは単純な足の勝負と言える。然らば陸上部の短距離走者である辻堂夜次にも勝機はある。
提案の趣旨を理解した辻堂夜次は答える。
「確かに俺は野球をした事が無い。だが、勝負なら負けるつもりはない。約束は守るんだろうな?」
「もちろんだ」
今までの八戸心理のしてきた行動に比べれば、これは「勝負」というギャンブル要素が入るので、割と正々堂々とした行いのように見える。しかし当然、八戸心理には打倒杵原という目標がある。目標までの最短距離を駆けるには、回り道になる可能性などあってはならない。
「それから、歩と内海、お前らが負けた場合、問答無用で例のドーピングをしてもらうからな」
「何だって!?」
「当たり前だろう。野球勝負で素人に負けるなんて、鍛え方がまるで足りていない証拠だからな」
コインの表が出れば自分が勝ち、裏が出れば相手が負ける。そして八戸心理の持っていたコインは、両面を同時に出す事の出来る魔法のコインだった。
まずは部室。正規野球部を打倒する為の作戦会議と、練習準備、道具の手入れをするのに必要な場所は、不法占拠という形で手に入れた。犠牲になったのは、男子ラグビー部。15年前までは、芹名高校の各名門部活陣に加わる強豪だったのだが、段々と人が減り最終的にチームを維持するのも難しくなり、自然消滅も時間の問題と思われていた所が狙い打たれる形になった。方法は単純。まずは部室の鍵を勝手に新しい物に交換し、その鍵を久我修也が所持する。現在のラグビー部の中には、久我修也にタックルをくらわせられる度胸のある人物がいないので、必然的に部室に入れるのは第二野球部のみという事になった。
鍵を管理するように命じられた久我修也が大人しく従うはずもなく、当然文句を言って対価を要求するだろうと芦屋歩は予想したが、それは無かった。何故ならその数日、ドーピングの成果が早速出てきた久我修也の肉体は、1人でゆっくりと強化に専念出来る空間を欲していた。利害さえ一致していれば、八戸心理と違って久我修也は大人しい。元々サボり気味だった授業も完全に放棄するようになり、部室に簡単なトレーニングマシンが導入されると、久我修也はそこに引きこもる形になった。
次に練習場。これは労働力の不法搾取という手段を用いたようだ。
芹名高校の敷地内ぎりぎりの所にある、最も古くて狭い『旧グラウンド』と呼ばれる場所がある。そこは長らく使っていないだけあって雑草も生え放題の荒れ地で、手入れの必要があった。全くのゼロから野球をやろうという第二野球部に対して、まさにおあつらえ向きの場所であり、努力や根性を重んじる物語であれば、ここはマネージャーである八戸心理が汗水垂らして整備をするのがスジという物だが、当然そうはならなかった。
八戸心理は、まず芦屋歩と内海立松に正規野球部員を名乗らせ「これから使う予定がある」と芹名高校の用務員に嘘を吹き込み、まずは除草機で大雑把に雑草を刈らせた。次に環境委員会と文化祭実行委員を篭絡し、「文化祭における野外空きスペース確保と環境改善の為」という名目で委員会に所属する生徒達に石を取り除いたり細かい雑草を引き抜く作業をさせた。仕上げに、他校への練習試合に正規野球部が赴いてる間隙を突き、普段から1軍が使うメイングラウンドの整備にきていた専門業者を騙して旧グラウンドに誘導し、土の整備はおろかラインまで引かせた。結局、専門業者が過ちに気づいた時には既に遅く、正規野球部のマネージャーを名乗った謎の女子生徒は、グラウンドの整備が終わると同時にどこかに消えていた。
結局、八戸心理は自らの手を一切煩わせる事なく口先だけで練習場を手に入れる事に成功した。
最後にユニフォーム。こればかりは、例え八戸心理といえどもお手上げだったようだ。正規野球部と同じ物を用意しようとして窃盗を試みるも、当然ユニフォームには全員名前が書いてある。業者に発注し、請求書を正規野球部に押し付ける事も考えたが、それには筆頭マネージャー辻堂朝乃のサインと判子が必要な仕組みになっていたので断念した。
私服や体操着で練習させる訳にもいかない。そこで仕方なく、八戸心理は身銭を切った。練習用のユニフォーム9着と、試合用ユニフォーム同じく9着。貯金を全額下ろす事になったが、勝つには必要な出費だった。試合用ユニフォームはチームが全員揃ってから注文するとして、先に購入しておいた練習用のユニフォーム9着が届いたその日、八戸心理は辻堂夜次に答えを求めた。ユニフォームを差し出し、「これがお前のだ」と、一言。求めた答えは1つだった。
「断る」
辻堂夜次は毅然とした態度で八戸心理と対峙していた。昨夜、今まで兄の自分さえ気づかなかった妹の一面と、そして自分が断ったときに目の前の悪魔が取るであろう行動に悩まされ、ぐるぐると思考の迷路を彷徨った。しかしその迷路では結局、屈するという選択肢は見つからなかった。どのような不利益を被ろうと、納得のいかない事には賛同はしない。例の伝説の根源にもこの反骨心がある。
「いいだろう。この写真は焼き増しして学校中にバラまいてやる。もちろんお前の両親にもな」
八戸心理が負けじと立ち向かう。それでも辻堂夜次は怯まない。
「好きにしろ」
そう言い残して、奪いたてほやほやの第二野球部部室を後にしようとする。既に辻堂夜次を入部させる事が確定事項となっていた八戸心理は、彼をなんとしても引き止めなければならなかったが、そこで声をかけたら交渉としては負けになる。腹いせに写真をバラまく事は出来ても、それをすれば交渉材料を失い、2度と辻堂夜次は手に入らない。かといって止めなければ、辻堂夜次は出て行ってしまう。打つ手なし。顔には出ない焦りがある。
辻堂夜次がドアに手をかけ、そこを開いたとき、立ちふさがるように表に人が立っていた。その姿がぴったりと重なっていたので、真後ろにいた八戸心理は気づかなかったが、隣にいた芦屋歩は気づいた。瞬時に自分が正規野球部を名乗って詐欺に加担した事を思い出して、立ち上がる。そこに居たのは、正規野球部筆頭マネージャー、辻堂朝乃だった。
「お兄ちゃん……」
顔は見えなかったが、声でそこにいるのが辻堂朝乃と気づくのと同時に、2人が双子である事を八戸心理は初めて知った。そしてそれを生かして何か新しい脅迫材料を手に入れる事が出来ないか考えたが、思いつかなかった。下剤混入事件の犯人が自分ではない事は知っていたが、辻堂朝乃である事には気づいていない。といより、もしも八戸心理がこれを知っていたら、最初から脅迫の材料に使った事だろう。
「何も言うな朝乃。もう済んだ」
「でも……」
「言うな」
辻堂夜次は朝乃を押し出すように出て行こうとした。悪党がこれを見逃す訳はない。
「何か言いたい事があるなら言ってくださいよ。朝乃先輩」
八戸心理は一応、元正規野球部マネージャーなので、ほんの一時期ではあったが辻堂朝乃の後輩にあたる存在なので、「先輩」とつけるのは決して不自然ではないが、もちろんそこに尊敬という感情は一切こもっていない。
「黙れ八戸。帰るぞ朝乃」
ぐいと引っ張る辻堂夜次の手を、辻堂朝乃はそっと払った。そして制止を振り切って、八戸心理の前に出ると、頭を下げた。
「八戸さん、ごめんなさい」
兄に自分の本性を晒してから、辻堂朝乃は一晩かけて考えた。知らず知らずの内にずっと押さえつけてきた感情と向き合い、1つの答えを出した。人の感情という物は、そもそも人の手に負えるような物ではない。取材をして、事実関係を突き止める事までは可能だが、1つ1つの行動に理由や理屈を求める事は不可能だ。しかしながら、少なくともその時、辻堂朝乃はこう考えた。どういった結果になろうが、ケジメをつけなければ前へは進めない。黙っている事で無事を得るのは、誰かを騙したり脅したりして利益を得ようとする行為と同じ事だ。
「ごめんなさい。あの事件の犯人は、私です」
八戸心理が悪質な微笑みを見せた。きちんと考えて出した正しい答えが、利益を生むとは限らない。私が思うに、元々辻堂朝乃には「衝動的」な部分がある。感情を優先し、計画性を唾棄する癖。事件の根本的原因もそこにあり、癖が自分の首を締め付ける事には気づいていない。
「こうしよう」
どのような事実があれ、脅しには屈しないと繰り返し主張する辻堂夜次と、抱え込んでいた物を吐き出してすっきりした辻堂朝乃に、八戸心理は提案する。
「辻堂夜次、お前がうちの部員と野球で勝負をして、負けたら朝乃先輩と一緒に入部してもらう。ついでに、朝乃先輩には私に濡れ衣をかけた罰としてある事に協力してもらう。もちろん、勝てれば私は何もしない。例の写真も処分するし、朝乃先輩のした事も黙っておく」
勝てば利益があり、負ければ何も無し。八戸心理の提案は理不尽ではあったが唯一建設的でもあった。辻堂夜次は既に学校を辞める覚悟までしていたが、それを揺るがすには、万事が無事に済むような可能性を示さなければならなかった。
「もちろん、野球未経験者を相手に同じ条件で勝負をしろとは言わない。変則3打席で、夜次先輩には『足』で勝負してもらう。おい、お前ら」
芦屋歩と内海立松が、また知らず知らずの内に巻き込まれていた事に気づく。久我修也はダンベルの上げ下げを止めず、聞いているのかいないのかは分からない。
「うちからはお前らを出す。歩、お前は変化球禁止で、必ずストライクゾーンど真ん中にスローボールを投げろ。それを夜次先輩がバントをして、3打席中のうちに1回でもセーフティバントを成功させれば勝ちだ。キャッチャーは内海、一塁は久我がやれ」
バットに触った事のないド素人でも、コースが分かっている棒球をバントするのは比較的に楽だと言える。肝心なのは、ピッチャーが転がったボールを拾い、送球するまでにホームベースから一塁までを走りきれるかどうか。確かに、これは単純な足の勝負と言える。然らば陸上部の短距離走者である辻堂夜次にも勝機はある。
提案の趣旨を理解した辻堂夜次は答える。
「確かに俺は野球をした事が無い。だが、勝負なら負けるつもりはない。約束は守るんだろうな?」
「もちろんだ」
今までの八戸心理のしてきた行動に比べれば、これは「勝負」というギャンブル要素が入るので、割と正々堂々とした行いのように見える。しかし当然、八戸心理には打倒杵原という目標がある。目標までの最短距離を駆けるには、回り道になる可能性などあってはならない。
「それから、歩と内海、お前らが負けた場合、問答無用で例のドーピングをしてもらうからな」
「何だって!?」
「当たり前だろう。野球勝負で素人に負けるなんて、鍛え方がまるで足りていない証拠だからな」
コインの表が出れば自分が勝ち、裏が出れば相手が負ける。そして八戸心理の持っていたコインは、両面を同時に出す事の出来る魔法のコインだった。
マウンドには芦屋歩。ホームには内海立松。一塁には久我修也。
第二野球部というチームが発足してから初めて、チームメイトが同じグラウンドに立った瞬間だった。八戸心理の用意した部室で、八戸心理の用意したユニフォームに袖を通し、八戸心理の用意した状況を迎え撃つ。これが芹高第二野球部の鉄則であり、存在意義でもある。もちろんたったの3人ではチームとしては不完全であるし、傍から見れば野球をしているようにすら見えないかもしれないという事は注釈しておく。
「納得いかねえ……」
芦屋歩はグローブの中に収まった白球に向けて愚痴を吐いた。
今から行われるのは確かに、硬球を使い、バットを使い、ダイヤモンドを使う「野球」ではあるが、その肝心の所、勝敗に求められるのは野球の上手さという定義付けの複雑な物よりもう少し単純な要素だ。
辻堂夜次の「足」が勝つか、それとも芦屋歩の「反応」が勝つか。
この勝負において、芦屋歩は得意の「変化球」を封じられている。その上コースもど真ん中の直球と指定されており、それ以外の球を投げても八戸審判はカウントを取らない。辻堂夜次の野球経験が皆無なのは確かで、妹の辻堂朝乃とは違い球技自体が苦手ではあるが、ボールをバットに当てて転がし、一塁に向かって全力疾走する競技と捉えれば得意も苦手もない。その上、この勝負は芦屋歩の身体能力を測る意味も込められているので、転がったボールは必ず芦屋歩自身が捕球しなければならないという制約までついている。
第二野球部管理のバットを借りた辻堂夜次は、両手でそれを持ち、1度も試し振りする事なくバッターボックスに入った。バントの構えを取ってみるが、以前にどこかで見た記憶を手繰り寄せたような有様で、どうにも格好はついていない。
「おい心理!」マウンドの芦屋歩が声をあげる。「この勝負で俺が勝ったら、ドーピングは絶対にやらないからな!」
八戸心理は答えず、腕を組んで芦屋歩を見返す。女に二言は無いとでも言いたげな凛とした表情だが、鵜呑みにしてはいけない。嘘と脅迫は八戸心理の十八番だ。とはいえ、芦屋歩としては、ひとまずこの勝負に勝てばチームメイトも加わるし、実力の証明にもなる。ドーピングが無くても戦える事を結果で示せば、しばらくの間は黙っていてくれるだろう。
「八戸さん。私達との約束も、守ってもらえるのよね? 兄が勝てば、写真も処分して全て忘れるって……」
隣で見守る辻堂朝乃も便乗して訊ね、これには八戸心理も言葉で答える。
「ああ。だが負ければ辻堂夜次には私のチームに入ってもらう。それとさっきも言ったように、朝乃先輩には1つ命令を聞いてもらう」
「……それなんだけど、命令の内容を教えてもらえない?」
湧き上がる得体の知れない不安を必死に隠す辻堂朝乃に対し、八戸心理は悪意の象徴のような例の笑みを浮かべる。
「ごくごく簡単で、すぐに済む。他のマネージャーの目を盗んで、腹いせに下剤を仕込むよりは遥かに楽だよ、朝乃先輩」
皮肉を込めているが、「腹いせに」という部分が自分自身への二重皮肉になっている。
辻堂朝乃は、勇気を振り絞って言う。
「もしも……もしも兄が負けたら……」
「では、勝負を始める! 特例はさっき言ったとおりで、それ以外のルールは普通の野球と同じだ!」
こうして、第二野球部ピッチャー芦屋歩と陸上部辻堂夜次の変則バッティング勝負が始まった。芦屋歩が負けた場合は強制ドーピング。辻堂夜次が負けた場合は強制入部という、どちらに転んでも八戸心理が得をする展開。両者とも、それが分かっていても逆らえず負ける訳にもいかない。
最初、辻堂夜次は、バットの細い部分、グリップを両手で掴んで、芦屋歩のボールを受けた。当然、ボールの威力にバットが負けて後ろに逸れ、ボールは外側に転がった。野球未経験の辻堂夜次にフェアゾーンなど理解出来ている訳もなく、転がると同時に一塁に向けて走り出したが、内海立松がそれを止めた。その後、ホームベースと塁の間の線より内側に入らなければバントが成立しない事を説明し、理解させた。カウントは1ストライク。
2球目も、芦屋歩は正確に同じ場所にボールを放った。辻堂夜次も少し学習していて、バットの太い部分、ヘッドを握ってボールに当てにいったが、構えた位置が下にずれ、チップしたボールはキャッチャーミットに収まった。2ストライク。
まだ3打席中の1打席目ではあるが、追い込まれた辻堂夜次は、真剣に考えた。勢いで負けても駄目だ。ボールに当てにいく工夫がいる。これくらいの障害は越えなければ勝負にならない。
3球目、ようやく辻堂夜次のバントが成功した。なんとも不恰好なバントで、セーフを狙うには適していないやり方だったが、とにかくボールはフェアゾーンに転がっていたし、それを拾いに芦屋歩も駆け出していた。
ピッチャーマウンドからホームベースまでの距離は18.44メートル。辻堂夜次がバントした球は一塁側に転がったので、やや短くなったとして14~6メートル。芦屋歩がこの距離を走り、ボールを拾い、一塁に目掛けて投げ、それが一塁に立っている久我修也のグローブに収まる。この時間内に、辻堂夜次がホームベースから一塁までの距離27.43メートルを走る。
1打席目、結果はアウト。
しかしタイミングはぎりぎりだった。球が一塁に到達し、1秒の後、そこを辻堂夜次が駆け抜けた。
久我修也が投げた球を芦屋歩が受け取り、それを確認した辻堂夜次が無言のままバッターボックスに戻る。
「まずいな……」
そう呟いたのは芦屋歩だった。
1打席目、芦屋歩には有利な条件が2つ与えられていた。1つは、辻堂夜次がバントした球が、一塁側に転がった事。これは単純に一塁に近いという事だけではなく、芦屋歩は左投手なので、左手で捕球したまま投げるまでを最短距離でを比較的スムーズに行えるという理由もある。もう1つは、辻堂夜次がバットを持ちながら走ったという事。球技は不得意、野球は初体験とだけあって、初心者らしいミスだ。打席に戻った辻堂夜次は、打った後バットを捨てて良いかどうかをキャッチャーの内海立松に確認した後、深呼吸をしてバントの構えを取った。先ほどよりも気持ち斜めに構え、三塁側に転がそうという意思が見て取れる。更に、バッターボックスのぎりぎり前に立ち、少しでも体を一塁に近づけている。
辻堂夜次が弱点を克服した2打席目。追い詰められたのは芦屋歩の方だった。今までキャッチャーの後ろ、本来は主審の位置から見ていた八戸心理は、既に一塁の傍に移動している。大きな差はつかないと判断した事に気づくと、芦屋歩は更に焦った。
しかし、八戸心理が移動した事は同時に、吉兆でもあった。投げたボールを至近距離で見られずに済む。
「悪いが、負ける訳にもいかないんでね……」
誰にも聞こえないように謝罪をした芦屋歩は、2打席目の第一球を投げた。
芦屋歩の持ち球「アンセムボール」には、特殊な性質がある。以前にも述べたとおり握りが常に一定である事。6本指をクロスさせて投げる、他のピッチャーには決して真似できない投げ方から、複雑な回転を生み出し、スライダーのようにもフォークのようにもカーブのようにもシュートのようにも投げる事が出来る。
そしてそれを実現するのに必要不可欠なのが、ボールの回転数を正確に測る事だ。手元を離れた球が、何回転して打者の手元に届くのか。芦屋歩はそれを自らの意思で自在に作る事が出来る。これはもしかすると6本指以上に珍しい特技であるかもしれない。
アンセムボールの握り方は、特徴的でありすぎるが故に、今は投げる事すら出来ない。八戸心理もそれを分かっているので、芦屋歩に変化球を投げる事は出来ないと高をくくっている。しかし、「変化しない変化球」ならば話は別だ。
辻堂夜次が当てた球は、先ほどとは反対側の、三塁側に転がった。それと同時に、バットもきちんと捨てられた。スタート自体も先ほどより早い。しかし、転がったボールの距離は、1打席目の約2倍、5~6メートルほどピッチャーの近くに転がってしまった。1打席目で学習し、埋めたはずの差を、その距離が再びあけてしまった。
結果はアウト。1打席目と同様、1秒ほどの差で芦屋歩の勝利となった。
手品の種はこうだ。相手がどの位置でバントをするかは分かっており、その上で回転数を設定出来るという事は、理論上、ボールが着弾する時その「縫い目」をわざと「外す」事が可能だという事になる。
野球のボールには108の縫い目があり、バッティングにおいてはこれがイレギュラーな要素になる。つまり、縫い目でヒットするのか、それとも縫い目の無い所でヒットするのか。縫い目でヒットした場合、ボールが回転している方向と逆の力がわずかに働く事になり、打球は詰まる。逆に全く縫い目の無い部分でヒットした場合、バックスピンのかかった打球は極端に言えばピンポン玉のように弾かれる事になる。
一塁からボールを受け取った芦屋歩は、八戸心理の顔を確認する。どうやら気づかれてはいない。
残すは1打席。
辻堂夜次は考えていた。仮に勝負に勝てたとして、そして八戸心理が約束を守ったとして、今までの生活が戻ってきたとして、自分は果たして何に満足をするのだろうか。妹との関係がそう長くは続かない事を分かっていながら、感情に任せて生きる事で、何が得られるのか。そんな想いが頭をよぎると、妙に空虚な気分になる。走るのが好きで陸上部に入った。走っている時は何も考えず、ただ中にあるエネルギーを外に放出するだけで済む。そこに先輩後輩の関係が絡むのが嫌で嫌で仕方が無く、1年生の時は反抗もした。
バットを拾い、バッターボックスに辻堂夜次が入ったとき、辻堂朝乃がタイムと宣言して近づいた。そして耳元に近づいて、「私の為に、戦わなくていいから」とだけ言った。
2人の間にはそれだけで十分だった。初めて関係を持った時も、言葉はほとんど必要なかった。
ここはあえて分かりやすく「能力」という呼称を使わせてもらおう。2人の「能力」が発揮される条件は、2人が近くにいて、そして「迷い」が排除されている事だと私は解釈している。条件さえ整えば、2人の肉体は同じ心臓で時を刻み始める。
勝負のラスト、3打席目。芦屋歩は先ほどと全く同じ回転数で、同じコースに投球した。しかし次の瞬間、辻堂夜次がバットを引っ込めたので、ストライクを1つとった。不気味さがちらつく。その一球目を「観察」されたのだと気づいたのは、2球目を投げた瞬間、辻堂夜次がバットを大きく後ろに下げて、着弾時の回転数を変更されてしまった時だった。
「歩!」
内海立松が叫ぶより前に、芦屋歩は駆け出していた。4つの目による観察が無ければ、たったの1球を見送っただけで芦屋歩の投球の秘密がバレる事は無かった。焦りはあったが、芦屋歩のスタートは辻堂夜次と同様に完璧だった。転がった球はやや三塁側、距離は先ほどよりもピッチャー側から遠いが、拾ってから投げるまでのモーションは先ほどよりも鋭利になっていた。
辻堂夜次が奔る。一塁を目指し、心臓というエンジンを爆発させる。
芦屋歩の送球が届いた。辻堂夜次が一塁を走り抜けた。
ほとんど同時と言ってもいいタイミングだったが、まったくの同時という訳ではない。
ほんの少しの差だった。人生という莫大な時間を海だとするならば、それはたかだか波のひとしぶきで、しかしどうしようもない差だった。
足と反応の戦い、変則3打席バッティング勝負を制したのは、辻堂夜次だった。
1番近くで見ていた八戸心理は、細めた目で一塁を凝視したまま、一言も発さない。しかしただ黙っている事が、むしろ敗北を理解している事を示している。
「勝ったわ!」
八戸心理よりも遠くで見ていた辻堂朝乃が声をあげて、辻堂夜次に走っていって抱きついた。辻堂夜次はそれをいつもの仏頂面で受け止め、深く頷く。
石像のように動かない八戸心理に、久我修也が「おい」と声をかける。
「今のはセーフだったぞ。どうすんだ?」
「黙れ!!」
八戸心理が叫んだが、それは怒号というよりも、むしろ悲鳴に近かった。欲しいおもちゃを買ってもらえなくて泣く子供その物。その様子を全員が見守る中、八戸心理は堂々と子供らしく、駄々をこね始めた。
「塁につけ辻堂夜次! 野球のルールに従え!」
確かにルール上、打者が一塁をオーバーランした場合、帰塁せずに二塁に向かう行為を示し、球を所持している選手に触れられればアウトになる。打席での制約以外は全て野球のルールと同じと宣言した以上、筋は通っている。が、これは最早屁理屈というよりもただの難癖だ。
「もう諦めろよ、八戸」
久我修也が呆れたように告げ、八戸心理の脆くて巨大な逆鱗に触れる。
「うるさい! 私は当然のことを言っているだけだ!」
言葉の勢いのまま久我修也の胸倉を掴むが、久我修也は揺るがない。哀れみすらこもっている視線で八戸心理を見下ろし、更に火に油を注ぐ。「狂ってるぜ」
「これでいいか?」
その様子を見かねた辻堂夜次が塁に片足を乗せて確認する。それでもなお、八戸心理は無様を晒しながら食い下がる。
「……まだだ。まだ久我が球を保持している」
「面倒くせえ奴だ」久我修也は愚痴りながら、グローブの中から取り出したボールを芦屋歩に投げた。「さ、これでいいんだろ?」
八戸心理は答えず、ただ俯いている。もうすぐ、陽が沈む。
「帰るぞ、朝乃」
辻堂夜次がそう言って、塁から1歩離れたその瞬間だった。
久我修也が辻堂夜次の肩を、グローブでポンと叩いた。
「アウト」
それまで負け犬の顔をしていた八戸心理が、いつもの狂犬の顔に戻っていた。久我修也のグローブの中から出てきたボールを見て、辻堂夜次は困惑する。
「馬鹿な。ボールは今、確かに……」
ピッチャーマウンドを見ると、確かに芦屋歩はボールを持っていた。黄緑色の、テニスボールを。
「確認したはずだぞ辻堂夜次!」
それまでとは打って変わって、水を得た魚のように八戸心理が声高に悪を叫ぶ。
「『それ以外は野球のルールと同じ』『まだ久我が球を保持している』どちらもきちんと教えたはずだ!」
隠し球。守備の選手がボールをピッチャーに返したと見せかけて隠し持ち、走者が塁を離れた瞬間にアウトを取るというトリッキーなプレイ。変則3打席の勝負とはいえ、八戸心理がたった今散々にゴネた通り、野球のルールに従うというのであればこのプレイも認められるはずだ。
久我修也に掴みかかった時、そのグローブの中にこっそりとテニスボールを入れた八戸心理の機転も凄いが、それだけで何をさせようとしたのかを理解した久我修也の理解も同じく凄まじい。確かに、狂ってると言えなくもない。
「そ、そんなの認められる訳……」
そう言った辻堂朝乃に、八戸心理が立ちはだかる。
「どんな手を使おうと勝ちは勝ちだ」
「で、でも……」
「もういい、朝乃」辻堂夜次は顔を伏せている。しかしその口元が、ほんの僅かではあるが緩んでいるように見えた。「気に入ったぞ八戸心理。確かに、どんな手を使おうと、勝ちは勝ちだな」
第二野球部5人目の部員、辻堂夜次。勝負には従順な男だった。
第二野球部というチームが発足してから初めて、チームメイトが同じグラウンドに立った瞬間だった。八戸心理の用意した部室で、八戸心理の用意したユニフォームに袖を通し、八戸心理の用意した状況を迎え撃つ。これが芹高第二野球部の鉄則であり、存在意義でもある。もちろんたったの3人ではチームとしては不完全であるし、傍から見れば野球をしているようにすら見えないかもしれないという事は注釈しておく。
「納得いかねえ……」
芦屋歩はグローブの中に収まった白球に向けて愚痴を吐いた。
今から行われるのは確かに、硬球を使い、バットを使い、ダイヤモンドを使う「野球」ではあるが、その肝心の所、勝敗に求められるのは野球の上手さという定義付けの複雑な物よりもう少し単純な要素だ。
辻堂夜次の「足」が勝つか、それとも芦屋歩の「反応」が勝つか。
この勝負において、芦屋歩は得意の「変化球」を封じられている。その上コースもど真ん中の直球と指定されており、それ以外の球を投げても八戸審判はカウントを取らない。辻堂夜次の野球経験が皆無なのは確かで、妹の辻堂朝乃とは違い球技自体が苦手ではあるが、ボールをバットに当てて転がし、一塁に向かって全力疾走する競技と捉えれば得意も苦手もない。その上、この勝負は芦屋歩の身体能力を測る意味も込められているので、転がったボールは必ず芦屋歩自身が捕球しなければならないという制約までついている。
第二野球部管理のバットを借りた辻堂夜次は、両手でそれを持ち、1度も試し振りする事なくバッターボックスに入った。バントの構えを取ってみるが、以前にどこかで見た記憶を手繰り寄せたような有様で、どうにも格好はついていない。
「おい心理!」マウンドの芦屋歩が声をあげる。「この勝負で俺が勝ったら、ドーピングは絶対にやらないからな!」
八戸心理は答えず、腕を組んで芦屋歩を見返す。女に二言は無いとでも言いたげな凛とした表情だが、鵜呑みにしてはいけない。嘘と脅迫は八戸心理の十八番だ。とはいえ、芦屋歩としては、ひとまずこの勝負に勝てばチームメイトも加わるし、実力の証明にもなる。ドーピングが無くても戦える事を結果で示せば、しばらくの間は黙っていてくれるだろう。
「八戸さん。私達との約束も、守ってもらえるのよね? 兄が勝てば、写真も処分して全て忘れるって……」
隣で見守る辻堂朝乃も便乗して訊ね、これには八戸心理も言葉で答える。
「ああ。だが負ければ辻堂夜次には私のチームに入ってもらう。それとさっきも言ったように、朝乃先輩には1つ命令を聞いてもらう」
「……それなんだけど、命令の内容を教えてもらえない?」
湧き上がる得体の知れない不安を必死に隠す辻堂朝乃に対し、八戸心理は悪意の象徴のような例の笑みを浮かべる。
「ごくごく簡単で、すぐに済む。他のマネージャーの目を盗んで、腹いせに下剤を仕込むよりは遥かに楽だよ、朝乃先輩」
皮肉を込めているが、「腹いせに」という部分が自分自身への二重皮肉になっている。
辻堂朝乃は、勇気を振り絞って言う。
「もしも……もしも兄が負けたら……」
「では、勝負を始める! 特例はさっき言ったとおりで、それ以外のルールは普通の野球と同じだ!」
こうして、第二野球部ピッチャー芦屋歩と陸上部辻堂夜次の変則バッティング勝負が始まった。芦屋歩が負けた場合は強制ドーピング。辻堂夜次が負けた場合は強制入部という、どちらに転んでも八戸心理が得をする展開。両者とも、それが分かっていても逆らえず負ける訳にもいかない。
最初、辻堂夜次は、バットの細い部分、グリップを両手で掴んで、芦屋歩のボールを受けた。当然、ボールの威力にバットが負けて後ろに逸れ、ボールは外側に転がった。野球未経験の辻堂夜次にフェアゾーンなど理解出来ている訳もなく、転がると同時に一塁に向けて走り出したが、内海立松がそれを止めた。その後、ホームベースと塁の間の線より内側に入らなければバントが成立しない事を説明し、理解させた。カウントは1ストライク。
2球目も、芦屋歩は正確に同じ場所にボールを放った。辻堂夜次も少し学習していて、バットの太い部分、ヘッドを握ってボールに当てにいったが、構えた位置が下にずれ、チップしたボールはキャッチャーミットに収まった。2ストライク。
まだ3打席中の1打席目ではあるが、追い込まれた辻堂夜次は、真剣に考えた。勢いで負けても駄目だ。ボールに当てにいく工夫がいる。これくらいの障害は越えなければ勝負にならない。
3球目、ようやく辻堂夜次のバントが成功した。なんとも不恰好なバントで、セーフを狙うには適していないやり方だったが、とにかくボールはフェアゾーンに転がっていたし、それを拾いに芦屋歩も駆け出していた。
ピッチャーマウンドからホームベースまでの距離は18.44メートル。辻堂夜次がバントした球は一塁側に転がったので、やや短くなったとして14~6メートル。芦屋歩がこの距離を走り、ボールを拾い、一塁に目掛けて投げ、それが一塁に立っている久我修也のグローブに収まる。この時間内に、辻堂夜次がホームベースから一塁までの距離27.43メートルを走る。
1打席目、結果はアウト。
しかしタイミングはぎりぎりだった。球が一塁に到達し、1秒の後、そこを辻堂夜次が駆け抜けた。
久我修也が投げた球を芦屋歩が受け取り、それを確認した辻堂夜次が無言のままバッターボックスに戻る。
「まずいな……」
そう呟いたのは芦屋歩だった。
1打席目、芦屋歩には有利な条件が2つ与えられていた。1つは、辻堂夜次がバントした球が、一塁側に転がった事。これは単純に一塁に近いという事だけではなく、芦屋歩は左投手なので、左手で捕球したまま投げるまでを最短距離でを比較的スムーズに行えるという理由もある。もう1つは、辻堂夜次がバットを持ちながら走ったという事。球技は不得意、野球は初体験とだけあって、初心者らしいミスだ。打席に戻った辻堂夜次は、打った後バットを捨てて良いかどうかをキャッチャーの内海立松に確認した後、深呼吸をしてバントの構えを取った。先ほどよりも気持ち斜めに構え、三塁側に転がそうという意思が見て取れる。更に、バッターボックスのぎりぎり前に立ち、少しでも体を一塁に近づけている。
辻堂夜次が弱点を克服した2打席目。追い詰められたのは芦屋歩の方だった。今までキャッチャーの後ろ、本来は主審の位置から見ていた八戸心理は、既に一塁の傍に移動している。大きな差はつかないと判断した事に気づくと、芦屋歩は更に焦った。
しかし、八戸心理が移動した事は同時に、吉兆でもあった。投げたボールを至近距離で見られずに済む。
「悪いが、負ける訳にもいかないんでね……」
誰にも聞こえないように謝罪をした芦屋歩は、2打席目の第一球を投げた。
芦屋歩の持ち球「アンセムボール」には、特殊な性質がある。以前にも述べたとおり握りが常に一定である事。6本指をクロスさせて投げる、他のピッチャーには決して真似できない投げ方から、複雑な回転を生み出し、スライダーのようにもフォークのようにもカーブのようにもシュートのようにも投げる事が出来る。
そしてそれを実現するのに必要不可欠なのが、ボールの回転数を正確に測る事だ。手元を離れた球が、何回転して打者の手元に届くのか。芦屋歩はそれを自らの意思で自在に作る事が出来る。これはもしかすると6本指以上に珍しい特技であるかもしれない。
アンセムボールの握り方は、特徴的でありすぎるが故に、今は投げる事すら出来ない。八戸心理もそれを分かっているので、芦屋歩に変化球を投げる事は出来ないと高をくくっている。しかし、「変化しない変化球」ならば話は別だ。
辻堂夜次が当てた球は、先ほどとは反対側の、三塁側に転がった。それと同時に、バットもきちんと捨てられた。スタート自体も先ほどより早い。しかし、転がったボールの距離は、1打席目の約2倍、5~6メートルほどピッチャーの近くに転がってしまった。1打席目で学習し、埋めたはずの差を、その距離が再びあけてしまった。
結果はアウト。1打席目と同様、1秒ほどの差で芦屋歩の勝利となった。
手品の種はこうだ。相手がどの位置でバントをするかは分かっており、その上で回転数を設定出来るという事は、理論上、ボールが着弾する時その「縫い目」をわざと「外す」事が可能だという事になる。
野球のボールには108の縫い目があり、バッティングにおいてはこれがイレギュラーな要素になる。つまり、縫い目でヒットするのか、それとも縫い目の無い所でヒットするのか。縫い目でヒットした場合、ボールが回転している方向と逆の力がわずかに働く事になり、打球は詰まる。逆に全く縫い目の無い部分でヒットした場合、バックスピンのかかった打球は極端に言えばピンポン玉のように弾かれる事になる。
一塁からボールを受け取った芦屋歩は、八戸心理の顔を確認する。どうやら気づかれてはいない。
残すは1打席。
辻堂夜次は考えていた。仮に勝負に勝てたとして、そして八戸心理が約束を守ったとして、今までの生活が戻ってきたとして、自分は果たして何に満足をするのだろうか。妹との関係がそう長くは続かない事を分かっていながら、感情に任せて生きる事で、何が得られるのか。そんな想いが頭をよぎると、妙に空虚な気分になる。走るのが好きで陸上部に入った。走っている時は何も考えず、ただ中にあるエネルギーを外に放出するだけで済む。そこに先輩後輩の関係が絡むのが嫌で嫌で仕方が無く、1年生の時は反抗もした。
バットを拾い、バッターボックスに辻堂夜次が入ったとき、辻堂朝乃がタイムと宣言して近づいた。そして耳元に近づいて、「私の為に、戦わなくていいから」とだけ言った。
2人の間にはそれだけで十分だった。初めて関係を持った時も、言葉はほとんど必要なかった。
ここはあえて分かりやすく「能力」という呼称を使わせてもらおう。2人の「能力」が発揮される条件は、2人が近くにいて、そして「迷い」が排除されている事だと私は解釈している。条件さえ整えば、2人の肉体は同じ心臓で時を刻み始める。
勝負のラスト、3打席目。芦屋歩は先ほどと全く同じ回転数で、同じコースに投球した。しかし次の瞬間、辻堂夜次がバットを引っ込めたので、ストライクを1つとった。不気味さがちらつく。その一球目を「観察」されたのだと気づいたのは、2球目を投げた瞬間、辻堂夜次がバットを大きく後ろに下げて、着弾時の回転数を変更されてしまった時だった。
「歩!」
内海立松が叫ぶより前に、芦屋歩は駆け出していた。4つの目による観察が無ければ、たったの1球を見送っただけで芦屋歩の投球の秘密がバレる事は無かった。焦りはあったが、芦屋歩のスタートは辻堂夜次と同様に完璧だった。転がった球はやや三塁側、距離は先ほどよりもピッチャー側から遠いが、拾ってから投げるまでのモーションは先ほどよりも鋭利になっていた。
辻堂夜次が奔る。一塁を目指し、心臓というエンジンを爆発させる。
芦屋歩の送球が届いた。辻堂夜次が一塁を走り抜けた。
ほとんど同時と言ってもいいタイミングだったが、まったくの同時という訳ではない。
ほんの少しの差だった。人生という莫大な時間を海だとするならば、それはたかだか波のひとしぶきで、しかしどうしようもない差だった。
足と反応の戦い、変則3打席バッティング勝負を制したのは、辻堂夜次だった。
1番近くで見ていた八戸心理は、細めた目で一塁を凝視したまま、一言も発さない。しかしただ黙っている事が、むしろ敗北を理解している事を示している。
「勝ったわ!」
八戸心理よりも遠くで見ていた辻堂朝乃が声をあげて、辻堂夜次に走っていって抱きついた。辻堂夜次はそれをいつもの仏頂面で受け止め、深く頷く。
石像のように動かない八戸心理に、久我修也が「おい」と声をかける。
「今のはセーフだったぞ。どうすんだ?」
「黙れ!!」
八戸心理が叫んだが、それは怒号というよりも、むしろ悲鳴に近かった。欲しいおもちゃを買ってもらえなくて泣く子供その物。その様子を全員が見守る中、八戸心理は堂々と子供らしく、駄々をこね始めた。
「塁につけ辻堂夜次! 野球のルールに従え!」
確かにルール上、打者が一塁をオーバーランした場合、帰塁せずに二塁に向かう行為を示し、球を所持している選手に触れられればアウトになる。打席での制約以外は全て野球のルールと同じと宣言した以上、筋は通っている。が、これは最早屁理屈というよりもただの難癖だ。
「もう諦めろよ、八戸」
久我修也が呆れたように告げ、八戸心理の脆くて巨大な逆鱗に触れる。
「うるさい! 私は当然のことを言っているだけだ!」
言葉の勢いのまま久我修也の胸倉を掴むが、久我修也は揺るがない。哀れみすらこもっている視線で八戸心理を見下ろし、更に火に油を注ぐ。「狂ってるぜ」
「これでいいか?」
その様子を見かねた辻堂夜次が塁に片足を乗せて確認する。それでもなお、八戸心理は無様を晒しながら食い下がる。
「……まだだ。まだ久我が球を保持している」
「面倒くせえ奴だ」久我修也は愚痴りながら、グローブの中から取り出したボールを芦屋歩に投げた。「さ、これでいいんだろ?」
八戸心理は答えず、ただ俯いている。もうすぐ、陽が沈む。
「帰るぞ、朝乃」
辻堂夜次がそう言って、塁から1歩離れたその瞬間だった。
久我修也が辻堂夜次の肩を、グローブでポンと叩いた。
「アウト」
それまで負け犬の顔をしていた八戸心理が、いつもの狂犬の顔に戻っていた。久我修也のグローブの中から出てきたボールを見て、辻堂夜次は困惑する。
「馬鹿な。ボールは今、確かに……」
ピッチャーマウンドを見ると、確かに芦屋歩はボールを持っていた。黄緑色の、テニスボールを。
「確認したはずだぞ辻堂夜次!」
それまでとは打って変わって、水を得た魚のように八戸心理が声高に悪を叫ぶ。
「『それ以外は野球のルールと同じ』『まだ久我が球を保持している』どちらもきちんと教えたはずだ!」
隠し球。守備の選手がボールをピッチャーに返したと見せかけて隠し持ち、走者が塁を離れた瞬間にアウトを取るというトリッキーなプレイ。変則3打席の勝負とはいえ、八戸心理がたった今散々にゴネた通り、野球のルールに従うというのであればこのプレイも認められるはずだ。
久我修也に掴みかかった時、そのグローブの中にこっそりとテニスボールを入れた八戸心理の機転も凄いが、それだけで何をさせようとしたのかを理解した久我修也の理解も同じく凄まじい。確かに、狂ってると言えなくもない。
「そ、そんなの認められる訳……」
そう言った辻堂朝乃に、八戸心理が立ちはだかる。
「どんな手を使おうと勝ちは勝ちだ」
「で、でも……」
「もういい、朝乃」辻堂夜次は顔を伏せている。しかしその口元が、ほんの僅かではあるが緩んでいるように見えた。「気に入ったぞ八戸心理。確かに、どんな手を使おうと、勝ちは勝ちだな」
第二野球部5人目の部員、辻堂夜次。勝負には従順な男だった。