雨が降っているせいか店内は薄暗く、天井からぶら下がった四つの弱々しい照明だけが陰鬱な雰囲気の暗さを薄める役割を果たしている。中心街のきらびやかさから離れた場所に位置するこのカフェは、趣味のよい落ち着いた内装で、埃一つ無く小奇麗な印象を受ける。老齢の店主は一見、バーテンダーのようだ。丸眼鏡をかけ、布でグラスを磨いている。彼は注文以外の言葉にはあまり反応を示さない。親しい人間でもなければ、どこか気難しさを覚えさせる彼との会話に耐えられないだろう。
男は曇った窓をこすり、外の様子を覗いた。雨足がより強くなっている。風も強いようで、道路脇に植えられた街路樹がお辞儀をしながら体を揺らしている。歩道にはタイルの色の判別がつかないほどの雨水の飛沫が流れとなり、それらが一様にあてもなく排水溝へ続いていた。傘を差した通行人はもとより車の気配も無い。
正午を少し過ぎたあたりで急に降り出した雨は見る間に勢いを増し、今や曇りの予報をことごとく覆すほどの豪雨となっていた。その予報を聞いていた男は、もちろん傘を持ってはいなかった。雨の元に身を晒すという選択肢も同様だ。
窓際のテーブルに座っているこの男の他に客は居ない。二時間前には一人、カウンター席で紅茶を注文した客がいた。黒い仕立てのスーツに帽子を目深に被った紳士だった。客は雨の降り始めを見て、ティーカップの中身を空にしてから素早く会計を済ませ、さっと店を後にした。小走りに向かいの通りへ消えていったあの紳士は、今頃屋根の下で紅茶でも淹れているだろう。何故か男の頭にその光景がぼーっと浮かんできた。
止むあてのわからない雨をよそに、男は退屈そうに窓を眺めていた。ふと、思い出したようにポケットから銀色の円いものをつまみ出し、それに視線を移した。カチッと音がして、蓋が開いた。懐中時計だ。
二時三十分。文字盤に目を通して、懐中時計を再びポケットに仕舞った。雨は勢いを少しも弱めていなかった。窓を見るまでもなくわかる。
「コーヒー」
店主はグラスと拭く手を止めた。数分して、店の奥から戻ってきた店主は、湯気の立つやや大きいマグカップを男の座るテーブルに静かに置いた。男は軽く会釈をして、両手をマグカップに包んだ。店主は自分の作業に戻り、男は考えに耽りながらコーヒーをすすっている。
男は知らなかった。この日のある出来事を境に、自分の人生の軌道は取り返しのつかない方向へまっしぐらに進んでしまうことを。過去を振り返る以外に、その原因を探り当てることはできない。たとえ原因を理解したとしても、手を伸ばして届く範囲はとっくに過ぎてしまっている。
溜息とともにわずかな期待を諦め、男は店を出た。外気の寒さが服の上から身を切り、微かに体を震わせた。すっかり土砂降りとなってしまった空の下を、早足で駆ける。
とにかく、早く温もりが欲しかった。