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第二十二章 決戦-その三-

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 ノエルを都に向かわせた。苦渋の決断だったと言って良い。先の一戦で、メッサーナ軍の将の首を奪るという、本来の戦果を挙げることが出来ず、大勝したというだけに過ぎなかった状況で、ノエルを手放したくはなかった。
 しかし、それでも向かわせた。というより、向かわせるしかなかった。戦勝後、にわかに後方支援の滞りが激しくなったのだ。これはメッサーナ側の謀略が強化された事もあるのだろうが、将校にまでその情報が伝わってしまっている。いや、流言という形でメッサーナが謀ったのだろう。本当の情報とは、いくらか差異がある。しかし、この流言をキッカケに、将校達はこぞってノエルを都に戻せ、と言い出した。
 兵糧が届かなくなる。これを思えば、将校達の意見は至極当たり前の事である。メッサーナの策略だという事も伝えたが、戦況が有利すぎたせいで、ノエル一人が居なくなる事を重要視する者は、誰一人として居なかった。いや、レキサスだけは例外だった。
 レキサスだけは、ノエルを都に向かわせる事を反対し、現地で対応させるべきだ、と述べた。だが、聞き入れられる訳も無かった。最年長のエルマンが、ノエルを都に帰すべき、という姿勢を貫いたからだ。父の代からの副官であるため、現場での発言力はやはり大きい。
 それに、兵糧が遅滞しているのは紛れも無い事実だった。
 何か大きな罠に嵌ろうとしている。漠然とだが、その予感は強くあった。
 戦況はどう考えても有利だ。誰が見ても、官軍が押している、と捉えるだろう。今までのぶつかり合いは、全てこちらが制しているし、ヤーマスが討たれたとは言え、メッサーナは歴戦の勇将であるアクトを失った。先の戦では、スズメバチ隊の副官も討った。そして、その直後の獅子軍とのぶつかり合いで、獅子軍の副官を討ったという報告も入っている。一方、こちらの犠牲は、ほんの僅かなものだった。
 誰がどう見ても、私たちが勝っているはずだ。それでも、何か言いようの無い不安感が全身を包み込んでくる。目の前を見れば、確かに勝利しか見えない。だが、側面は、背後はどうなのか。部将達の人心を強く掴む事が出来ておらず、兵糧の遅滞があり、今回はノエルを手放した。さらに、都には頼りになる人物はおらず、メッサーナの黒豹に対抗し得る闇の軍は、機能していない。
 今、私は独りで、この戦をやっていないか。確かに周りに部下は多く居る。いや、私は大将軍なのだ。だから、官軍全てが私の部下という事だが、それでも、孤独感を強く感じた。今まで、こんなことを思う事は無かった。戦に勝ち続けることによって、孤独感というものが顔を出してきた。
 これは何なのか。勝っているはずなのに、勝っているという気がしない。仮に私が単なる一部将であれば、こんなことを思う事は無かったのか。大将軍だから、こんな事を思ってしまうのか。本来なら、大将軍の上には王が居るはずだった。王の下には宰相が居て、その隣に大将軍が居る。
 今、この国には大将軍しか居ない。これが孤独感の原因なのかもしれない。
 不安感の根底には、孤独以外にも、いくつか気になる事があった。その一つが運である。
 先の戦で言えば、ノエルの十面埋伏の計は完璧だった。隻眼のレンはもちろん、熊殺しのシオンも討てたはずだ。それが、討てなかった。討つ機会はいくらでもあったのに、それを逃した。
 本来ならば、あの二人を討ってから、ノエルを都に戻す、という手筈だった。しかし、結果はスズメバチと獅子軍の副官を討っただけに過ぎない。
 人には、武運というものがある。隻眼のレンや熊殺しのシオンに、それがあったのかもしれない。だが、本当は私に武運が無いのではないか。やり遂げねばならぬ時を、逃してしまっているのだ。一方、隻眼のレンや熊殺しのシオンは、何度も窮地を脱している。特に十面埋伏の計は、奇跡という他なかった。
 二人の何かが運を引き付けているのだ。それは良い。だが、何故、私には運が無いのか。この孤独感と、何か関係があるのか。
 そこまで考えて、私は首を振った。運など、必要ない。圧倒的な強さだけで、勝利を呼び寄せれば良いだけの話ではないか。戦は連戦連勝である。このまま勝ち続けて、ピドナを落とす。ピドナを落とせば、天下は決したも同然だ。
「私は武神の息子だ」
 呟いていた。父は、敗北を知らないままに世を去った。国では、伝説というには生ぬる過ぎる、とまで言われている。過去にも現在にも、負けた事のない武将など、どこにも居なかった。
 私は、その血を受け継いでいるのだ。それに孤独というのは、今も昔もそう変わらない。
「ハルトレイン殿」
 幕舎の外から、エルマンの声がした。すでに季節は冬になっており、陣中では多くのかがり火が燃やされていた。北の大地に比べると、かなりマシだが、アビスの冬も厳しい。朝には、霜が降りていて、原野は白くなる。
「エルマンか、どうした」
 私が声をかけると、エルマンが幕舎に入ってきた。この男も齢を重ねた。すでに髪の毛も髭も、白いものが多く混じっている。人望という面では、私よりもこの男だろう。なんといっても、父の副官をつとめていたのだ。
「メッサーナ軍が、後退を始めました」
「そうか」
 特に珍しいことではなかった。このところ、戦況を気にしてか、メッサーナは少しずつ後退を繰り返している。そのたびに私たちも進軍しており、コモン関所までの距離も、あと僅かという所まで来ている。
「ハルトレイン殿、決戦を」
「エルマン、焦るな」
「私は焦っていません。急いているのは、将校たちです。この戦況で、どうして討って出ないのか。みんな、そう言っています」
 おそらくだが、エルマンも同じ意見なのだろう。私が感じている不安など、やはり将校たちは微塵も気にしていない。
「レキサスはなんと言っている?」
「それは」
「エルマン」
 かつての判断力と分析力を取り戻せ。そう言いそうになったが、何とか飲み込んだ。あのバロンと幾度と無くぶつかり、負けてはいない。優秀な将軍の一人であり、私が頼りに出来る男の一人なのだ。
 じっと、エルマンの眼を見つめた。戦に倦んでいる。そういう眼だった。
「私を信じてくれ」
 眼を見つめたまま、私はそう言った。エルマンが軽く息を吐いて拝礼し、幕舎を出て行く。
 その背中には、不満がわだかまっていた。
 ハルトレインが用心深かった。勝ちに勝ちまくって、勢いは得ている。しかし、それを自ら殺いでいるかのように、ハルトレインは慎重に軍を進めてきていた。
 誘いは何度もかけた。無論、そこには策をかませる。伏兵などが、その代表例だ。軍師であるノエルを引き離したおかげで、様々な戦術をかけられるようになったのだ。一度でも勝利を呼び込めば、流れはメッサーナに傾く。一見、官軍は勝ちに乗じているようにみえるが、その足元は非常に危うい。兵糧、将兵の人心、そして軍師。これらを全て、謀略で引き剥がしている。つまり、今の官軍は、ハルトレインの戦の才だけで勝っている、と言っても良い状況にあるのだ。
 本来ならば、このような事はしたくなかった。実際、私がもっと若ければ、正々堂々とあの若い大将軍と対峙しただろう。しかし、そうするには私は歳を取りすぎた。そして、若い頃とは全く違う立場でもある。
 北の大地の領主だったものが、今は一国の王なのだ。そして、この戦は国の存亡を賭けている。そういうものを背負った状況で、果敢すぎる決断は出来なかった。どこか、やり切れない思いはある。真正面から、戦で、戦だけでやり合うべきだ、という信念に似た思いもある。しかし、それは立場が許さなかった。
「ルイス、謀略の方はどうだ?」
 官軍の将兵に、流言を放っていた。兵糧が届かない、というものの他に、ハルトレインが私心を抱いている、と噂させているのだ。大軍かつ精兵を率いていて、しかも勝ちに乗じている。それなのに決戦を挑まない。将兵が、まだ若い大将軍の戦運びに疑心を抱いているのは、明白だった。
「確実に効果を挙げています。先日、エルマンがハルトレインに攻撃の陳情を行ったことも確認しています」
 ならば、もうすぐだろう。エルマンは最も古参の将軍であり、人望という意味では官軍では第一に位置するはずだ。そのエルマンが動いたとなれば、ハルトレインの抑えも効かなくなる、と見て良い。
「それと、都周辺の賊徒が何度もこちらにコンタクトを求めてきていますが」
 国に不満を抱く反乱分子である。彼らは私たちと同じ志を持った者だ、と自負しているようだが、その実は略奪や破壊行為を繰り返す集団である。つまり、やっている事は賊徒のそれと変わりなかった。
「放っておけ。今、手を取り合うような真似は避けるべきだ。あくまで、呼応勢力の一つとして考え、黒豹にもそれを徹底させろ」
 都では黒豹が謀略のために暗躍している。いざとなれば、賊徒を扇動して、官軍の背後を脅かす予定だった。そうすることによって、ノエルはますます戦線に戻れなくなる。そして、後方が揺らぎを見せることによって、将兵の心も乱れる。
 その時、ハルトレインはどうするのか。おそらく、あの男にそれを抑え込む力はない。というより、そういう事に向いていない。ここまで、あの男はその強さを見せすぎた。派手に戦をやり、派手に勝ち続けてきた。そして、人心を得る間も無く、大将軍に仕立て上げられ、年齢を重ねる前に、大きすぎる戦の総帥となってしまった。
 悲運というべきなのだろう。私がそう思ってしまうのは、軍人としての心が残っているからなのか。
「ルイス、私は卑怯なのかな?」
「どういう意味でしょうか?」
 ルイスの返答に、私は目を閉じた。
 今やっているのは、覇者の戦ではない。そう言いかけたが、言っても意味のない事だろう。この思いに共感できるのは、軍人だけだ。ルイスは軍師であるが、軍人ではない。もっと言えば、私に共感し得るのは、クライヴだけだという気がする。クリスは謀略など頭の中に描いてはいないだろうし、レンやシオンは若すぎる。
「何でもない。そろそろ、決着をつけよう。コモンまで退いて、ハルトレインを動かしたい」
「そのつもりです。官軍は戦線を押し上げてきています。押し上げれば、押し上げるほど、後方からの支援は得にくくなる」
「勝負はその時だ。乱れに乱れさせて、一挙に打ち砕く」
 言ったが、どうしても不快感は拭いきれなかった。勝てば官軍。この言葉通りではないが、手段には構っていられない状況ではある。事実、ハルトレインを相手に、謀略抜きで勝てるかと聞かれれば、否定的な考えの方が大きいのだ。
「このところ、レンの様子が大人しい、と聞いているが」
 話題を変えた。ノエルの十面埋伏の計に遭ってから、どうも雰囲気が変わったという。
 あれは確かに激烈な計略であり、損害は目を覆うものだった。スズメバチの副官ジャミルと、獅子軍の副官が討たれたのだ。二人とも、ハルトレインの軍に首を奪られている。それを境に、レンの中で何かが変わった。
「大人しいと言っても、士気は落ちていません。むしろ、高揚していると言ってもいいでしょう」
「ニールはどうしている?」
「レンといくらか会話したようですが、特には」
 ルイスは気にするな、とでも言いたげだった。
 しかし、私は気になった。レンは昔からハルトレインには、激しいこだわりを持っていた。ハルトレインを討つためだけに、戦をやり続けてきた、と言っても良い。しかし、それは同時にレンを小さく見せていた、という側面もあったのではないか。ハルトレインを前にすると、周囲に目が行き届かなくなる。無論、これは本人も自覚していることで、改善の兆しも見えていたが、感情に殺されるという弱点は常に持っていた。
 十面埋伏の計から、何かが変わったのかもしれない。士気は落ちていない、ルイスはそう言ったのだ。
「雪か」
 ふと、幕舎の外に目をやると、雪が降っていた。アビスでは、積もることなどほとんど無い。北の大地は、もう見渡す限りが銀世界となっているだろう。
 春までには、決着をつけなければ。私は、そう思っていた。
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 怒りがあるかどうか、自分では分からなかった。ただ、漠然と多くのものを失った、という思いだけがある。左目を失い、父を失い、一時は誇りさえも失った。そして、今では副官のジャミルや、兵を失った。
 天下という一つの夢を追い続け、戦を重ねてきた。しかし、その戦が、俺の大切なもの達を奪っていた。それなのに、未だ天下は定まっていない。いくら戦を重ねても、決定的な勝敗が無ければ、それは無意味なのだ。
 戦の性質が変わった。昔は一戦、一戦が重要な意味を持っていたはずだ。メッサーナは寡兵であり、国は強大すぎる程に強大だった。だから、単純に軍の力が戦の勝敗を分けた。そして、その勝敗は、さらなる展望の足掛かりにもなった。
 しかし、今はどうなのか。一戦の重要度は、昔よりも確実に低い。軍の力も同じ事が言える。戦に勝つ事、軍が精強である事に越したことはないが、昔ほど重要では無くなっている。それは、国と国の勝負になったからだ。すなわち、国力である。
 国力と国力の勝負になったから、簡単に決着がつかない。一戦を制した程度で、天下が揺らぐことは無くなったのだ。現に、ハルトレインはこのアビス原野の戦いで連勝しているが、天下という単位で見れば、大きい勝利とは言えない。
 ただ、多くの者が死んだ。ジャミルが、アクトがこの戦いで命を散らせた。そして、戦が続く限り、命を散らせる者は後を絶たないだろう。次は俺かもしれないし、シオンやニールかもしれない。最悪の事を言えば、バロンであるかもしれないのだ。
 決定的な何かが必要だった。すなわち、ハルトレインの首である。ハルトレインさえ討てば、天下は定まる。そして、父の、バロンの大志も完遂される。
 もはや、仇だとか、宿敵だとか、そういう事はどうでも良くなっていた。とにかく、この乱世を終息させたい。もう、人が死んでいくのを見るのは御免だ、という思いが強い。強すぎる程に強い。ある種の枷とでも言うべきなのか。戦がある限り、決して断ち切れない鎖が、人の死だった。
 死で心が動くことはない。戦場では、動かすべきものでもないだろう。もう、単純に終わりにしたかった。それだけの話だ。
「兄上、兵が兄上を心配しています」
 シオンだった。スズメバチも熊殺しも、多くの兵を失ったせいで、もはや単独の部隊として動くのは難しくなっていた。要となる戦では、常に前線で戦い、劣勢時でも殿(しんがり)を務めた。だから、損害の割合で言えば、俺達の部隊が最も大きい。兵数で言えば、今は亡きアクトの槍兵隊だろう。ほぼ無傷なのは、バロンの弓騎兵ぐらいなもので、残りの軍はみな何らかの損害を受けていた。
「俺の何が心配なのだ?」
「口数が減った、と」
「喋る事が無ければ、喋らないさ。それに、色々と思う事もあるのだ」
「俺も戦がないと、色々と考えてしまいます」
 たぶん、お前の考えている事とは違う。そう言いそうになった。シオンは、まだ熱い何かを持っている。そして、それは俺も持っていたものだ。
「兄上、次の戦では共に動きませんか?」
「何故だ?」
「もはや、単独で動くには兵力が無さ過ぎます。官軍にしてみれば、それこそ羽虫のようなものではないでしょうか」
「そうかもしれないな」
「共に動きます」
「分かった」
 どの道、シオンはそうするしかないだろう。スズメバチの兵力は二百、熊殺しは三百である。合わせても五百でしかない。五百で対する事が出来るのは、せいぜい五千から七千という所だ。そして、やれる事は極端に少なくなる。かく乱と本陣の急襲。これぐらいなものだろう。真っ直ぐに敵陣を断ち割るだとか、縦横無尽に敵陣を駆け回る、という事は不可能に近い。
 だから、シオンの言っている事は間違いではない。
「シオン、早くピドナに帰りたいな」
「戦中です、兄上」
「エレナがお前の帰りを待っているのではないのか?」
 シオンの妻である。女にはひどく疎いと思っていたシオンが、俺よりも先に結婚した。そして、俺はまだ結婚の申し入れをしていない。
「それとこれとは、話が別です。兄上、この戦は天下を決する戦なのです」
 そう言ったシオンの目を、俺はじっと見つめた。確かな志を持っている。そして、どこまでも澄んでいる。そういう目だった。
「シオン」
「はい」
 この男だけには、弟だけには、苦しい思いをして欲しくない。共に戦で、死線を掻い潜ってきた。しかし、その先をまだ知らないのだ。人の死。それが積み重なった時、そして、その積み重なったものが何かに変わった時、シオンは何を想うのか。
 いや、そんな経験をさせる必要などない。
「戦を終わらせよう。この戦で、全てを」
「兄上?」
「共に血で汚れたな」
「どうかされたのですか?」
「いや」
 全てを語れる気分では無かった。弟であるシオンにさえ、俺は語れるものを持っていないのか。
 ハルトレインは孤独。誰かがそう言っていた。しかし、その気持ちが今の俺にも分かるという気がする。ハルトレインは生まれながらにして孤独であり、俺は戦を続けることで孤独になった。
 それが良いのかどうかは分からない。ただ、戦を終わらせるためには、戦を続けるしかないという皮肉が、さらに孤独を際立たせていた。
「ハルトレインを、俺は討てるのかな」
 言葉にしていた。討たない限り、戦は終わらない。だから、討たなくてはならない。しかし、一線を越えた俺のハルトレインに対する想いは、憎しみだとか怒りだとか、そういうものではなくなっている。
 上手く表現はできないが、次に対する時が最後であり、何らかの決着はつくだろう。これは予感ではなく、確信である。
「討てます。兄上ならば、討てます」
 そう言ったシオンに対して、俺はただ頷いた。
 今の俺は、剣の切っ先だ。鋭く、ハルトレインだけを見据えている。そこには、憎しみも怒りも無い。
 澄んだ心。明鏡止水の心だけが、今の俺にはある。
 メッサーナ軍を追い詰めた。メッサーナ軍はジワジワと退がり続け、コモン関所を背にして陣を組んだのだ。コモン関所は、メッサーナの最終防衛ラインである。これはいわば、背水の陣だろう。ここでメッサーナ軍を打ち砕けば、一気にピドナまで行ける。ピドナまで行けば、天下は決したも同然だった。
 ただ、コモン関所の中に逃げられると面倒なことになる。篭城戦になるからだ。こちらは進軍を続けたせいで、兵站が伸びきってしまっている。今も兵糧には苦しめられていて、三日に一度の供給という具合になっていた。それでも、兵は耐えている。目前に勝利があると確信しているのだ。勝利を確信した兵は、予想を遥かに超える粘りを見せるのである。
 コモン関所を抜けば、天下は定まる。そして、私達は今、メッサーナ軍をコモン関所にまで追い詰めている。
 しかし、本当に追い詰めているのか。形としては、確かにそうだ。だが、ここまで来るのに、大したぶつかり合いはしていない。せいぜい、小競り合いを数度ほどやっただけだ。そして、メッサーナは後退をし続けた。
 引き込まれてはいないのか。追い詰めていると見せかけて、追い詰められていないか。兵糧はノエルのおかげで、改善の傾向を見せてはいるが、遅滞は今も続いている。これはつまり、メッサーナの謀略がまだ働いている、という事ではないのか。
 本来ならば、アビス原野で戦をしたかった。アビスならば、野戦が出来る。そして、単純な軍のぶつかり合いが勝敗を決める。伏兵などの要素はあるが、兵站が伸びる事はないし、本国からの支援も受けやすい位置でもあった。それに対し、メッサーナは私達とは逆の立場になる。つまり、兵站が伸び、ピドナからの支援も受けにくいのだ。
 しかし、アビスに留まることなど、出来るはずもなかった。勝ちすぎたせいだ。連戦連勝であり、苦しいという局面も戦という観点でみれば、ほぼ無かったと言って良い。そこにノエルを手放し、唯一の懸念であった兵糧問題も解決に向かわせた。
 兵が、将が、勝利に向かって一直線だ、という空気を持っていた。それを抑える術を、私は持っていなかった。頼りにできるのはエルマンだったが、そのエルマンも勝利を確信していた。だから、少しずつ進軍という手段を取るしかなかった。少しずつ進軍することによって、戦機を得られると思ったのだ。しかし、この考えは甘かったのかもしれない。
 もっと深いところで、いや、もっと前の段階で、何かが起きている、と踏むべきだった。そして、その時点で決戦を挑むべきだった。もし、仮にこれから私が大きな罠に嵌ろうとしているのならば、全ては遅い、という結論に達するだろう。
 ただ、今はコモン関所までメッサーナを追い詰めており、ここを抜けば天下、という状況下にある。とにかく、現実はそうなのだと思うしかなかった。私の考えていることは、ただの杞憂かもしれないのだ。
「ハルトレイン殿」
 レキサスだった。いつの間にか、レキサスは私の腹心という位置づけになっている。視野も広く、私と考えている事も似ていた。ただ、年齢が若いせいで、その意見は軽視されやすい。地方軍を掌握している立場であり、官位でいうならば、軍事の第二位に位置する。それでも、この有り様だった。この辺りは、官軍の脆さと言っても良いだろう。
「都周辺で賊徒の決起が頻発しています。しばらく、ノエルは動けないでしょう」
「そうか。仕方あるまい。しかし、この期に及んで賊徒の決起か」
 何か臭う。しかし、これは言葉にはしなかった。不安や懸念といったものは、レキサスはもちろん、エルマンにも極力、言ってはいない。
「ノエルが居れば、と思わざるを得ません」
 そういったレキサスを、私はジッと見つめた。共に馬上である。小高い丘の上に立って、自陣を見下ろしていた。
「この戦、何かがおかしいと思いませんか」
「具体的に言ってみろ、レキサス」
「メッサーナに踊らされているような気がします。ノエルをこちらに呼び戻したい。私はそう思うのですが」
「無理だな。ノエルを呼び戻せば、兵糧が来なくなる。ここまで攻め込んだのだ。兵糧が無くなれば、飢えるしかない」
「そう、攻め込んでしまった。他の将は気付いてもいませんが、攻め込んでしまったのです。ハルトレイン殿」
 レキサスは、かなりの所まで掴んでいる。私はそう思った。
 本来なら、メッサーナが攻め込んできた戦だったのだ。だから、それを打ち払うだけで良かった。進軍などせず、打ち払い続ける事で勝ちを得られた戦だった。打ち払い続け、メッサーナが本格的な撤退を開始した時に、なだれ込むように攻め立てれば、天下を決する事も出来たはずだ。それなのに、中途半端な戦勝を繰り返し、今ではコモン関所まで進軍している。
「追い詰めているのだ、レキサス。メッサーナをここまで、追い詰めた」
「ノエルを」
「くどいぞ」
「ならば、撤退を申し上げます」
「突拍子も無いことを言うな。それが無理なことぐらい、わかっているだろう」
 妙な噂を流されている。私が私心を抱き、何かを企んでるだとか、そういう類の噂だ。そういう状況下で撤退を言い出せば、反乱が起きるかもしれない。反乱が起きれば、一気に全てが崩れるだろう。決定的な負けになることは確実である。
「ハルトレイン殿も勘付いておられる。いつからです?」
 先の私の撤退は無理、という発言で、レキサスは私の不安や懸念を掴みきったようだった。ノエルの才で押し上げられた男だと思っていたが、鋭い所も持っている、という事なのか。
 しかし、何も答えなかった。答えたところで、何も意味は無い。
「王が居れば、いや、王さえしっかりした者であれば、勅命という形で撤退を」
「くどいと言っている」
 レキサスが言ったことは、私が何度も考えたことだ。大将軍の私に抑えられないならば、王の命令という事でアビス原野に留まるしか無かった。しかし、それに気付いた時、すでに事態は佳境を迎えていた。
 せめて、宰相が居れば良かった。だが、その宰相すらも居ないのが、今の国なのである。
「決戦を仕掛けるしかあるまい。それに私には、待ち人が居る。撤退など、出来るものか」
「隻眼のレン、ですか?」
「レキサス、決戦の際、お前は後方に居ろ。決して前に出るな。そして、生きて国に帰れ」
 レキサスの問いにはあえて答えず、私はそう言った。
 メッサーナを追い詰めているはずだ。再度、私は自分にそう言い聞かせていた。
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 全軍を前面に出し、布陣した。満を持しての布陣ではない。頑なにメッサーナは動かなかった。何度も決戦の申し出をしたが、沈黙を守るばかりだったのだ。そして、将兵の我慢が限界に達した。反乱の匂いすらも漂わせ、内から崩壊する、という予兆も見え始めた。
 さらには、本国で賊徒の決起である。鎮圧には時がかかる、とノエルから書簡が来ていた。その書簡が来てから、兵糧の遅滞が再び目立ち始めた。
 外堀を埋められたのだ。この布陣は強制的とも言える。メッサーナに布陣を強制されたのだ。そして、強制的に決戦を挑まされた。
 軍の士気は高い。今まで出来なかった戦が出来るからだ。しかし、この士気の高さには脆さがある。粗野とでも言えば良いのか。精兵が出す士気ではないのだ。その根底には、やはり謀略に対する弱さがあった。
 おそらく、メッサーナはまともに戦をやろうとは考えていない。まともにやれば、勝てるはずがないからだ。それは今までの戦で何度も証明されている。自惚れではないが、バロンよりも私の方が軍才は上なのだ。それはルイスが加わろうと、揺らぐことはない。
 しかし、そこに謀略を混ぜられるとどうなのか。ノエルが居れば、おそらくは凌げる。つまり、戦に勝つ事が出来る。そのノエルは、メッサーナに引き剥がされた。すでにこれは確信に変わっていた。
 スズメバチや熊殺しが居なければ、謀略ごと叩き潰す事は出来たはずだ。しかし、その二隊も健在している。かなり兵力は落としているが、指揮官が生きている限り、軍は死ぬ事がない。例え、それが十数騎であったとしても、スズメバチはスズメバチであり、熊殺しは熊殺しなのだ。あの二人の指揮官だけは、メッサーナ軍の中でも際立ったものがある。
 せめて、どちらかだけでも討てていれば。しかし、これはめぐり合わせなのだろう。特に隻眼のレンとは、深い因縁があるとしか思えなかった。
 静かだった。戦場であるにも関わらず、水を打ったような静けさである。もう引き返せない。攻めて、攻め立てて、メッサーナを叩き潰すしか道は残されていないのだ。
 ふと、メッサーナ軍から五騎が前に出てきた。きらびやかな具足を付けた男が中央に位置し、四つの旗でそれを囲っている。
 私は目を凝らした。具足をつけている男。何度も、見た男だった。そして、首を奪ろうとしても奪れなかった男だ。奪りさえすれば、この戦は終わる。
「バロン」
 メッサーナ軍の総帥にして、国王。
「ハルトレイン大将軍」
 供(とも)には言わせず、バロン自身が大声で叫んでいた。声が老いている。何のことも無しに、私はそう思った。あの鷹の目のバロンも、老いたのか。そして、その老いた男の首を私は狙い続けている。
「どこにおられる。話がしたい」
 バロンの声は必死だった。今更、何を。
「ハルトレイン大将軍っ」
 異常な事態であるはずが、両軍共に不気味な程に静かだった。これから決戦を行うというのに、バロンは話がしたい、などと言い出している。
 各軍に目を配った。兵はみんな、真っ直ぐに前だけを見つめている。
「頼む、話をさせてくれっ」
 まるで、哀願するかのような声色だった。それで、私も何かを悟った。
 馬を前に出した。一騎である。供など、必要ない。飾りの大将軍に過ぎないからだ。兵や将を、掌握しきれなかった。情けない大将軍。今更になって、自嘲にも似た思いが込み上げて来る。
「話とは何だ? バロン王」

 最後のチャンスだと思うしかなかった。この戦は間違いなく勝てる。ルイスの謀略が、見事な程に決まっているからだ。
 官軍の中に内通者を作った。兵糧攻めと流言から始まった謀略は、内から崩すという内応策に姿を変えたのである。
 さすがに主だった将軍の麾下には手を出せなかったが、それ以外の兵とは内応するという手筈が揃っていた。
 ハルトレインは戦の天才だった。あの男の軍才は、天下一だろう。しかし、将兵の心を掴みきれなかった。掴みきれなかったが故に、戦に負ける。
 私は、ハルトレインを殺したくなかった。あの男の才が惜しい。あれほどの才があれば、天下統一後も軍は安泰である。隻眼のレンや熊殺しのシオンなど、歯牙にもかけない程の才を、あの男は持っている。
 一度だけだ。一度だけ、あの男に生きるチャンスを与えたい。これは私の独断であり、誰にも伝えていない事だ。卑怯な戦。この思いだけは、とうとう最後まで捨て去る事が出来なかった。そして、同時にハルトレインの軍才を惜しい、とまで思ってしまった。
「ハルトレイン殿、一度だけ言う」
 そう、一度だけだ。この一度だけで、全てを悟ってくれ。そして、私のために、メッサーナのために、民のために、その軍才を役立ててくれ。お前の軍才は、異民族を撃滅させる力をも秘めている。異民族を撃滅すれば、真の意味で天下は安泰する。いや、外征だって出来るかもしれない。
「降伏を、降伏をしてくれ」
 私の声が戦場にこだました。その瞬間、後方のメッサーナ軍だけが激しくどよめいた。一方の官軍は、静まり返っている。
「ハルトレイン殿」
 私は呟くようにして、言った。
 瞬間、馬蹄。後ろだ。一騎だけが、駆けてきた。
「バロン王、お戯れを。何を言われているのです」
 隻眼のレンだった。顔は見ない。ハルトレインだけを、私はジッと見つめていた。
「降伏、降伏と言われましたか」
 何も答えなかった。レンの声は、ハッとする程に落ち着いている。感情など、何も乗せられていない。
「バロン王、お答えください」
「ハルトレイン殿、頼む」
 レンを無視して、再び、私は叫ぶようにして言った。
「断る」
 ハルトレイン。芯の通った、強烈な意志が込められた声だった。
「何故? 気付いているはずだ。貴殿は、この戦で散るのだぞ」
「それでも、断る」
「理由を、教えてくれ。貴殿は死ぬ事がわかっていて、尚も戦を続けるのか。敗北は必至だぞ」
「断ると言っている」
「命が惜しくないのか」
「バロン、見苦しいぞ。お前は、一度だけ、と言ったはずだ」
「命が惜しくないのか、ハルトレインっ」
「私には、命よりも大事なものがある」
「なんだ、それは」
「誇り」
 それだけを言って、ハルトレインは自陣に戻って行った。堂々たる足並みだった。そして、すぐに軍は戦闘態勢を取った。
「バロン王、貴方は最低だ。最低の男だ。ハルトレインをどうしようも無いほどに傷つけた。俺は、貴方を軽蔑する」
 レン。一騎だけで、前に進み出た。そのレンを追うように、スズメバチと熊殺しが前線に突出していく。
 ハルトレインとレン。この二人の闘気が、戦場を支配する。
 私はそれを、空漠の想いで感じ取っていた。
109

シブク 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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