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第二十三章 成し遂げるは大志

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 前だけを見据えた。バロンが降伏を勧めてきた事など、すぐに頭から追い払い、ただひたすら前だけを見据えた。
 虎縞模様の具足と、青と黄が入り混じった具足が原野で待っている。
「全軍に休止を命じる。旗本だけ、ついてこい」
 それだけを言い残して、私は馬を進めた。その背後を、五百騎の旗本が付いてくる。
「ハルトレイン殿、何をされるつもりですか」
 レキサス。背後である。それは分かっていたが、振り返らなかった。返事をする気もない。私は、全軍に休止を命じているのだ。
 虎縞模様の具足を着た兵の顔が、はっきりと視認できる距離まで近寄った。
「久しぶりだな、隻眼のレン」
 先頭に居る男に向かって、私は声をかけた。左目の刃傷。じっくりと見るのは、久しぶりだという気がした。この男の左目は、確かに私が奪ったものだ。いや、左目だけではない。父の命すらも、奪った。私は、この男から様々なものを奪い続けてきた。
 私が声をかけても、レンの表情は変わらなかった。雰囲気が変わっている。甘さが抜けた、良い顔をしていた。
「ハルトレイン、まずは我が主の非礼を詫びたい。申し訳なかった」
「気にしていない。バロンは、私の命を惜しいと思ったのだろう」
 くだらない事だった。大将軍でありながら、その軍を掌握しきれない男の命など、たかが知れている。
「これまで、俺はお前と何度も戦った。何度も戦場で巡り合い、何度も戦場で命を燃やしてきた」
「そうだな。そして、決着はつかなかった」
「つきようも無かったのだと思う。俺はお前に、勝てるとは思えなかった。勝とうという気はあったが、勝てるという思いは抱けなかった」
「かつての私も、剣のロアーヌに対して、同じような思いを抱いていた」
 少しばかりの沈黙。レンは私に何を伝えようとしているのか。残った右目を覗き込んで、それを窺おうとしたが、複雑な感情しか読み取る事が出来なかった。
 この男は、終焉をみている。何の、とまでは言えないが、いずれかの終焉をすでに見ている。
「もう、終わりにしよう。ハルトレイン」
「そうだな。決着をつける時が来たのだ、と思う」
 レンの表情は、尚も動かない。強い。単純にそう思った。余計な感情が全て排除されているのだ。隻眼のレンの弱点は、憎しみだとか怒りだとか、そういう感情だった。つまり、弱点が消えた。
「お前の弟は、退げておけ。死ぬぞ」
 私がそう言うと、レンの隣に控えていたシオンが僅かに眉を動かした。
「とうに戦場では命を捨てている。ここで果てようとも、後悔はない」
「そうか。好きにしろ」
 それだけだった。それで、自陣へと駆け戻った。睨み合う。外から見れば、異常な光景だろう。数万の軍が対峙しているというのに、実際に睨み合っているのは、僅かに五百と五百なのだ。
 両軍は何かを感じているはずだ。私とレン、そしてシオンは、決して手を出すな、という気を外に向かって放っている。それも全身で、戦場に居る全ての者達に訴えかけるかのようにだ。
「天下はすでに決している。しかし、私達の勝負だけは別の次元の話だ。正々堂々、決着をつけようではないか」
 呟きだった。それでも、レンはその呟きが聞こえているかのように、私を見据えて頷いていた。レオンハルトの血筋と、ロアーヌ、シグナスの血筋。同じ天は戴かない。だからこそ、決着をつける。どちらか片方の死をもって、それは決まる。
「いくぞ、隻眼のレン」
 馬体を腿で絞り上げた。疾駆する。

 槍を執った。全身が熱い。しかし、その熱さの中にあるのは明鏡止水の心だ。今、分かった。今まで、俺はこの熱さに身を任せていたのだ。だから、ハルトレインに勝てなかった。熱さが全身を支配し、感情を剥き出しにした。それはある種の強さだろう。しかし、ハルトレインにこの熱さはあったのか。ハルトレインは孤独。それはすでに、俺の胸に刻み込まれている。
 一歩、引いた視点で自分を見ていた。強くなった。精神的な面でしかないが、それでも強くなった。ようやく、俺はハルトレインと同じ土俵に上がったのだ。
 風。駆けていた。すでにハルトレインが槍を構えている。
 その刹那、火花。ぶつかっていた。白い光が視界を支配した次の瞬間、馳せ違っていたのだ。
 反転する。ハルトレインは、すでにこちらに向けて駆けていた。五百騎が、まるで一頭の獣だ。狂ったように原野を馳せ、全ての兵がハルトレインに追従し、呼応している。これが、ハルトレインの軍。
 再び、ぶつかる。二人の兵を馬から突き落とした。駆け抜けざまに剣。両脇。それを槍の柄で軌道を変え、同士討ちのような格好にさせた。周囲の敵兵が呻きに近い声をあげる。
「神業だな」
 そう言ったハルトレインは、一本の槍で三人を一挙に貫いていた。そのまま膂力(りょりょく)で槍を振り回し、屍は原野へと消えていった。
「その口でよく言う」
 瞬間、側面から熊殺しの突撃。しかし、ハルトレインは微動だにしなかった。強力な攻撃のはずだが、効いていないのだ。
 おそらく、シオンはこの戦いに付いてはこれないだろう。今、この戦いにおいて、シオンは一段、いや、二段ほど質が劣る。それは決して強さという意味ではない。誰にも言い表せない何かが、シオンには足りていないのだ。そして、俺とハルトレインだけがそれを持っている。
 弟が愚かでなければ、自ら身を引くはずだ。そして、例え愚かであろうとも、俺にシオンを救う気はない。すでに、そういう次元は超越してしまっているのだ。
 しかし、シオンは原野を駆け回り続けていた。暗に連携を示唆しているが、俺はそれに応じる気がなかった。
 そして、俺は弟の死を覚悟した。
 何故か、レンが連携に応じようとしない。最初は気付いてないだけかと思ったが、何度も確認するような動きを取ってみて、それは確実だと分かった。
 ハルトレインを相手に、連携無しで戦うつもりなのか。というより、連携そのものを考えていない。
 こんな事は初めてだった。レンは、常に俺を右腕のような存在として扱ってきたし、俺自身もそういう立ち位置を望んでいた。レンの動きに付いていけるのは、メッサーナの中で、いや、天下の中で俺だけだ、という自負にも似た思いまである。
 レンも俺に信頼を置いていたはずではないのか。これまでの動きの中でも、俺はレンの想定し得る全てを実現してきたはずだ。俺は、常にレンのために戦ってきた。レンが居るからこその、俺なのだ。
 不意に、恐怖にも似た感情がわきあがってきた。レンが俺を必要としていないのかもしれないのだ。しかし、何故。
「兄上、共にハルトレインを討たないのですか」
 ハルトレインとレンが、激しくぶつかり合っている。そして、隙がない。それは鳥肌が立ってしまうほど、徹底されている。どこをどう見ても、入り込める隙がないのだ。普段ならば、ここに来いとばかりに連携を要求してくる。それが、ない。というより、必要としていない。ハルトレインすらも、来るな、と言わんばかりの動きを展開している。
 何故。熊殺し隊は、もう不要だというのか。
「シオン隊長、俺達は」
 背後で兵が心配そうに声をかけてきた。しばらく、軍を停止させているのだ。その一方で、ハルトレインとレンが激しい戦いを繰り広げている。
「行かなくていいのですか、隊長」
 俺だって、行きたい。行って、レンの手助けをするべきだ。何のための熊殺し隊なのか。スズメバチ隊の支援のためにいるのではないのか。いや、スズメバチと熊殺しは二つで一つだ。そういうコンセプトで、軍は編成されている。
 手綱を握った。二代目のホークである。バロンより譲り受けた馬で、戦場ではよく駆けた。疾駆すれば、タイクーンにも負けず劣らずの速さでもある。
 瞬間、スズメバチ隊が崩された。ハルトレインの鋭利な突撃が、陣形そのものに穴を穿った格好である。それでも、レンは隙を見せない。連携を無視し続けている。
 手が震えていた。分からないのだ。何故、そうまでして連携を拒むのか。俺の力が足りないのか。俺の動きが悪いのか。
 スズメバチが小隊ごとに散らばる。そこにハルトレインが喰らい付いた。レンの小隊。
 見ると同時に、馬腹を蹴っていた。ホークが疾駆する。隙はない。隙はないが、レンが討たれてしまうかもしれない、という思いが、俺の身体を突き動かしていた。すぐ背後で、兵も付いてきている。
 迫る。ハルトレインの騎馬隊。
 突撃。しかし、崩せない。妙だと思えるほど、崩せない。瞬間、背筋に悪寒。
「下がれ。ここはお前が来て良い場所ではない」
 ハルトレインの声。すぐ近くに居る。目を横に走らせると、居た。槍を構えて、こちらを見据えている。それを見止めると同時に、言いようの無い威圧感を受けた。それは、俺の心身を圧倒してくる。
「お前ほどの強者であれば、分かるだろう。兄の気持ちを汲んでやるべきだ」
「ハルトレイン、俺は」
「お前では、無理だ」
 刹那、カッとしたものが頭の中を走った。方天画戟を頭上に振り上げる。同時に光。方天画戟が、手から消えていた。
「隊長っ」
 背後で落下音。宙に舞い上げられていたのだ。振り下ろすよりも先に、いや、馬を進めるよりも先に、俺の方天画戟は宙に撥ね上げられていた。
 それが何を示すのか、考えるまでもなかった。次元が違う。
「今すぐにでも、私はお前を討てる。しかし、そんな事に意味はない」
「俺は、熊殺し隊の隊長だぞ」
「意味がないのだ。熊殺しのシオン、手を出すな。そして、速やかに軍を引け。これは忠告ではない。頼みだ」
「何を言っている?」
「過去に私は、父とロアーヌの勝負を邪魔したことがある。今思えば、あれほど愚かな事はない。父を殺したのは、私だ。今ならば、それも分かる」
 何の話をしているのか。今、ここは戦場だぞ。そして、最終決戦の決着を付けようとしている最中(さなか)だ。一体、ハルトレインは何を言っているのだ。
「シオン、かつての私になるな。必ず、どこかで後悔する事になる。今は私の言っている意味が分からないかもしれん。だが、ここは私の頼みを聞いてくれ」
「ハルトレイン、俺は戦場で死ねれば本望だ」
「武器もない男を殺せ、とお前は言うのか」
「俺は」
「私とレンは、共に生きてはならん。だから、ここで決着をつける。そこに他者が介入する事はできん。唯一、お前が介入してきたが、それはお前が強いからだ。しかし、お前の強さと私たちの強さは種類が違う」
 ハルトレインの目は、哀願の色さえも漂わせている。頼み。この言葉が、俺の頭の中で反芻されていた。
「レンが討たれたら、俺がお前を討つぞ」
 言っていた。そして、ハルトレインは静かに頷いた。
「礼を言う」
 そう言って、ハルトレインは駆け出していった。すでにレンは、体勢を整えて待っている。しかし、待っているのは俺ではない。たった一人の宿敵だ。
 一応、兄を救った事にはなるのか。決して、後味の良いものではない。しかし、今の自分を納得させるには、十分すぎる材料だった。
 地面に突き立った方天画戟が、日の光を照り返している。
111, 110

  

 天を見上げていた。蒼い空が視界に広がっている。冬は終わりを告げ、春を呼ぼうとしていた。ただ、風は冷たい。
 澄んでいた。心も身体も、命さえも澄んでいた。ここからは、一秒毎が生涯を賭ける一瞬となるだろう。そして、そこで得られた結末は、天命という名の終焉である。俺か、ハルトレインか。
「タイクーン、行こうか」
 そう呟き、俺は視線を前に戻した。シオンを退けたハルトレインは、真っ直ぐに俺だけを見ている。射抜くような視線。ハルトレインは、弟の命をいたずらに奪わなかった。やろうと思えば、即座に討てたはずだ。しかし、あえてそれをしなかったのは、やはり俺との決着を最優先させたからだろう。
「スズメバチ隊は、死力を尽くす」
 片手で手綱を取り、もう片方の手で槍を握り締めた。ハルトレインが隊列を整え、気を充溢させている。視線は合ったままだ。余計な意思などは存在しない。決着を求める気が、気だけが、互いに高まっていく。
 隻眼のレン、これで決めよう。
 ハルトレイン、俺はここで宿命に終止符をうつ。
 そういう言葉を交わしたような気がした。そして、互いの気が、極限まで高まった。
 いまこそ、決戦の時。
 気が爆発した。同時に疾駆する。風。それを感じた刹那、交錯していた。全身で、手応えを感じた。しかし、それはハルトレインも同じだろう。互いに、犠牲をほぼ同数、出しているのだ。しかし、俺の方が抉られ方が深い。交錯の瞬間、ハルトレインがスズメバチの側面を捉えていた。甘いのだ。俺の動きが甘い。まだ、何かに執着している。全てを捨て去る覚悟をしていない。
 歯を食い縛った。失った左目が熱い。何故、俺は左目を失ったのだ。ハルトレインに奪われたからだ。ならば、何故奪われた。志が無かったから。俺が弱かったから。この男の背中を、ずっと俺は見続けていた。
 ぶつかる。押し合いになった。どちらも一歩も引かない。剣戟の音が鳴り響く。激しい攻防戦である。しかし、何がなんでも離脱だけはしない。背中を見続けるのは、もう終わりだ。この男と向き合い、全てを賭ける。
 槍。放った。ハルトレインがかわす。それと同時に敵兵の槍。それを槍の柄で撥ね上げ、返す手で敵兵をなぎ払った。ハルトレインの目が燃える。来い。目でそう言った。すぐに槍が来る。速い。速過ぎる程だ。今まで見てきた槍の中で、最も速い。それだけじゃなく、力強さまでもある。その威は、俺を圧倒してきた。
 身体を回し、槍をかわす。それでも、身体を抉り取られたかのような錯覚に陥った。気だ。気で、抉ってきたのだ。その槍に敵兵が連携を取ってくるが、周囲の兵がそれを防ぐ。
 吼えた。身体の奥底が熱い。心が燃え盛った。俺が失ったのは、左目だけか。違う。父を、誇りさえも失った。何故。その答えは、今ここにある。
「全てが未熟だった。人として、男として、志も持たずに戦場に赴き、己の強さだけを恃みにしてきた」
 槍に全てを込める。闘志を、明鏡止水の心を、命すらも、全てを何もかもを込めて、槍を風車のように振り回した。
 敵兵がモノのように吹き飛ぶ。血が宙を舞い、風が竜巻のごとく巻き起こった。
「俺は駄目な男だ。父の志を受け継ぎ、戦場に再び舞い戻ったが、それでも俺はお前に勝てなかった。いや、勝てるはずもなかった」
 ハルトレインは何も言わない。風が、尚も渦巻く。互いの兜の緒が、天に向かって巻き上がっていた。
「お前は間違いなく、不世出の英傑だ。ハルトレイン、お前は何を想う」
「隻眼のレン、不世出の英傑は私だけではない。お前もだ。ただ、時代を同じくして生まれた。そのせいで、お前は私の下に埋もれる事となった」
「今は違う」
「そうだ。だからこそ、お前は今ここで私と渡り合っている」
 槍。互いが同時に放っていた。刃が触れ合う。閃光。そして周囲に衝撃が走った。二人の気が、周りの全てを吹き飛ばす。原野の草が、散り散りになった。
「間違いなく、決着がつく。ものの数分で、どちらかが死ぬぞ」
「その決着のために、俺はここに居る。それに、命などはどうに捨てた」
 もう一度、槍を放つ。ハルトレインが、やはり合わせてきた。刃が触れ合う。いや、ぶつかったのか。閃光が走り、衝撃が全身を貫いた。
 身体が宙を舞っていた。吹き飛ばされたのだ。視線を走らせると、ハルトレインも同じように吹き飛んでいた。すぐに身体を丸め、回転しながら地に降り立つ。背後に目を向ける。タイクーンが全身を痙攣させ、横たわっているのが見えた。
 ここからは、独りで闘う。さらば、とは言わない。俺は負けるつもりは無いのだ。
 槍を構えなおす。ハルトレインも構えなおした。互いに徒歩(かち)である。真の意味での、武が試される。
 気を放った。ハルトレインの気。圧倒的だった。天下最強、史上最強の気だろう。並の男なら、この気に触れただけで失神する。
 全身が熱かった。何もしていないのに、呼吸が荒くなっていく。額に汗が、にじみ出てきた。風は冷たいはずなのに、炎の中に佇んでいるかのようだ。
 唾を飲み込む。喉が、渇く。その渇きが、耐え難いものになってきた。ハルトレインの目。壮絶な目だった。あれが、最強の男の目だ。
 ハルトレインが、一歩踏み出してくる。反射的に退がろうとする身体を、気で支えた。負ける。その想いが、一瞬だけ俺の心を過ぎった。
 右目を閉じる。また、あの男の背中を見るのか。違うだろう。向き合うと決めた。そして、全てを槍に込めたのではないのか。
 目を開けた。もう、迷いや恐れなどはない。汗も引き、呼吸も落ち着いていた。
 気。放つ。押し合いになった。踏み出すその時を、お互いに探り合っている。
 決着の時は近い。
 槍を低く構え、自らの心臓の鼓動を聞いていた。その音を聞く度に、気が高まっていく。この気が限界に達した時、俺とハルトレインは刃を合わせる事になるのだろう。そして、決着をつける。
 一粒の汗が額に浮かんでいた。少しずつ、それは頬へと伝っていく。
 槍を握り締め、全身に力を漲らせた。これが続くのは、数秒か、数十秒か、それとも数分か。全力で、命を賭して、闘い抜く。そう、心に決めた。
 汗が顎の先に伝った。視界が揺れている。気が熱を帯びているのだ。ハルトレインの全身も、陽炎で揺れている。
 風。それが吹き抜けると同時に、顎から汗が離れた。目を見開く。気を開放する。
 汗が地面に落ちた。
 跳躍。ハルトレインと同時である。槍を突き出した時には、すでに互いの位置が入れ替わっていた。地面を踏みしめ、身体を回す。同時に槍を振るった。ハルトレインが槍を縦に構えて、それを防ぐ。二本の槍がぶつかった瞬間、お互いの身体がモノのように吹き飛んだ。原野の草が宙を舞う。
 身体を丸め、回転しながら地に降り立った。しかし、その時にはハルトレインの姿が視界から消えていた。視線を左右に走らせる。居ない。
 ハッとした。殺気である。左右ではない。上。感じると同時に後ろへ飛びずさった。衝撃波。巻き起こる。間一髪でかわしていた。
 空からの奇襲だった。ハルトレインは空を飛んだのか。いや、吹き飛んだ力を利用して、上空に舞い上がったのだろう。そして、俺ごと地を貫いてきた。その衝撃で、周囲は原野の草と砂埃で覆われていた。
 再び、ハルトレインの姿が消える。砂埃である。心臓の鼓動が跳ね上がった。見えない恐怖というのは、人の心を圧倒してくるのだ。しかし、それはハルトレインも同じのはずだ。それに気付き、俺は目を閉じた。全神経を耳に集中させる。肌は、ハルトレインの気をこれでもか、という程に受けていた。つまり、近い。
 草の擦れる音。違う。人が混じっていない。草だけが擦れ合う音だ。ハルトレインは動いていない。いや、本当に動いていないのか。その疑念を元に、目を開きそうになる自分が居た。開いた所で、見えるのは砂埃だけだ。そう自らに言い聞かせ、集中した。
 風。耳の中で渦巻く。しかし、同時に音を捉えていた。横に跳躍する。俺の居た位置に、ハルトレインが飛び込んできた。それを視界に捉えると同時に、地面を蹴った。
 槍を突き出す。ハルトレインが身体を回してかわす。右足。前に出した。気を放った。ハルトレインが上体を反らす。気のフェイントである。隙。
「もらったぞっ」
 声をあげると同時に、槍を放った。閃光。手応えは無い。穂先を綺麗に撥ね上げられたのだ。ハルトレインに俺の槍は見えていないはずだが、それでも槍の柄で撥ね上げられた。しかし、姿勢を崩している。
 そこに向けて、再度、槍を放つ。今度は蹴り上げられた。驚愕である。目が別のところにも付いているのか、と思えるほど正確かつ完璧な動きだった。やはり、この男は天才なのだ。そして、史上最強の男。
 ハルトレインが地に槍を突き立て、それを軸にして後方に飛びずさった。そして、再び槍を構えなおす。
 激しい呼吸で肩が上下していた。汗が幾筋も頬を伝っている。しかし、それはハルトレインも同じである。あの男とて、人なのだ。どれだけ、超常的な動きをしようとも、神ではなく、人だった。
 かつて、俺の二人の父も、神と呼ばれた事があった。しかし、二人とも、それは死に際だった。シグナスは闘神、ロアーヌは鬼神。人は、死の淵に立つと、人でなくなるのかもしれない。そして、俺もハルトレインも、その領域に片足を踏み入れようとしているのではないか。いや、すでに踏み入れたのかもしれない。
 今は呼吸をするのも苦しい。すぐにでも地に倒れ込みたい。だが、それは本当に限界なのか。おそらくだが、二人の父は、この限界を超えたのだ。だから、人ではなくなった。人でなくなった先に待つのは、死だった。
 死という言葉を連想したが、去来してくる特別な想いなどは無い。むしろ、死さえも構わない、という想いだった。死が一体、なんだと言うのだ。
 呼吸が整わない。槍を持つ手は異常に重たく、立っているのがやっとだった。激しく動いていた時の方が、よほどマシだったとも思える。
 それでも、口元は緩んでいた。いや、笑っていた。ハルトレインも同じである。おそらく、俺達は分かっている。限界を突破する瞬間が、すぐ傍まで来ている事に。
 さらに乱れる呼吸。もう、意に介さなかった。闘いに身を任せる。ハルトレイン、俺はお前と闘い抜く。そして、共に逝こう。限界を突破した先に、そして、死を超えた先に。
 吼えた。跳躍する。汗を飛び散らせ、槍の一撃。ハルトレインも放っていた。二つの刃が、ぶつかる。
 その瞬間、全身が躍動した。力が溢れんばかりに漲る。燃え盛った。血が、身体が、気が、命が燃え盛る。
 限界を突破した瞬間だった。ハルトレインの槍とぶつかった瞬間、あの男の気が俺の身体に流れ込んできた。それが何かを呼び覚ましたのだ。
 槍。放つ。いつもは一度しか放てないものが、二度、三度と放てた。ハルトレインも同じである。刃が触れ合うと、必ず閃光と火花が散り、原野の草が消し飛んだ。
 呼吸の荒さはもう無い。いや、呼吸の必要性すらも感じなかった。止まった時の中で動いているようなものだ。一呼吸の間に、幾通りもの動きが出来る。
 槍。飛んでくる。それを身体を開いてかわした。しかし、それでも鎧に火花が散る。気だけで、抉り取ってきたのだ。反撃で槍を放つ。全く同じ現象がハルトレインにも起きていた。
 闘って、闘って、闘い抜く。その先に待つのは死だろう。勝っても、負けても、それは変わらない。だが、俺はそんなものはどうでも良い。この男と、決着をつける。
 ハルトレインの気。一気に膨れ上がった。何かが来る。同時に脳裏へと記憶が蘇った。童。剣。光。そして、失った誇り。
 一度に去来してきた。ハルトレインが腰元の剣に手を伸ばす。見とめた。奥義が来る。しかし、槍を放っていた。完璧な隙。限界を突破した今なら。いや、間に合わない。どうする。
 鞘から白刃が覗いた。時が遅い。ゆっくりと、白刃が抜かれていく。それをしっかりと認識しているのに、身体が付いてこなかった。身体の限界突破が終わったのか。精神だけが、限界を突破したままなのか。
 抜かれた。斬られる。覚悟した。
 瞬間、何かが弾けた。闘気。感じたが、俺とハルトレインのものではない。どこから。剣が迫ってくる。しかし、それが俺に到達する事は無かった。
 光だった。ハルトレインがその光をかわしていた。
 吼えた。同時に槍を放っていた。その槍は、まるでハルトレインに吸い込まれるように、しっかりとその身体を貫いた。
「終わった」
 ハルトレインだった。しっかりとした声。
「お前の勝ちだ、レン」
「何故、何故、光をかわしたのだ」
「光ではない。バロンの矢だ」
 その瞬間、俺の心は暗澹としたものに覆われた。あの男は、俺とハルトレインの勝負に、水を差した。殺してやりたい。そうも思った。
「限界を突破した私でも、あの矢はかわすしかなかった」
「あの矢が無ければ、俺はお前に」
 討たれていた。言葉には出来なかった。どうしようもない後悔の念と、異常なまでの悲憤が全身を支配してきたのだ。
「これが運命だった。しかし、私を討ったのがお前で良かった」
「ハルトレイン、俺は」
「なぁ、レン。本当に私たちは、争うしかなかったのだろうか。お前の父を討ってさえいなければ、私たちは」
「言うな。言わないでくれ」
 涙が流れていた。何故かは分からない。決着はついた。それなのに、心は締め付けられる。
「そうだな。もう終わったのだ」
「ハルトレイン」
「泣くな。男だろう」
 そう言って、ハルトレインの眼から生気が消えた。終わった。全てが終わった。
 槍から手を離すと、一人の男の亡骸は地に伏した。
 同時に俺も地に倒れ込むのを感じた。死ぬのだろう。限界を突破した先に待つのは死。しかし、それが訪れるとは、俺はどうしても思えなかった。
 ただ、意識は遠のいていた。
113, 112

  

 日が眩しかった。視界に広がるのは、見覚えのある天井だけだ。四肢からは、柔らかな布の感触が伝わってくる。そして、鳥の声。
 状況がよく分からなかった。僅かな頭痛を覚えたが、全身は鉛のように重たい。上体を起こそうとしたが、声が漏れただけだった。
 記憶を探った。アビス原野でハルトレインと決着をつけた所までは覚えている。しかし、そこからの記憶が途切れていた。いや、父であるロアーヌと会ったような記憶がある。会えるわけはない。だが、言われた事を覚えていた。お前は大志を成し遂げた。帰れ。シグナスもお前を待ってはいない。そう言われたのだ。
 夢の中に居るような感覚だった。ただ、間違いなく言える事は生きている、という事だ。僅かな頭痛こそが、生きている証だった。
 深く息を吐(つ)いた。そして、再び様子を探った。どうやら、ここはピドナの医療施設のようだ。軍用であり、個室でもある。
 少しずつ、状況が飲み込めてきた。ハルトレインと決着をつけた後、俺は意識を失った。そして、何らかの形で戦は終着し、俺は医療施設に運び込まれたようだ。ここに居るという事は、意識は失っても死んではいなかった、という事だろう。どうにか、命は繋ぎ止めてしまったらしい。
「レン様?」
 女の声だった。右手に温もりが伝わってくる。
「レン様、目が覚めたのですか?」
 首を横に倒すと、美しい女が目に涙を浮かべ、微笑んでいた。
「モニカ」
 俺の惚れた女だった。その顔を見て、何故かひどく安心した自分が居た。モニカを見た瞬間、繋ぎ止めてしまった命が、熱を帯びたような気さえした。
「ここはピドナか?」
「はい。レン様、目覚めてよかった」
 モニカの声は震えている。どことなく、モニカの顔はやつれていた。ずっと、傍に居て看病していてくれたのかもしれない。
「喉が渇いたな」
「三十日もの間、眠り続けていたのです。喉が渇いて当たり前ですわ」
 そう言って、モニカが口移しで水を飲ませてきた。舌は貪るようにモニカの口の中の水を求めた。水が全身に染み込んでいく。
「三十日」
「そうです。一度も目覚めることなく、まるで死んだように動かなかったのですよ」
「記憶がないのだ。アビス原野に居た所までは覚えている」
「ハルトレイン様と決着をつけられました」
「あぁ」
 言って、暗い気持ちになった。バロンに邪魔をされた。バロンが居なければ、俺はハルトレインに討たれていただろう。つまり、こうしてモニカと会話をする事もなかった。そういう意味では、命を救われたという思いはある。しかし、感謝する気持ちにはなれなかった。むしろ、顔も見たくない。
「戦はどうなったのだろう」
「終わりました。ハルトレイン様を失った官軍は、国ごと降伏したのです」
 言われて、俺は目を閉じた。記憶の中で、会えるはずのないロアーヌに言われた事を思い出す。
「メッサーナは天下を統一したのだな」
「はい。平和の訪れです」
 ロアーヌは、大志を成し遂げた、と俺に言った。すなわちそれは、メッサーナが天下を統一した、という事だったのだ。
「そうか。そうなのだな」
 本当に全てが終わったのだ。多くの人間に受け継がれた二人の父の大志は、ようやく成し遂げられた。そして、ハルトレインとの決着も。
 何かが心に訴えかけてくる。それが何かはわからない。しかし、悲しみに似ているものだ。涙が出そうになる自分が居て、それに対して驚きも覚えた。
「モニカ、もう少しだけ傍に居てくれ」
「はい」
 そう言って、俺は目を閉じた。
 次に目を開けた時には、夕日が部屋に差し込んでいた。どうやら、眠ってしまったらしい。
「兄上」
「レン」
 複数の声が聞こえた。右手。温もりはある。モニカの温もり。それを感じて、俺は上体を起こした。今度は、楽に起き上がれた。回復に向かっているのだろう。身体がいくらか軽くなっている感じもある。思慮も明確になっていくのを感じていた。
「シオン、ニール」
「兄上」
「心配させやがって、くそったれ」
 二人とも泣いていた。弟と友。そして、この世で最も愛しい人。生きていて良かった。はじめて、そう思った。十五歳の初陣より以来、生きる事に対して、責任のようなものを感じていた。しかし、今は違う。生きていて良かった。本当にそう思う。
「天下統一したんだぜ、お前、知ってんのかよぉ」
「あぁ、聞いたさ。モニカが教えてくれた」
「ノエルがピドナに向かってきているんですよ。新たな宰相候補として」
 シオンがそう言ったのを聞いて、俺はニールの方に目をやった。
「気にしてねぇよ、俺は。確かにあいつは親父の仇だが、それを言った所でどうにかなるものでもねぇ。それに、大事なのはこれからだ。メッサーナは天下を取った。だったら、これを次に繋げるのが大事だろうよ」
「ニール、俺が眠っている間に、ずいぶんと賢くなったな」
「お前、それ馬鹿にしてんだろ」
 ニールがそう言うと、みんな笑い始めた。
「レン様、シオン様やニール様の他にも、会いたいという方がたくさんいらっしゃいます。ひとまず、お会いするのは、このお二方だけにして頂いたのですけど」
「あぁ。だったら、俺から会いに行くよ」
 しかし、バロンには会いたくなかった。会ってしまうと、何かが変わってしまうだろう。それも嫌な形で、だ。
 ピドナを出るべきかもしれない。もう戦は終わった。天下も定まり、軍人の役割は縮小されていくだろう。平和が訪れたのだ。そうなれば、力を発揮するのは文官である。その筆頭がノエルという事になるのか。
「国の方で取り立てられたのは、ノエルだけなのか?」
「いや、他にも多く居るぜ。レキサスとかな。やはり、国は強大だった。探せば探すほど、有能な奴が出てくるらしい」
「そうか。しかし、勝ったのだな」
「勝ちました。本当に苦しい戦いでしたが、勝ちました」
 シオンの言葉を聞いて、俺は大きく頷いた。
 これでメッサーナは天下を築いていくのだろう。バロンを王とし、優秀な者たちが国を作り上げていく。しかし、その国を作り上げていく者たちの中に、自分を描くことは出来なかった。すでに、ここに俺の居場所は無いのかもしれない。いや、作ろうとも思っていない、という方が正しいのか。
 ピドナを出る。また、この事が頭に浮かんできた。この街には、思い出が多すぎる。共に過ごした仲間達の記憶が、染み付いてしまっているのだ。ジャミル、アクト、ダウド。すでにこの世を去った者も少なくない。
 出るべきだろう。むしろ、出てしまいたかった。ロアーヌの息子、シグナスの息子、スズメバチ隊の隊長。そういった肩書きを全て捨てて、一人の男として旅に出てしまいたい。
「シオン、ニール。すまないが、席を外してもらえないか」
 俺がそう言うと、二人は顔を見合わせた後、口元を緩めて退室した。モニカと二人きりである。
「モニカ、唐突な話だが」
「はい」
「俺は身体が回復したら、ピドナを出る」
 俺がそう言っても、モニカは驚いた様子は見せなかった。ジッと、俺の目を見つめてくる。
「だから、その」
「付いて行きます。レン様がどういう道を歩んでも、私は付いていきます」
 言われて、俺は頷くことしか出来なかった。
「待ち続けたのです。貴方をずっと待ち続けた。貴方が戦に明け暮れている最中(さなか)も、生きて帰ってきて欲しい、と何度も願いました」
「すまなかった」
 その言葉と同時に、俺は涙を流していた。こんなにも自分を愛してくれる女が、他に居るのか。
「そして、ありがとう」
 モニカが右手を握ってきた。温かい。そう思った。
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