第五章 天の道標
さすがにミュルスには活気があった。しかも、ピドナのそれとはまるで雰囲気が違う。民はみんな陽気で、どこか大らかな所があるのだ。また、感情表現も豊かで人見知りが極端に少ない。こういった民の特徴は、港町という事が関係しているのかもしれない。
ミュルスに訪れて、最初に驚いたのは食文化だった。メッサーナとは違い、肉を使う料理が少ないのだ。その代わりに、魚料理が豊富である。その種類は多岐に渡り、塩をまぶして焼いたものや、蒸し焼きにしたもの、中には生のまま食すものもあった。肉を生で食すことは、滅多にない。
最初は魚の食い方が分からず、皿の上を散らかすばかりだったが、最近になってようやく食い方が分かってきた。シオンの食い方を見て、真似るようにしたのだ。シオンは、驚くほど魚の食い方が上手い。
ニールも俺と同じく魚の食い方が分からず、最初は四苦八苦していた。だが、今はもう面倒だからと言って骨ごと食っている。上手く食う努力すらしないのはニールらしいが、ダウドなどは苦笑するしかなかったようだ。骨が刺さって痛くないのかとも思ったが、何故か器用に口内でさばいているらしい。そんなニールがミュルスの民には珍しかったようで、今ではニールはちょっとした有名人である。
ノエルと出会ったのは、そういう時だった。
切欠はニールの魚の食い方からで、ノエルの発する言葉に微かな賢明さが垣間見えた。そこに興味を惹かれた俺は、一緒に飯を食わないか、とノエルを誘ったのだった。
ノエルは一介の書生で、元々は軍人だったという。
以前、このミュルスには、レキサスという名の将校が居た。今は都に異動となったようだが、かなりまともな将校だったらしく、民からの評判はすこぶる良かった。
このレキサスに付いていたのが、ノエルだったのだ。将来的にはレキサスの軍師を希望していたようだが、それは叶わなかったらしい。レキサスだけが都に異動となってしまったのだ。そして、残されたノエルは軍を辞めた。
「レキサス殿が居なくなったミュルスで、軍人を続ける理由はない」
ノエルは、淡々とそう言った。
ミュルス軍の動きが慌ただしくなったのは、このノエルと交流を持ち始めた頃だった。
最初は賊徒の討伐でもするのだろうと思っていた。しかし、それは全くの見当違いだった。
なんとミュルスは、国を相手に反乱を起こしたのである。その理由まではわからないが、民が協力的でない所を見ると、大義は無いのだろう。
反乱を起こしたのは、現在のミュルスの太守であるルードだという。一度だけ町を歩いてるのを見かけたが、いかにも卑しい、という感じの男だった。眼の色が暗く、仕草の一つ一つがねちっこい。
俺が思ったのは、こういった男でも太守になれてしまう、という事だった。やはり、国は腐っていると言わざるを得ない。
「即座に官軍がやってくる。戦にはなるだろうが、ミュルスは第二のメッサーナにはなれないな」
ノエルが水を飲みながら言った。ちょうど、晩飯を食い終えた所だった。ここ最近は、ノエルも含めた五人で飯を食う事が多い。
「戦になれば、これはメッサーナにとって好機となり得る。今回の最大の焦点は、ここだろう、と僕は思っているんだが」
「俺もそう思う。メッサーナが軍を出すにあたって、ミュルスの反乱は良い切欠になるだろう」
ノエルには、俺達がメッサーナの人間である事は言っていない。別に隠す事でもないが、特に聞かれもしなかったのだ。ただ、魚の食い方などで大体の見当は付いているだろう。
「そのメッサーナだが、今のままでは天下は取れないだろうな」
不意に、ノエルがそう言った。俺の心に、微かな動揺が走る。他の三人も、有るか無きかの反応を示していた。
「何故、そう思う?」
動揺を打ち消すように、俺は言った。
「いや、天下は取れるかもしれない。制圧、という意味になるが。しかし、真の天下、すなわち民が納得する天下は取れないだろう」
「だから、何故」
「メッサーナには、王が居ない。そして、国には王が居る」
言われて、俺は心を鷲掴みされたような感覚に陥った。ノエルは、かなり重要な事を喋ろうとしている。
「この国の王は、どうしようもなく愚劣だ。この事は、ある一定の職に就いている者ならみんな知っている。だが、それ以外の者、つまりは民だ。民は、この事など知るはずもない。宗教でいう神のように、王の事を信じている。信じ続ければ、救われる。いつもどこかで自分達の事を見ていてくれて、いつか救いの手を差し伸べてくれる。そう思っているのだ」
「それは違うだろう、ノエル」
シオンが割って入る。
「王は何もしてくれない。こんな事は、今までの経緯から見ても明らかだ」
言い終えたシオンを、ノエルが静かに見据えた。
「それでも信じている。つまり、王とはそういう存在なのだ、シオン。民にとって、絶対的な存在。それが王だ。どれだけ愚劣でも、王は王なのだ」
ノエルの言葉が、心にしみわたっていくのが分かった。旅の目的。戦う理由とは別のそれを、俺は掴みかけている。いや、ノエルが掴ませようとしているのか。
「メッサーナの政治は確かに清廉だ。僕が思うに、これまでに無い最高の政治だろう。だが、それだけでは駄目だ。民の心の拠り所がない。国としての象徴が、王が、メッサーナにはない」
そう言ったノエルを、俺はじっと見つめていた。全てが、分かった。今まで、旅をしていてずっと見つける事のできなかった答えを、今ここで見つけた。
「兄上」
シオンに呼ばれて、俺は自分が身を乗り出している事に気付いた。
ノエルの言うとおりだった。まさしく、メッサーナには絶対的存在が居ない。ランスという首領は居るが、これは首領という座についているだけで、絶対的存在ではない。
そもそもで、メッサーナに絶対的存在は必要なかった。民のための政治を掲げているのだ。絶対的存在が居れば、ある意味で民を抑えつける事になってしまう。しかし、それは一部の人間の考えに過ぎなかったのかもしれない。
民は弱い。俺達が思っているよりも、ずっと弱い。国を旅してきて、これは肌で感じた事だ。そんな弱い者達には、何か頼れるものが必要だったのだ。
今のメッサーナに足りないもの。そして、必要なもの。それは、王という名の絶対的存在。
「ノエル」
俺は、じっとノエルの目を見据えた。
「俺達は、メッサーナの人間だ」
俺がそう言っても、ノエルは表情を変えなかった。やはり、知っていたのだろう。そして、知った上で俺に答えを掴ませた。すなわち、ノエルはそれほどの知恵者だったという事だ。
そんな知恵者が俺の軍師となってくれれば。メッサーナの同志となってくれれば。
「単刀直入に言おう。俺達と一緒に、メッサーナに来ないか」
ノエルは尚も表情を変えない。他の三人だけが、ただ驚いている。
ミュルスに訪れて、最初に驚いたのは食文化だった。メッサーナとは違い、肉を使う料理が少ないのだ。その代わりに、魚料理が豊富である。その種類は多岐に渡り、塩をまぶして焼いたものや、蒸し焼きにしたもの、中には生のまま食すものもあった。肉を生で食すことは、滅多にない。
最初は魚の食い方が分からず、皿の上を散らかすばかりだったが、最近になってようやく食い方が分かってきた。シオンの食い方を見て、真似るようにしたのだ。シオンは、驚くほど魚の食い方が上手い。
ニールも俺と同じく魚の食い方が分からず、最初は四苦八苦していた。だが、今はもう面倒だからと言って骨ごと食っている。上手く食う努力すらしないのはニールらしいが、ダウドなどは苦笑するしかなかったようだ。骨が刺さって痛くないのかとも思ったが、何故か器用に口内でさばいているらしい。そんなニールがミュルスの民には珍しかったようで、今ではニールはちょっとした有名人である。
ノエルと出会ったのは、そういう時だった。
切欠はニールの魚の食い方からで、ノエルの発する言葉に微かな賢明さが垣間見えた。そこに興味を惹かれた俺は、一緒に飯を食わないか、とノエルを誘ったのだった。
ノエルは一介の書生で、元々は軍人だったという。
以前、このミュルスには、レキサスという名の将校が居た。今は都に異動となったようだが、かなりまともな将校だったらしく、民からの評判はすこぶる良かった。
このレキサスに付いていたのが、ノエルだったのだ。将来的にはレキサスの軍師を希望していたようだが、それは叶わなかったらしい。レキサスだけが都に異動となってしまったのだ。そして、残されたノエルは軍を辞めた。
「レキサス殿が居なくなったミュルスで、軍人を続ける理由はない」
ノエルは、淡々とそう言った。
ミュルス軍の動きが慌ただしくなったのは、このノエルと交流を持ち始めた頃だった。
最初は賊徒の討伐でもするのだろうと思っていた。しかし、それは全くの見当違いだった。
なんとミュルスは、国を相手に反乱を起こしたのである。その理由まではわからないが、民が協力的でない所を見ると、大義は無いのだろう。
反乱を起こしたのは、現在のミュルスの太守であるルードだという。一度だけ町を歩いてるのを見かけたが、いかにも卑しい、という感じの男だった。眼の色が暗く、仕草の一つ一つがねちっこい。
俺が思ったのは、こういった男でも太守になれてしまう、という事だった。やはり、国は腐っていると言わざるを得ない。
「即座に官軍がやってくる。戦にはなるだろうが、ミュルスは第二のメッサーナにはなれないな」
ノエルが水を飲みながら言った。ちょうど、晩飯を食い終えた所だった。ここ最近は、ノエルも含めた五人で飯を食う事が多い。
「戦になれば、これはメッサーナにとって好機となり得る。今回の最大の焦点は、ここだろう、と僕は思っているんだが」
「俺もそう思う。メッサーナが軍を出すにあたって、ミュルスの反乱は良い切欠になるだろう」
ノエルには、俺達がメッサーナの人間である事は言っていない。別に隠す事でもないが、特に聞かれもしなかったのだ。ただ、魚の食い方などで大体の見当は付いているだろう。
「そのメッサーナだが、今のままでは天下は取れないだろうな」
不意に、ノエルがそう言った。俺の心に、微かな動揺が走る。他の三人も、有るか無きかの反応を示していた。
「何故、そう思う?」
動揺を打ち消すように、俺は言った。
「いや、天下は取れるかもしれない。制圧、という意味になるが。しかし、真の天下、すなわち民が納得する天下は取れないだろう」
「だから、何故」
「メッサーナには、王が居ない。そして、国には王が居る」
言われて、俺は心を鷲掴みされたような感覚に陥った。ノエルは、かなり重要な事を喋ろうとしている。
「この国の王は、どうしようもなく愚劣だ。この事は、ある一定の職に就いている者ならみんな知っている。だが、それ以外の者、つまりは民だ。民は、この事など知るはずもない。宗教でいう神のように、王の事を信じている。信じ続ければ、救われる。いつもどこかで自分達の事を見ていてくれて、いつか救いの手を差し伸べてくれる。そう思っているのだ」
「それは違うだろう、ノエル」
シオンが割って入る。
「王は何もしてくれない。こんな事は、今までの経緯から見ても明らかだ」
言い終えたシオンを、ノエルが静かに見据えた。
「それでも信じている。つまり、王とはそういう存在なのだ、シオン。民にとって、絶対的な存在。それが王だ。どれだけ愚劣でも、王は王なのだ」
ノエルの言葉が、心にしみわたっていくのが分かった。旅の目的。戦う理由とは別のそれを、俺は掴みかけている。いや、ノエルが掴ませようとしているのか。
「メッサーナの政治は確かに清廉だ。僕が思うに、これまでに無い最高の政治だろう。だが、それだけでは駄目だ。民の心の拠り所がない。国としての象徴が、王が、メッサーナにはない」
そう言ったノエルを、俺はじっと見つめていた。全てが、分かった。今まで、旅をしていてずっと見つける事のできなかった答えを、今ここで見つけた。
「兄上」
シオンに呼ばれて、俺は自分が身を乗り出している事に気付いた。
ノエルの言うとおりだった。まさしく、メッサーナには絶対的存在が居ない。ランスという首領は居るが、これは首領という座についているだけで、絶対的存在ではない。
そもそもで、メッサーナに絶対的存在は必要なかった。民のための政治を掲げているのだ。絶対的存在が居れば、ある意味で民を抑えつける事になってしまう。しかし、それは一部の人間の考えに過ぎなかったのかもしれない。
民は弱い。俺達が思っているよりも、ずっと弱い。国を旅してきて、これは肌で感じた事だ。そんな弱い者達には、何か頼れるものが必要だったのだ。
今のメッサーナに足りないもの。そして、必要なもの。それは、王という名の絶対的存在。
「ノエル」
俺は、じっとノエルの目を見据えた。
「俺達は、メッサーナの人間だ」
俺がそう言っても、ノエルは表情を変えなかった。やはり、知っていたのだろう。そして、知った上で俺に答えを掴ませた。すなわち、ノエルはそれほどの知恵者だったという事だ。
そんな知恵者が俺の軍師となってくれれば。メッサーナの同志となってくれれば。
「単刀直入に言おう。俺達と一緒に、メッサーナに来ないか」
ノエルは尚も表情を変えない。他の三人だけが、ただ驚いている。
レンの眼差しは、真剣そのものだった。メッサーナに来ないか。レンは、ノエルにそう言ったのである。
それに対して、何故か嫉妬している自分が居た。ノエルがレンの欲している人間だからなのか。俺は自ら志願して付いていく事になったのに対し、ノエルは誘いをかけられたからなのか。理由はわからない。
しかし、ノエルがメッサーナにとって必要な人間だという事はわかった。僅かな時の交流の中で、ノエルはその才覚を示したのだ。
ノエルは軍学はもとより、政治にも造詣が深い。書物を読み漁ったというが、それだけではないだろう。書物の内容をさらに噛み砕いて、完全に自分のものにしている。年齢はまだ二十歳にもなっていない、というが、持ち合わせている知識は相当なものである。
今の俺達に足りないものは、知略だった。武勇には自信があるが、知略となれば閉口してしまう。俺など、レンの軍学にすら舌を巻いてしまうのだ。ノエルの話す軍学には、ただ驚嘆するばかりだった。
しかし、ノエルには我が強い、という一面があった。自分の中にしっかりとした芯を持っており、これは絶対にぶれない。これは長所でもあるが、ある意味では短所だった。融通が利かない。つまりは、こういう事になるのだ。
ノエルの外見はまるで優男だが、性格は厳しい所も持っている。そしてレンは、この部分も含めてノエルを評価していた。
不意に、ノエルが目を閉じた。表情は読み取れない。
「ノエル」
呟くように、レンが言った。
「やめよう、レン」
ノエルが目を開く。表情に、決意が宿っていた。先述の芯が、顔に出ている。
「僕は国の人間で、お前はメッサーナの人間だ」
「だから、何だと言うんだ、ノエル」
「僕はメッサーナには行けない」
ノエルが言い切った。レンが、僅かな驚きの表情を見せる。
「何故?」
「出会った場所が、時が悪かった」
「どういう意味だ?」
レンが問うも、ノエルは返事をしなかった。ただ、レンの眼をジッと見つめている。
「それに、お前は軍を辞めている。このまま、一介の書生で人生を終えるのか?」
レンの口調が、少し荒くなっていた。食い下がっているのだ。レンにもこういう一面があるのか、と俺は不思議な気持ちになっていた。
「どうかな、分からない。しかし、僕はメッサーナには行けない。というより、お前には付いていけない」
言われたレンの表情が、僅かに強張った。
「お前は英傑すぎる。僕には眩し過ぎるのだ、レン。あえて何も聞かないが、お前は辛い過去を背負っているのだろう。しかし、その過去さえも、お前の英傑ぶりを惹き立てている。人づてに聞いただけで、僕は実際に見た事はないが、槍のシグナスのような輝きを、お前は放っているのだ」
鋭すぎる。俺は、そう思った。ノエルの才覚は、決して知識だけのものではない。言い表しようのない天性のものを、ノエルは持っている。
「出会うのがもう少し前だったなら、僕はお前に魅かれたのだろうと思う。あるいは、出会う場所がミュルスでなかったなら」
「どういう意味だよ、ノエル」
ニールが口を開いた。表情は、驚くほど真剣である。
「レキサス将校との出会い」
言って、ノエルが眼を伏せた。
「あの人自身は、決して英傑ではない。しかし、周囲の助け次第では、英傑となり得る人だ。僕は、そんなレキサス将校に魅かれたのだ。この人を英傑にしたい。そう感じた。レン、お前はすでに英傑なのだ。僕の助けなど、必要ない」
「分からない。ノエル、俺はお前の言っている事が分からない」
「ならば、お前に付いてきている三人に聞いてみたら良い。いや、ダウドは違うのかな」
ノエルが言い終えてから、俺はレンの顔を見た。まだ、表情は強張ったままだった。
「ハルトレイン、という男を知っているか。レン」
ノエルがそう言うと、レンがハッとした。
「知っているな。あの男にも、軽く声を掛けられた。そして、あれもお前とは違う色だが、英傑だ。しかし、あの男はお前以上に僕の助けを必要としていなかった。というより、自由に動かせる駒が欲しかったのだろう。それが見えたので、僕も誘いを断った」
それで、話が途切れた。レンはうつむき、目を閉じている。何かを考えているのか。
ノエルの言うとおり、レンはまさしく英傑だった。これは、出会った時に感じた事だ。当時は上手く言葉で言い表せなかったが、今なら分かる。俺は、レンの英傑ぶりに魅かれていたのだ。
そしておそらく、ノエルの言った事は本当の事だ。出会う場所、あるいは時が違っていれば、ノエルは俺達と共にメッサーナに行っていた。
「天命、なのかな」
しばらくして、レンが顔をあげながら言った。表情には、諦めの色が見える。
「レキサスよりも早く出会っていれば。そう思わずにはいられない」
「人の出会いとは、天命そのものだよ。僕はそう思う」
「今後はレキサスを支える道を模索していくのか?」
「さっきも言ったとおり、分からない。だが、遠くない内にそうなる気がするのだ。お前ほどの男に出会っても、付いていこうという気にならなかった。これはすなわち、天命だろう、と僕は思う」
「そうか」
言って、レンが立ち上がった。それを見て、俺達も立ち上がる。
「答えを授けてくれて、ありがとう」
レンはそう言ったが、俺にはよく意味が分からなかった。いや、分からなくて当然なのだ。ただ、レンは何かを得た。それも、旅の終わりに直結するような何かを得た。
「せめてものお詫びだよ、レン」
言ったノエルに、レンは笑顔で応えた。
四人で、店を出る。空を見上げると、星が綺麗に瞬いていた。
「みんな、明日の朝にこのミュルスを立とう。そして、メッサーナに帰る」
そう言ったレンに向けて、俺達は頷いていた。やはり、ノエルとの会話の中で、レンは何かを得たのだ。
そろそろ、官軍とミュルス軍の戦が始まる。だから、早くミュルスを出た方が良いだろう。戦が始まれば、旅人を含めた人民は町から出られなくなるのだ。
「シオン、ダウド、一緒に来てくれるか?」
「勿論です。兄上」
「シオン兄が行くなら、俺も」
レンが頷く。そして、寂しそうな目で、ノエルの居る店の方を見た。
「おら、行くぞ」
そんなレンの肩を、ニールがガッシリと掴んだ。レンがニコリと笑い、歩き出す。
メッサーナに帰る。レンは、そう言った。つまり、旅を終える。歩きながら、俺はそんな事を思っていた。
風が吹いた。冬の冷たさはすでに無くなっていて、暖かい春を呼ぶ風だった。
それに対して、何故か嫉妬している自分が居た。ノエルがレンの欲している人間だからなのか。俺は自ら志願して付いていく事になったのに対し、ノエルは誘いをかけられたからなのか。理由はわからない。
しかし、ノエルがメッサーナにとって必要な人間だという事はわかった。僅かな時の交流の中で、ノエルはその才覚を示したのだ。
ノエルは軍学はもとより、政治にも造詣が深い。書物を読み漁ったというが、それだけではないだろう。書物の内容をさらに噛み砕いて、完全に自分のものにしている。年齢はまだ二十歳にもなっていない、というが、持ち合わせている知識は相当なものである。
今の俺達に足りないものは、知略だった。武勇には自信があるが、知略となれば閉口してしまう。俺など、レンの軍学にすら舌を巻いてしまうのだ。ノエルの話す軍学には、ただ驚嘆するばかりだった。
しかし、ノエルには我が強い、という一面があった。自分の中にしっかりとした芯を持っており、これは絶対にぶれない。これは長所でもあるが、ある意味では短所だった。融通が利かない。つまりは、こういう事になるのだ。
ノエルの外見はまるで優男だが、性格は厳しい所も持っている。そしてレンは、この部分も含めてノエルを評価していた。
不意に、ノエルが目を閉じた。表情は読み取れない。
「ノエル」
呟くように、レンが言った。
「やめよう、レン」
ノエルが目を開く。表情に、決意が宿っていた。先述の芯が、顔に出ている。
「僕は国の人間で、お前はメッサーナの人間だ」
「だから、何だと言うんだ、ノエル」
「僕はメッサーナには行けない」
ノエルが言い切った。レンが、僅かな驚きの表情を見せる。
「何故?」
「出会った場所が、時が悪かった」
「どういう意味だ?」
レンが問うも、ノエルは返事をしなかった。ただ、レンの眼をジッと見つめている。
「それに、お前は軍を辞めている。このまま、一介の書生で人生を終えるのか?」
レンの口調が、少し荒くなっていた。食い下がっているのだ。レンにもこういう一面があるのか、と俺は不思議な気持ちになっていた。
「どうかな、分からない。しかし、僕はメッサーナには行けない。というより、お前には付いていけない」
言われたレンの表情が、僅かに強張った。
「お前は英傑すぎる。僕には眩し過ぎるのだ、レン。あえて何も聞かないが、お前は辛い過去を背負っているのだろう。しかし、その過去さえも、お前の英傑ぶりを惹き立てている。人づてに聞いただけで、僕は実際に見た事はないが、槍のシグナスのような輝きを、お前は放っているのだ」
鋭すぎる。俺は、そう思った。ノエルの才覚は、決して知識だけのものではない。言い表しようのない天性のものを、ノエルは持っている。
「出会うのがもう少し前だったなら、僕はお前に魅かれたのだろうと思う。あるいは、出会う場所がミュルスでなかったなら」
「どういう意味だよ、ノエル」
ニールが口を開いた。表情は、驚くほど真剣である。
「レキサス将校との出会い」
言って、ノエルが眼を伏せた。
「あの人自身は、決して英傑ではない。しかし、周囲の助け次第では、英傑となり得る人だ。僕は、そんなレキサス将校に魅かれたのだ。この人を英傑にしたい。そう感じた。レン、お前はすでに英傑なのだ。僕の助けなど、必要ない」
「分からない。ノエル、俺はお前の言っている事が分からない」
「ならば、お前に付いてきている三人に聞いてみたら良い。いや、ダウドは違うのかな」
ノエルが言い終えてから、俺はレンの顔を見た。まだ、表情は強張ったままだった。
「ハルトレイン、という男を知っているか。レン」
ノエルがそう言うと、レンがハッとした。
「知っているな。あの男にも、軽く声を掛けられた。そして、あれもお前とは違う色だが、英傑だ。しかし、あの男はお前以上に僕の助けを必要としていなかった。というより、自由に動かせる駒が欲しかったのだろう。それが見えたので、僕も誘いを断った」
それで、話が途切れた。レンはうつむき、目を閉じている。何かを考えているのか。
ノエルの言うとおり、レンはまさしく英傑だった。これは、出会った時に感じた事だ。当時は上手く言葉で言い表せなかったが、今なら分かる。俺は、レンの英傑ぶりに魅かれていたのだ。
そしておそらく、ノエルの言った事は本当の事だ。出会う場所、あるいは時が違っていれば、ノエルは俺達と共にメッサーナに行っていた。
「天命、なのかな」
しばらくして、レンが顔をあげながら言った。表情には、諦めの色が見える。
「レキサスよりも早く出会っていれば。そう思わずにはいられない」
「人の出会いとは、天命そのものだよ。僕はそう思う」
「今後はレキサスを支える道を模索していくのか?」
「さっきも言ったとおり、分からない。だが、遠くない内にそうなる気がするのだ。お前ほどの男に出会っても、付いていこうという気にならなかった。これはすなわち、天命だろう、と僕は思う」
「そうか」
言って、レンが立ち上がった。それを見て、俺達も立ち上がる。
「答えを授けてくれて、ありがとう」
レンはそう言ったが、俺にはよく意味が分からなかった。いや、分からなくて当然なのだ。ただ、レンは何かを得た。それも、旅の終わりに直結するような何かを得た。
「せめてものお詫びだよ、レン」
言ったノエルに、レンは笑顔で応えた。
四人で、店を出る。空を見上げると、星が綺麗に瞬いていた。
「みんな、明日の朝にこのミュルスを立とう。そして、メッサーナに帰る」
そう言ったレンに向けて、俺達は頷いていた。やはり、ノエルとの会話の中で、レンは何かを得たのだ。
そろそろ、官軍とミュルス軍の戦が始まる。だから、早くミュルスを出た方が良いだろう。戦が始まれば、旅人を含めた人民は町から出られなくなるのだ。
「シオン、ダウド、一緒に来てくれるか?」
「勿論です。兄上」
「シオン兄が行くなら、俺も」
レンが頷く。そして、寂しそうな目で、ノエルの居る店の方を見た。
「おら、行くぞ」
そんなレンの肩を、ニールがガッシリと掴んだ。レンがニコリと笑い、歩き出す。
メッサーナに帰る。レンは、そう言った。つまり、旅を終える。歩きながら、俺はそんな事を思っていた。
風が吹いた。冬の冷たさはすでに無くなっていて、暖かい春を呼ぶ風だった。
ミュルスに向けて、行軍していた。陸路ではなく、水路である。ローザリア大河を溯上する形になるため、行軍速度は速いとは言えないが、それでも陸路を行くよりは速い。ミュルスは、ローザリア大河と直結しているのだ。もっとも、全軍で水路を行軍するのは無理があるので、一部分だけの行軍だった。残りは陸路からである。
自分が軍の総大将に選ばれるというのは、いくらか予想していた事だった。それでも、実際に選ばれると全身が硬くなった。元々、そういう器でないのかもしれない。器の大きさで言えば、私の下に付く事になった、ヤーマスやリブロフの方がずっと大きいという気がする。
軍の総大将に選ばれたのは、都に招集されていたというのが大きかった。
元々、私は出世や野心などとは無縁だった。ミュルスで生まれ育ち、なんとなくという感じで軍に入ったので、特に大きな志などは持っていなかったのだ。ただ、軍務は真面目にこなした。主な軍務は治安維持だったので、賊討伐などで成果も上げていた。
そんなある日、ハルトレインがミュルスにやって来た。これが、都に行く事になる切っ掛けとなった。当時のハルトレインはまだ大隊長で、大将軍の末子であるという肩書は持っていたが、権力そのものは大隊長のそれだった。それでも、ハルトレインは私に声を掛けてきた。都に来ないか。ハルトレインは、そう言ったのである。
どういう経緯で、私がハルトレインの目に留まったのかは分からないが、私が都行きを断る理由は特になかった。それで私はミュルスを出て、都に行く事にしたのだ。
ただし、気掛かりな事が一つだけあった。ノエルである。
ノエルは私の後輩にあたり、実戦で戦う兵というよりは、文官の色が強い男だった。持っている知識がとにかく豊富なので、話していて飽きる事がない。それに、何故か私の事を慕っていた。早く将軍になって、軍師として使ってくれ、といつも言っていたのが印象深い。
そのノエルは、私が都に行ってから軍を辞めたのだという。その後の消息はわからないが、おそらくまだミュルスに居るのだろう。すぐには無理でも、後々に都に来れば良かったのではないか、と思うが、ノエルにはノエルの考えがあったのかもしれない。
それにしても、ルードという男は訳のわからない男だった。元は私の上官だったが、その時からおかしな所がある、という気はしていた。面倒な軍務はサボり、自分の利を最優先に考える。こんな男が何故、とよく思ったものだったが、元々は能力のある人間だったのだろう。都からミュルスに異動となってから、どこか変わり始めた、という話はよく耳にしていた。
「前方で、ミュルス水軍が布陣しているとの事です」
斥候が戻り、そう報告してきた。
「陸で初戦をやりたかったが、やはりそうはいかないか」
ミュルスは陸軍よりも水軍の方が精強である。これは地形から見て、自然とそうならざるを得ない事だ。
一方の官軍は、水軍はお世辞にも強いとは言えない。今回は水軍を三千ほど用意しているが、ミュルス軍と比べると、やはり見劣りしてしまうだろう。
「ぶつかりますか?」
「それしかないな。風はどうなっている?」
水上戦において、風は最も重要な要素の一つだった。風の向き、強さはそのまま機動力に直結する。特に私達は溯上しているため、風を知る事が肝要なのだ。
「東から西に向いています。季節は春なので、次第に南から吹いてくるかと思いますが」
どちらにせよ、攻め上がる事に関しては風はこちらの味方だ。あとは水の流れだが、溯上という形はどうやっても覆せない。ぶつかり合いに関しては、風と水の流れを考慮して五分五分という所だろう。
「よし、ヤーマス殿、リブロフ殿に伝令だ。このまま溯上し、水上戦を展開する。進軍路は私達が切り開くので、御二方は左右からの切り込みを頼む」
私がそう言うと、伝令が復唱して駆け去った。
水軍の質は低いが、ヤーマスとリブロフの武勇でそれを補う。二人の武は、官軍の中でも相当なものである。私など、足元にも及ばないだろう。問題は戦う場が船上ということだが、進軍中に酔った、という話は聞いていないので心配はなさそうだった。
水上戦において、この船酔いというのは最大の敵である。特に陸での生活しか経験していない者は、この船酔いにかかりやすい。そして、船酔いになってしまったら、立っているのも辛くなるのだ。私も幼少の頃はよく酔っていたが、今ではもう慣れたものである。
しばらく、ローザリア大河を溯上した。すると、前方に船団が見えてきた。大型船が四艘、中型船が十艘。あとは小型船が数十艘といった所か。大型船には五百人、中型船には百人、小型船には二十人程度の兵が乗っているから、ざっと見た感じで敵兵力は三千五百程度だろう。こちらも編成は似たようなものである。ただ、陸軍の兵が乗っているので、大型船の数はこちらの方がずっと多い。
もっとも、水上戦では大型船よりも小型船だった。小型船の舳先には、鉄杭が装備されており、これで突っ込んで大型船の船底に穴を開けてしまうのだ。船底に水が入れば、大型船はやがて沈む。そこから先は、兵がどれだけ泳げるかだった。
その小型船を近付かせないのが、水上戦の肝である。
「弓矢を用意しろ。小型船を集中的に狙え」
すぐに弓兵が持ち場に付く。次いで、ヤーマスとリブロフの位置を確認した。二人とも、最前線の小型船に乗っているようだ。本来なら、私と同じように大型船に乗って指揮すべきだが、水上戦の経験がないので指揮は全て私に任せる、という事なのだろう。
両軍の間合いが、狭まった。敵の小型船が疾走してくる。水の流れに乗っているので、いくらかこちらの小型船よりも動きが速い。
「沈めろ。小型船に突っ込まれたら、こちらが沈むぞ」
言って、私も弓矢を撃ち放つ。ヤーマスとリブロフの船に目をやった。遮二無二、進んでいるようだ。二人は船の舳先に立って、迫りくる矢を弾き飛ばしている。
下に目をやると、敵の小型船が迫って来ていた。すぐにその漕ぎ手を射落とし、残りの敵を射抜いていく。気付くと、水面は敵味方の兵の水死体でいっぱいになっていた。
「大型船、前進。距離を詰めろ」
指示を出す。鈍く、のっそりと大型船が動き始めた。
自分が軍の総大将に選ばれるというのは、いくらか予想していた事だった。それでも、実際に選ばれると全身が硬くなった。元々、そういう器でないのかもしれない。器の大きさで言えば、私の下に付く事になった、ヤーマスやリブロフの方がずっと大きいという気がする。
軍の総大将に選ばれたのは、都に招集されていたというのが大きかった。
元々、私は出世や野心などとは無縁だった。ミュルスで生まれ育ち、なんとなくという感じで軍に入ったので、特に大きな志などは持っていなかったのだ。ただ、軍務は真面目にこなした。主な軍務は治安維持だったので、賊討伐などで成果も上げていた。
そんなある日、ハルトレインがミュルスにやって来た。これが、都に行く事になる切っ掛けとなった。当時のハルトレインはまだ大隊長で、大将軍の末子であるという肩書は持っていたが、権力そのものは大隊長のそれだった。それでも、ハルトレインは私に声を掛けてきた。都に来ないか。ハルトレインは、そう言ったのである。
どういう経緯で、私がハルトレインの目に留まったのかは分からないが、私が都行きを断る理由は特になかった。それで私はミュルスを出て、都に行く事にしたのだ。
ただし、気掛かりな事が一つだけあった。ノエルである。
ノエルは私の後輩にあたり、実戦で戦う兵というよりは、文官の色が強い男だった。持っている知識がとにかく豊富なので、話していて飽きる事がない。それに、何故か私の事を慕っていた。早く将軍になって、軍師として使ってくれ、といつも言っていたのが印象深い。
そのノエルは、私が都に行ってから軍を辞めたのだという。その後の消息はわからないが、おそらくまだミュルスに居るのだろう。すぐには無理でも、後々に都に来れば良かったのではないか、と思うが、ノエルにはノエルの考えがあったのかもしれない。
それにしても、ルードという男は訳のわからない男だった。元は私の上官だったが、その時からおかしな所がある、という気はしていた。面倒な軍務はサボり、自分の利を最優先に考える。こんな男が何故、とよく思ったものだったが、元々は能力のある人間だったのだろう。都からミュルスに異動となってから、どこか変わり始めた、という話はよく耳にしていた。
「前方で、ミュルス水軍が布陣しているとの事です」
斥候が戻り、そう報告してきた。
「陸で初戦をやりたかったが、やはりそうはいかないか」
ミュルスは陸軍よりも水軍の方が精強である。これは地形から見て、自然とそうならざるを得ない事だ。
一方の官軍は、水軍はお世辞にも強いとは言えない。今回は水軍を三千ほど用意しているが、ミュルス軍と比べると、やはり見劣りしてしまうだろう。
「ぶつかりますか?」
「それしかないな。風はどうなっている?」
水上戦において、風は最も重要な要素の一つだった。風の向き、強さはそのまま機動力に直結する。特に私達は溯上しているため、風を知る事が肝要なのだ。
「東から西に向いています。季節は春なので、次第に南から吹いてくるかと思いますが」
どちらにせよ、攻め上がる事に関しては風はこちらの味方だ。あとは水の流れだが、溯上という形はどうやっても覆せない。ぶつかり合いに関しては、風と水の流れを考慮して五分五分という所だろう。
「よし、ヤーマス殿、リブロフ殿に伝令だ。このまま溯上し、水上戦を展開する。進軍路は私達が切り開くので、御二方は左右からの切り込みを頼む」
私がそう言うと、伝令が復唱して駆け去った。
水軍の質は低いが、ヤーマスとリブロフの武勇でそれを補う。二人の武は、官軍の中でも相当なものである。私など、足元にも及ばないだろう。問題は戦う場が船上ということだが、進軍中に酔った、という話は聞いていないので心配はなさそうだった。
水上戦において、この船酔いというのは最大の敵である。特に陸での生活しか経験していない者は、この船酔いにかかりやすい。そして、船酔いになってしまったら、立っているのも辛くなるのだ。私も幼少の頃はよく酔っていたが、今ではもう慣れたものである。
しばらく、ローザリア大河を溯上した。すると、前方に船団が見えてきた。大型船が四艘、中型船が十艘。あとは小型船が数十艘といった所か。大型船には五百人、中型船には百人、小型船には二十人程度の兵が乗っているから、ざっと見た感じで敵兵力は三千五百程度だろう。こちらも編成は似たようなものである。ただ、陸軍の兵が乗っているので、大型船の数はこちらの方がずっと多い。
もっとも、水上戦では大型船よりも小型船だった。小型船の舳先には、鉄杭が装備されており、これで突っ込んで大型船の船底に穴を開けてしまうのだ。船底に水が入れば、大型船はやがて沈む。そこから先は、兵がどれだけ泳げるかだった。
その小型船を近付かせないのが、水上戦の肝である。
「弓矢を用意しろ。小型船を集中的に狙え」
すぐに弓兵が持ち場に付く。次いで、ヤーマスとリブロフの位置を確認した。二人とも、最前線の小型船に乗っているようだ。本来なら、私と同じように大型船に乗って指揮すべきだが、水上戦の経験がないので指揮は全て私に任せる、という事なのだろう。
両軍の間合いが、狭まった。敵の小型船が疾走してくる。水の流れに乗っているので、いくらかこちらの小型船よりも動きが速い。
「沈めろ。小型船に突っ込まれたら、こちらが沈むぞ」
言って、私も弓矢を撃ち放つ。ヤーマスとリブロフの船に目をやった。遮二無二、進んでいるようだ。二人は船の舳先に立って、迫りくる矢を弾き飛ばしている。
下に目をやると、敵の小型船が迫って来ていた。すぐにその漕ぎ手を射落とし、残りの敵を射抜いていく。気付くと、水面は敵味方の兵の水死体でいっぱいになっていた。
「大型船、前進。距離を詰めろ」
指示を出す。鈍く、のっそりと大型船が動き始めた。
自軍の大型船の一艘が傾いていた。沈もうとしているのだ。敵の小型船を留める事ができず、鉄杭を連発で食らってしまった。泳げない兵が、船上で悲鳴を上げている。
「この船から小型戦を走らせろ。兵の救援に向かえ」
水軍には救援を目的とする隊がいくつかあった。これは戦闘部隊ではないので、無防備である。当然、敵もこの事は知っているので、躍起になって救援隊の船を攻撃してくる。一応、救援隊には矢を防ぐ大盾は持たせているが、火矢が飛んでくると防ぐのは難しい。しかし、この状況で救援隊を支援するのは至難の業だ。何とか、自力で大型船まで行ってもらうしかない。
尚も、全軍を前に進めた。小型船同士の競り合いでは、官軍に勝ち目はない。それほど、ミュルス水軍の質は高いのだ。そうなれば、あとは大型船をぶっつけて白兵戦に持ち込むしかない。白兵戦なら、官軍に分がある。
それにしても、ミュルス水軍は驚くほど懸命に戦っていた。ルードの私心による反乱だから、それほどの激戦にはならないだろうと予想していたが、これは大きく覆った。おそらくだが、ルードは何か兵の弱みを握っている。報酬ではなく、恐怖心で兵を動かしているのだ。
以前から、こういう事だけには頭が回る男だった。太守という立場が、さらにそれを助長させているのか。
振り返り、掲げている旗を確認した。私の旗である。レキサスが居る。敵兵は、これを認識しているはずだ。それでも尚も、果敢に攻めかかってくる。
青臭い事だが、出来ればミュルス軍の兵は殺したくなかった。顔見知りの兵も、多くいるのだ。なんとか両軍の犠牲を抑えて戦を終えたいが、もうこれは無理だろう。
目を閉じた。ルードへの怒りだけが、身体の中を駆け巡る。メッサーナという外敵を抱えたこの状況で、とんでもない事をやってくれた。国内で、争っている場合ではないのだ。捕まえたら、すぐに首を刎ねてやる。
目を開く。
「止まるな、前に進め」
言ったが、大型船の足は遅い。さらに大河を溯上しているのだ。それに敵軍に近付けば近付くだけ、敵の小型船の脅威も増してくる。だが、一艘でも白兵戦に持ち込めれば、戦の流れは変わるはずだ。
敵軍の攻撃が激しくなっていく。それを肌で感じていたが、耐え時だと思うしかなかった。ここで前進を躊躇すれば、一気に退却にまで繋がりかねない。
そう考えていた時だった、不意に、敵軍の後方から炎が上がった。さらに、中型船が次々に沈んでいく。炎はどんどん広がり、大型船一艘を丸々飲み込んだ。
私は船縁に身を乗り出し、その先へ目を凝らした。
「一体、何が」
敵の大型船の背後を、無数の船が走っている。しかし、軍船ではない。
「あれは、ミュルスの」
漁師の船。つまり、民の船だ。何故。最初にこれを思ったが、すぐにそれは振り払った。単純に、民が私達を支援している。民はルードに付かず、官軍に付いた。つまりは、こういう事だ。
攻勢の時。
「角笛。同時に白兵戦の用意。ヤーマス殿、リブロフ殿を先鋒とし、一気に突っ掛けるっ」
側に居た兵が、角笛を吹いた。喊声があがる。
敵軍が混乱していた。後方で攻撃を受けている。この現状を把握するだけで、手一杯なのだろう。水上での不測の事態は、陸よりも混乱が大きい。即応が出来ないからだ。
構わず、大型船を突っ込ませる。敵の大型船にぶつかり、両軍の船が大きく揺れ動いた。それを感じていた時には、すでにヤーマスとリブロフは敵の大型船に飛び移っていた。
ヤーマスの槍が駆け抜ける。電光石火で、大型船を指揮する敵将を討ち取った。さらに目を移すと、リブロフも首級を上げていた。
二人が喊声を上げて、敵将の首を大きく掲げた。大型船の二艘を掌握した。降参しろ。二人は、そう言っているのだ。二人とも、この戦は犠牲を抑えるべきだと考えているのか。
この喊声を受けて、敵軍は次々に白旗を上げていった。勝ち目がないと悟ったのだろう。両軍の犠牲は調べてみないと分からないが、戦い尽すという形にはならずに済んだ。
降参した敵軍は、そのまま自軍に組み込んだ。軍の編成はそのままで、指揮系統だけを整える。
降った兵達の話を聞いていくと、どうやらルードは兵の家族を人質に取っているらしい。つまり、民を戦に巻き込んでいるのだ。とんでもない卑劣漢だと思ったが、口には出さなかった。とにかく、ルードを捕まえて斬首するしかない。
降った兵達をまとめてから、戦況を変えてくれた漁師達にも会う事にした。
「礼を言う、助かった」
漁師達を目の前にして、私は頭を下げた。
「レキサス殿が戻ってこられたんであれば、ルードの野郎の言う事を聞く必要なんかねぇ。俺達は、そう考えただけよ」
「しかし、戦だった。危険だっただろう」
「何を言ってんだ。船出に危険は付き物だ。それに仕掛ける機さえ間違えなければ、それほど危なくねぇ。これは、ノエルの坊主が言った事だがな」
ノエル。その名を聞いて、私は思わずハッとした。
「お久しぶりです、レキサス将校。いや、今は将軍かな」
漁師達の後ろから、ノエルが出てきた。相変わらず、華奢な身体つきだった。しかし、変わっていない。それほどの時も経っていない。だから、変わっていなくて当然なのか。
「ノエル、お前は」
「レキサス将軍、僕は貴方を待っていました」
「やはり、まだミュルスに居たのだな」
「えぇ。というより、他に行く所がなかったのですよ」
ノエルが、ジッと私の目を見つめてきた。
「レキサス将軍、僕を使って貰えませんか?」
静かに、ノエルは言った。
「使うと言っても、お前は軍を辞めてしまったのだ」
「そうですね。では、従者という形でも構いません」
言われて、私は目を閉じた。ノエルとは、確かに縁があった。今回の水上戦も、ノエルが居なければ負けていたかもしれない。ならば、私にとってノエルは必要な人間と言えるのではないのか。
しかし、ノエルの才はもっと広い範囲で使われるべきだった。だから、私ではなく、国に仕えた方がずっと良い。それにノエルならば、軍に復職する事も難しくないはずだ。
「レキサス将軍、貴方の考えている事も分かります。しかし、これは僕の人生なのです」
言われて、私は目を開いた。ノエルが小さく頷く。
「分かった。よろしく頼む」
私がそう言うと、ノエルはニコリと笑った。
「まずはこの反乱を収めましょう。もちろん、ミュルスの民達も協力します」
「しかし、兵の家族が人質に取られているのだろう?」
「いえ、もう逃げたと思いますよ」
「どういう事だ、ノエル?」
「内応ですよ。僕も、元々はミュルス軍の兵だったのですから。そして何より、ルードには人望がありません」
「そういう事か」
「もっとも、内応はレキサス将軍の人望が成したものですが。いずれにしろ、ルードに味方は居ません。ミュルスの反乱は、すでに終息を迎えようとしています」
「お前は大した男だよ、ノエル」
「貴方を英傑にするのが、僕の役目ですから」
そう言って、ノエルは白い歯を見せて笑った。私は、それに対して笑顔で応えるしかなかった。
「この船から小型戦を走らせろ。兵の救援に向かえ」
水軍には救援を目的とする隊がいくつかあった。これは戦闘部隊ではないので、無防備である。当然、敵もこの事は知っているので、躍起になって救援隊の船を攻撃してくる。一応、救援隊には矢を防ぐ大盾は持たせているが、火矢が飛んでくると防ぐのは難しい。しかし、この状況で救援隊を支援するのは至難の業だ。何とか、自力で大型船まで行ってもらうしかない。
尚も、全軍を前に進めた。小型船同士の競り合いでは、官軍に勝ち目はない。それほど、ミュルス水軍の質は高いのだ。そうなれば、あとは大型船をぶっつけて白兵戦に持ち込むしかない。白兵戦なら、官軍に分がある。
それにしても、ミュルス水軍は驚くほど懸命に戦っていた。ルードの私心による反乱だから、それほどの激戦にはならないだろうと予想していたが、これは大きく覆った。おそらくだが、ルードは何か兵の弱みを握っている。報酬ではなく、恐怖心で兵を動かしているのだ。
以前から、こういう事だけには頭が回る男だった。太守という立場が、さらにそれを助長させているのか。
振り返り、掲げている旗を確認した。私の旗である。レキサスが居る。敵兵は、これを認識しているはずだ。それでも尚も、果敢に攻めかかってくる。
青臭い事だが、出来ればミュルス軍の兵は殺したくなかった。顔見知りの兵も、多くいるのだ。なんとか両軍の犠牲を抑えて戦を終えたいが、もうこれは無理だろう。
目を閉じた。ルードへの怒りだけが、身体の中を駆け巡る。メッサーナという外敵を抱えたこの状況で、とんでもない事をやってくれた。国内で、争っている場合ではないのだ。捕まえたら、すぐに首を刎ねてやる。
目を開く。
「止まるな、前に進め」
言ったが、大型船の足は遅い。さらに大河を溯上しているのだ。それに敵軍に近付けば近付くだけ、敵の小型船の脅威も増してくる。だが、一艘でも白兵戦に持ち込めれば、戦の流れは変わるはずだ。
敵軍の攻撃が激しくなっていく。それを肌で感じていたが、耐え時だと思うしかなかった。ここで前進を躊躇すれば、一気に退却にまで繋がりかねない。
そう考えていた時だった、不意に、敵軍の後方から炎が上がった。さらに、中型船が次々に沈んでいく。炎はどんどん広がり、大型船一艘を丸々飲み込んだ。
私は船縁に身を乗り出し、その先へ目を凝らした。
「一体、何が」
敵の大型船の背後を、無数の船が走っている。しかし、軍船ではない。
「あれは、ミュルスの」
漁師の船。つまり、民の船だ。何故。最初にこれを思ったが、すぐにそれは振り払った。単純に、民が私達を支援している。民はルードに付かず、官軍に付いた。つまりは、こういう事だ。
攻勢の時。
「角笛。同時に白兵戦の用意。ヤーマス殿、リブロフ殿を先鋒とし、一気に突っ掛けるっ」
側に居た兵が、角笛を吹いた。喊声があがる。
敵軍が混乱していた。後方で攻撃を受けている。この現状を把握するだけで、手一杯なのだろう。水上での不測の事態は、陸よりも混乱が大きい。即応が出来ないからだ。
構わず、大型船を突っ込ませる。敵の大型船にぶつかり、両軍の船が大きく揺れ動いた。それを感じていた時には、すでにヤーマスとリブロフは敵の大型船に飛び移っていた。
ヤーマスの槍が駆け抜ける。電光石火で、大型船を指揮する敵将を討ち取った。さらに目を移すと、リブロフも首級を上げていた。
二人が喊声を上げて、敵将の首を大きく掲げた。大型船の二艘を掌握した。降参しろ。二人は、そう言っているのだ。二人とも、この戦は犠牲を抑えるべきだと考えているのか。
この喊声を受けて、敵軍は次々に白旗を上げていった。勝ち目がないと悟ったのだろう。両軍の犠牲は調べてみないと分からないが、戦い尽すという形にはならずに済んだ。
降参した敵軍は、そのまま自軍に組み込んだ。軍の編成はそのままで、指揮系統だけを整える。
降った兵達の話を聞いていくと、どうやらルードは兵の家族を人質に取っているらしい。つまり、民を戦に巻き込んでいるのだ。とんでもない卑劣漢だと思ったが、口には出さなかった。とにかく、ルードを捕まえて斬首するしかない。
降った兵達をまとめてから、戦況を変えてくれた漁師達にも会う事にした。
「礼を言う、助かった」
漁師達を目の前にして、私は頭を下げた。
「レキサス殿が戻ってこられたんであれば、ルードの野郎の言う事を聞く必要なんかねぇ。俺達は、そう考えただけよ」
「しかし、戦だった。危険だっただろう」
「何を言ってんだ。船出に危険は付き物だ。それに仕掛ける機さえ間違えなければ、それほど危なくねぇ。これは、ノエルの坊主が言った事だがな」
ノエル。その名を聞いて、私は思わずハッとした。
「お久しぶりです、レキサス将校。いや、今は将軍かな」
漁師達の後ろから、ノエルが出てきた。相変わらず、華奢な身体つきだった。しかし、変わっていない。それほどの時も経っていない。だから、変わっていなくて当然なのか。
「ノエル、お前は」
「レキサス将軍、僕は貴方を待っていました」
「やはり、まだミュルスに居たのだな」
「えぇ。というより、他に行く所がなかったのですよ」
ノエルが、ジッと私の目を見つめてきた。
「レキサス将軍、僕を使って貰えませんか?」
静かに、ノエルは言った。
「使うと言っても、お前は軍を辞めてしまったのだ」
「そうですね。では、従者という形でも構いません」
言われて、私は目を閉じた。ノエルとは、確かに縁があった。今回の水上戦も、ノエルが居なければ負けていたかもしれない。ならば、私にとってノエルは必要な人間と言えるのではないのか。
しかし、ノエルの才はもっと広い範囲で使われるべきだった。だから、私ではなく、国に仕えた方がずっと良い。それにノエルならば、軍に復職する事も難しくないはずだ。
「レキサス将軍、貴方の考えている事も分かります。しかし、これは僕の人生なのです」
言われて、私は目を開いた。ノエルが小さく頷く。
「分かった。よろしく頼む」
私がそう言うと、ノエルはニコリと笑った。
「まずはこの反乱を収めましょう。もちろん、ミュルスの民達も協力します」
「しかし、兵の家族が人質に取られているのだろう?」
「いえ、もう逃げたと思いますよ」
「どういう事だ、ノエル?」
「内応ですよ。僕も、元々はミュルス軍の兵だったのですから。そして何より、ルードには人望がありません」
「そういう事か」
「もっとも、内応はレキサス将軍の人望が成したものですが。いずれにしろ、ルードに味方は居ません。ミュルスの反乱は、すでに終息を迎えようとしています」
「お前は大した男だよ、ノエル」
「貴方を英傑にするのが、僕の役目ですから」
そう言って、ノエルは白い歯を見せて笑った。私は、それに対して笑顔で応えるしかなかった。