第九章 次代を担う者達
ようやく国の後継ぎが決まった。当然と言えば当然であるが、後継は国王の息子である。齢僅か八歳という幼い王の誕生だった。その一方で、後継者争いをしていた国王の弟は、権力をもぎ取られて田舎の方に追いやられている。佞臣どものくだらない甘言に惑わされた結果、国王の弟は自らの一生を無駄にしたという事だった。
王が代わった事により、政治は全てが一新された。これはフランツが実権を握った事が大きく影響しており、その中で最も変化が著しいのは人事である。佞臣や奸臣の類は、二度とはい上がれないような所に左遷となったのだ。その代わりに、フランツの息が掛かった優秀な人間が重要な場所に配された。
ようやく、国はまともな姿になろうとしていた。王はまだ幼く、自分で判断できる事は無いに等しい。多少、わがままな所はあるが、御せない程でもないため、今後のフランツはかなりやりやすくなるだろう。
しかし、その一方でメッサーナが大きな動きを見せていた。なんと、国を建てたのである。そして、王はあのバロンだった。建国の英雄の血筋が、別の国を建てたのだ。
メッサーナ建国というのは、有り得ない事ではなかった。むしろ、今までそういう動きがなかった事の方が不思議だったのだ。ただ、王がバロンであるという事だけは、予想ができなかった。血筋という部分もあるが、バロンの性格を考えると、王としては好戦的すぎる。いや、好戦的だからこそ、乱世の王に向いていると言えるのか。
いずれにしろ、これから国とメッサーナの争いは激化していくだろう。そして、今まで以上に軍が力を持つ事になる。だが、その力を、今の軍で使い尽くせるのか。
父であるレオンハルトが、意外としぶとい。あの男が大将軍である限り、国は軍の力を最大限に使う事が出来ないのだ。父はただの老人であり、実権は副官であるエルマンが握ってはいるものの、エルマンでは軍全体の力の半分を使いこなすのがやっとである。現役だった頃の父と比べると、エルマンは器が小さすぎるのだ。
その一方で、地方軍はめきめきと力を付けて来ていた。レキサスが地方の軍団長となってから、その質は相当なものに仕上がっている。また、レキサスの立ちまわり方も上手い。レキサス自身はそれほどの実力者ではなく、また年齢も若いために年長者を中心になめられがちのはずなのだが、今のところはそういう雰囲気はないという。ただし、これはレキサスというより、その下に居る軍師の力が大きいという報告も入っている。
そういう状況下で、私は立ち止まっているだけだった。将軍になったものの、自由に戦が出来る権力はない。それは父が、いや、エルマンが握っているのだ。
何故、父はエルマンなのか。エルマンなどより、という思いはある。副官だから、優遇しているのか。いや、私情で私を遠ざけているのではないのか。
「老いぼれめっ」
目の前のフォーレの槍を、私は撥ね飛ばしていた。それで、両軍の動きは止まった。
調練の真っ最中だった。私とフォーレの模擬戦である。
「どうした、ハルト?」
少し驚いた表情をしながら、フォーレが言った。老いぼれ、という言葉ではなく、殺気を放っていた事に驚いたのだろう。
「何でもない。それよりすまなかった。怪我はないか?」
「あぁ、調練用の武器だったからな。そうでなかったら、腕が飛んでいたかもしれん」
言って、フォーレが笑った。それで私も笑みをこぼし、馬から降りた。
「それでどうだ? 少しは騎馬の扱い方が分かってきたか」
今回の調練はフォーレの方から申し出てきたものだった。騎馬の使い方を学びたい、という趣旨であったが、どうも私とフォーレでは指揮のやり方に違いがありすぎるという気がする。もっとも、これは今回の調練で分かった事である。
「正直に言うと、微妙だな。お前から学び取る点が、思った以上に少ない。いや、悪い意味ではないのだが」
フォーレの言いたい事はよく分かった。フォーレの指揮は、ジワジワと締め上げる部類のもので、私のそれとはまるで種類が違う。つまり、肌に合わないのだ。
「しかし、発想を変えれば面白い事になるかもしれん。お前のやり方を真似る事はできないが、それを補佐する事はできそうだ」
「ほう?」
「お前、自分で気付いているか? 指揮に自信が見え過ぎる。そして、無駄に派手だ。まぁ、だからと言って隙って訳でもないんだが」
内容は悪口のようにも思えるが、言われても不快になるという事はなかった。フォーレの言った事を深く分析すれば、勝てば鮮やか過ぎる勝利になるが、負ければ無様過ぎるという事になる。
「そんなお前を俺が補佐すれば、これ以上ない軍というのが出来るのではないかな」
「確かに相性は良いだろうが」
今の私に弱点などない。言葉にはしなかったが、確固たる自信があった。
「スズメバチだけは、お前を刺せるのではないか?」
言われて、私はハッとした。あの隻眼の男、レン。
「お前自身はどう思っているのか知らんが、隻眼のレンとお前の実力は大差ないだろう。個人の武芸にしろ、軍の指揮にしろ」
フォーレの言うとおりだった。レンとは実際にやり合ったが、個人の武芸では互角であった。しかし、軍の指揮では負けた。奇襲を受けたという形だったが、終始において押され気味だったのだ。ただ、それで完敗だったのかと言うと、決してそうではない。
「上手く言えないが、スズメバチが刺せる機というのは、お前の派手さや自信過剰な部分にあると思うのだ」
「言っている事はわかる」
「それと」
フォーレが一度、言葉を切った。
「焦る気持ちはわかる。だが、今は待つべきだな。どの道、この国の軍を統率できる人間は、お前かレキサスかの二人だ」
そう言われて、私は思わずフォーレの目を見つめた。私の心情を、フォーレは読んでいたのだ。一体、いつから。
いや、そんな事よりも、レキサスの名が挙がった事の方に私は驚いていた。
「自分しか居ない、という考えは捨てた方が良いぞ、ハルト。まぁ、お前には無理な話か」
「父上は何を考えておられるのだろうか」
「何だかんだで、大将軍はお前に軍を継がせたいはずだ。しかし、今のお前は自信過剰すぎる。なのに、お前はそこを直せないときた。要は、安心できないのだ」
フォーレは何か大切な事を言っている。しかし、それを認めたくない自分も居た。私はハルトレインなのだ。
「ハルト、お前は惜しいな」
フォーレの言った言葉の意味を、私は考えていた。惜しい。それは、自信過剰だからなのか。それとも、もっと深い意味があるのか。答えは、出なかった。ただ、フォーレを失ってはいけない、と私は直感していた。
王が代わった事により、政治は全てが一新された。これはフランツが実権を握った事が大きく影響しており、その中で最も変化が著しいのは人事である。佞臣や奸臣の類は、二度とはい上がれないような所に左遷となったのだ。その代わりに、フランツの息が掛かった優秀な人間が重要な場所に配された。
ようやく、国はまともな姿になろうとしていた。王はまだ幼く、自分で判断できる事は無いに等しい。多少、わがままな所はあるが、御せない程でもないため、今後のフランツはかなりやりやすくなるだろう。
しかし、その一方でメッサーナが大きな動きを見せていた。なんと、国を建てたのである。そして、王はあのバロンだった。建国の英雄の血筋が、別の国を建てたのだ。
メッサーナ建国というのは、有り得ない事ではなかった。むしろ、今までそういう動きがなかった事の方が不思議だったのだ。ただ、王がバロンであるという事だけは、予想ができなかった。血筋という部分もあるが、バロンの性格を考えると、王としては好戦的すぎる。いや、好戦的だからこそ、乱世の王に向いていると言えるのか。
いずれにしろ、これから国とメッサーナの争いは激化していくだろう。そして、今まで以上に軍が力を持つ事になる。だが、その力を、今の軍で使い尽くせるのか。
父であるレオンハルトが、意外としぶとい。あの男が大将軍である限り、国は軍の力を最大限に使う事が出来ないのだ。父はただの老人であり、実権は副官であるエルマンが握ってはいるものの、エルマンでは軍全体の力の半分を使いこなすのがやっとである。現役だった頃の父と比べると、エルマンは器が小さすぎるのだ。
その一方で、地方軍はめきめきと力を付けて来ていた。レキサスが地方の軍団長となってから、その質は相当なものに仕上がっている。また、レキサスの立ちまわり方も上手い。レキサス自身はそれほどの実力者ではなく、また年齢も若いために年長者を中心になめられがちのはずなのだが、今のところはそういう雰囲気はないという。ただし、これはレキサスというより、その下に居る軍師の力が大きいという報告も入っている。
そういう状況下で、私は立ち止まっているだけだった。将軍になったものの、自由に戦が出来る権力はない。それは父が、いや、エルマンが握っているのだ。
何故、父はエルマンなのか。エルマンなどより、という思いはある。副官だから、優遇しているのか。いや、私情で私を遠ざけているのではないのか。
「老いぼれめっ」
目の前のフォーレの槍を、私は撥ね飛ばしていた。それで、両軍の動きは止まった。
調練の真っ最中だった。私とフォーレの模擬戦である。
「どうした、ハルト?」
少し驚いた表情をしながら、フォーレが言った。老いぼれ、という言葉ではなく、殺気を放っていた事に驚いたのだろう。
「何でもない。それよりすまなかった。怪我はないか?」
「あぁ、調練用の武器だったからな。そうでなかったら、腕が飛んでいたかもしれん」
言って、フォーレが笑った。それで私も笑みをこぼし、馬から降りた。
「それでどうだ? 少しは騎馬の扱い方が分かってきたか」
今回の調練はフォーレの方から申し出てきたものだった。騎馬の使い方を学びたい、という趣旨であったが、どうも私とフォーレでは指揮のやり方に違いがありすぎるという気がする。もっとも、これは今回の調練で分かった事である。
「正直に言うと、微妙だな。お前から学び取る点が、思った以上に少ない。いや、悪い意味ではないのだが」
フォーレの言いたい事はよく分かった。フォーレの指揮は、ジワジワと締め上げる部類のもので、私のそれとはまるで種類が違う。つまり、肌に合わないのだ。
「しかし、発想を変えれば面白い事になるかもしれん。お前のやり方を真似る事はできないが、それを補佐する事はできそうだ」
「ほう?」
「お前、自分で気付いているか? 指揮に自信が見え過ぎる。そして、無駄に派手だ。まぁ、だからと言って隙って訳でもないんだが」
内容は悪口のようにも思えるが、言われても不快になるという事はなかった。フォーレの言った事を深く分析すれば、勝てば鮮やか過ぎる勝利になるが、負ければ無様過ぎるという事になる。
「そんなお前を俺が補佐すれば、これ以上ない軍というのが出来るのではないかな」
「確かに相性は良いだろうが」
今の私に弱点などない。言葉にはしなかったが、確固たる自信があった。
「スズメバチだけは、お前を刺せるのではないか?」
言われて、私はハッとした。あの隻眼の男、レン。
「お前自身はどう思っているのか知らんが、隻眼のレンとお前の実力は大差ないだろう。個人の武芸にしろ、軍の指揮にしろ」
フォーレの言うとおりだった。レンとは実際にやり合ったが、個人の武芸では互角であった。しかし、軍の指揮では負けた。奇襲を受けたという形だったが、終始において押され気味だったのだ。ただ、それで完敗だったのかと言うと、決してそうではない。
「上手く言えないが、スズメバチが刺せる機というのは、お前の派手さや自信過剰な部分にあると思うのだ」
「言っている事はわかる」
「それと」
フォーレが一度、言葉を切った。
「焦る気持ちはわかる。だが、今は待つべきだな。どの道、この国の軍を統率できる人間は、お前かレキサスかの二人だ」
そう言われて、私は思わずフォーレの目を見つめた。私の心情を、フォーレは読んでいたのだ。一体、いつから。
いや、そんな事よりも、レキサスの名が挙がった事の方に私は驚いていた。
「自分しか居ない、という考えは捨てた方が良いぞ、ハルト。まぁ、お前には無理な話か」
「父上は何を考えておられるのだろうか」
「何だかんだで、大将軍はお前に軍を継がせたいはずだ。しかし、今のお前は自信過剰すぎる。なのに、お前はそこを直せないときた。要は、安心できないのだ」
フォーレは何か大切な事を言っている。しかし、それを認めたくない自分も居た。私はハルトレインなのだ。
「ハルト、お前は惜しいな」
フォーレの言った言葉の意味を、私は考えていた。惜しい。それは、自信過剰だからなのか。それとも、もっと深い意味があるのか。答えは、出なかった。ただ、フォーレを失ってはいけない、と私は直感していた。
スズメバチ隊の兵力は、一千にまで回復していた。そして、今はあえて一千で留めている。父の頃の兵力と比べると五百少ないが、兵を増やすには現状では新兵が多すぎるのだ。当然、指揮官も育っていない。だから、まずはこの一千を、真の意味でまともなものに仕上げなければならない。
シオンがニールの姿を探していた。シーザー軍は原野で陣を展開しており、将軍であるシーザーは当然として、目立って見えるのは大隊長クラスまでだ。兵卒であるニールの姿は、ここからでは確認できないだろう。
「シオン、ニールにこだわるな。あいつもお前と同じ、兵卒だ」
「分かっています、兄上。ただ、初の模擬戦なので、少し意識してしまうのですよ」
そう言って、シオンは自分の持ち場の方に駆け去った。調練を始めたばかりの頃と比べると、シオンはずいぶんと成長した。個人技においては、もう何も言う事はない。課題は集団戦であったが、こちらの方も課題でなくなりつつある。
シーザー軍との模擬戦は、俺の方から申し出た事だった。相手にシーザー軍を選択した理由は、シーザーの戦い方がハルトレインのそれに最も近いからだ。ただ、近いというだけで似ているわけではない。ハルトレインの戦い方は自信に満ち溢れ、絶対に負けないという気があった。いや、負けない、ではなく、勝つ、という方が正しいのかもしれない。前者はともかく、後者についてはシーザーも似たものを持っている。むしろ、シーザーの方が凶暴だと言っても良いくらいだ。
両軍の周囲で、他の軍の兵士達がはやし立てていた。模擬戦と言えども、スズメバチ隊と獅子軍のぶつかり合いは、それなりの価値があるらしい。
「レン殿、ここは勝っておきたい所です。バロン王も、ご覧になられているかもしれない」
「ジャミル、気張るな。模擬戦だぞ」
言いつつ、ちょっとだけ背後に目をやった。小隊長であるシンロウと目が合い、シンロウは小さく頷いた。シオンも、シンロウ隊のどこかに居るだろう。
角笛が鳴った。開戦の合図である。
「ジャミル、五百を率いてシーザーの気を散らせ」
俺の命令を聞いて、すぐにジャミルは駆け出した。四千のシーザー軍は、すでに突撃をかけている。
本来なら一千で真っ向勝負といきたいところだが、今のスズメバチ隊ではまともな勝負にならないだろう。兵数差については大した問題はないが、新兵が多すぎるのだ。
ジャミルが良い所を衝き始めた。シーザーの手が届かないという所を、執拗に攻撃している。シーザーからしてみれば、鬱陶しい事になっているはずだ。損害も決して軽微ではない。
突撃をかけていたシーザー軍が、足を止めた。そのまま俺の方に突っ込んでくるには、ジャミルの五百が邪魔すぎるのだ。
シーザーは軍を二つに分けて、ジャミルに半数の二千を向けた。残りの二千で、再び突撃をかけてくる。
「よし、武器を構えろ。相手は勢いに乗ってくるぞ。呑まれるな」
言って、俺も槍を構えた。馬腹を蹴り、駆け出す。
先頭を切った。対するシーザーは中軍の方に居て、指揮を執っている。以前は自らが先頭を切っていたというが、もう若くはないという事なのか。
ぶつかった。さすがに圧力は強大で、突き抜ける事はできそうもない。ただ、背後からの味方の後押しが強い。
退かず、あえて前に出た。シーザー軍も同じように出てくる。両軍の喊声が渦巻いて、まるで地鳴りのようだった。
両軍が交錯し、反転する。そして、またぶつかった。損害はシーザーの方が大きいという事は確認できたが、総数で言えば圧倒的にこちらが負けている。しかし、現状を打破する策はない。
四度目の交錯。この時点でぶつかる余力は、もう残っていなかった。両軍が反転する。ぶつかるか。しかし、後続が付いて来れるのか。
迷う暇はなかった。ぶつからず、横にそれる。しかし、その瞬間にシーザー軍が動きを合わせてきた。読まれていたのだ。
不意打ちを食らったのと同じだった。横っ腹を貫いてくる。
「俺が犠牲になります。レン将軍、シーザー将軍を」
シンロウの声だった。次の瞬間にはシンロウ隊が本隊から離れ、シーザー軍の中に突っ込んだ。不意打ちに不意打ちを合わせた形になった。シンロウ隊が遮二無二、中へ中へと入り込んでいく。
「死力を振り絞れ、シーザーを討つっ」
雄叫び。同時に、シンロウの後を追った。その先頭。一人の男が道を作っている。目をこらすと、その男はシオンだった。
「シオン、出過ぎだぞっ」
シンロウが声をあげたが、出過ぎているのではない。仲間と呼吸を合わせた上で、突出しているのだ。すなわち、シオンが戦の流れを作っている。
シオンがシーザーの旗本に迫った。焦るな。そう念じた。その瞬間、シオンのすぐ後ろに居るシンロウが馬から落とされた。つまり、討たれたのだ。誰に。確認するまでもなかった。
「シオンが親父、なら俺はお前だ」
ニールだった。声をあげ、俺に向けて突っ込んでくる。シンロウ隊の兵が遮ろうとするが、他の兵がニールを援護しており、止められていない。
槍を構えた。閃光。偃月刀の一撃だった。そのまま何合かやり合う。さっさと勝負を付けたいが、敵中という事も相まって、決着まで結びつける事ができない。
そうこうしている内に、シオンも馬から落とされた。シンロウという指揮官を失い、単騎同然での戦いだったのだ。無理はない。
もはや、勝負は決まったも同然だった。
「スズメバチ隊の負けです。シーザー殿」
そう言って、俺は白旗をあげさせた。同時に両軍の動きが止まる。
「やけに諦めが早いな。いや、割り切っている、と言う方が正しいか」
シーザーが近付きながら言った。
「あのまま続けたとしても、勝ち目がありません」
「シグナスなら、己の力だけで何とかしようとしたな。ロアーヌなら、お前と同じ判断をしたかもしれん。馬から落ちて、兵に無様な姿を見せたくないだろうからな」
そう言って、シーザーは白い歯を見せて笑った。
最後の最後までやる意味がなかった訳ではない。ただ、負け方が酷過ぎた。仮に己の力だけで何とか出来たとしても、それが勝利だとはどうしても思えなかった。
兵は十二分に戦った。歴戦の獅子軍を相手に、力量は上回っていたという感じはある。しかし、俺がシーザーに負けた。つまり、敗因は指揮官の力量差だった。
「俺の完敗です」
「戦い方がまだまだ若いな、レン。サウスに負けていたロアーヌを、つい重ねちまった」
俺は何も答えなかった。ただ、悔しいという思いだけがある。
「ハルトレインとは良い勝負をしていた。いや、むしろ勝っていたな。奇襲という形だったがよ。だが、あれは奴に年季という名の経験がなかったからだ。今回、お前が俺に負けたのも、年季の有無だな」
これが実戦だったら、俺はこの世には居ない。シンロウやシオンも戦死だった。この結果が、年季の有無なのか。
「年季の差を埋める方法が一つだけある。それは、仲間との連携だ。ロアーヌで言えば、シグナスとの連携だった。あの二人が揃った時、サウスは青い顔をしてたに違いねぇぜ」
そう言って、シーザーは声をあげて笑い始めた。
「俺に迫ってきた若造、お前の義弟だったか? あいつをもっと上手く使え。他の軍に口出しはあまりしたくねぇが、シンロウの所じゃ器が小さすぎる。あの若造はもっとデカい器で使うべきだ」
言われて、俺はただ頭を下げるしかなかった。今回のシオンの働きを見れば、シーザーの言う事はもっともである。つまり、シオンの使い方を間違っていたのだ。
「レン、バロンはお前を認めてるぞ。もちろん、俺だってそうだ。だが、まだ若い。若いが故に、経験が足りない。そこを肝に銘じておけ。それと」
シーザーがニールの方に顔を向けた。
「俺の馬鹿息子も、お前ぐらいの男であってくれりゃ、助かるんだがなぁ」
「うるせぇな。俺だって必死なんだよ。レンとやり合って、一合でやられなかっただけでも凄いだろうが」
「ニール、おめぇは威張るレベルが低いんだよ」
シーザーがそう言うと、ニールが怒鳴り声をあげた。そんなニールをシーザーがさらにからかう。
まだまだ、学ぶ事はある。当たり前であるが、改めて俺はそう思った。
シオンがニールの姿を探していた。シーザー軍は原野で陣を展開しており、将軍であるシーザーは当然として、目立って見えるのは大隊長クラスまでだ。兵卒であるニールの姿は、ここからでは確認できないだろう。
「シオン、ニールにこだわるな。あいつもお前と同じ、兵卒だ」
「分かっています、兄上。ただ、初の模擬戦なので、少し意識してしまうのですよ」
そう言って、シオンは自分の持ち場の方に駆け去った。調練を始めたばかりの頃と比べると、シオンはずいぶんと成長した。個人技においては、もう何も言う事はない。課題は集団戦であったが、こちらの方も課題でなくなりつつある。
シーザー軍との模擬戦は、俺の方から申し出た事だった。相手にシーザー軍を選択した理由は、シーザーの戦い方がハルトレインのそれに最も近いからだ。ただ、近いというだけで似ているわけではない。ハルトレインの戦い方は自信に満ち溢れ、絶対に負けないという気があった。いや、負けない、ではなく、勝つ、という方が正しいのかもしれない。前者はともかく、後者についてはシーザーも似たものを持っている。むしろ、シーザーの方が凶暴だと言っても良いくらいだ。
両軍の周囲で、他の軍の兵士達がはやし立てていた。模擬戦と言えども、スズメバチ隊と獅子軍のぶつかり合いは、それなりの価値があるらしい。
「レン殿、ここは勝っておきたい所です。バロン王も、ご覧になられているかもしれない」
「ジャミル、気張るな。模擬戦だぞ」
言いつつ、ちょっとだけ背後に目をやった。小隊長であるシンロウと目が合い、シンロウは小さく頷いた。シオンも、シンロウ隊のどこかに居るだろう。
角笛が鳴った。開戦の合図である。
「ジャミル、五百を率いてシーザーの気を散らせ」
俺の命令を聞いて、すぐにジャミルは駆け出した。四千のシーザー軍は、すでに突撃をかけている。
本来なら一千で真っ向勝負といきたいところだが、今のスズメバチ隊ではまともな勝負にならないだろう。兵数差については大した問題はないが、新兵が多すぎるのだ。
ジャミルが良い所を衝き始めた。シーザーの手が届かないという所を、執拗に攻撃している。シーザーからしてみれば、鬱陶しい事になっているはずだ。損害も決して軽微ではない。
突撃をかけていたシーザー軍が、足を止めた。そのまま俺の方に突っ込んでくるには、ジャミルの五百が邪魔すぎるのだ。
シーザーは軍を二つに分けて、ジャミルに半数の二千を向けた。残りの二千で、再び突撃をかけてくる。
「よし、武器を構えろ。相手は勢いに乗ってくるぞ。呑まれるな」
言って、俺も槍を構えた。馬腹を蹴り、駆け出す。
先頭を切った。対するシーザーは中軍の方に居て、指揮を執っている。以前は自らが先頭を切っていたというが、もう若くはないという事なのか。
ぶつかった。さすがに圧力は強大で、突き抜ける事はできそうもない。ただ、背後からの味方の後押しが強い。
退かず、あえて前に出た。シーザー軍も同じように出てくる。両軍の喊声が渦巻いて、まるで地鳴りのようだった。
両軍が交錯し、反転する。そして、またぶつかった。損害はシーザーの方が大きいという事は確認できたが、総数で言えば圧倒的にこちらが負けている。しかし、現状を打破する策はない。
四度目の交錯。この時点でぶつかる余力は、もう残っていなかった。両軍が反転する。ぶつかるか。しかし、後続が付いて来れるのか。
迷う暇はなかった。ぶつからず、横にそれる。しかし、その瞬間にシーザー軍が動きを合わせてきた。読まれていたのだ。
不意打ちを食らったのと同じだった。横っ腹を貫いてくる。
「俺が犠牲になります。レン将軍、シーザー将軍を」
シンロウの声だった。次の瞬間にはシンロウ隊が本隊から離れ、シーザー軍の中に突っ込んだ。不意打ちに不意打ちを合わせた形になった。シンロウ隊が遮二無二、中へ中へと入り込んでいく。
「死力を振り絞れ、シーザーを討つっ」
雄叫び。同時に、シンロウの後を追った。その先頭。一人の男が道を作っている。目をこらすと、その男はシオンだった。
「シオン、出過ぎだぞっ」
シンロウが声をあげたが、出過ぎているのではない。仲間と呼吸を合わせた上で、突出しているのだ。すなわち、シオンが戦の流れを作っている。
シオンがシーザーの旗本に迫った。焦るな。そう念じた。その瞬間、シオンのすぐ後ろに居るシンロウが馬から落とされた。つまり、討たれたのだ。誰に。確認するまでもなかった。
「シオンが親父、なら俺はお前だ」
ニールだった。声をあげ、俺に向けて突っ込んでくる。シンロウ隊の兵が遮ろうとするが、他の兵がニールを援護しており、止められていない。
槍を構えた。閃光。偃月刀の一撃だった。そのまま何合かやり合う。さっさと勝負を付けたいが、敵中という事も相まって、決着まで結びつける事ができない。
そうこうしている内に、シオンも馬から落とされた。シンロウという指揮官を失い、単騎同然での戦いだったのだ。無理はない。
もはや、勝負は決まったも同然だった。
「スズメバチ隊の負けです。シーザー殿」
そう言って、俺は白旗をあげさせた。同時に両軍の動きが止まる。
「やけに諦めが早いな。いや、割り切っている、と言う方が正しいか」
シーザーが近付きながら言った。
「あのまま続けたとしても、勝ち目がありません」
「シグナスなら、己の力だけで何とかしようとしたな。ロアーヌなら、お前と同じ判断をしたかもしれん。馬から落ちて、兵に無様な姿を見せたくないだろうからな」
そう言って、シーザーは白い歯を見せて笑った。
最後の最後までやる意味がなかった訳ではない。ただ、負け方が酷過ぎた。仮に己の力だけで何とか出来たとしても、それが勝利だとはどうしても思えなかった。
兵は十二分に戦った。歴戦の獅子軍を相手に、力量は上回っていたという感じはある。しかし、俺がシーザーに負けた。つまり、敗因は指揮官の力量差だった。
「俺の完敗です」
「戦い方がまだまだ若いな、レン。サウスに負けていたロアーヌを、つい重ねちまった」
俺は何も答えなかった。ただ、悔しいという思いだけがある。
「ハルトレインとは良い勝負をしていた。いや、むしろ勝っていたな。奇襲という形だったがよ。だが、あれは奴に年季という名の経験がなかったからだ。今回、お前が俺に負けたのも、年季の有無だな」
これが実戦だったら、俺はこの世には居ない。シンロウやシオンも戦死だった。この結果が、年季の有無なのか。
「年季の差を埋める方法が一つだけある。それは、仲間との連携だ。ロアーヌで言えば、シグナスとの連携だった。あの二人が揃った時、サウスは青い顔をしてたに違いねぇぜ」
そう言って、シーザーは声をあげて笑い始めた。
「俺に迫ってきた若造、お前の義弟だったか? あいつをもっと上手く使え。他の軍に口出しはあまりしたくねぇが、シンロウの所じゃ器が小さすぎる。あの若造はもっとデカい器で使うべきだ」
言われて、俺はただ頭を下げるしかなかった。今回のシオンの働きを見れば、シーザーの言う事はもっともである。つまり、シオンの使い方を間違っていたのだ。
「レン、バロンはお前を認めてるぞ。もちろん、俺だってそうだ。だが、まだ若い。若いが故に、経験が足りない。そこを肝に銘じておけ。それと」
シーザーがニールの方に顔を向けた。
「俺の馬鹿息子も、お前ぐらいの男であってくれりゃ、助かるんだがなぁ」
「うるせぇな。俺だって必死なんだよ。レンとやり合って、一合でやられなかっただけでも凄いだろうが」
「ニール、おめぇは威張るレベルが低いんだよ」
シーザーがそう言うと、ニールが怒鳴り声をあげた。そんなニールをシーザーがさらにからかう。
まだまだ、学ぶ事はある。当たり前であるが、改めて俺はそう思った。
出世の波に乗っていた。あからさまに望んでいた訳ではない。しかし、それでもずいぶんと地位は向上したという気がする。
軍団長である。私は、地方軍を治める長となったのだ。軍団長の次は、もう大将軍だった。
しかし、大将軍になりたい、とは思っていなかった。器ではないのだ。そういう意味では、軍団長もそうなのだろうが、収まる所に収まってしまった、というのが正直な所である。
無論、私一人の力でここまで来れた訳ではない。私一人であったなら、どこか辺境の将軍で一生を終える、というのが限界だっただろう。そんな私がここまで来れたのは、すなわちノエルが力を尽くしてくれたからだ。
ノエルが最初に言ったのは、都の軍ではなく、地方軍で頭角を現していくという事だった。都の軍は総じてレベルが高く、中でもレオンハルト直属の軍の力は頭抜けている。そして何より、都の軍にはあのハルトレインも居るのだ。
ならば、地方軍はどうなのか。都の軍と比較すれば、それほどの競合者は居ないと言って良い。だが、これは言い換えれば、それだけ地方軍のレベルが低いという事でもあった。ノエルはこの地方軍を基盤とし、力を付けていく事が肝要だと言ったのだ。
まずは、ミュルスの太守から、というスタートだった。そういう状況下で一番最初にやったのは、副官という形でヤーマスとリブロフを私の側に置いたという事である。元々、二人は私と同格であった。所が、ミュルス反乱の鎮圧を境に、階級としての差が付いた。これは単純に私が鎮圧軍の総大将であった事と、二人がそれほどの戦功を立てなかった事が要因となっている。ここについては、はっきり言って私の運が良かった。
ヤーマスとリブロフの軍人としての能力は、私よりも優れている。元々は兵の武術師範であった事から、個人の武芸においても同じ事が言えるだろう。この二人が私に臣従してくれるかどうかが鍵であったが、これについては軍令の力が上手く働いたのか、二人とも、私の下に付く事を承諾してくれた。
こうして、私は自身の地盤を固めたのである。
ここからは早かった。ノエルに政治を任せ、ミュルスの内政実績を前年よりも大きく引き延ばした他、軍もヤーマスとリブロフを中心に大きく立て直した。
それからミュルス地方の統治を任され、そこから次々と統治領域が広まり、現在の軍団長となったのだった。
「恵まれ過ぎだな」
ふと、独り言を呟いた。向かい側に座っているノエルが、首をかしげている。
「私は本当に軍団長の器だと思うか? ノエル」
「またその質問ですか。今の地位が答えですよ。レキサス将軍は、もはや官軍の二大巨頭の一人です」
つまりは、そういう事だった。もう一人は、エルマンである。ただ、能力だけで言えば、エルマンよりハルトレインの方が優れているという噂も流れていた。それでも、実権を握るのがエルマンのままであるという事は、ハルトレインに何かしらの欠点があるのかもしれない。
「レキサス将軍は、自分を過小評価しすぎだと思いますよ」
ノエルがそう言ったので、私は思わず苦笑した。自身を過小評価している訳ではないのだが、ノエルにはそういう風に見えてしまうらしい。都の軍ならともかく、地方軍では私はむしろ力がある方だ、という自覚も少しはある。
「しかし、メッサーナが国を建てるとはな」
そう言ったが、ノエルは私の言った事を無視するように、冷水が注がれている杯を口に持っていった。そろそろ、秋が訪れる頃ではあるが、まだまだ暑い。
「国も王が代わりました。よって、政治が変わり、軍も変わります。そして、歴史も」
「メッサーナとの争いが、激化するという事だな」
「レキサス将軍は、メッサーナの事をどう思っているのです?」
唐突な質問だった。それより気になったのが、何故かノエルが目を合わせようとしていない。
「国として見た場合、良い国であると言えるのだろうと思う。ただ、まだ若い」
「若い?」
「歴史を積んでいないのだ。もっと言ってしまえば、良い国であるというのは、今だけのような気がするな」
メッサーナの人材面を見た場合、後進が育っているという気配がなかった。これは軍も政治も同様である。宰相はヨハンであり、大将軍はクライヴというが、これらの後進となるような人物が、今のメッサーナに居るのか。いや、王であるバロンの後継ですら、怪しいかもしれない。
メッサーナは最盛期、すなわちはレオンハルトが前線に立っていた頃が輝き過ぎていた。ロアーヌが居て、シグナスが居た。今の主力である将軍や軍師達も、ずっと若くて力もあった。今のメッサーナに、当時の輝きがあるのか。そして、これから先はどうなのか。
もっとも、これは国の視点の話だった。当然、メッサーナ側では現状の問題点に気付き、手も打ち始めているだろう。
しかし、そんなメッサーナと比較した場合でも、国は後進が次々と育っているのだ。ハルトレインがそうだし、フォーレやヤーマス、リブロフもそうだ。当然、私も育っている後進の一人と言えるだろう。政治では、フランツの下にウィンセという男が居て、この男が次期宰相だという声もあがっている。
そして、王が代わった事により、国の内情はガラリと変わった。それも良い意味でだ。
「まぁ、国とメッサーナが争って、どちらが覇権を握るのかまでは分からないが」
「なるほど」
「どうした?」
「いえ、先の事を考えていたのです」
「分かりやすく言え、ノエル」
「バロン将軍、いや、バロン王のような道もあったという事です」
王になる方法もあった、という事なのか。しかし、違うという気もする。
「メッサーナの次の動きによりますが、戦の準備はしておいた方が良いでしょうね。新しく将軍も見出した方が良いかもしれません。それをヤーマス将軍や、リブロフ将軍の下に付ければ、より効果的です」
「ノエル、お前は何を見ている? いや、どこを見ている?」
「さぁ。実際、僕自身もよく分かっていないのですよ」
それを聞いて、私は黙るしかなかった。本人が分かっていないのだから、これ以上は尋ねようもない。
とにかく、戦の準備だ。私はそう思った。これだけは早い内からやっておいて、損はない。
軍団長である。私は、地方軍を治める長となったのだ。軍団長の次は、もう大将軍だった。
しかし、大将軍になりたい、とは思っていなかった。器ではないのだ。そういう意味では、軍団長もそうなのだろうが、収まる所に収まってしまった、というのが正直な所である。
無論、私一人の力でここまで来れた訳ではない。私一人であったなら、どこか辺境の将軍で一生を終える、というのが限界だっただろう。そんな私がここまで来れたのは、すなわちノエルが力を尽くしてくれたからだ。
ノエルが最初に言ったのは、都の軍ではなく、地方軍で頭角を現していくという事だった。都の軍は総じてレベルが高く、中でもレオンハルト直属の軍の力は頭抜けている。そして何より、都の軍にはあのハルトレインも居るのだ。
ならば、地方軍はどうなのか。都の軍と比較すれば、それほどの競合者は居ないと言って良い。だが、これは言い換えれば、それだけ地方軍のレベルが低いという事でもあった。ノエルはこの地方軍を基盤とし、力を付けていく事が肝要だと言ったのだ。
まずは、ミュルスの太守から、というスタートだった。そういう状況下で一番最初にやったのは、副官という形でヤーマスとリブロフを私の側に置いたという事である。元々、二人は私と同格であった。所が、ミュルス反乱の鎮圧を境に、階級としての差が付いた。これは単純に私が鎮圧軍の総大将であった事と、二人がそれほどの戦功を立てなかった事が要因となっている。ここについては、はっきり言って私の運が良かった。
ヤーマスとリブロフの軍人としての能力は、私よりも優れている。元々は兵の武術師範であった事から、個人の武芸においても同じ事が言えるだろう。この二人が私に臣従してくれるかどうかが鍵であったが、これについては軍令の力が上手く働いたのか、二人とも、私の下に付く事を承諾してくれた。
こうして、私は自身の地盤を固めたのである。
ここからは早かった。ノエルに政治を任せ、ミュルスの内政実績を前年よりも大きく引き延ばした他、軍もヤーマスとリブロフを中心に大きく立て直した。
それからミュルス地方の統治を任され、そこから次々と統治領域が広まり、現在の軍団長となったのだった。
「恵まれ過ぎだな」
ふと、独り言を呟いた。向かい側に座っているノエルが、首をかしげている。
「私は本当に軍団長の器だと思うか? ノエル」
「またその質問ですか。今の地位が答えですよ。レキサス将軍は、もはや官軍の二大巨頭の一人です」
つまりは、そういう事だった。もう一人は、エルマンである。ただ、能力だけで言えば、エルマンよりハルトレインの方が優れているという噂も流れていた。それでも、実権を握るのがエルマンのままであるという事は、ハルトレインに何かしらの欠点があるのかもしれない。
「レキサス将軍は、自分を過小評価しすぎだと思いますよ」
ノエルがそう言ったので、私は思わず苦笑した。自身を過小評価している訳ではないのだが、ノエルにはそういう風に見えてしまうらしい。都の軍ならともかく、地方軍では私はむしろ力がある方だ、という自覚も少しはある。
「しかし、メッサーナが国を建てるとはな」
そう言ったが、ノエルは私の言った事を無視するように、冷水が注がれている杯を口に持っていった。そろそろ、秋が訪れる頃ではあるが、まだまだ暑い。
「国も王が代わりました。よって、政治が変わり、軍も変わります。そして、歴史も」
「メッサーナとの争いが、激化するという事だな」
「レキサス将軍は、メッサーナの事をどう思っているのです?」
唐突な質問だった。それより気になったのが、何故かノエルが目を合わせようとしていない。
「国として見た場合、良い国であると言えるのだろうと思う。ただ、まだ若い」
「若い?」
「歴史を積んでいないのだ。もっと言ってしまえば、良い国であるというのは、今だけのような気がするな」
メッサーナの人材面を見た場合、後進が育っているという気配がなかった。これは軍も政治も同様である。宰相はヨハンであり、大将軍はクライヴというが、これらの後進となるような人物が、今のメッサーナに居るのか。いや、王であるバロンの後継ですら、怪しいかもしれない。
メッサーナは最盛期、すなわちはレオンハルトが前線に立っていた頃が輝き過ぎていた。ロアーヌが居て、シグナスが居た。今の主力である将軍や軍師達も、ずっと若くて力もあった。今のメッサーナに、当時の輝きがあるのか。そして、これから先はどうなのか。
もっとも、これは国の視点の話だった。当然、メッサーナ側では現状の問題点に気付き、手も打ち始めているだろう。
しかし、そんなメッサーナと比較した場合でも、国は後進が次々と育っているのだ。ハルトレインがそうだし、フォーレやヤーマス、リブロフもそうだ。当然、私も育っている後進の一人と言えるだろう。政治では、フランツの下にウィンセという男が居て、この男が次期宰相だという声もあがっている。
そして、王が代わった事により、国の内情はガラリと変わった。それも良い意味でだ。
「まぁ、国とメッサーナが争って、どちらが覇権を握るのかまでは分からないが」
「なるほど」
「どうした?」
「いえ、先の事を考えていたのです」
「分かりやすく言え、ノエル」
「バロン将軍、いや、バロン王のような道もあったという事です」
王になる方法もあった、という事なのか。しかし、違うという気もする。
「メッサーナの次の動きによりますが、戦の準備はしておいた方が良いでしょうね。新しく将軍も見出した方が良いかもしれません。それをヤーマス将軍や、リブロフ将軍の下に付ければ、より効果的です」
「ノエル、お前は何を見ている? いや、どこを見ている?」
「さぁ。実際、僕自身もよく分かっていないのですよ」
それを聞いて、私は黙るしかなかった。本人が分かっていないのだから、これ以上は尋ねようもない。
とにかく、戦の準備だ。私はそう思った。これだけは早い内からやっておいて、損はない。
「ハルトレイン、レオンハルト大将軍がお呼びだ」
そう言ったのは、エルマンだった。これから調練に入るという時で、適当な理由をつけて断ろうと思ったが、エルマンの表情がそれを良しとはしてくれそうもなかった。
父とは、もう何年もまともな会話をしていない。それは父が拒絶していた、という事もあるが、私自身が父に対して良い感情を持っていなかった。人々は、父の事を未だに武神だの軍神だのと呼んでいるが、今の父に戦ができるのか。戦どころか、武器すらも振るえないのではないのか。そんな男が武神であるはずがない。だから、父の異名は過去の栄光意外の何物でもないのだ。それなのに、未だに武神だとは笑わせる。
そういう鼻白んだ気持ちを抱きつつ、私は父の居る屋敷に入った。私はこの無駄に豪勢な屋敷が好きではなかった。どことなく、腐った政治家を連想させるからだ。他にも、醜く肥った商人の姿とも重なる所がある。金ばかりを追い求め、志の欠片もないような人間が住む。豪勢な屋敷とは、そういうものだった。
「ハルトレインです」
父の私室の前に立って、私は短くそう言った。秋の日差しが、肌を打ってくる。
「入れ」
父の返事も短かった。ため息をついてから、私は戸を開け、部屋に入った。
「久方ぶりだな」
父の身体は、すでに私の方を向いていた。そういう父の姿は、確かに久しぶりだった。今までの父は、ずっと私に背を向けていたのだ。だからなのか、私は面食らった気分に陥った。
「立派になった。私の知るハルトは、もっと幼く、未熟な覇気と根拠のない自信をその身にまとわせていた」
「恐れ入ります」
人は成長するのだ。父は、私が無為に数年を過ごしているとでも思ったのだろうか。そう考えると腹が立つが、目の前に居る男にそんな価値はない。紛れもない、ただの老人なのだ。背丈という意味で身体は大きいが、偉丈夫と言うにはあまりにも痩せすぎている。ただ、眼光は鋭い。
「エルマンから、大体の事は聞いている」
「そうですか」
「スズメバチ隊が出てきたそうだな」
「はい」
「指揮官はシグナスの実子だと聞いている」
「その通りです」
この会話は、何の為にしているのか。私は漠然とそんな事を考えていた。そして、父が私を呼び出した理由は何なのか。
「ハルト、お前は武神の子か?」
問われた。そうだ、と言いかけたが、私の中の何かがそれを遮った。
「父上の血は引いています。しかし、私は父上とはまるで違う人間です。軍人としても、武人としても」
私がそう言うと、父は口元を僅かに緩めた。笑っているのか。しかし、鋭い眼光に、とてつもない冷酷さが加わっていた。
「儂も、そろそろ退役を考えておるのだ、ハルト」
父はいきなり切り出してきた。眼光は、尚も冷酷で鋭い。
「父上は、まだご健勝であられます」
「世辞は要らん」
そう言った父が、私を睨みつけてきた。それでたじろぐ真似はしなかったが、握り拳を作っていた。せめてもの礼儀で言っただけだ。そういう怒りを、誤魔化したかったのだ。
「左腕を失ってからの儂は、抜け殻であった。ロアーヌに左腕を斬り飛ばされたのだ」
「私が、そのロアーヌを殺しました」
「討ったのはお前ではない」
「討つ機会を作ったのは私です」
「ハルト」
「御言葉ですが、父上。あの時の私の行動が間違っていたとは思えません。総大将を守るのは、戦では当たり前の事です」
私がそう言うと、父は顔を下に向けて黙り込んだ。その様がひどく惨めに見えたので、私は思わず父から目をそらしていた。
「お前に軍権を渡してしまうのが、儂は怖い。だが、お前以外に居ないというのも事実だ」
再び父に目をやった。肩を震わせている。
「何度もエルマンと話し合った。レキサスとお前、どちらに軍権を渡すべきかを。だが、意見はまとまらぬ。レキサスでは器の種類が違い、お前では国を潰しかねん」
「私が国を潰す?」
「お前の傲慢さは、国を潰す。逆に言えば、大将軍の軍権とはそういうものなのだ」
「無礼を承知で申し上げます。今の父上が軍権を握ったままでは、国はメッサーナに飲み込まれます」
「分かっておる。だからこそ、軍権の委譲を考えたのだ。そして、軍人の資質を鑑みた場合、お前以外に適任がおらぬ」
「ならば」
「全てはお前の傲慢さなのだ、ハルト。時をかけ、戦の経験を積ませれば、何らかの変化があると儂も期待していた。だが、結果はどうだ? 単に傲慢さを増長させたに過ぎん。お前の鼻っ柱を叩き潰せたはずのロアーヌも、お前が殺した」
父の台詞が、何故か私の胸を貫いた。ロアーヌが死んで、父が抜け殻となってしまったのは、単に好敵手を失ったからではない。私の成長を、私自身が。違う、そんなはずがない。父は、戦場で死ねなかった事を悔やんでいたのだ。
「儂も父親なのだ、ハルト。父親であるが故に、どうすればお前の傲慢さを消せるか考え続けた。だが、未だにその方法は見つからぬ。お前の鼻っ柱を叩き潰せる男が、今の天下にはおらぬ」
それを聞いても、私の心は微動だにしなかった。今の私に敵う者など、居るはずがない。あのバロンの弓矢ですら、問題としなかったのだ。あえて、私に敵い得る者をあげるとするならば、隻眼のレンぐらいだろう。しかし、これはあくまで可能性でしかない。
「儂は、儂はお前に軍権を渡したい。ハルト、この意味をよく考えろ」
そう言って、父は部屋から出ていけ、という仕草をした。私は黙って頭を下げ、父の部屋から出た。
「私が国を潰すだと? 潰すのは、父上だ」
独り言をつぶやき、私は無駄に豪勢な屋敷を後にした。
調練でエルマンの軍でも捻り潰して、否が応にも私の名が父の耳に入るようにしてやる。歩きながら、私はそう考えていた。
そう言ったのは、エルマンだった。これから調練に入るという時で、適当な理由をつけて断ろうと思ったが、エルマンの表情がそれを良しとはしてくれそうもなかった。
父とは、もう何年もまともな会話をしていない。それは父が拒絶していた、という事もあるが、私自身が父に対して良い感情を持っていなかった。人々は、父の事を未だに武神だの軍神だのと呼んでいるが、今の父に戦ができるのか。戦どころか、武器すらも振るえないのではないのか。そんな男が武神であるはずがない。だから、父の異名は過去の栄光意外の何物でもないのだ。それなのに、未だに武神だとは笑わせる。
そういう鼻白んだ気持ちを抱きつつ、私は父の居る屋敷に入った。私はこの無駄に豪勢な屋敷が好きではなかった。どことなく、腐った政治家を連想させるからだ。他にも、醜く肥った商人の姿とも重なる所がある。金ばかりを追い求め、志の欠片もないような人間が住む。豪勢な屋敷とは、そういうものだった。
「ハルトレインです」
父の私室の前に立って、私は短くそう言った。秋の日差しが、肌を打ってくる。
「入れ」
父の返事も短かった。ため息をついてから、私は戸を開け、部屋に入った。
「久方ぶりだな」
父の身体は、すでに私の方を向いていた。そういう父の姿は、確かに久しぶりだった。今までの父は、ずっと私に背を向けていたのだ。だからなのか、私は面食らった気分に陥った。
「立派になった。私の知るハルトは、もっと幼く、未熟な覇気と根拠のない自信をその身にまとわせていた」
「恐れ入ります」
人は成長するのだ。父は、私が無為に数年を過ごしているとでも思ったのだろうか。そう考えると腹が立つが、目の前に居る男にそんな価値はない。紛れもない、ただの老人なのだ。背丈という意味で身体は大きいが、偉丈夫と言うにはあまりにも痩せすぎている。ただ、眼光は鋭い。
「エルマンから、大体の事は聞いている」
「そうですか」
「スズメバチ隊が出てきたそうだな」
「はい」
「指揮官はシグナスの実子だと聞いている」
「その通りです」
この会話は、何の為にしているのか。私は漠然とそんな事を考えていた。そして、父が私を呼び出した理由は何なのか。
「ハルト、お前は武神の子か?」
問われた。そうだ、と言いかけたが、私の中の何かがそれを遮った。
「父上の血は引いています。しかし、私は父上とはまるで違う人間です。軍人としても、武人としても」
私がそう言うと、父は口元を僅かに緩めた。笑っているのか。しかし、鋭い眼光に、とてつもない冷酷さが加わっていた。
「儂も、そろそろ退役を考えておるのだ、ハルト」
父はいきなり切り出してきた。眼光は、尚も冷酷で鋭い。
「父上は、まだご健勝であられます」
「世辞は要らん」
そう言った父が、私を睨みつけてきた。それでたじろぐ真似はしなかったが、握り拳を作っていた。せめてもの礼儀で言っただけだ。そういう怒りを、誤魔化したかったのだ。
「左腕を失ってからの儂は、抜け殻であった。ロアーヌに左腕を斬り飛ばされたのだ」
「私が、そのロアーヌを殺しました」
「討ったのはお前ではない」
「討つ機会を作ったのは私です」
「ハルト」
「御言葉ですが、父上。あの時の私の行動が間違っていたとは思えません。総大将を守るのは、戦では当たり前の事です」
私がそう言うと、父は顔を下に向けて黙り込んだ。その様がひどく惨めに見えたので、私は思わず父から目をそらしていた。
「お前に軍権を渡してしまうのが、儂は怖い。だが、お前以外に居ないというのも事実だ」
再び父に目をやった。肩を震わせている。
「何度もエルマンと話し合った。レキサスとお前、どちらに軍権を渡すべきかを。だが、意見はまとまらぬ。レキサスでは器の種類が違い、お前では国を潰しかねん」
「私が国を潰す?」
「お前の傲慢さは、国を潰す。逆に言えば、大将軍の軍権とはそういうものなのだ」
「無礼を承知で申し上げます。今の父上が軍権を握ったままでは、国はメッサーナに飲み込まれます」
「分かっておる。だからこそ、軍権の委譲を考えたのだ。そして、軍人の資質を鑑みた場合、お前以外に適任がおらぬ」
「ならば」
「全てはお前の傲慢さなのだ、ハルト。時をかけ、戦の経験を積ませれば、何らかの変化があると儂も期待していた。だが、結果はどうだ? 単に傲慢さを増長させたに過ぎん。お前の鼻っ柱を叩き潰せたはずのロアーヌも、お前が殺した」
父の台詞が、何故か私の胸を貫いた。ロアーヌが死んで、父が抜け殻となってしまったのは、単に好敵手を失ったからではない。私の成長を、私自身が。違う、そんなはずがない。父は、戦場で死ねなかった事を悔やんでいたのだ。
「儂も父親なのだ、ハルト。父親であるが故に、どうすればお前の傲慢さを消せるか考え続けた。だが、未だにその方法は見つからぬ。お前の鼻っ柱を叩き潰せる男が、今の天下にはおらぬ」
それを聞いても、私の心は微動だにしなかった。今の私に敵う者など、居るはずがない。あのバロンの弓矢ですら、問題としなかったのだ。あえて、私に敵い得る者をあげるとするならば、隻眼のレンぐらいだろう。しかし、これはあくまで可能性でしかない。
「儂は、儂はお前に軍権を渡したい。ハルト、この意味をよく考えろ」
そう言って、父は部屋から出ていけ、という仕草をした。私は黙って頭を下げ、父の部屋から出た。
「私が国を潰すだと? 潰すのは、父上だ」
独り言をつぶやき、私は無駄に豪勢な屋敷を後にした。
調練でエルマンの軍でも捻り潰して、否が応にも私の名が父の耳に入るようにしてやる。歩きながら、私はそう考えていた。
ようやく、俺もスズメバチ隊の調練に慣れてきた頃だった。以前は調練が終われば、そのまま帰って泥のように眠るのが常だったが、最近は調練後に方天画戟の素振りをやるようにしている。俺も、その程度の余裕は持てるようになったのだ。
繁華街の飯屋の前で、俺は一人で突っ立っていた。周りは、どやどやと人の雑踏で溢れ返っているせいか、何かと騒々しい。
ダウドが二人きりで話したい事がある、と言ってきた。内容を聞いたが、その場では教えようとせず、ニールやレンにも言わないように、と口止めもされた。
ニールはともかく、レンにも言うな、というのは少し気掛かりであった。言ったダウドの表情も真剣だったので、無碍にする事もできず、俺も話を聞こうという気になったのだ。それで、繁華街の飯屋だった。
「そこのお兄さん、お暇?」
ふと、雑踏の中から声が聞こえた。遊女が誰かを誘っているのだろう。声色に艶かしさが感じられる。
「ちょっと、そこの貴方よ」
また声が聞こえた。そう思い、何となく声の方向に顔を向けると、すぐ傍に女が居た。
「? 俺か?」
「そうよ。お兄さん、貴方のこと」
「はぁ」
どう反応すれば良いのか分からなかった。遊女に声を掛けられたのは、今回が初めての事である。というのも、遊女が声を掛けるのは大人の男ばかりだ。そうやって男を捕まえて館に引き込み、『遊び』をさせるのだ。
そこまで考えて、俺は自分に声を掛けられた事の意味に気が付いた。
「いや、その」
「逞しい身体つき。どう?」
「どうもこうもない、です」
女が近寄ってくる。嗅いだ事もないような、良い香りが鼻をくすぐった。何か、頭がぼーっとするような香りだ。
「すいません、勘弁してください」
「なぁに? 『まだ』なの?」
言われて、俺は赤面するしかなかった。もう十九になったというのに、俺は女を抱いた経験がない。よく見ると、女は相当に露出の高い服を着ていた。歳も俺とそう変わらないように見える。
「人を待ってるんです」
「女の子?」
「いや、違います。それに、俺は銭も持ってないから」
俺がそう言うと、女はニコリと笑って少し離れた。銭がないのは、本当の事である。財布の中には、飯代程度の銭しかないのだ。
「そう。じゃあ、また今度ね」
そう言って女は微笑み、雑踏の中に消えていった。
やけに諦めが早いな。もしかしたら、俺に近寄った時に、さりげなく財布の厚みを調べたのかもしれない。女が消えていった方を見ながら、俺はぼんやりとそんな事を考えていた。
「シオン兄」
それから少し経ってから、ダウドは現れた。
「お前、人を呼び出しておいて遅刻とは無礼な奴だな」
「ごめん。ニールさんと剣の稽古をやってたんだ」
「それが遅刻の理由になるのか?」
「剣同士じゃ、勝負が付かなかったんだよ。それで、ニールさんが偃月刀でやるって事になって」
「ほう」
ダウドは、着実に強くなろうとしている。相変わらず、身体は小さいままだが、剣術という能力の開花は始まったようだ。ここからの成長は早いだろう。芽さえ出れば、ある程度の所までは一気に行く。
二人で、飯屋の中に入った。適当な料理を注文し、水の入った杯に手を伸ばす。本当は酒が飲みたいが、ダウドは下戸なので、一緒に飲む事はできない。
「で、話ってのは何だ? ダウド」
料理が来てから、俺は切り出した。
「あ、あぁ。まぁ、その」
急にダウドが落ち着きをなくし、顔を赤らめる。なよなよと身体を揺らしているのを見るのが何となく嫌で、俺は料理の方に目を移した。
「気持ちが悪いな。どうした?」
「シオン兄は、女を抱いた事はあるかい?」
言われて、俺は思わずダウドの顔を見た。しかし、あまりにもだらしのない表情だったので、俺は再び料理の方に目を移した。
「なんでそんな事を聞く?」
「良いから答えてくれよ」
「もちろん、あるに決まってるだろう」
嘘をついた、というより、口が勝手にそう言っていた。すると、ダウドは大きなため息をついた。
「やっぱりそうかぁ。なぁ、どんな感じ?」
「どんなって言われてもな」
「レン兄やニールさんも抱いた事あるのかな」
そんな事、俺が知る訳がない。そもそもで、ダウドは何の話をしているのだ。
「お前の言っている意味がわからないぞ」
「俺、気になる女の子が居るんだ。でも、どうすれば良いか分からない」
そう言って、ダウドは再びため息をついた。
ダウドに好きな女ができた、という事だった。何故、抱くとかそういう話が出たのかは分からないが、ダウドにとっての男女の交際とは、そういうイメージのものなのかもしれない。
「シオン兄、俺はどうしたら良いんだろう。相手は商家の娘なんだ。つまり、金持ちなんだよ。それに比べて、俺なんて。せめて、スズメバチ隊の兵だったらな」
「なぁ、ダウド。それこそ、兄上やニールに話した方が良かったんじゃないか?」
「駄目だよ。特にニールさんに話したら、大変な事になる」
「なら、兄上は? 根拠はないが、俺などよりずっと良いアドバイスが貰えると思うがな」
「だからだよ。俺は、レン兄のおかげで女を抱けた、なんて思いたくないんだ。シオン兄じゃないと駄目なんだよ」
それを聞いて、俺は何となく変な気持ちなった。ダウドの奴、さりげなく俺に対して失礼な事を言っていないか。
「しかし、俺からは何も言えん」
「どうして?」
「俺がその娘を知らないからだ。それに女という一つの括りにしてしまうのも、どうかと思うぞ。まずは、その娘をよく知る事から始めてみろ」
我ながら、もっともらしい事を言えた。喋り終えて、俺はそう思った。ふと、ダウドの方に目を向けると、表情が輝いている。
「さすが、シオン兄。ありがとう。うん、そうしてみるよ」
「あぁ」
そう言って、俺は腰にぶら下げている財布の方に手をやった。ちょうど料理を食い終えたので、会計の準備である。
だが、財布の気配がない。両手を使って腰をまさぐるが、やはり見つからない。ここで、あの女の顔が浮かんできた。ダウドと会う前にやり取りをした、あの遊女だ。
「ダウド」
すられた。財布をあの女にすられたのだ。
「どうしたの、シオン兄」
「飯を奢ってくれ」
義弟にこんな頼み事をする羽目になるとは、俺は夢にも思わなかった。
繁華街の飯屋の前で、俺は一人で突っ立っていた。周りは、どやどやと人の雑踏で溢れ返っているせいか、何かと騒々しい。
ダウドが二人きりで話したい事がある、と言ってきた。内容を聞いたが、その場では教えようとせず、ニールやレンにも言わないように、と口止めもされた。
ニールはともかく、レンにも言うな、というのは少し気掛かりであった。言ったダウドの表情も真剣だったので、無碍にする事もできず、俺も話を聞こうという気になったのだ。それで、繁華街の飯屋だった。
「そこのお兄さん、お暇?」
ふと、雑踏の中から声が聞こえた。遊女が誰かを誘っているのだろう。声色に艶かしさが感じられる。
「ちょっと、そこの貴方よ」
また声が聞こえた。そう思い、何となく声の方向に顔を向けると、すぐ傍に女が居た。
「? 俺か?」
「そうよ。お兄さん、貴方のこと」
「はぁ」
どう反応すれば良いのか分からなかった。遊女に声を掛けられたのは、今回が初めての事である。というのも、遊女が声を掛けるのは大人の男ばかりだ。そうやって男を捕まえて館に引き込み、『遊び』をさせるのだ。
そこまで考えて、俺は自分に声を掛けられた事の意味に気が付いた。
「いや、その」
「逞しい身体つき。どう?」
「どうもこうもない、です」
女が近寄ってくる。嗅いだ事もないような、良い香りが鼻をくすぐった。何か、頭がぼーっとするような香りだ。
「すいません、勘弁してください」
「なぁに? 『まだ』なの?」
言われて、俺は赤面するしかなかった。もう十九になったというのに、俺は女を抱いた経験がない。よく見ると、女は相当に露出の高い服を着ていた。歳も俺とそう変わらないように見える。
「人を待ってるんです」
「女の子?」
「いや、違います。それに、俺は銭も持ってないから」
俺がそう言うと、女はニコリと笑って少し離れた。銭がないのは、本当の事である。財布の中には、飯代程度の銭しかないのだ。
「そう。じゃあ、また今度ね」
そう言って女は微笑み、雑踏の中に消えていった。
やけに諦めが早いな。もしかしたら、俺に近寄った時に、さりげなく財布の厚みを調べたのかもしれない。女が消えていった方を見ながら、俺はぼんやりとそんな事を考えていた。
「シオン兄」
それから少し経ってから、ダウドは現れた。
「お前、人を呼び出しておいて遅刻とは無礼な奴だな」
「ごめん。ニールさんと剣の稽古をやってたんだ」
「それが遅刻の理由になるのか?」
「剣同士じゃ、勝負が付かなかったんだよ。それで、ニールさんが偃月刀でやるって事になって」
「ほう」
ダウドは、着実に強くなろうとしている。相変わらず、身体は小さいままだが、剣術という能力の開花は始まったようだ。ここからの成長は早いだろう。芽さえ出れば、ある程度の所までは一気に行く。
二人で、飯屋の中に入った。適当な料理を注文し、水の入った杯に手を伸ばす。本当は酒が飲みたいが、ダウドは下戸なので、一緒に飲む事はできない。
「で、話ってのは何だ? ダウド」
料理が来てから、俺は切り出した。
「あ、あぁ。まぁ、その」
急にダウドが落ち着きをなくし、顔を赤らめる。なよなよと身体を揺らしているのを見るのが何となく嫌で、俺は料理の方に目を移した。
「気持ちが悪いな。どうした?」
「シオン兄は、女を抱いた事はあるかい?」
言われて、俺は思わずダウドの顔を見た。しかし、あまりにもだらしのない表情だったので、俺は再び料理の方に目を移した。
「なんでそんな事を聞く?」
「良いから答えてくれよ」
「もちろん、あるに決まってるだろう」
嘘をついた、というより、口が勝手にそう言っていた。すると、ダウドは大きなため息をついた。
「やっぱりそうかぁ。なぁ、どんな感じ?」
「どんなって言われてもな」
「レン兄やニールさんも抱いた事あるのかな」
そんな事、俺が知る訳がない。そもそもで、ダウドは何の話をしているのだ。
「お前の言っている意味がわからないぞ」
「俺、気になる女の子が居るんだ。でも、どうすれば良いか分からない」
そう言って、ダウドは再びため息をついた。
ダウドに好きな女ができた、という事だった。何故、抱くとかそういう話が出たのかは分からないが、ダウドにとっての男女の交際とは、そういうイメージのものなのかもしれない。
「シオン兄、俺はどうしたら良いんだろう。相手は商家の娘なんだ。つまり、金持ちなんだよ。それに比べて、俺なんて。せめて、スズメバチ隊の兵だったらな」
「なぁ、ダウド。それこそ、兄上やニールに話した方が良かったんじゃないか?」
「駄目だよ。特にニールさんに話したら、大変な事になる」
「なら、兄上は? 根拠はないが、俺などよりずっと良いアドバイスが貰えると思うがな」
「だからだよ。俺は、レン兄のおかげで女を抱けた、なんて思いたくないんだ。シオン兄じゃないと駄目なんだよ」
それを聞いて、俺は何となく変な気持ちなった。ダウドの奴、さりげなく俺に対して失礼な事を言っていないか。
「しかし、俺からは何も言えん」
「どうして?」
「俺がその娘を知らないからだ。それに女という一つの括りにしてしまうのも、どうかと思うぞ。まずは、その娘をよく知る事から始めてみろ」
我ながら、もっともらしい事を言えた。喋り終えて、俺はそう思った。ふと、ダウドの方に目を向けると、表情が輝いている。
「さすが、シオン兄。ありがとう。うん、そうしてみるよ」
「あぁ」
そう言って、俺は腰にぶら下げている財布の方に手をやった。ちょうど料理を食い終えたので、会計の準備である。
だが、財布の気配がない。両手を使って腰をまさぐるが、やはり見つからない。ここで、あの女の顔が浮かんできた。ダウドと会う前にやり取りをした、あの遊女だ。
「ダウド」
すられた。財布をあの女にすられたのだ。
「どうしたの、シオン兄」
「飯を奢ってくれ」
義弟にこんな頼み事をする羽目になるとは、俺は夢にも思わなかった。
行軍の調練で、俺達はピドナ郊外で野営をしていた。野営と言っても、幕舎などは張らず、眠る時もそのまま地べたに転がる。これは雨の時も同じであり、当然、慣れるまでは休んだという気にもなれないが、兵達には我慢させた。スズメバチ隊は遊撃隊なのだ。だから、常に迅速に行動しなければない。それだけでなく、いつ出動となるか分からないのだ。
これは父が指揮官であった頃からの伝統で、古参の兵達などはすでに地面の上に寝転がっている。これで当たり前だ、という感じなのだろう。兵達が休むのは、馬の世話と武器の点検が終わってからだ。だから、寝転がっている古参の兵達は、これらを全て終えているという事である。一方の新兵達は、まだ寝転がっている者の方が圧倒的に少ない。
シオンも、その内の一人だった。今は入念に馬体をチェックしており、馬を大事にしている事が窺える。さらに方々では、炊事当番の者達が食事の準備を整えていた。いつもは干し肉などの簡素な兵糧で済ます所だが、今回は火を使って本格的な料理を作り上げる。これはたまにしかやらないが、兵にとっては楽しみにしている事の一つだろう。
「どうだ? 上手く焼けそうか?」
俺は炊事をしている兵の所に行って、声をかけてみた。肉を焼いていた兵が振り返り、俺の顔を見て慌てて直立する。
「これはレン将軍。俺の焼き方に問題があったでしょうか」
「いや、そんな事はない。ただ、様子を見に来ただけだ」
俺がそう言うと、兵は強張った笑みを浮かべた。調練の時は兵に対して容赦するという事をしないので、どこかで俺は怖がられているのかもしれない。ただ、それを問題だとは思わなかった。怖がられるぐらいで丁度良い、という気もする。
「しっかり焼いてくれよ。楽しみにしてる」
「はい」
返事をした兵の肩を軽く叩いて、俺はその場を後にした。
他にも大鍋で野菜と肉を煮込んだりしている兵も居て、香草の良い匂いが陣営の中を漂い始めた。寝転がっていた者も、いつに間にか起き上がっている。
やがて食事の準備も整い、兵達は各々で料理を平らげ始めた。
「兄上、良かったら一緒にどうです?」
シオンが椀を二つ持って、傍にやって来た。
「珍しいな。シンロウの所に行かなくて良いのか?」
普段のシオンは、必要以上に俺と一緒に居る事を避ける所があった。将軍である俺と義兄弟だから、贔屓にしてもらっている、と他の兵に思われたくないのだろう。
「そのシンロウ殿に言われたのです。義兄なのだから、もっと懐いてこい、と」
ちょっと困ったように笑いながら、シオンは地べたに腰を下ろした。俺はシオンから椀を受け取り、共に飯を食い始める。
「シオン、シンロウ隊はどうだ?」
「特に不満はありません。シンロウ殿も、俺を認めてくれていますし」
シオンの今後については、少し難しい所があった。というのも、シーザーに言われた一件が引っ掛かっているのだ。シンロウでは器が小さすぎる、とシーザーは言った。言われて気付いた事だが、確かにそういう節はある。シンロウの指揮で、シオンの動きが制限されている感じも見受けられる。
ならば、指揮官にしてしまえば良いのか。今のシオンなら、小隊長ぐらい易々とこなすだろう。だが、肝心の実戦経験がない。実戦経験のない者を指揮官にしてしまえば、色々と問題も起きる。まず、古参の兵達が黙っていない。しかも、シオンは俺の義弟なのだ。
この件については、副官であるジャミルとも話し合ったが、指揮官にするには早すぎる、という意見は合致した。ならば、どうすれば良いか、という点だが、ジャミルはシオンを旗本に組み込む事を提案していた。つまり、俺の指揮下に置くのだ。そこで実戦を経験させて、小隊長なり、大隊長なりをやらせる。俺も色々と考えたが、今はこれしかないだろう、という気もしていた。
「シオン、シンロウ隊から外れて俺の下に付かないか?」
俺がそう言うと、シオンは飯を食う手を止めた。
「シンロウ殿が何か言われていましたか?」
「そうじゃない。シンロウの評価は、ずば抜けて良い。ただ、俺から見て、シンロウはお前を扱い切れていないのだ」
「しかし、実戦経験のない俺が旗本とは」
「まぁ、確かにそこはネックではあるが。しかし、自覚があるなら良いだろう。そんな事よりも、旗本は小隊とは比べ物にならない程、激烈だぞ」
「それは望む所ですよ」
そう言って、シオンは再び飯を食い始めた。
シオンの反応は控え目で素っ気ないものだが、言葉の裏には確かな炎が見えた。もしかしたら、シオン自身もいつまでもシンロウの元には居られない、と思っていたのかもしれない。
何気なく空を見上げると、星が綺麗に瞬いていた。以前も、シオンと二人で居る時に星を見た事がある。
「所で兄上は、女を抱いた事はあるのですか?」
いきなりの質問だった。しかも、内容は女である。ニールとはよく女の話はするが、シオンとの会話で女が出た事はない。嫌いなのか興味がないのか分からないが、その手の話が苦手そうだったのだ。一方の俺は、どちらかというと好色な方である。
俺はシオンの方に顔を向けたが、シオンは黙々と飯を食うだけだった。
「どうした、急に?」
「いえ、ちょっと気になっただけですよ」
「あるぞ。初めては十五の時だったな。まだ父も生きていた」
「それは好きな女と?」
「いいや、遊女とだったよ。そりゃ、好きな女とが一番だったが」
言いつつ、俺は苦笑した。あの時、俺には好きな女が居た。ただ、フラれたのだ。元々、仲の良い女で、俺は好き合っていたと思って交際を申し込んだが、何の事もなくフラれた。あの時ほど、女は訳が分からない、と思った事はない。それで衝動に駆られて、俺は遊女を抱いた。
今にして思えば、交際を申し込んだのが遅すぎたのだ、という気がする。この辺りは複雑で、戦にして例えるなら、攻め込む機を間違えたという所だろう。そして、手痛い反撃を食らった。
「兄上だから話しますが、俺はまだ女を抱いた事がないのですよ。こんな事、以前はそれほど気にしていなかったのですが」
「シオン、弟だから教えてやる。女は抱いておけ。俺は初めてが遊女とだったが、あの時に抱いて良かったと思ってる」
「は、はぁ」
「好きな女は居るのか?」
「好きかどうか分かりませんが、気になる女は」
「ほう」
「その女には財布をすられたのですが、また会いたい、と思っている自分も居ます」
何か変な話だった。しかし、深く突っ込もうとは思わなかった。男と女の出会いなど、何が切っ掛けとなるか分からないのだ。
「しかし、シオンが女の話とはな。唐突で驚いたが、悪くない」
「兄上、他言は無用ですよ」
「分かっているさ」
俺はそう言って、再び夜空に目をやった。相変わらず、星は綺麗に瞬いている。
方々で、兵達の談笑する声が聞こえていた。
これは父が指揮官であった頃からの伝統で、古参の兵達などはすでに地面の上に寝転がっている。これで当たり前だ、という感じなのだろう。兵達が休むのは、馬の世話と武器の点検が終わってからだ。だから、寝転がっている古参の兵達は、これらを全て終えているという事である。一方の新兵達は、まだ寝転がっている者の方が圧倒的に少ない。
シオンも、その内の一人だった。今は入念に馬体をチェックしており、馬を大事にしている事が窺える。さらに方々では、炊事当番の者達が食事の準備を整えていた。いつもは干し肉などの簡素な兵糧で済ます所だが、今回は火を使って本格的な料理を作り上げる。これはたまにしかやらないが、兵にとっては楽しみにしている事の一つだろう。
「どうだ? 上手く焼けそうか?」
俺は炊事をしている兵の所に行って、声をかけてみた。肉を焼いていた兵が振り返り、俺の顔を見て慌てて直立する。
「これはレン将軍。俺の焼き方に問題があったでしょうか」
「いや、そんな事はない。ただ、様子を見に来ただけだ」
俺がそう言うと、兵は強張った笑みを浮かべた。調練の時は兵に対して容赦するという事をしないので、どこかで俺は怖がられているのかもしれない。ただ、それを問題だとは思わなかった。怖がられるぐらいで丁度良い、という気もする。
「しっかり焼いてくれよ。楽しみにしてる」
「はい」
返事をした兵の肩を軽く叩いて、俺はその場を後にした。
他にも大鍋で野菜と肉を煮込んだりしている兵も居て、香草の良い匂いが陣営の中を漂い始めた。寝転がっていた者も、いつに間にか起き上がっている。
やがて食事の準備も整い、兵達は各々で料理を平らげ始めた。
「兄上、良かったら一緒にどうです?」
シオンが椀を二つ持って、傍にやって来た。
「珍しいな。シンロウの所に行かなくて良いのか?」
普段のシオンは、必要以上に俺と一緒に居る事を避ける所があった。将軍である俺と義兄弟だから、贔屓にしてもらっている、と他の兵に思われたくないのだろう。
「そのシンロウ殿に言われたのです。義兄なのだから、もっと懐いてこい、と」
ちょっと困ったように笑いながら、シオンは地べたに腰を下ろした。俺はシオンから椀を受け取り、共に飯を食い始める。
「シオン、シンロウ隊はどうだ?」
「特に不満はありません。シンロウ殿も、俺を認めてくれていますし」
シオンの今後については、少し難しい所があった。というのも、シーザーに言われた一件が引っ掛かっているのだ。シンロウでは器が小さすぎる、とシーザーは言った。言われて気付いた事だが、確かにそういう節はある。シンロウの指揮で、シオンの動きが制限されている感じも見受けられる。
ならば、指揮官にしてしまえば良いのか。今のシオンなら、小隊長ぐらい易々とこなすだろう。だが、肝心の実戦経験がない。実戦経験のない者を指揮官にしてしまえば、色々と問題も起きる。まず、古参の兵達が黙っていない。しかも、シオンは俺の義弟なのだ。
この件については、副官であるジャミルとも話し合ったが、指揮官にするには早すぎる、という意見は合致した。ならば、どうすれば良いか、という点だが、ジャミルはシオンを旗本に組み込む事を提案していた。つまり、俺の指揮下に置くのだ。そこで実戦を経験させて、小隊長なり、大隊長なりをやらせる。俺も色々と考えたが、今はこれしかないだろう、という気もしていた。
「シオン、シンロウ隊から外れて俺の下に付かないか?」
俺がそう言うと、シオンは飯を食う手を止めた。
「シンロウ殿が何か言われていましたか?」
「そうじゃない。シンロウの評価は、ずば抜けて良い。ただ、俺から見て、シンロウはお前を扱い切れていないのだ」
「しかし、実戦経験のない俺が旗本とは」
「まぁ、確かにそこはネックではあるが。しかし、自覚があるなら良いだろう。そんな事よりも、旗本は小隊とは比べ物にならない程、激烈だぞ」
「それは望む所ですよ」
そう言って、シオンは再び飯を食い始めた。
シオンの反応は控え目で素っ気ないものだが、言葉の裏には確かな炎が見えた。もしかしたら、シオン自身もいつまでもシンロウの元には居られない、と思っていたのかもしれない。
何気なく空を見上げると、星が綺麗に瞬いていた。以前も、シオンと二人で居る時に星を見た事がある。
「所で兄上は、女を抱いた事はあるのですか?」
いきなりの質問だった。しかも、内容は女である。ニールとはよく女の話はするが、シオンとの会話で女が出た事はない。嫌いなのか興味がないのか分からないが、その手の話が苦手そうだったのだ。一方の俺は、どちらかというと好色な方である。
俺はシオンの方に顔を向けたが、シオンは黙々と飯を食うだけだった。
「どうした、急に?」
「いえ、ちょっと気になっただけですよ」
「あるぞ。初めては十五の時だったな。まだ父も生きていた」
「それは好きな女と?」
「いいや、遊女とだったよ。そりゃ、好きな女とが一番だったが」
言いつつ、俺は苦笑した。あの時、俺には好きな女が居た。ただ、フラれたのだ。元々、仲の良い女で、俺は好き合っていたと思って交際を申し込んだが、何の事もなくフラれた。あの時ほど、女は訳が分からない、と思った事はない。それで衝動に駆られて、俺は遊女を抱いた。
今にして思えば、交際を申し込んだのが遅すぎたのだ、という気がする。この辺りは複雑で、戦にして例えるなら、攻め込む機を間違えたという所だろう。そして、手痛い反撃を食らった。
「兄上だから話しますが、俺はまだ女を抱いた事がないのですよ。こんな事、以前はそれほど気にしていなかったのですが」
「シオン、弟だから教えてやる。女は抱いておけ。俺は初めてが遊女とだったが、あの時に抱いて良かったと思ってる」
「は、はぁ」
「好きな女は居るのか?」
「好きかどうか分かりませんが、気になる女は」
「ほう」
「その女には財布をすられたのですが、また会いたい、と思っている自分も居ます」
何か変な話だった。しかし、深く突っ込もうとは思わなかった。男と女の出会いなど、何が切っ掛けとなるか分からないのだ。
「しかし、シオンが女の話とはな。唐突で驚いたが、悪くない」
「兄上、他言は無用ですよ」
「分かっているさ」
俺はそう言って、再び夜空に目をやった。相変わらず、星は綺麗に瞬いている。
方々で、兵達の談笑する声が聞こえていた。