自由になって一週間ほどしか命が持たない生物とは、
生涯の殆どを暗い暗い中で過ごしている生物とは、
かのアイソーポスで、死にゆく運命に立たされた生物とは、何か。
「それは蝉だ」
問われれば、群衆は口を揃えてそう言った。
そしてこの原因不明の病は、ある特定の行為を継続しなければ、一週間で命を落とすことになる。
ある者は七日の間一度も血を流さなければ全身から血液を噴出させ、
ある者は七日の間一度も射精しなければ身体が腐敗してゆくのを見届け、
ある者は七日の間一度も砂を食べなければ流動化して土の肥やしになる。
つまり最短、発症から七日で死に至る。それがとても蝉に似ていることから、この病を発見した人物はこの病――もとい罹患した者を<蝉>と称することにした。
分かり易さと、それと皮肉を含ませて。
外套を着た男が掠れた声で語るのを、髭を蓄えた爺は黙って聞き流していた。
「それはもうこの中津国全体に広まろうとしているらしい。分かるか。もしかしたらこの村の住民全員が既に<蝉>かもしれない。だから俺は警告、いや、注意喚起を行いに来た」
「そんなことはどうでもええが、」
爺はぐっと眉根を寄せる。
「お前さんは、誰だ。“都”の、回し者か」
しわがれた声で問う爺に対し、男は微笑を浮かべる。
「ここが反逆者の村と知って、都が使者を送ることはない。それに、都の役人はこの村に<蝉>が存在するのかしないのか、大方見切っていることだろう。にもかかわらず何の対抗策も取らないところからして、恐らく、白か黒といったところか」
「それは一体どういう意味だ」
「“それ”が総てに及ぶか、零ってことさ」
男は懐から取り出した竹筒を口に当て、水を含むと言葉を続ける。
「……ところで、あんたの意見を聞きたい。もし俺の話を信じるんだったら、すぐに村人全員の容態を調べ、何か異変が起きてないか教えてほしい。例えば異常に何かを欲しがっているものがいないか。危急故に、今すぐに返答をもらいたい」
「返答? 素性も解らぬ青二才が笑わせる」
爺はごさごさと生えた髭を撫ぜると、“黒の眼窩を歪め”不愉快そうに笑う。
「憶測で物を言っても良いのは神か仙人だけだ。お前のような外の人間がこの村の何を知っている。何を以て危機とするか、何を以て緊急とするか。この村では、その決定権は儂にある。つまり儂が一度声明を出せば、それは鶴のごとく、村人全員の意思をも変えることが出来る。即ち儂が今何を言わんとしているか、お前には理解できるか?」
「笑うのは寧ろ俺の方だ。そうやって昔の腐った伝統にいつまでも縋り付いていては特異な病に順応することも儘ならない。そうやって脆弱な民衆が次々と死に絶えている現状をお前たちは知らない。なぜならそれはこの村が固く閉じているからだ。いい加減気づいたらどうだ。お前たちは自ずから死を選択しようとしていることにな」
「我々はこの村の土も同然だ。この村で生き、この村で死ぬのならば本望。たとえ妙な病気に罹って死ぬのならば、それもまた本望。外から来た人間の胡散臭い進言で我々が動くとでも思っているのならば、とんだ思惑違いだ。帰れ」
「死ぬ直前に後悔するとしても、か」
男は底冷えする声に、怒りに似た感情を込める。
「頑固で矮小で古きを重んじ、挙句の果てに自身は村そのものとまで言い張るか。そこまで頑ななら、もう止めることもあるまい」
立ち上がって、男は砂埃を払う。
「七日ない余命、精々楽しむことだ」
村から一キロほど離れている場所を、男は遠ざかる方向に歩いていた。
解れて裏地が露わになった外套の襟を掴み、眠たげに目を擦る。村は四方を山に囲まれた盆地にあり、西山の向こうには賑わいを見せる都がある。
しかし男は北山の頂上まで登り、都と村との両方から距離をとっていた。
「恐らく、あの様子からしてあの村は既に<蝉>に侵されている。特に、あの爺」
男は舞い落ちる枯葉を払い除けながら、
「自らの眼球がないことに気付いていないようだった。あれは恐らく、七日の間一度も眼球と喰らわなければ眼から順に全身が溶け落ちていく類いの<蝉>――――」
そこまで考えたところで、男は何かが腑に落ちたように笑った。
「例え理解されたところで、救いようはなかったか」
赤をやや通り過ぎ枯れ模様になっている山道は、まるで生き物の気配が感じられない。それもそのはず、ありとあらゆる動物の殆どは<蝉>に感染し既に死滅してしまっている。だからこの山には春が来ても子規は鳴かず、秋が訪れても鈴虫は鳴かない。もはや残っている生き物と言えば、数の面で有利な人間と抗体を持つ生物だけだった。
外套をまとった男、烏丸(からすまる)はその抗体を探す人間の一人だった。
西日が消え朱から暗に顔を変える空を見上げ、烏丸はいい具合の岩に座り込んだ。
「やれやれ、今日も今日とて、また野宿か」
苦笑まじりに項垂れる黒い烏。彼は一月ほど前からこうして国の各地を回って<蝉>の調査などを行っているが、例えば村や町に行ったところで烏丸自体を受け入れる場所は少ない。ましてや、<蝉>の話を信じるのは既に都の使者が訪れた町だけだった。
「まあ、疑心暗鬼になる気持ちは解らんでもない」
烏丸は竹筒の水を飲み、岩の上に寝転がる。
「見知らぬ男にいきなり『お前の村は感染病に侵されている』などと言われても、信じようがない。だから俺も何とか説得できるよう最善を尽くしたが……やはりあれほど結束力の強い村は不可能だな。ま、村人の機微に触れるようなことを言った俺にも責はあるか。今頃あの爺は、頭が溶けだして苦しんでいるところだろうな」
空は<蝉>の発生が確認されて以来ほぼ毎日曇り空で、夜に近づくにつれ視界は限りなく黒に迫っていた。眼前に出した自分の手さえも確認できないほどの、漆黒の闇。その中に今日も烏丸は身を委ね、静かに眠りにつく。
「何にせよ、明日にはあの村は――――」
そこまで呟き、烏丸は閉口した。
朝、烏丸は自らの意思とは無関係に目を覚ました。いつもなら昼辺りでようやく目覚め、夕刻には次の目的地にたどり着いていたが、何の罰か、今日は早朝に目を覚ました。
おかげで烏丸は、寝起きからすでに気が立っていた。
すべての根源は、今まさに烏丸の前に立ち、彼のことをじっと見据えている。
「あんた、確かカス丸って言ったっけ」
「……烏丸だ」
何度起こしても熟睡したままの烏丸を岩から蹴落とし、代わりに今岩の上に仁王立ち、偉そうに見下ろしている少年は烏丸の記憶にも新しかった。
「確かお前はあの村の――――餓鬼か」
「餓鬼じゃない! おいの名前は木葉(このは)だ」
襤褸切れを着た短髪の少年、木葉は岩から身軽に飛び降りる。
「烏丸。あんたさ、なんで昨日とっとと村から帰って行ったんだ?」
問う木葉に、烏丸はやれやれと言った調子で言う。
「なんでも何も、あの様子じゃ俺の話は聞き入れられそうになかったからな。あとは都の役人に委ねたってところさ。ま、感染してないことを祈るばかりだ」
「嘘だな」
烏丸が喋り終わると同時に、木葉は口を開いた。
「あんた、嘘ついてる。あの村はもう<蝉>ってのに浸食され始めてる。そうだろ?」
「…………………………」
烏丸は口にしようとした竹筒を持ったまま、黙って木葉を見る。
対して木葉は烏丸相手に物怖じすることなく、むしろ傲慢な態度のまま、探偵のように顎に手を添えて言う。
「おいってばさ、いつからかは分かんねえばってん、人が嘘ついてるのは分かるんだ。小細工もへったくれもねえ、鳥が空を飛ぶぐれえ簡単に分かるんだ。じゃけえあんたが嘘をついてんのもよーく分かる」
「分かったところで、お前はどうする?」
烏丸は空になった竹筒を懐に仕舞い、くつくつと笑いながら言う。
「今更俺に村へ戻って、<蝉>の退治をしろとでも?」
「いんにゃ、おいはもうあんな村のことなんかどうでもいい」
木葉は気難しい表情で頭を横に振る。
「あーんな頑固な村長のいる村なんて住む価値がねえもんだ。あんただってそう思うだろう? 昔っからの伝統にこだわる村なんて碌なことがありゃしねえ。おいが何か不躾なことをしようもんなら、夜の山の中へ置き去りさ。ま、おかげさまでここらの山はおいの庭みてえなもんになったけどな」
「おいおい、別にお前の生い立ちなんざ俺は訊いてない」
「あ、こりゃ失敬。こんなこと話す相手なかなかいないもんでさぁ」
舌を出しておどける木葉に、烏丸は呆れた溜め息を返す。
「おい、木葉とか言ったな、お前」
烏丸はぼさぼさの髪を掻きながら、徐に立ち上がる。
「<蝉>は分かるか。<蝉>を、見たことがあるか」
「いいや。あんたが言ってたので大体は分かったけど、さっぱり」
「煮え切らない返事だな、まあいい」
南に爪先を向け、夜色の外套をまとう“烏”は不敵に笑う。
「来い。<蝉>を見せてやる」
蝉時雨ズブロッカ(未完)
南に山を下れば、村の気配はそことなく感じ取れた。
「なんでえなんでえ、人が変わったみたいにいきなり<蝉>を見せてくれるってよお。さては烏丸、あんた何か目的があっておいに“それ”を見せようとしてんなあ?」
木葉は騒がしくしゃべりながら、ひょいひょいと慣れた手つきで枝伝いに跳ぶ。
かく言う烏丸は目配せ一つすることなく、村の方角を細めで睨みながら、
「何の意図もない。ただ、調子づいた糞餓鬼に現実を見せてやろうと思ってな」
冷淡な声で、そう言った。おー怖い怖い、とおどける木葉を断固無視しつつ、朝空の下では目立ちすぎる黒い外套を着崩した烏は、落ち葉を踏み分ける。
中津国から、四季は失われたに等しい。
年がら年中木々は裾に枯葉を蓄え、裸の樹枝を寒風に晒している。冬眠の習慣を持つ動物が永遠に目覚めぬことがあれば、葉月に白ぎつねを見かけることさえあった。
民衆はそれを神の与えし賞罰とした。
暖に生くる者には罰を。
寒に生くる者には賞を。
寒冷な気候に順応できぬものは神に身を委ね、永遠か一時かの眠りにつくしかない。
それが、ここの暗黙の掟として人々に刻まれている。もちろん烏丸、そして木葉もその例外ではない、
はずであった。
「時に木葉とやら、お前、そのような装いで寒気を感じないのか?」
「ったりめーじゃん、こんなもの寒いも臭いもあったもんじゃねーべ」
木葉は襤褸切れのような一張羅を叩いて豪語する。
烏丸は訝しげな視線を一度だけ遣り、再び南の山麓を見据える。茶の混じった緑の樹幹の隙間に、瓦葺が佇まいを揃えているのが見える。距離にしてもう百寸ほどであろうか。
村が近づいたのを悟ると木葉は枝から枯葉の絨毯に飛び降り、古傷だらけの裸足で滑るように駆け下りて行く。
「ほうら、早く来ねえと置いてってくぞ!」
そう警告して木々の合間を縫う木葉を、烏丸は薄い目で見る。別に追いかけようが追いかけまいが、結果は端から分かりきっていることだったからだ。
烏丸がそう確信を持つほど強く、“それ”の気配は顕著に表れていた。
して恐らく、その惨状を木の葉が目の当たりにしたのであろう、
「うっ……うわああっ!!!!!」
本当の恐怖を目撃した、人間の短い悲鳴が木霊する。
烏丸はようやく、口角を上げて笑う。そしてすぐに表情を限りなく無に近づける。
「か、烏丸!! てえへんだあ!!」
その声は徐々に明瞭になってきて、烏丸が村の正門にたどり着こうとしたところで、木葉と鉢合わせになった。襤褸を着た少年の顔は蒼白し、双眸は恐怖で滲んでいる。歯の根が合わないのか顎が小刻みに揺れ、伴って全身が震えているのを見、烏は更に小さく笑う。
「そそ……門番のあた、頭が、なく、なって、なくなっててさあ……」
木葉は噛み合わない言葉で脳裏に焼き付けられた情景を必死に伝えようとするが、烏丸の笑みは崩れない。寧ろ、活気付いていた餓鬼が現実に恐れ戦く瞬間に立ち会い、烏丸の内心には僅かな傲慢と哀しみが生まれていた。
言葉足らずの舌で、遺言を伝えるかのような木葉。
それを一蹴するように、烏丸。
「だから、何だ」
底冷えする声が、木葉を劈いた。
「俺は言っただろう。“<蝉>を見せてやる”と」
有象無象の某が蠢く惨状であった。
村の入り口を過ぎた所で、恐らくは門番だったであろう人間が辛うじて人体の形状を保ってはいたが、全身が溶けた蛞蝓のように“どろどろ”と液状化し、抗う何かも分からぬまま嘗て手であった器官で全身を懸命に掻き毟りながら、ようようと黒い地面に溶け込んでいた。
左手の民家からはくぐもった悲鳴と共に、身体中を黒蟻が這っている男が飛出し、地面に寝転んだ。よく見るとそれは蟻が体の表面を這っているのではなく、“皮膚の内側にいる夥しい量の蟻が皮膚を透かして見えている”のであった。刹那、黒の蟲が内側から突き破り、湧水のようにそれはそれは凄まじい勢いで男の身体から身を露呈した。その中身は空であった。
「これは典型的な<蝉>の例だな。蝉を放置しすぎると、このようなことになる」
まるで塩分を摂りすぎたという他愛のない事を言うかのごとく、感情なく淡々と烏丸は分析する。両目は下等生物を見下すように闇に染まり、その奥に輝きはない。
木葉はその異常なまでの態度を見て、沈黙のうちに戦慄する。
「さて……件の村長はどうなっているか、予想はつくが」
最奥に見ゆる一際大きな家屋を見つけ、烏丸はさくさくと歩く。遅れを取らぬよう木の葉も背後に寄り添うようにして付いて行くが、周囲の光景が視界に現れる度、猛烈な嘔吐感に襲われては耐えるを繰り返した。
昨日まで住んでいた普通の村は、異端者の村と化していた。
頭が首根から落ちたことに気付かず自身の頭蓋を踏み潰す者。ありとあらゆる部位から耳が生えたまま蹲って動かない者。際限なく土を喰らってはち切れんばかりに腹が黒く膨れている者。顔の片側から数えきれない量の歯牙が突き破って飛出し、痛みに苦しんで痙攣する者。望むと望まざるにかかわらず滂沱の涙を流しながら己を喰らう者。既に手遅れであったのか、人間の形に赤く染まった地面、もしくは赤黒い肉片がこびり付いた白骨もそこらに散乱していた。
木葉は一度だけ呻き、目を瞑って烏丸の袂を掴む。
浸水したのかと思うほど、地面が温く湿っていた。
ほどなくして、この村における異端二人は村長の敷居に立ち入った。腐敗臭が立ち込めて気味の悪い霧が漂う中、くたびれて腐れ落ちかけた玄関戸の前に止まる。
「どうする、木葉。お前はこの中が見たいか」
問う、烏丸。
「お前は運よくこの有様から逃れられた一人だ。だとしたら、ここの顛末を見届ける義務ってものがあるんじゃないのか、どうだ」
「見てえか、って……んなもん見たくねえに決まってんじゃねえかよ」
何を見せられるかも分からない木葉は、当然そう答える。
「そうか、ならば見ておくべきだ」
何方に転んでもそう答え返しただろう烏丸は、後ろに立つ木葉の襟元をぐいと掴み上げる、と同時に勢いよく戸を蹴破った。途端、“むっ”とした空気が噴き出した廃屋の中に木葉を突き飛ばす。当然、びくついたままの木葉はうまく体制が整えられず、数歩駆けたところで躓いて倒れ込んだ。
直後、土間に落ちたはずの自分の口に、どろりとした粘性の液体が触れるのを感じた。
「うぐっ……!!」
木葉は全身に走る悪寒を削ごうと、急いで面を上げて違和感を袖で拭う。異物を口に含んだように何度か嗚咽を吐いて、肘をつきながら地面に突っ伏す。手先にまた、蛞蝓の群生に手を突っ込んだような感触がよみがえる。襤褸で目許に溜まった涙を吸い取りながら、木葉はつい、本能で目を見開いた。
眼球が転がっていた。
眼球が転がっていた。
「ひっ――――――――!!」
白髪が流れていた。皮膚が流れていた。指が流れていた。鼻が流れていた。心臓が流れていた。脾臓が流れていた。血管が流れていた。
人間の中身をした濁流の中に、人間を形作る物が蠢いていた。
しかもまだそれは意志を持っているのか、鼻はひくひくと不気味に痙攣し、心臓は今まさに生命を司るがごとく激しく脈動していた。髪の毛は吸い寄せられるように流れに逆らって泳いでいた。そこで初めて、木葉はこの“中身”が一定の場所から放射状に広がっているのだと、惑う思考で必死に推した。その後に、村全ての地面に在った違和感……どことなく湿っていた黒土と、“これ”が全く同じ臭いを発していることに気が入った。
「理解したようだな、木葉。恐らく夜半、この爺を筆頭に<蝉>が出た」
それでも烏丸は日常同然と言った冷静な口調で、木葉に語る。
「これが今の中津国では毎日のように発生している。俺はこれを防ぐ……あわよくば元の状態に修復をするために旅をしている、というわけだ。まあ、この村はもう取り返しがつかんだろうが、…………」
烏丸は、そこでようやく木葉が失神していることに気が付いた。
「……やれやれ、手のかかる餓鬼だ。これだから餓鬼は嫌いだ」
そう言いながらも烏丸は矮小な木葉の身体を片腕で担ぎ上げると、家屋の中心にある囲炉裏の傍で、延々と人間の中身を噴き出し続けている“村長”を一瞥した。
「“聞こえる”だろうよ、爺。これが、真実だ」
溢れだす肉塊の中から、救いを求めるような手が差し出されていた。
「貴様はもう二度と元の身体に戻ることは出来ん。かと言って死ぬわけでもなく、正常な人間として生きるわけでもなく、ただ半永久的に増殖する肉塊と化して、貴様の望んだこの村の終焉と共に、己の愚かさを恥じるがいい」
烏は傲慢に吐き捨て、木葉を連れて風と共に去った。
「なんでえなんでえ、人が変わったみたいにいきなり<蝉>を見せてくれるってよお。さては烏丸、あんた何か目的があっておいに“それ”を見せようとしてんなあ?」
木葉は騒がしくしゃべりながら、ひょいひょいと慣れた手つきで枝伝いに跳ぶ。
かく言う烏丸は目配せ一つすることなく、村の方角を細めで睨みながら、
「何の意図もない。ただ、調子づいた糞餓鬼に現実を見せてやろうと思ってな」
冷淡な声で、そう言った。おー怖い怖い、とおどける木葉を断固無視しつつ、朝空の下では目立ちすぎる黒い外套を着崩した烏は、落ち葉を踏み分ける。
中津国から、四季は失われたに等しい。
年がら年中木々は裾に枯葉を蓄え、裸の樹枝を寒風に晒している。冬眠の習慣を持つ動物が永遠に目覚めぬことがあれば、葉月に白ぎつねを見かけることさえあった。
民衆はそれを神の与えし賞罰とした。
暖に生くる者には罰を。
寒に生くる者には賞を。
寒冷な気候に順応できぬものは神に身を委ね、永遠か一時かの眠りにつくしかない。
それが、ここの暗黙の掟として人々に刻まれている。もちろん烏丸、そして木葉もその例外ではない、
はずであった。
「時に木葉とやら、お前、そのような装いで寒気を感じないのか?」
「ったりめーじゃん、こんなもの寒いも臭いもあったもんじゃねーべ」
木葉は襤褸切れのような一張羅を叩いて豪語する。
烏丸は訝しげな視線を一度だけ遣り、再び南の山麓を見据える。茶の混じった緑の樹幹の隙間に、瓦葺が佇まいを揃えているのが見える。距離にしてもう百寸ほどであろうか。
村が近づいたのを悟ると木葉は枝から枯葉の絨毯に飛び降り、古傷だらけの裸足で滑るように駆け下りて行く。
「ほうら、早く来ねえと置いてってくぞ!」
そう警告して木々の合間を縫う木葉を、烏丸は薄い目で見る。別に追いかけようが追いかけまいが、結果は端から分かりきっていることだったからだ。
烏丸がそう確信を持つほど強く、“それ”の気配は顕著に表れていた。
して恐らく、その惨状を木の葉が目の当たりにしたのであろう、
「うっ……うわああっ!!!!!」
本当の恐怖を目撃した、人間の短い悲鳴が木霊する。
烏丸はようやく、口角を上げて笑う。そしてすぐに表情を限りなく無に近づける。
「か、烏丸!! てえへんだあ!!」
その声は徐々に明瞭になってきて、烏丸が村の正門にたどり着こうとしたところで、木葉と鉢合わせになった。襤褸を着た少年の顔は蒼白し、双眸は恐怖で滲んでいる。歯の根が合わないのか顎が小刻みに揺れ、伴って全身が震えているのを見、烏は更に小さく笑う。
「そそ……門番のあた、頭が、なく、なって、なくなっててさあ……」
木葉は噛み合わない言葉で脳裏に焼き付けられた情景を必死に伝えようとするが、烏丸の笑みは崩れない。寧ろ、活気付いていた餓鬼が現実に恐れ戦く瞬間に立ち会い、烏丸の内心には僅かな傲慢と哀しみが生まれていた。
言葉足らずの舌で、遺言を伝えるかのような木葉。
それを一蹴するように、烏丸。
「だから、何だ」
底冷えする声が、木葉を劈いた。
「俺は言っただろう。“<蝉>を見せてやる”と」
有象無象の某が蠢く惨状であった。
村の入り口を過ぎた所で、恐らくは門番だったであろう人間が辛うじて人体の形状を保ってはいたが、全身が溶けた蛞蝓のように“どろどろ”と液状化し、抗う何かも分からぬまま嘗て手であった器官で全身を懸命に掻き毟りながら、ようようと黒い地面に溶け込んでいた。
左手の民家からはくぐもった悲鳴と共に、身体中を黒蟻が這っている男が飛出し、地面に寝転んだ。よく見るとそれは蟻が体の表面を這っているのではなく、“皮膚の内側にいる夥しい量の蟻が皮膚を透かして見えている”のであった。刹那、黒の蟲が内側から突き破り、湧水のようにそれはそれは凄まじい勢いで男の身体から身を露呈した。その中身は空であった。
「これは典型的な<蝉>の例だな。蝉を放置しすぎると、このようなことになる」
まるで塩分を摂りすぎたという他愛のない事を言うかのごとく、感情なく淡々と烏丸は分析する。両目は下等生物を見下すように闇に染まり、その奥に輝きはない。
木葉はその異常なまでの態度を見て、沈黙のうちに戦慄する。
「さて……件の村長はどうなっているか、予想はつくが」
最奥に見ゆる一際大きな家屋を見つけ、烏丸はさくさくと歩く。遅れを取らぬよう木の葉も背後に寄り添うようにして付いて行くが、周囲の光景が視界に現れる度、猛烈な嘔吐感に襲われては耐えるを繰り返した。
昨日まで住んでいた普通の村は、異端者の村と化していた。
頭が首根から落ちたことに気付かず自身の頭蓋を踏み潰す者。ありとあらゆる部位から耳が生えたまま蹲って動かない者。際限なく土を喰らってはち切れんばかりに腹が黒く膨れている者。顔の片側から数えきれない量の歯牙が突き破って飛出し、痛みに苦しんで痙攣する者。望むと望まざるにかかわらず滂沱の涙を流しながら己を喰らう者。既に手遅れであったのか、人間の形に赤く染まった地面、もしくは赤黒い肉片がこびり付いた白骨もそこらに散乱していた。
木葉は一度だけ呻き、目を瞑って烏丸の袂を掴む。
浸水したのかと思うほど、地面が温く湿っていた。
ほどなくして、この村における異端二人は村長の敷居に立ち入った。腐敗臭が立ち込めて気味の悪い霧が漂う中、くたびれて腐れ落ちかけた玄関戸の前に止まる。
「どうする、木葉。お前はこの中が見たいか」
問う、烏丸。
「お前は運よくこの有様から逃れられた一人だ。だとしたら、ここの顛末を見届ける義務ってものがあるんじゃないのか、どうだ」
「見てえか、って……んなもん見たくねえに決まってんじゃねえかよ」
何を見せられるかも分からない木葉は、当然そう答える。
「そうか、ならば見ておくべきだ」
何方に転んでもそう答え返しただろう烏丸は、後ろに立つ木葉の襟元をぐいと掴み上げる、と同時に勢いよく戸を蹴破った。途端、“むっ”とした空気が噴き出した廃屋の中に木葉を突き飛ばす。当然、びくついたままの木葉はうまく体制が整えられず、数歩駆けたところで躓いて倒れ込んだ。
直後、土間に落ちたはずの自分の口に、どろりとした粘性の液体が触れるのを感じた。
「うぐっ……!!」
木葉は全身に走る悪寒を削ごうと、急いで面を上げて違和感を袖で拭う。異物を口に含んだように何度か嗚咽を吐いて、肘をつきながら地面に突っ伏す。手先にまた、蛞蝓の群生に手を突っ込んだような感触がよみがえる。襤褸で目許に溜まった涙を吸い取りながら、木葉はつい、本能で目を見開いた。
眼球が転がっていた。
眼球が転がっていた。
「ひっ――――――――!!」
白髪が流れていた。皮膚が流れていた。指が流れていた。鼻が流れていた。心臓が流れていた。脾臓が流れていた。血管が流れていた。
人間の中身をした濁流の中に、人間を形作る物が蠢いていた。
しかもまだそれは意志を持っているのか、鼻はひくひくと不気味に痙攣し、心臓は今まさに生命を司るがごとく激しく脈動していた。髪の毛は吸い寄せられるように流れに逆らって泳いでいた。そこで初めて、木葉はこの“中身”が一定の場所から放射状に広がっているのだと、惑う思考で必死に推した。その後に、村全ての地面に在った違和感……どことなく湿っていた黒土と、“これ”が全く同じ臭いを発していることに気が入った。
「理解したようだな、木葉。恐らく夜半、この爺を筆頭に<蝉>が出た」
それでも烏丸は日常同然と言った冷静な口調で、木葉に語る。
「これが今の中津国では毎日のように発生している。俺はこれを防ぐ……あわよくば元の状態に修復をするために旅をしている、というわけだ。まあ、この村はもう取り返しがつかんだろうが、…………」
烏丸は、そこでようやく木葉が失神していることに気が付いた。
「……やれやれ、手のかかる餓鬼だ。これだから餓鬼は嫌いだ」
そう言いながらも烏丸は矮小な木葉の身体を片腕で担ぎ上げると、家屋の中心にある囲炉裏の傍で、延々と人間の中身を噴き出し続けている“村長”を一瞥した。
「“聞こえる”だろうよ、爺。これが、真実だ」
溢れだす肉塊の中から、救いを求めるような手が差し出されていた。
「貴様はもう二度と元の身体に戻ることは出来ん。かと言って死ぬわけでもなく、正常な人間として生きるわけでもなく、ただ半永久的に増殖する肉塊と化して、貴様の望んだこの村の終焉と共に、己の愚かさを恥じるがいい」
烏は傲慢に吐き捨て、木葉を連れて風と共に去った。
「立つ鳥後を濁さず」という諺がある。
その文字通り、立ち去る者はきちんと後始末をしておけという意味であるが、別の意味で烏の場合はその限りでないようだった。
湿ってしまった土を、白い下駄が踏みしめる。
烏丸が二度訪れた町に降り立ったのは、折笠を被った旅人風貌であった。しかし顔は切れ長な目を白髪で覆い、身体は小奇麗な紺の男着物を着こなしており、とても三千里の旅を越えた旅人の容姿には見えなかった。
旅人は歩きつつ右へ左へに視線を遣り、生存者の確認を村中歩きながら行った。しかし村には人間はおろか鳥や野犬さえも居らず、生ける者の気配はしんとしたまま静まり返っていた。数か月前から<蝉>の影響で増加傾向にある、死村(しぞん)である。
こうした村は往々にして鯉すら住めぬ環境と化し、歴史上から抹消され、いずれは元々木々が栄えていた場所として後世に伝えられてゆくのである。
しかし、この場合は少々訳が違った。
通常死村と云うものは樹も土も空気も朽ち果てて、侵入するもの全てを拒む限りなく暗黒に近い霧で覆われ、その存在すら確認できるほど荒廃するものなのだが、旅人が後を辿って着いた村はその点で異常であった。
簡潔に言えば、そこが村であるかどうかも疑わしかった。
もう少し掻い摘んで言えば、今そこに在る家屋に人が住んでいた痕跡などなかった。
明確に言うならば、そこは村でなく、ただの廃屋が並ぶ空間と認識できたのだ。
かつて腐葉土に近い色の土が広がっていたであろう地面は、雪化粧のように白い。民家の中に生活の色はなく、座布団がきれいに並べられたまま居座っている。ここに新たに人が住むことは出来ようが、今までそこに人が住んでいただろうかと訊かれれば、百人が百人首を横に振るほど、小奇麗で、痒いところまで掃除が行き届いていた。
こうした現象は、中津国のそこらで立て続けに起こっていた。しかもそれらはちぐはぐな場所ではなく、傷口を縫うように一本の旅路で繋ぎ合わせることが出来た。
白下駄を吐いた旅人は、もちろん旅人などではなかった。
「……やはり、“カラス”か」
折笠をくしゃりと掴んで脱ぎ、結わえていた長髪を振り解くと、不満げに呟いた。
村の中央付近には、その前途を指し示すように態とらしい足跡が付けられている。古びた地図を開いて確認してみると、その先にはひと山越えると村が一つだけあった。どうやら憎むべきカラスはその村に向かっているようだった。
白髪の人影は足跡に近寄って屈むと、その表面に触れた。
「なるほど、まだ新しい。遠くまでは行っておらんな」
再び傘を被って立ち上がると、男は目を薄く見開いて眉根を寄せる。
「喜べカラス……もうすぐ白鷺が、貴様を死に至らしめる」
男――白鷺は殺意のこもった眼で足跡を睨み付けた。
†
一方烏丸は、行水どころか着たきり雀で一夜を明かそうと、北山を少し越えたところに腰を落ち着けていた。地図と磁石があろうと、辺り全てが似たような景色で迷い込んで仕舞いそうな中、烏丸はただ真っ直ぐに次の村へと着実に進んでいた。
少し開けた場所に枯れ木を集めて火を起こし、手頃な大きさの石を見つけて座った後、汲んできた湧き水を竹筒に注ぐ。毎日毎日繰り返している作業だった。
ところが今日は、烏丸にとっての異端者が一人だけいる。
「なーなー、わちき腹が減ったずぇ烏丸。飯はないんか」
襤褸切れを弄りながら焚火に当たる木葉。馴れ馴れしい餓鬼は三秒たりとも黙り込む瞬間がないので、烏丸はいつ焚火に投げ入れてやろうかと真面目に考えていた。
だが、烏丸が苛立ち、訝る理由はそれだけではない。
時間は少し前に遡る。
担いで運んでいるうちに目を覚ました木葉に、烏丸は言った。
『見ただろう、あれが<蝉>だ。お前もああなりたくなかったら、とっとと都にでも逃げるんだな。貴様のような餓鬼、生き延びることは出来るだろう』
しかし木葉は何があったのかと云った顔で、こう答えた。
『何の事かは知らんけど、烏丸。わちきは腹が減った』
予想だにしていなかった返答を聞いて驚く烏丸を、木葉はせせら笑うた。
次の言葉に、烏丸は更に驚くことになった。
『わちきはさあ、“金之助”と言うんじゃ。木葉が世話になったのう』
木葉――いや金之助は、自分が木葉の別の人格だと答えた。
話によると「木葉」には全部で四つの人格があるらしく、普段は「木葉」の人格が表面化しているということだった。
ところがその主人格、「木葉」が突然内面に引き篭ってしまい、姿を見せなくなって仕舞ったらしい。何でも、世にも恐ろしい物を見て、暫くは出て来られないほど強い精神障害に陥っているとの事だった。
『それが……<蝉>だってことか』
『わちきは中から見てただけじゃけえよう分からんが、まあそういう事やね』
金之助は胡坐をかいて、暢気な顔で答えた。「木葉」が引きこもってしまうことは滅多にないらしいが、もしものために「木葉」がいなくなった時は代わりに「金之助」が代わりに人格として表に現れる、と人格の間で取り決めが行われていたというわけだった。
なまじに信じ難い、確証の無い理由付けであったが、烏丸は不承不承納得した。
「ほいほーい、早く飯を食わせろやーい」
そして今、木葉だった少年は金之助として、晩御飯を催促するように木の枝で石を叩いている。風貌は一切変わっていないが、若干の機微の変化はあるようで、木葉よりもどこか子供ぶっているように見え、更にその奥に狡猾さが見え隠れしているのを、烏丸は感じ取っていた。
「……飯なら手前で獲ってこい。俺は必要ない」
「そんな事言わずにさあ、この通りでえ」
金之助はにやけた面で胡麻を擂っているが、烏丸は返答の余地を見せない。
「けっ、なんでえなんでえケチ! 言われなくとも自分で獲ってくるわいの!」
痺れを切らした金之助は、悪態をつきながら舌を出し、茂みの中へと走り去って行った。
金之助が動いたことで山の中に風が生まれ、やがてまた沈黙が落ちる。
夜半を過ぎた山中に生物の音は殆どせず、自身の脈動音がいやにはっきりと聞こえる。
烏丸は土を払って立ち上がり、茫とした視線で夜闇をなぞる。途端音を立てて抗議する腹部を触りながら、烏丸は欠伸交じりにぼやいた。
「とは言え、腹は減る。あの程度じゃまるで満足できんからな」
足先で焚き火に土をかけ、烏丸を夜の空気が包む。纏うもの全てを黒色で統一した烏丸の身体は、瞬く間に闇の中へ溶け込んでいった。普通の生き物であれば手探りでしか進めぬ程の暗がりであったが、烏丸は特に不自由することも無く己の荷物を抱えた。
(あの小僧……金之助。恐らく俺の後を追って来るだろう)
烏丸は遥か後方の気配を感じ取りながら、目的の場所へと歩み進む。踏み分ける枯葉の叫び声が、烏丸には余さず届いていた。
このカラスは聴覚が他者より卓越している。
自分の足音と、それと百メートルほど距離を置いて後を付ける金之助。
そして更にその後ろ、“異端”の存在。木葉、金之助以外に烏丸を追っている者の音が微かに聞こえた。金属を擦り合わせるような音であった。
「なるほど、白か」
くつくつと嗤い、呟く。
「奴も暇な生物だ。こんな旅烏追い回すより、成すべき事が他にあろうて」
異端の正体を、烏丸は早々に見抜いていた。木葉と出会うより以前から、それが自分を付け回している事も既知であった。そして奴の狙いも、大体は分かっていた。
「“白鷺”――――懲りない奴よ」
後ろをちらと振り向く、烏丸。その名を呼ぶだけで、今にも飛び掛って来そうであった。
烏丸は、関係の無い他人の名は忘れる性質。覚えておく必要が無いという言い分よりも、記憶に留める価値が無いと言った様相である。殺した者や自分より弱き者には興味がまるで無く、権利や力の強き者とは関わりを持とうとしなかった。
そんな排他的な烏が、名前を記憶し、厭うどころか僅かに興味すら覚える生物。
その昔烏丸と、幾度と無く退治してきたただ一人の男。
白鷺は、烏丸と同じ一族の生まれであった。
その文字通り、立ち去る者はきちんと後始末をしておけという意味であるが、別の意味で烏の場合はその限りでないようだった。
湿ってしまった土を、白い下駄が踏みしめる。
烏丸が二度訪れた町に降り立ったのは、折笠を被った旅人風貌であった。しかし顔は切れ長な目を白髪で覆い、身体は小奇麗な紺の男着物を着こなしており、とても三千里の旅を越えた旅人の容姿には見えなかった。
旅人は歩きつつ右へ左へに視線を遣り、生存者の確認を村中歩きながら行った。しかし村には人間はおろか鳥や野犬さえも居らず、生ける者の気配はしんとしたまま静まり返っていた。数か月前から<蝉>の影響で増加傾向にある、死村(しぞん)である。
こうした村は往々にして鯉すら住めぬ環境と化し、歴史上から抹消され、いずれは元々木々が栄えていた場所として後世に伝えられてゆくのである。
しかし、この場合は少々訳が違った。
通常死村と云うものは樹も土も空気も朽ち果てて、侵入するもの全てを拒む限りなく暗黒に近い霧で覆われ、その存在すら確認できるほど荒廃するものなのだが、旅人が後を辿って着いた村はその点で異常であった。
簡潔に言えば、そこが村であるかどうかも疑わしかった。
もう少し掻い摘んで言えば、今そこに在る家屋に人が住んでいた痕跡などなかった。
明確に言うならば、そこは村でなく、ただの廃屋が並ぶ空間と認識できたのだ。
かつて腐葉土に近い色の土が広がっていたであろう地面は、雪化粧のように白い。民家の中に生活の色はなく、座布団がきれいに並べられたまま居座っている。ここに新たに人が住むことは出来ようが、今までそこに人が住んでいただろうかと訊かれれば、百人が百人首を横に振るほど、小奇麗で、痒いところまで掃除が行き届いていた。
こうした現象は、中津国のそこらで立て続けに起こっていた。しかもそれらはちぐはぐな場所ではなく、傷口を縫うように一本の旅路で繋ぎ合わせることが出来た。
白下駄を吐いた旅人は、もちろん旅人などではなかった。
「……やはり、“カラス”か」
折笠をくしゃりと掴んで脱ぎ、結わえていた長髪を振り解くと、不満げに呟いた。
村の中央付近には、その前途を指し示すように態とらしい足跡が付けられている。古びた地図を開いて確認してみると、その先にはひと山越えると村が一つだけあった。どうやら憎むべきカラスはその村に向かっているようだった。
白髪の人影は足跡に近寄って屈むと、その表面に触れた。
「なるほど、まだ新しい。遠くまでは行っておらんな」
再び傘を被って立ち上がると、男は目を薄く見開いて眉根を寄せる。
「喜べカラス……もうすぐ白鷺が、貴様を死に至らしめる」
男――白鷺は殺意のこもった眼で足跡を睨み付けた。
†
一方烏丸は、行水どころか着たきり雀で一夜を明かそうと、北山を少し越えたところに腰を落ち着けていた。地図と磁石があろうと、辺り全てが似たような景色で迷い込んで仕舞いそうな中、烏丸はただ真っ直ぐに次の村へと着実に進んでいた。
少し開けた場所に枯れ木を集めて火を起こし、手頃な大きさの石を見つけて座った後、汲んできた湧き水を竹筒に注ぐ。毎日毎日繰り返している作業だった。
ところが今日は、烏丸にとっての異端者が一人だけいる。
「なーなー、わちき腹が減ったずぇ烏丸。飯はないんか」
襤褸切れを弄りながら焚火に当たる木葉。馴れ馴れしい餓鬼は三秒たりとも黙り込む瞬間がないので、烏丸はいつ焚火に投げ入れてやろうかと真面目に考えていた。
だが、烏丸が苛立ち、訝る理由はそれだけではない。
時間は少し前に遡る。
担いで運んでいるうちに目を覚ました木葉に、烏丸は言った。
『見ただろう、あれが<蝉>だ。お前もああなりたくなかったら、とっとと都にでも逃げるんだな。貴様のような餓鬼、生き延びることは出来るだろう』
しかし木葉は何があったのかと云った顔で、こう答えた。
『何の事かは知らんけど、烏丸。わちきは腹が減った』
予想だにしていなかった返答を聞いて驚く烏丸を、木葉はせせら笑うた。
次の言葉に、烏丸は更に驚くことになった。
『わちきはさあ、“金之助”と言うんじゃ。木葉が世話になったのう』
木葉――いや金之助は、自分が木葉の別の人格だと答えた。
話によると「木葉」には全部で四つの人格があるらしく、普段は「木葉」の人格が表面化しているということだった。
ところがその主人格、「木葉」が突然内面に引き篭ってしまい、姿を見せなくなって仕舞ったらしい。何でも、世にも恐ろしい物を見て、暫くは出て来られないほど強い精神障害に陥っているとの事だった。
『それが……<蝉>だってことか』
『わちきは中から見てただけじゃけえよう分からんが、まあそういう事やね』
金之助は胡坐をかいて、暢気な顔で答えた。「木葉」が引きこもってしまうことは滅多にないらしいが、もしものために「木葉」がいなくなった時は代わりに「金之助」が代わりに人格として表に現れる、と人格の間で取り決めが行われていたというわけだった。
なまじに信じ難い、確証の無い理由付けであったが、烏丸は不承不承納得した。
「ほいほーい、早く飯を食わせろやーい」
そして今、木葉だった少年は金之助として、晩御飯を催促するように木の枝で石を叩いている。風貌は一切変わっていないが、若干の機微の変化はあるようで、木葉よりもどこか子供ぶっているように見え、更にその奥に狡猾さが見え隠れしているのを、烏丸は感じ取っていた。
「……飯なら手前で獲ってこい。俺は必要ない」
「そんな事言わずにさあ、この通りでえ」
金之助はにやけた面で胡麻を擂っているが、烏丸は返答の余地を見せない。
「けっ、なんでえなんでえケチ! 言われなくとも自分で獲ってくるわいの!」
痺れを切らした金之助は、悪態をつきながら舌を出し、茂みの中へと走り去って行った。
金之助が動いたことで山の中に風が生まれ、やがてまた沈黙が落ちる。
夜半を過ぎた山中に生物の音は殆どせず、自身の脈動音がいやにはっきりと聞こえる。
烏丸は土を払って立ち上がり、茫とした視線で夜闇をなぞる。途端音を立てて抗議する腹部を触りながら、烏丸は欠伸交じりにぼやいた。
「とは言え、腹は減る。あの程度じゃまるで満足できんからな」
足先で焚き火に土をかけ、烏丸を夜の空気が包む。纏うもの全てを黒色で統一した烏丸の身体は、瞬く間に闇の中へ溶け込んでいった。普通の生き物であれば手探りでしか進めぬ程の暗がりであったが、烏丸は特に不自由することも無く己の荷物を抱えた。
(あの小僧……金之助。恐らく俺の後を追って来るだろう)
烏丸は遥か後方の気配を感じ取りながら、目的の場所へと歩み進む。踏み分ける枯葉の叫び声が、烏丸には余さず届いていた。
このカラスは聴覚が他者より卓越している。
自分の足音と、それと百メートルほど距離を置いて後を付ける金之助。
そして更にその後ろ、“異端”の存在。木葉、金之助以外に烏丸を追っている者の音が微かに聞こえた。金属を擦り合わせるような音であった。
「なるほど、白か」
くつくつと嗤い、呟く。
「奴も暇な生物だ。こんな旅烏追い回すより、成すべき事が他にあろうて」
異端の正体を、烏丸は早々に見抜いていた。木葉と出会うより以前から、それが自分を付け回している事も既知であった。そして奴の狙いも、大体は分かっていた。
「“白鷺”――――懲りない奴よ」
後ろをちらと振り向く、烏丸。その名を呼ぶだけで、今にも飛び掛って来そうであった。
烏丸は、関係の無い他人の名は忘れる性質。覚えておく必要が無いという言い分よりも、記憶に留める価値が無いと言った様相である。殺した者や自分より弱き者には興味がまるで無く、権利や力の強き者とは関わりを持とうとしなかった。
そんな排他的な烏が、名前を記憶し、厭うどころか僅かに興味すら覚える生物。
その昔烏丸と、幾度と無く退治してきたただ一人の男。
白鷺は、烏丸と同じ一族の生まれであった。
その一族が住まう村では、毎年二人の雄を決める祭りがあった。
一人は知識が豊富であり、博識な者に贈られる「智」の雄。もう一人が体術に長け、拳闘では負け知らずの者に贈られる「体」の雄であった。選ばれた双雄は村長の命を受け、一年の間国中を練り歩き、村の誇る「智」「体」を世に知らしめることを義務とされていた。
今年の「智」は、身体は痩せぎすなものの才色兼備である、白鷺が言い渡された。白鷺は村の誰もが目を見張るほどの逸材で、反対する者は誰もいなかった。
そして「体」は――――烏丸が選ばれた。
“反対出来る者は、誰もいなかった”。
「然りとても、白鷺は諦めることを知らぬ生き物だ。何度死の淵に追い遣ったことか」
気配の近づきを感じながら、烏はより一層嗤う。白鷺と烏丸が村を去ってからは、もうすぐ六ヶ月が経とうとしていた。その間、白鷺は烏丸の事を追い続けているのであった。
白鷺の目的は知れていた。知れているからこそ、烏丸には興味心が湧いた。
くすんだ嗤いの奥に、欲望が生まれ始めていた。
視界に、生活の灯が点し出される。目的の村が見えてきた。あと一分も歩けば門をくぐれそうな距離にまで詰めると、烏丸は足取りを止めた。
背後で静かに、さく、と枯葉を破る音が落ちる。それはもう気配でも何でもなく、烏に気付かれることも厭わないとばかりに肉迫している。
に、と烏の口角がつり上がる。
振り向かずとも、背中で白を纏った追手の存在が分かった。
「――――漸く捉えたぞ、カラス」
枯れ落ちたはずの木々の気配が、俄かにざわめく。
「今宵こそ我が白鷺が、貴様を冥界送りにしてみせる」
「ほう、言うではないか白鷺。俺を一度たりとも屠ったことのない者がよく壮語を吐く」
烏丸はゆっくりとした動きで、後ろを振り返る。
折笠を被った白髪の男は、怒りを孕んだ双眸を烏に向けていた。
「貴様ほどの腕前では、俺に傷をつける事すら叶わん。ましてや俺を殺すと来た。その骨ばった腕と懐に仕込んだ刀で、一体何が出来るという」
「貴様に敵わぬ事は、この白鷺がよく知っている」
懐から取り出した小刀を逆手に持ち、白鷺は尚も言葉を紡ぐ。
「だがそれでも貴様を討たんとする事こそが、我が行末に残された唯一つの道よ」
「解せんな。結末の分かりきった事に生命を注ぐなど、臓器の無駄働きだ」
「貴様には決して理解出来ぬ事だ」
白鷺は戦いの構えを取り、烏丸の喉元に狙いを定める。
目にも映らぬ速さで接近し、喉笛を切る。確実に仕留めるにはそれしか手段がなかった。
「俺が長きに渡って貴様を憎み、恨み、殺意の焔を宿した所以が分かるまい」
眼を鋭く細め、一言。
「根幹の理由は貴様にあるのだからな」
薄紅色の三日月が、雲間に隠れる。
低く冷たい白鷺の声が緊張の糸を引き攣らせるが、烏は変わらず不敵に嗤っていた。
「ははは、そうかそうか。貴様は“あの日”からその為だけに俺を追い続けているのだな。己の命を賭ける覚悟とは、その根性だけは見上げたものだ」
白鷺が頑として言葉を返さずとも、烏丸は箍が外れたように一人笑い声を上げた。
「そうかそうか、漸く腑に落ちた。確かに仁義を重んじる貴様であれば、当然の事か」
不意に笑いを止め、烏丸は過去を想起するように空を見上げる。
「もう半年になるな。貴様と俺が村を出てから……」
「そうだ、もう半年」
鷺の声が夜を奔る。
「雄の名を授けられ、明くる日に旅立とうかと言うその夜半――――」
紅く照らされた切っ先が、烏丸の首に突き刺さった。
「貴様は、村の者を皆殺しにしたのだ」
白鷺の瞳が憤怒で燃え上がり、
烏丸の瞳が狂喜で埋め尽くされた。
鋭利な小刀が突き刺さった首から、血にも似つかぬ黒色の液体が溢れ出した。堤防が決壊したその噴出は止まることを知らず、白鷺の躰や地面に降り注いだ。那由多の源泉を体内に持つかのように、烏丸の肉体からは液状化した影が噴き出し続けた。
刀を抜き、白鷺は数歩後ずさる。
烏丸は一度たりとも痛みを感じる素振りを見せずに、気の抜けた顔で嗤っている。
その光景を目の当たりにし、白鷺は今一度歯噛みした。
白鷺は智の雄で、烏丸は体の雄。頭脳では遥かに白鷺が勝っていたが、同じように戦いにおいては烏丸が優れていた。
だが烏丸の場合、武術が強い、剣術に長けている、などという事はなかった。
純粋な戦闘能力で言えば、戦いの修業を積んだ白鷺と烏丸ではほぼ互角。寧ろ白鷺が一歩先を行こうかと言う程、烏丸は戦闘に関して稀代の才を持つわけではなかった。
それでも烏丸が、体の雄を授けられた理由。
「――――良い刀捌きだ、常人なら恐らく避けられなかっただろう」
喉を掻っ切られながらも、大した問題ではないという風に烏は嗤う。
「だが、俺には効かん」
止めどなく流れ出していた黒流は急激に勢いが減衰し、終にはその傷口を瘡蓋のように閉じてしまった。足元に水溜りを作っていた黒の液体は、瞬きをする間に影へ溶けて行った。
もはや、今一度確認をする必要もない。
白鷺はこめかみに汗を流す。
烏丸は、不死身の生き物であった。
「さて、これは俺の予想だが、今のが貴様の最初で最後の攻撃手段だ。これ以上貴様に俺を殺す手立てはなければ、考え出す余裕もない」
瘡蓋を掻きながら、烏は言う。
「数える事……五十六回か? 貴様が俺を殺そうとした回数だ。長くの間俺は貴様の仕打ちに耐えてきたというわけだ。ここまで俺を殺そうとした者は、貴様が初めてだ」
落ち葉を踏みしめながら、烏丸は白鷺に近寄る。
脂汗を浮かべた白鷺は遮るように刀を構え、言い返す。
「……なぜ貴様が不死である理由は分からんが、恨みを晴らすには斯うするしか無くてな」
「普通の人間風情であれば当の昔に諦めているだろうに、白鷺。貴様だけは今でも俺を殺そうと算段を立てている。興味深い。実に、興味深い」
言葉を無視して、構えたままの刀に烏丸は掌を当てる。鋭く光る刃はいとも簡単に皮膚を切り裂いたが、そこからはただただ黒い雫が滴り落ちるだけであった。
「貴様の行為は無意味だが、その姿勢は興味深い。殺せるか? 貴様に俺を殺す事が出来るのか? 出来るのか?」
「五月蠅い! 其れが出来ていれば、今頃俺は」
「殺せるのか? 不死身である俺に死の恐怖を味あわせることが出来るのか? お前には? 可能なのか? 一縷でも望みは存在するのか?」
眼の奥が、底知れぬ願望で満たされる。
手を貫いた刀が胸に触れるほど、烏丸は白鷺に詰め寄った。黙り込んで歯を噛み締める白鷺を見て、烏丸は狂気を帯びた悦びを浮かべる。
「この世に俺を殺す方法があるのか。俺はただ、それが知りたいだけだ」
直後、烏丸の顔から感情が消え、手に刺さった刀を抜いた。
「何が何でも俺を殺そうとしていた貴様だ。それを知っているとばかり思っていたが、どうやら見当違いだったようだな。もう、お前に興味はない」
白鷺に背を向けると、明かりの点いた村の方へ、歩き出す。
闇に紛れて行く烏丸の後姿。それを霞んだ視界で見据えながら、白鷺は叫んだ。
「烏丸……、何故、なぜ貴様は俺を殺さん!!」
その声は、怒りとは別の感情を纏っていた。
「何故村の者を全員殺しておきながら、俺だけは生かしている!? 分からん、貴様の事が俺には理解出来ん!! なぜ俺を殺さんのだ!? 答えろ!! 烏丸!!」
目尻からは、月光に照らされた雫が流れ落ちていた。
烏丸は一瞬足を止めたが、そのまま歩き続けた。
「……貴様の命を獲るほど、無意味な行為はない」
僅かに愁いを帯びた表情で、烏丸は静かに言い残した。
「其れがたとえ、赤子の腕を捻るよりも簡単な事だとしてもだ」
一人は知識が豊富であり、博識な者に贈られる「智」の雄。もう一人が体術に長け、拳闘では負け知らずの者に贈られる「体」の雄であった。選ばれた双雄は村長の命を受け、一年の間国中を練り歩き、村の誇る「智」「体」を世に知らしめることを義務とされていた。
今年の「智」は、身体は痩せぎすなものの才色兼備である、白鷺が言い渡された。白鷺は村の誰もが目を見張るほどの逸材で、反対する者は誰もいなかった。
そして「体」は――――烏丸が選ばれた。
“反対出来る者は、誰もいなかった”。
「然りとても、白鷺は諦めることを知らぬ生き物だ。何度死の淵に追い遣ったことか」
気配の近づきを感じながら、烏はより一層嗤う。白鷺と烏丸が村を去ってからは、もうすぐ六ヶ月が経とうとしていた。その間、白鷺は烏丸の事を追い続けているのであった。
白鷺の目的は知れていた。知れているからこそ、烏丸には興味心が湧いた。
くすんだ嗤いの奥に、欲望が生まれ始めていた。
視界に、生活の灯が点し出される。目的の村が見えてきた。あと一分も歩けば門をくぐれそうな距離にまで詰めると、烏丸は足取りを止めた。
背後で静かに、さく、と枯葉を破る音が落ちる。それはもう気配でも何でもなく、烏に気付かれることも厭わないとばかりに肉迫している。
に、と烏の口角がつり上がる。
振り向かずとも、背中で白を纏った追手の存在が分かった。
「――――漸く捉えたぞ、カラス」
枯れ落ちたはずの木々の気配が、俄かにざわめく。
「今宵こそ我が白鷺が、貴様を冥界送りにしてみせる」
「ほう、言うではないか白鷺。俺を一度たりとも屠ったことのない者がよく壮語を吐く」
烏丸はゆっくりとした動きで、後ろを振り返る。
折笠を被った白髪の男は、怒りを孕んだ双眸を烏に向けていた。
「貴様ほどの腕前では、俺に傷をつける事すら叶わん。ましてや俺を殺すと来た。その骨ばった腕と懐に仕込んだ刀で、一体何が出来るという」
「貴様に敵わぬ事は、この白鷺がよく知っている」
懐から取り出した小刀を逆手に持ち、白鷺は尚も言葉を紡ぐ。
「だがそれでも貴様を討たんとする事こそが、我が行末に残された唯一つの道よ」
「解せんな。結末の分かりきった事に生命を注ぐなど、臓器の無駄働きだ」
「貴様には決して理解出来ぬ事だ」
白鷺は戦いの構えを取り、烏丸の喉元に狙いを定める。
目にも映らぬ速さで接近し、喉笛を切る。確実に仕留めるにはそれしか手段がなかった。
「俺が長きに渡って貴様を憎み、恨み、殺意の焔を宿した所以が分かるまい」
眼を鋭く細め、一言。
「根幹の理由は貴様にあるのだからな」
薄紅色の三日月が、雲間に隠れる。
低く冷たい白鷺の声が緊張の糸を引き攣らせるが、烏は変わらず不敵に嗤っていた。
「ははは、そうかそうか。貴様は“あの日”からその為だけに俺を追い続けているのだな。己の命を賭ける覚悟とは、その根性だけは見上げたものだ」
白鷺が頑として言葉を返さずとも、烏丸は箍が外れたように一人笑い声を上げた。
「そうかそうか、漸く腑に落ちた。確かに仁義を重んじる貴様であれば、当然の事か」
不意に笑いを止め、烏丸は過去を想起するように空を見上げる。
「もう半年になるな。貴様と俺が村を出てから……」
「そうだ、もう半年」
鷺の声が夜を奔る。
「雄の名を授けられ、明くる日に旅立とうかと言うその夜半――――」
紅く照らされた切っ先が、烏丸の首に突き刺さった。
「貴様は、村の者を皆殺しにしたのだ」
白鷺の瞳が憤怒で燃え上がり、
烏丸の瞳が狂喜で埋め尽くされた。
鋭利な小刀が突き刺さった首から、血にも似つかぬ黒色の液体が溢れ出した。堤防が決壊したその噴出は止まることを知らず、白鷺の躰や地面に降り注いだ。那由多の源泉を体内に持つかのように、烏丸の肉体からは液状化した影が噴き出し続けた。
刀を抜き、白鷺は数歩後ずさる。
烏丸は一度たりとも痛みを感じる素振りを見せずに、気の抜けた顔で嗤っている。
その光景を目の当たりにし、白鷺は今一度歯噛みした。
白鷺は智の雄で、烏丸は体の雄。頭脳では遥かに白鷺が勝っていたが、同じように戦いにおいては烏丸が優れていた。
だが烏丸の場合、武術が強い、剣術に長けている、などという事はなかった。
純粋な戦闘能力で言えば、戦いの修業を積んだ白鷺と烏丸ではほぼ互角。寧ろ白鷺が一歩先を行こうかと言う程、烏丸は戦闘に関して稀代の才を持つわけではなかった。
それでも烏丸が、体の雄を授けられた理由。
「――――良い刀捌きだ、常人なら恐らく避けられなかっただろう」
喉を掻っ切られながらも、大した問題ではないという風に烏は嗤う。
「だが、俺には効かん」
止めどなく流れ出していた黒流は急激に勢いが減衰し、終にはその傷口を瘡蓋のように閉じてしまった。足元に水溜りを作っていた黒の液体は、瞬きをする間に影へ溶けて行った。
もはや、今一度確認をする必要もない。
白鷺はこめかみに汗を流す。
烏丸は、不死身の生き物であった。
「さて、これは俺の予想だが、今のが貴様の最初で最後の攻撃手段だ。これ以上貴様に俺を殺す手立てはなければ、考え出す余裕もない」
瘡蓋を掻きながら、烏は言う。
「数える事……五十六回か? 貴様が俺を殺そうとした回数だ。長くの間俺は貴様の仕打ちに耐えてきたというわけだ。ここまで俺を殺そうとした者は、貴様が初めてだ」
落ち葉を踏みしめながら、烏丸は白鷺に近寄る。
脂汗を浮かべた白鷺は遮るように刀を構え、言い返す。
「……なぜ貴様が不死である理由は分からんが、恨みを晴らすには斯うするしか無くてな」
「普通の人間風情であれば当の昔に諦めているだろうに、白鷺。貴様だけは今でも俺を殺そうと算段を立てている。興味深い。実に、興味深い」
言葉を無視して、構えたままの刀に烏丸は掌を当てる。鋭く光る刃はいとも簡単に皮膚を切り裂いたが、そこからはただただ黒い雫が滴り落ちるだけであった。
「貴様の行為は無意味だが、その姿勢は興味深い。殺せるか? 貴様に俺を殺す事が出来るのか? 出来るのか?」
「五月蠅い! 其れが出来ていれば、今頃俺は」
「殺せるのか? 不死身である俺に死の恐怖を味あわせることが出来るのか? お前には? 可能なのか? 一縷でも望みは存在するのか?」
眼の奥が、底知れぬ願望で満たされる。
手を貫いた刀が胸に触れるほど、烏丸は白鷺に詰め寄った。黙り込んで歯を噛み締める白鷺を見て、烏丸は狂気を帯びた悦びを浮かべる。
「この世に俺を殺す方法があるのか。俺はただ、それが知りたいだけだ」
直後、烏丸の顔から感情が消え、手に刺さった刀を抜いた。
「何が何でも俺を殺そうとしていた貴様だ。それを知っているとばかり思っていたが、どうやら見当違いだったようだな。もう、お前に興味はない」
白鷺に背を向けると、明かりの点いた村の方へ、歩き出す。
闇に紛れて行く烏丸の後姿。それを霞んだ視界で見据えながら、白鷺は叫んだ。
「烏丸……、何故、なぜ貴様は俺を殺さん!!」
その声は、怒りとは別の感情を纏っていた。
「何故村の者を全員殺しておきながら、俺だけは生かしている!? 分からん、貴様の事が俺には理解出来ん!! なぜ俺を殺さんのだ!? 答えろ!! 烏丸!!」
目尻からは、月光に照らされた雫が流れ落ちていた。
烏丸は一瞬足を止めたが、そのまま歩き続けた。
「……貴様の命を獲るほど、無意味な行為はない」
僅かに愁いを帯びた表情で、烏丸は静かに言い残した。
「其れがたとえ、赤子の腕を捻るよりも簡単な事だとしてもだ」