第一章
〈一〉
カーテンの隙間から入る日差しで目を覚ます。どうやら今日も晴れているようだ。僕はゆっくりと体を起こし、目覚まし時計を片手に取り現在時刻を確かめる。
時刻は十時四十ニ分。電波デジタル時計だから間違っているはずがない。
「―――――ッッ!」
途端に体中から冷や汗が噴き出してきた。本日は火曜日。当然学校は…あるのだった。
「一人暮らし始めてから初の寝坊だよ!」
悲痛な気分を声に出し、服をテキトーに選び慌てて着替えを始める。
この春から僕は一人暮らしをしている。理由はまぁ単純で凡庸、通うことになった大学が元々住んでいたところから通える場所ではなかったというだけだ。
私立四ツ葉台大学。それがこの春から僕が通っている大学の名称だ。地方にある(どのくらい地方って、大学以外に三階建て以上の建物が半径十キロ圏内にないくらい)大学だが、高い学力を誇り、その人気も折り紙つきの有名私立大学だ。と、言えばこの僕はかなりの学力を誇るのだろうと思われるだろうが、そんなことはない。断じてない。冗談抜きでない。なんせこの学校に入学する学生の平均偏差値に十以上も僕は足りていないのだから。そんな僕がこの大学に入学できたのにはそれ相応の理由があるのだが、その話はとりあえず置いておこう。御存じの通り、僕は今とても急いでいるのだ。
人間焦りが頂点に達すると、余計なことを考えてしまうものなのだな、と半ば諦めの気持ちを抱き考えながら僕は部屋のドアを開けた。
この下宿は大学まで歩いて五分というかなりの好位置に建っている(それでも人気がないのは建物のボロさがネックになっているのだろう)。小走りでいけばニ、三分だ。僕は特に問題なく、もちろん寝坊したという事実は除いてだが、学校に到着した。
「ん?何かおかしいな………。」
大学のキャンパス内にほとんど人がいない。いくら授業が行われている時間だといってもこの少なさは異常である。
まぁ当然だった。今日からゴールデンウィークで講義は休みなのだから。今時というかいつ時でもこんな間違いをおかす愚か者は現実世界に僕一人しかいないだろう。
………ただのバカだった。
「………それで急いで大学まで来ちゃったと。バカだねー、愛しいくらいのバカだねー!」
「バカバカ言わないでくださいよ。」
と言いたいところだがその通りです。
カッカッカッ、と寺島先輩は高らかに笑った。寺島美々(びび)。僕が所属する同好会の一つ上、つまり二年生の先輩だ。
「いや、分からんでもないのだけれどね。私も高校生の頃日曜日に学校に登校してしまった経験を持つからね。」
「ベタですね。」
「夏休み真っ只中の日曜、だけどね。」
「あんたの方が重傷じゃねぇか。」
全然ベタじゃなかった。何が彼女を駆り立て学校に登校させたのだろうか。夏休み終わりを一日間違えて登校、または休むとかならまだしも………。
………いや、どう考えてもどれもこれも大差ない。五十歩百歩だった。
「しかし悪いね、サークル室の掃除手伝わせちゃって。」
いえ、構いませんよ。と僕は短く答える。僕たちは今かなり汚くなったサークル室を掃除しているのだった。
「いやぁ、いくら掃除してもすぐ汚くなっちゃうんだよね。活動内容のせいなのかな。」
と寺島先輩は釘バットをバットに戻す作業に勤しみながら(あえて何に使ったかは追及しない)言う。
アクティブ同好会、というのがこのサークルの名だ。活動内容はなんでも。とにかく面白そうなこと、楽しそうなことはなんでもやる、というのがこのサークルだった。創立者は現四年生らしいのだが、就職活動に忙しいらしく僕は未だにその人と面識がない。五月末に新入生歓迎会を実施するそうなので、もしかしたらそこで会えるかもしれないということだった。
「よくこんなわけのわからないサークルが認可されましたね。」
「そこはほら、元会長の人と柄で………って会ったことないのか。」
元会長とはその四年生のことだ。
「私は好きだけどね。楽しいことしかやりたくない私にとっては最高の居場所だね。」
「楽しいことだけやって生きていければ人生楽なんですけどね。」
人生は楽しいことばかりでは………ない。
「う~む。君はどうにもネガティブな男の子だね。ポジティブの塊な私でもついついブルーな気持ちになってしまうじゃないか。」
そんな君も愛しいくらいに好きだけどね。と冗談交じりに寺島先輩は笑った。
サークル室掃除は結局大掃除にまで発展しようとしていた。特に予定があるわけじゃないし、せっかくだから。と寺島先輩は言う。僕も特に予定があるわけではないので(なにせ学校があると思っていたくらいだ。予定など入れているわけがない)それに従うことにした。
「そうなるとあの娘がいると便利………もとい助かるね。」
「あの娘………ああ、玖音(くいん)の奴ですか。アイツもどうせ暇でしょうし呼びましょうか?」
「ああ、頼むよ。彼女が来れば場も明るくなるってもんだ。」
………なんかすごく申し訳ない気持ちになった。
僕はポケットから携帯を取り出し、アドレス帳から『井崎玖音(いのさきくいん)』の名を選び電話をかけた。
「もっしもーし!玖音ちゃんだよ!あなたはだーれ?」
電話が繋がった、と同時に玖音の元気な、バカみたいに元気な声が耳元で響く。僕は音量を三段階下げた。
「お早う玖音。僕だよ。」
「ややっ!その声はゆっくんだ!」
ゆっくんてのは僕のことである。
「朝からゆっくんが電話してきてくれるなんて、今日は最高にハッピーな一日になりそうだよ!」
「そりゃ良かったな。」
もう時刻は朝とは言えないよな、と思いつつそこには突っ込まない。
「ところでさ、今サークル室に寺島先輩といるんだけれど………」
「ゆっくん浮気か!」
………みなまで聞けよ。そして僕達は別に恋人同士ではないだろ。
「なんて冗談冗談!アタイはゆっくんのこと信じてるもんね!」
なんというか、めでたい奴である。
「………今寺島先輩とサークル室の掃除をしててな。来て手伝ってくれると助かるんだけど。」
「あいあいさー!光の速さで駆けつけるよ!」
ブチッ、ツー、ツー。
………切られた。
「カッカッカッ。いつも通り愛しいくらいに元気だね、彼女は。」
声がでかすぎて会話は全部聞こえていたらしい。
「語尾に『!』が絶えませんからね、アイツは。愉快な奴ですよ。」
「君は彼女に少し元気を分けてもらうべきだな。」
「ですかね………。」
「そうだよ。まぁでも元気な彼女と暗い君ってコンビは釣り合いが取れていていいコンビなのかもしれないな。」
暗い、と普通に言われてしまった。
「ってかさ、君と彼女は本当に恋人同士じゃないのかい?私が見る限りではとても仲が良さそうに見えるのだけれど。」
「僕が暗いってのは否定しませんが、そっちの方は否定しますよ。」
僕は否定する。
「僕とアイツは恋人なんかじゃないです。なんていうか………有体に言って腐れ縁ですね。」
腐れ縁、とは少し違う気がしたがまぁそんな違いはどちらでもいいだろう。
「まぁ君がそう言うならそうなのだろう。面白みがない話だけどね。」
寺島先輩は少しがっかりしたような表情で言った。どうやら僕には寺島先輩を喜ばせてあげることは難しいらしい。非常に残念である。
そんなことを考えていたらサークル室のドアが勢いよく、バンッ、という音を立てて開いた。そこには、どうやら走ってきたらしい、息を切らして立っている井崎玖音の姿があった。
「お二人ともおっはよー!」
玖音の第一声は朝の挨拶だった。
「やあ玖音ちゃん、おはよう。」
寺島先輩は挨拶を返す。僕もそれに続いて「おはよう」と返した。
もう十二時近いのだけれどね。
「ゆっくんひどいんだよ!学校に行くならアタイも誘ってくれれば良かったのに!黙って行っちゃうなんて浮気と勘違いされてもしょうがないとアタイは思うんだよ!」
まだ言ってんのかこいつ。
「ああ、それについては理由があるみたいだよ玖音ちゃん。」
寺島先輩は僕がなぜ学校に来たのかを話そうとする。
「先輩、その話は言わなくていいです。」
笑われ、からかわれるに決まっていた。
「そうかい、傑作だと思うのだが。まぁ話して欲しくないというなら言うのはよしておこう。」
寺島先輩は素直に言うのをやめてくれた。
「えー!何々?教えてよー!」
「玖音は知らなくていい話だよ。それよりほら、掃除を始めようじゃないか。」
玖音は不満そうにしているが、諦めてもらおう。
「それじゃ玖音。まず掃き掃除したいからそこのソファどかしてくれるか?」
「あいあいさー!」
玖音は了解すると、ソファをがしっと両手で持ち、軽々と持ち上げた。
一人で。
「いやぁ、いつ見ても彼女はすっごいねぇ。」
寺島先輩は微笑しながらそんな玖音の姿を見て言った。
玖音の体格は特別大きいわけではない、というよりむしろ特別小さい、と言える。僕も男にしては小柄なほうだがそれよりもさらに小柄な少女だ。そもそも玖音がどうという以前にそのソファは通常ならば人一人で持ち運ぶにはいくらか重すぎるものである。しかし、玖音はそんなものをいとも簡単にサークル室の外へと運び出したのだった。
ここに、僕みたいな、僕たちみたいな学力平凡………学力に乏しい学生がこの大学に入学できた理由がある。
特異体質、特殊能力、超能力。そんな異質で異常で異端な異能を、そんな夢みたいな能力を、僕たちは有しているのである。世間では『天授能』と呼ばれている。生まれた時から持っている人もいれば、ある日突然発現する人もいる。昔は天授能を持つ人はとてつもなく少なかったらしいが、僕が物心ついたときには既にさほど珍しくはなくなっていた。
四ツ葉台大学は、その天授能を研究したり、天授能を持つ子供を育成したりする機関を持っているのだった。天授能力者育成学科。この学科には天授能を持っていればどんな子供でも大抵は入学することが可能だ。そういうわけで、僕や玖音はこの名門校に通っているというわけだった。
玖音の持つ天授能は所謂『怪力』である。この少女は本気を出せば一トントラックでも投げ飛ばす力を持っている。力を制御できていなかった頃は『暴力姫』などと呼ばれていたが、コントロールできるようになってからは『怪力姫』という呼称がついた。
そんな怪力姫はこういった場面では特に役に立つ。重たくて掃除に邪魔なものはすべて玖音が部屋の外に出してくれた。
「アタイにかかればざっとこんなもんよ!」
玖音は誇らしげに腕を組んで言う。
「本当にすごいなぁ。私も天授能あったら良かったのだけれど。」
寺島先輩は箒で床を掃きながら、羨ましそうに言った。
「天授能なんてあったらあったで中々厄介なものなんですけどね。」
「なんだい君、経験がありそうな言い方をするじゃないか。」
「………まぁそれなりに。」
僕は過去を振り返りながら言った。あれもこれもどれもみんなすべからく厄介な出来事だった。
「僕は天授能ではなくて、天与罰だ、と言い張っていた時期すらありましたからね。」
「どんだけ屈折した人生送ってきたんだ君。」
少し心配された。
「まぁなんにせよ、こうして掃除をするのに便利、くらいの良さがあるんで別にいいんですけど。」
「君にしては珍しくポジティブでいいじゃないか。」
カッカッカッ。寺島先輩は笑った。
その後、問題なく掃除を終わらせ、先輩の提案で僕達三人は近くのファミリーレストランで昼食を共にした。まぁ玖音は一人だけデザートをたっぷり食べただけだったが。
「それじゃあ私はバイトもあるし、そろそろ帰ることにするわ。」
食べ終えた後、しばらく雑談をして一区切りがついた頃、寺島先輩が言った。
「そうですか。それじゃそろそろ帰るとしますか。」
僕たちは席を立ち会計を済ませ(各々自分が食べた分をそのまま払った。おごりなんてさせられない)、寺島先輩とはそこで別れることになった。
「今日はありがとう。それじゃ、お二人さんまた今度ね。」
「はい。また今度。」
「美々ちゃんばいばーい!」
僕は、コイツ、と先輩への礼儀がなっていない玖音を軽く小突いてたしなめる。
そんな僕らを見てカッカッカッと笑い、寺島先輩は手を振り帰って行った。
「ふう、一段落だな。それじゃ僕らも特にやることないし帰るとするか?」
僕が玖音に問うと、玖音は「えーっ!」と不満そうな声をあげた。
「せっかく会ったんだし一緒に遊ぼうよ!wiiやろうぜwii!」
まぁそれもいいか、と僕は同意し、玖音の家にお邪魔することにした。まぁ三日に一回は確実に行ってるんだけど。
そんな感じで時刻は午後六時くらいまでゲームに付き合わされることになった(格ゲーだったのだが三十六勝無敗)。もう一回もう一回とせがむ玖音だったが、流石に腹も減ったので 夕飯にしようということになった。
いや、先ほど食事の話をしたばかりなのだけれど、こちらの世界では時間は空腹になるくらい経っているのだ。
基本的に、否絶対的に、僕が遅くまで訪ねた時は僕が夕飯を作る。といっても男が作る料理である。そんな大したものじゃないけれど。
「えへへー!こうしてるとアタイ達恋人同士みたいだね!」
「料理してるのがお前だったら完璧なんだがね。」
「ゆっくん!ちゅーしようぜ!ちゅー!」
「断る。」
何故そういう話になるのか理解不能だった。
「つれないなー。」
実にくだらない会話である。
結局その日は夜の十一時くらいまで玖音の部屋にて時間を過ごした。帰り際、
「別に泊っていってもいいんだよ?」
といつも通りに玖音は言ってきたが僕はそれをいつも通り丁重にお断りした。もちろん、恋人でもない女子の家にお泊りするなんてはしたない行為はできないということもあるし、実は玖音のアパートは僕の下宿の隣に建っている、という、帰るのに全く不都合ないという理由もあった。
「ねぇねぇ!明日もまた遊ぼうよ!」
玖音は無邪気な顔で僕を誘う。
「ああ、別に構わないよ。」
この提案は、僕は断らなかった。
「やった!じゃあまた明日だね!お休みゆっくん!」
「ああ、お休み玖音。」
そう挨拶を交わし、僕は自分の部屋へと帰り普通に、ごくごく平和にゴールデンウィーク初日は幕を閉じた。
………事件はゴールデンウィーク二日目に起きたのだった。