空はいつもと変わらない晴天だった。白濁の煙のような塊が隅々に詰め込まれ、薄暗い街に点々と灯りが灯るのがここからだとよく見えた。
「雨が降るかもしれないよ」
隣で懐中電灯を手にした海瀬はつまらなそうにそう呟いた。僕は再度よく晴れた鈍色の空を見上げる。
「どちらにせよ気分が優れないのはいつものことさ。雨なんて降ったら屋根のあるところへ行かなくてはならないじゃないか。四日ぶりに歩き回れる日が来たのだから、一日くらい付き合ってくれよ」
それでも海瀬は不満らしく、足元の小石を蹴り飛ばすと頬を膨れさせる。これ以上言ったとして彼は何も言わないだろう。否定もしなければ肯定もしない。怒ると必ずそうなるようにできているのだ。全く以て面倒な奴だと僕は首を傾げ、それから手元の懐中電灯で目の前の横穴を照らした。
僕らが横に並んで入っても多分余裕があるほどの大きさだ。雨風に打たれたことで削れてしまったのか、穴を形成する周囲の岩は鋭くて、触れれば傷がついてしまうかもしれない。
その入口を塞ぐようにして鎖が二つ左右から交差するようにして繋ぎとめられており、その中央部に黄色い看板がぶら下げられている。どれも幾らかの年代を過ぎ去ってきたようで、すっかり錆に侵食され触れただけでほろりと崩れ落ちてしまいそうだった。
「本当に、入るの?」
「当たり前さ、その為にここに来たんだ」
「ねえ、まだ引き返せると思わない?」
「何故そうまでして戻りたがるんだい、外に出たいとは思わないのか?」
その言葉で海瀬は黙りこくってしまった。街を抜けてから山頂のこの封鎖された穴までの道のりの間、しきりに周囲に気を張っていたのを僕は知っている。自分が犯している行為に対して背徳感が強いのだろう。元々そう教え込まれてきたのだから、彼が正しい。ここは行ってはいけない。必要以上のものをこの視界に入れなければ貴方がたには全ての幸福が約束される。そう口を酸っぱくして言われてきたことを信じ込み、そうして結果目先の安全に捉われて何にも興味を示さなくなってしまう。
あの街はそんな悦楽と怠惰に身を染めた連中の集まりだ。
「それじゃあ、入ろう」
鎖は触れると、やはりいともたやすく砕け散り、ざらりとしたどす黒い橙の欠片が一つ二つ、三つと手のひらから零れ落ちていく。鎖を触った手の平を覗き込んで見ると、橙の線が横に一本敷かれていた。上着の端で何度か錆の跡を擦ってみたが、それは依然としてそこにどっかりと座り込み、まるで禁忌に触れたことを訴えるように腕を組んでこちらを見つめている。
うるさい、と僕は固く右手を握りしめ、もう片方の鎖を跨ぐと後を振り返り、海瀬に手を差し伸べる。彼は相変わらず怯え身体を震わせ、何度も何度ももと来た道に視線を巡らせている。そんな彼の手強引に掴むと、穴の中へと無理やり引きずり込んだ。
なんとなく、誰も来ないという確信があった。彼らは自らの幸福がすべてであり、他人を気にする余裕が無いほどに自分を愛している。つまりのところ隔絶されているのだ。透明なしきりの中に区切られて生活することで、誰にも触れられない。誰にも侵されない。そんな生活を続けている。
穴の中はゆるやかな下り坂になっていた。この先がどうなっているかは分らないが、あの街で唯一の出口はここだけと聞いた。多分、山頂から麓までつながっているのではないだろうか。周囲を見回すと、等間隔にぶら下げられたカンテラが時々火を揺らしながら穴の中を照らしていた。土はしっかりと押し固められていて、入口の鎖のような薄汚れた印象は感じない。麓からの使者でもいるのだろうか。それとも本当に、入ってくる人はいても出てくる人はいないということなのだろうか。
海瀬の手を引いて歩き続ける。一体どれくらい経ったのかも分らないまま、押し固められた土壁、そして等間隔に置かれたカンテラを幾つも通り過ぎていく。もう見飽きたし、一向にやってこない出口に若干の焦りが生まれていた。
ふと、海瀬の足が止まった。
構わず僕が引こうとするのだが、彼は頑として動かない。溜息を一度吐きだし、振り返って海瀬をじっと睨みつけるのだが、彼の方はすっかり視線を落としてしまっていて、僕の方から表情をうかがうことができない。
「海瀬、あんなところにいれば僕らはきっと堕落してしまうよ」
呆れながら僕がそう言うと、海瀬の手に力が入る。
「なら逆に聞かせてほしい、君は何故そんなにも苦しい方を選ぼうとするのかを」
怯えた表情から出てきた言葉に、僕は思わず黙った。
「それは」
何も言えない僕の手を海瀬が強く握りしめる。海瀬はただ何も言わず、それから僕の手を引いて歩き始める。
「ならば行ってみればいいさ、それでも戻る気がないというのなら、もう知らない。好きにすればいい」
返答に困ったままそれでも戻るという選択は出てこない僕に、多分苛立ったのだろう。先ほどまで怯え震えていた筈の海瀬が、ぴんと背筋を立てて力強く一歩を踏み締め進む。こんなだっただろうか、と戸惑いを浮かべながら、それでも行くしかないという強迫観念にも似た感情に従い、海瀬の横に並んで再び歩き始めた。
―――――
もうどれだけ歩いただろうか。足は疲れ果てて棒のようになってきた。土壁に手をつく頻度も増えてきて手や顔、服が土で塗れ茶色く滲む。ただそれでも足は自然と前に進むし、この道をただ進み続けていることに対して疑問を持つようなこともなかった。
これなのだと、こうやって疲れ、苦しむことで生きていると実感できる。痛みも疲れも苦しみもない、あの街では体感し得ない生を今僕はちゃんと抱いているのだ。
次第に向こう側から風を感じるようになってきた。あの街では吹かない冷たい、身体の輪郭をくっきりと描き出してくれるような風だ。大きく口を開けて空気を吸い込んでみると、なんだか肺がずっしりと重たくなった気がした。それまでのゴムみたいな感覚の肉に熱が注ぎこまれていって、全身に熱が巡っていく。
「もうすぐ出口だ」
海瀬が止まって振り返った。それまでなにもおかしくはないと感じていた筈なのに、今こうして彼の姿を見ると、僕とはまったく造りが違うような、そんな感覚を覚えた。握る手はとても冷たくて、それでいて柔らかさがない。青を薄く伸ばしたように肌は薄暗く、そう、まるで――
「君はあの街じゃ満足ができないと言った。何も感じなくて済む、こうして五体満足のままいられる。空気の重さも血の巡りを感じることもない」
ここは楽園だ。
「この穴を一歩出たら、君はもう君になれる」
楽園の出口を前にして、僕は口を噛みしめた。
「でも、あんな冷たい世界にいるよりも、僕は熱を感じたいよ」
そう言うと、海瀬はため息を深く吐き出し、頭を掻いた。
「わかった。これ以上は何も言わないことにしよう。これは僕ら側にも不備があったことだ。君が戻りたいと思うのも仕方のないことなのかもしれない」
けど、と付け足すと彼は僕の背中を押した。
ふわりとした浮遊感のあと、海瀬が遠ざかっていく。いや、僕の方が落ちていっているのだ。もしかしたら飛んで行っているのかも。なんにせよ、上下左右前後どこに僕が落ちていっているのか何もわからない。
でも、戻っていっていうのだという実感だけはあった。
すっかり遠くなった海瀬の声が、僕の耳元でたった一つを告げた。
「冷たいままの方がいいことも、あるんだ」
―――――
次に目を覚ました時、僕は人ごみに囲まれていた。ぼんやりとした意識の中で、次第に回復する感覚の中で、ああ僕は戻ってこれたのだと解った。
解って、次にそこに至るまでの過程を思い出し、思わず足元を見た。
「ああ、あああ、ああああ……!」
「落ち着いて、連絡したから、もう少し頑張るんだ」
――熱、熱、熱。
どくどくとした熱が、折角取り戻した熱が、僕の中から抜け落ちて広がっていく。
――熱が、熱が、駄目だ熱がなくなってしまう。
僕は必死にその熱を塞き止めようと両手で押さえるのだが、指の間から、手とその口から熱は逃げ続けていく。
「あ――」
上げた筈の上体が地面に落ちる。ごとりと後頭部を打つ音がしたが不思議と痛みがない。いやそれどころか身体の輪郭もない。
もっていかれていると言った方がいいのかもしれない。
ぼんやりとした誰かの声と悲鳴とざわめき。ちゃんと聞こえていたなら煩いと思えたのかもしれないが、今の僕にはそれと白色に包まれていく視界が唯一僕を繋ぎとめているもののような気がして、心地が良かった。
――熱は、まだ僕に熱はあるの?