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「サイダー」

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――貴方ってサイダーみたい。

 目が覚めて彼女が口にした言葉だった。
 サイダーって、あの炭酸飲料の? と尋ねると、それ以外に何があるの、と彼女は布団を胸から口元まで引き寄せて、目を細めた。
 ふうんと軽い返答を返しながら、僕はサイダーみたいな言葉とは、一体どんなものだろうかと暫く考えてみる。けれどどうにも答えは出なくて、結局僕は考えるのを辞めるとベッドから這い出て床に転がる下着を履き、それからキッチンに向かう。
 下着のみで歩きまわる僕を見て、布団の中の彼女はまた嬉そうに笑っていた。今日はなんだか機嫌がいいね、と言うとそんなことないわ、と彼女は首を横に振る。僕には、そう見えるのだけどなあ。
「朝は何が食べたい?」
 尋ねてみるが、大体返ってくる言葉は分かっている。冷蔵庫から牛乳を取り出し、隣の棚から箱と、洗ったばかりの底の深い皿を出す。
「コーンフレーク」
「了解」
 彼女のオーダーが来る時にはもう完成していた。彼女は特にチョコチップの付いた物が好きらしく、朝はこれじゃないと何もする気が起きないと言う。それ以来僕の家でチョコチップ入りコーンフレークが切れた事は一度も無い。
 二つ分の皿をテーブルに運ぶ頃には、彼女は少し大きめの―といっても彼女のものではなく僕の普段着なのだが―シャツを身に付けて、ベッドに座っていた。小柄な彼女にとって僕のシャツは随分と「丁度いい」らしい。それに下着はどうにも縛られているように感じられてあまり好きではないらしく、普段から外出の予定が無かったり、帰宅から出勤まではこの姿で居ることが多い。一応異性が部屋に居るのだけれど、と言うと彼女は決まって「でも嫌いじゃないでしょう?」と意地の悪い笑みを浮かべて僕にそのシャツ姿を見せびらかすのだった。
 テーブルに運ばれたコーンフレークを見て彼女は嬉そうにベッドでニ、三度飛び跳ねると立ち上がり、テーブル前に置かれた折畳式の椅子に座ってスプーンを手に取る。いただきます、と両手を合わせて丁寧に言うと、緩み切った表情で好物を食べ始めた。
 テレビを点けてみたが、どこも似たような内容で、それも昨日とか一昨日と変わらない内容を繰り返しているだけだった。人混みに押されて泣く子供とか、狂ったように怒鳴り散らす男性だとか。すっかり気の抜けた記者達の淡々とした報道にもうすっかり飽き飽きだ。僕はテレビを消すと、再び食事に戻った。
「今日はどこに行こうか」
 食べながら彼女は僕にそう尋ねた。たまには外食でもしませんか、と彼女は可愛らしく傾いで言う。そういえば最近外食、なかったな、と腕を組んで暫く唸った後、コーンフレークを口に含みながら頷いてみせた。
「そういえば、さっき君が言っていた事って、どういう意味?」
「さっき?」
 ふと気になった言葉に対して尋ねてみると、彼女は不思議そうな顔を浮かべた。
「サイダーみたいって事さ」
「ああ」
 サイダー、という言葉を聞いて彼女は少しだけ頬を赤らめる。
「飲んでみれば分かるわ」
「飲めばいいの?」
「そう、それだけ」
「それだけ?」
「本当にそれだけ」
 これ以上は言わせないで、と彼女はふやけ始めたコーンフレークを掻きこむと皿に残った牛乳を飲み干してキッチンの洗い場に突っ込んだ。それからベッドに今着ている大きめのシャツを脱ぎ捨て、箪笥から幾つか掘り出すと着替えを始めた。
 まだ食事してる人間がいるんだけどなあ、と言ってみたが、彼女は整った歯を見せて笑うだけで特に配慮は無かった。僕は暫く目を細めて彼女の着替える姿を眺めていたが、やがてキッチンの方を向くと、ふやけたコーンフレークを頬張り、牛乳で流し込んだ。

 鍵を閉めるのは私がやる。そう言って彼女は僕の手から鍵をもぎ取ると、鍵穴に挿し込んで回した。がちゃん、と音を立てて扉は閉まった。
「このね、閉まる時の音が好き」
 挿したままの鍵を余韻を愉しむみたいに見つめながら、彼女は言った。知っているよ、と返事を返すと、流石、と笑った。
「でもね、開ける時の音は嫌い」
 それも知っていた。理由までは聞いたことはないけれど。まず聞いても物憂げな顔を浮かべるだけで決して教えてはくれないのだから、どうしようもない。
「僕にはどちらも同じ音に聴こえるんだけどね」
「そこよ、やっと気付いてくれた」
 引き抜いた鍵をそのまま僕に突き付けて、少し不機嫌そうに彼女は言った。同じ音だから、嫌い、か。
「開けるのと閉まるのじゃ意味がまるで違うのに、どちらも同じ音なのが気に入らない」
「閉まるのは好きなんだろう?」
「そうよ」
「開けるのと同じ音なのに?」
「貴方はなんにも分かってくれない」
 不機嫌そうに鍵を押し付けると彼女は先に奥へ向かっていってしまう。奥の階段とエレベーターとをそれぞれ見てから、やがて彼女は階段で降りて行ってしまった。フェンスから見下ろすと、地面が随分遠くに見えて、僕はそれで少しだけ目眩を覚えた。高い所が好きな彼女に合わせて決めた場所だけど、やっぱり高い所は苦手だ。
 エレベーターのボタンは既に押されていて、既に中身も到着して口を開けて来客を待ち構えている。僕は階段の方をちらりと横目に見てからエレベーターに乗ると、一階のボタンを押した。
 チェーンの擦れる音と、モーターの駆動する音が聞こえる箱の中で、僕は壁に背中を押し付けて真上を見つめる。ぼんやりと、ただ何も考えずに光を見つめ続ける。
 やがてエレベーターは若干の揺れと共に止まると、扉を開けた。ボタンの上の電光板は一とある。そして開いた扉の前には息を切らした彼女が嬉そうに立っていた。
「私の勝ちね」
「そうだね、残念だ」
 まるで悔しそうじゃない、と怒られたが、鍵の件よりも不機嫌そうじゃなかったので特に気にしない事にして彼女の手を握る。
 梅雨明けの空は真っ青で、雲ですらこの青を侵す気にはならないようだった。僕は空いている手を太陽に翳して空を見上げる。それでも眩しくて、掌は赤く染まって見えた。
「もうすっかり夏ね」
「そうかな」
「そうよ」
 彼女が言うなら、きっとそうなのだろう。薄緑のワンピースとサンダル。陽が強いけどいいのかと尋ねたが彼女はこれでいいと言って聞かなかった。仕方がないので僕は一枚余分に羽織っておくことにした。彼女は別に良いのに、と言っていたが、結局それ以上何か言うつもりはないようだった。
「日差しが強い」
「だんだん近くなっているからだろうね」
「あとどのくらい?」
「さあ……。でも少なくとも僕らが生きてるうちなんだろう?」
「まだはっきりしてないものね」
 空を見上げながら、彼女の手にそっと力が篭るのを感じた。何も言わずにその手を握り返すと、彼女は少しだけ落ち着いたのか、小さく吐息を漏らす。
「プールは行けるかなあ」
「やっていたらいいね」
「やっているでしょう。大きなところは分からないけど」
「だといいね。でも、あまり遠くには行けそうにないから、旅行は無理そうかな」
「どこも混んでいるだろうし、うちみたいに穏やかな所があればいいんだけどなあ」
 麦わら帽子を被り、僕達はマンションを後にした。車道は時々車が行き来するのを見かけたけれども、人と会うことはまるでなかった。僕らは気にすることなく歩き続ける。人気の無い団地下の公園、干上がった池やシャッターだらけの商店街。

 漸く見つけた子供達は皆帽子を被って日陰でゲームを楽しんでいる。誰一人としてすぐ目の前にあるアスレチックで遊ぼうとする気配は無かった。
「ねえ、喉乾かない?」
 そう言って手で扇ぐ彼女の首筋からつう、と汗が胸元に流れていくのが見えた。僕も背中が随分と濡れている。流石にこの暑さで普段より一枚多く着るのは辛かっただろうか。
「そうだね、自販機か何か無いかな」
「あそこ」
 彼女が指差す先を見ると、一件の駄菓子屋が見えた。どうやらやっているようだ。店の中に子供の姿も見えた。
「瓶の飲み物とか無いかな」
「あるかもしれないね」

 扉を横に滑らせると室内の冷たい空気が一気に僕達を通り抜けていく。それまでの張り付くような暑さが拭い取られていくような清々しい心地だ。
 店内は子供で賑わっていて、十円でできるアーケードの筐体が特に人気なようだ。僕も似たような場所でよくやっていたのを覚えている。
 入って目の前に座る老人は僕達を一瞥し、それから何も言わず再び顔を伏せた。けれど愛想が悪いという感じは無い。それは彼女の方も感じたようだった。
 物珍しそうな目で見る子供達に彼女はにっこりと笑ってみせて、それから奥の冷蔵ショーケースを見つけると声を上げて喜び、僕の服を何度も引っ張った。
「ほら、瓶があったよ」
 ショーケースの前にやって来てオレンジ色の瓶を彼女は迷うこと無く手にとった。それから透明な液体の入った瓶を取ると僕に渡す。
「これは?」
「サイダー」
 ああ、と僕が納得した風にそれを手に取った。
「見ない顔だけど、近所に住んでるのかい?」
 瓶ジュースの代金を老人に渡すと、彼はそう訪ねてきた。首を振って住所を伝えると、随分と歩いたね、と驚かれた。最近じゃもう近所でも寄り付かないのに珍しいと、そう口にする老人の目はどこか嬉しそうにも見えた。
「ずっと続けているんですか?」
 老人は頷く。
「流石に歳だからね。慌てることも無いさ」
 それに、とそこで言葉を切ってから僕らを横にどけると、後ろに並んでいたらしい少女の持ってきた駄菓子を会計し、それから湯を入れて渡す。カップ麺よりもっと小さなインスタントラーメン。
 それを受け取った少女は嬉そうにお辞儀をして、またゲーム筐体の集まりに戻っていった。
「子供は好きでね」
「成る程」
「あんたらは、子供はいないのかい?」
 僕たちは顔を合わせて、それから首を横に振った。
「タイミングを逃しちゃいました」
 彼女は舌を出して可愛らしく首を傾げる。
「それは残念だ」
 老人は栓きりで蓋を外した瓶ジュースを二人に手渡すと、奥に座れるところがあると教えてくれた。僕達はそれを丁寧に断ると簡単にお辞儀をして、駄菓子屋を出た。
 またおいで、と彼は最後に言ってくれたが、次は果たしてあるのかもわからない。返事はしないでおくことにした。
「瓶ジュースなんていつぶりだろう」
「子供の頃はよく飲んでたんだけどね」
 彼女は目を輝かせながらオレンジジュースを口にする。
「このために生きてる」
「それは良かった」
 勢い良くオレンジジュースを消化していく彼女を横目に僕もサイダーを口にした。
 頭の先にまで届くくらい冷たくて、口一杯に広がる甘みと、跳ね回る炭酸が爽快だった。喉元を通り過ぎる度にぱちぱちと泡がはじけていく感触がとても気持ちがいい。
 半分くらいを一気に飲み干して大きく呼吸をする。暑さで結露した瓶を眺めながら、僕は満たされた気持ちを覚えた。
「分かった?」
 隣で彼女はそう僕に尋ねた。
「うん、分かった」
 言いたいことは、ちゃんと伝わった。そう答えると彼女はあはは、と声をあげて笑う。
「ねえ、また欲しいのだけど……」
 そうねだる彼女を僕はそっと抱きしめた。汗やシャンプーとか色々混ざったにおいがする。不思議なにおいだけど、嫌いじゃない。

 僕はもう一度、残ったサイダーを口にする。
 あとどれだけ残っているかは、見ないようにしようと思った。


   おわり
8

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