第一話
4月に入り、もう何日も経っていた。桜はとうに散ってしまい、雲の間から差し込む穏やかな光にしか春を感じられるところがなくなっていた。
大学に通うため、彼が上京をしてきたのが3月中頃。初めての一人暮らしは少しも慣れることができず、この日も携帯電話のアラームを無視して寝坊してしまっていた。
もうずっと朝食を抜いている。胃の中が空っぽのまま午前の講義を受けることが普通になってしまった。彼はわたわたと服に着替え、寝癖のついた髪を手櫛で梳かし、靴のかかとを踏みつぶしながらマンションを飛び出した。
大学までは歩いて5分もかからない。それなのにどうして毎日走らなければならないのか。明日こそちゃんとしよう、彼は今日もそう誓った。
ああ、しまった。家の鍵かけたっけ……と、この心配はいつものように彼を悩ませる。こんなとき、たいがいはちゃんと鍵をかけている。彼は自分を信じて戻ることはなかった。
ようやく大学に着いた。講義が始まる数分前。まだ大学構内を把握していない彼にはちょっとした迷宮で、悠々と遅刻することもめずらしくない。彼はカバンの中から分厚いシラバスを取り出し、確認した。
今日の講義は必修の実験。彼は憂鬱だった。そこまで器用ではない、いや、不器用に属するぐらいだ。ちゃんとうまくできるだろうか。必修だから落とすわけにはいかない。ぐるぐるぐるぐる、不安が回る。
ふと、シラバスの説明に目がついた。『なお、この講義は二人一組で行う』という文章。起死回生、光明だった。パートナーが優秀だったらなんとかなるかもしれない、ああでも頼りっぱなしはいけない。どんな人がパートナーになるんだろう。女の子だったらいいなぁ。彼は歩きながら考えを巡らせる。
案の定、構内に入っても実験室が見つからなかった。もうすぐ始業のベルが鳴ってしまう。走り、走り、走りまわってようやく見つけた。
そこに飛び込もうとした、そのとき。
「きゃっ……」
「うわ」
ちょうど実験室から出てきた人にぶつかってしまった。手に持っていたのだろう紙の束がバサバサと廊下に散らばった。
声からして女性。バランスを崩しかけたその女性はたたらを踏み、けれど上半身のバネを使って体勢を整えた。
「ご、ごめんなさい!」
彼は慌てて紙を拾う。始業のベルが鳴っている。気にしていられない。彼は紙を拾うことを優先した。
「もう、ちゃんと前を見なさいよ」
「……すみません」
もともと目つきのきつい人なんだろう。睨まれた彼はしゅんとうなだれた。
白衣がよく似合う女性だった。やや茶色の髪でシャギーボブ。背も高い。きっと彼より年上なんだろう、周囲を取り巻く雰囲気に学生のような子供っぽさはなかった。
しかも……胸元を盛り上げる膨らみ。白衣の下のタートルネックが悩ましい曲線を描いている。彼は反省しながらも、失礼ながらも、ちらちら見てしまう。
「……どこ見てるのよ」
拾い集めた紙の束で隠される。ようやく彼は顔を上げた。あいかわらず目つきがきつい。でも整った顔立ちに綺麗な人だな、と彼はそんな感想を抱いた。
ちらりと見えた左手の薬指には銀色のリング。既婚者のようだ。
「キミ、この講義を受ける学生くん?」
「は、はいっ」
「一発目から遅刻なんていい度胸してるわねぇ」
ぐさり。痛いところを突かれた。でもここでぶつからなかったら間に合っていた! ……なんて心中で言い訳をする。
「さっさと入りなさい。運がいいわね、私が戻ってくるまではノーカウントにしてあげるわ」
「えっと、あなたは……?」
「今からキミが受ける講義の講師よ」
講師。ということは教授!? 彼は驚いた。若い、とても若い。いや若く見えるだけだろうか。
手に持っていたシラバスを開き、名前を確認する。
「斎藤教授、ですか?」
「助教授よ。それはシラバスの誤植。忌々しい……」
「ははは……あ、この大学を卒業されたんですね。じゃあ斎藤先輩だ」
「なんか変な感じね、先輩と呼ばれるの……って、いいから早く入りなさい。教壇に座席表があるからそれを見るっ、いいっ?」
「は、はいぃっ」
きっと第一印象は最悪だったに違いない。
彼は言われた通りに座席表を確認し、席を探した。あった。たった一席、空いたイスがあった。
その隣にいる、きっとパートナーだろう学生。彼はその学生を見て、息を詰まらせた。
先ほどの助教授とは打って変わって、まるで人形のような女の子。幼さが構築されたようだった。肩に少し届かないぐらいの黒髪とぱっつんと揃った前髪がそれを強調していた。
何よりも、慎ましい胸。彼がこっそり抱いている性癖に、貧乳好きというものがあった。
きっと、いわゆる、一目惚れに近い感情。
よそよそと隣に座る。じぃっと、無機質な目で隣の彼女は彼を見つめていた。
彼は、彼女に言う。
「はじまして。僕、神道です」
かわいい人だなぁ。
彼はぽつりと心の中で声を漏らした。
第一話「彼女は超能力者」
「神道……?」
彼――神道が自己紹介を終えたあと、彼女――月子は、不思議そうに彼を見つめていた。
「う、うん。どうかしたの?」
「ううん。めずらしいこともあるんだなー、と思って」
「……めずらしい?」
彼女はニコニコと笑っていた。いったい何がそんなの楽しいのだろう。神道は疑問だった。
「私の友達……同じ学科の子だから、この部屋の……ああほら、あそこで手を振ってる子。あの子も神道って言うんだよ」
「へぇっ、同じ名字だ」
「あの子は女の子だから性別は違うけど……あとで紹介するよ。きっと私たち、仲良くなれる気がするの」
「そうだね。僕も、そんな気がする」