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 父親が2階に上ってきたら一貫の終わりだ。僕は意を決して窓のサンに足を掛けた。ダメだ。2階とは言え僕は重度の高所恐怖症だ。体が拒否反応を示している。足が重い。たとえとかじゃなくて本当に重い。やたら重いと思ったら、翔少年が僕の足にしがみついていた。どうりで重いはずだ。
 翔少年はやっと頭を整理できた様子で「お前は誰だ。」と問いつめてきた。さて、どうしたものか。電車でうたた寝したらタイムスリップしていた。なんて言ったところで信じてもらえるものだろうか。
「僕は10年後の未来からやってきたお前自身だ。」
ここは下手に嘘をつかないほうがいい。SFが大好きだった自分を信じるんだ。
「しょ、証拠を見せてみろ。」
何かないか、何かないか、証拠になりそうなもの。あった。
「君しか知りえない情報をしっている。それが証拠だ。」
「言ってみろ。」
僕の108つあるトラウマのひとつ、音楽に関する苦い思い出を語ることにした。


 時に西暦1997年、消費税が3%から5%に変わった年だから僕が6歳の頃の話である。幼稚園で歌の発表会があるとかで、自分の歌う曲を決めることになった。先生が左から順番に何の歌が歌いたいか聞いていく。
「ポケビ!!」
一番左に座っていた活発な女の子が即座に答える。慣れた様子で先生はYELLOW YELLOW HAPPYとメモを取っていく。左から4番目に座っていた僕は、緊張しいなので言い間違えないように心の中で何度も練習した。ブラビ、ブラビ、ブラビ、ブラビ。
「僕もポケビ。」
左から2番目に座っていた優柔不断そうな男の子も答えた。この時のポケビ人気はとにかくすごい。でも僕はブラビ派だった。ブラビ、ブラビ、ポケビ、ブラビ。
「私もYELLOW YELLOW HAPPY。」
左から3番目に座っていた利発そうな女の子が答えて、3人が立て続けにポケットビスケッツのYELLOW YELLOW HAPPYを選んだ。次はいよいよ僕の番だ。言い間違えないように、ポケビ、ブラビ、ポケビ、ブラビ、あれっ?
「ポケビ。」
やらかしてしまった。釣られて、YELLOW YELLOW HAPPYを選んでしまった。本当はブラックビスケッツのSTAMINAが歌いたかったのに。当然練習にも全然身が入らなかったから、先生に歌を急遽変えられてしまう。"いやになっちゃうな"という歌に。しかも歌い終わった後に「ああ、いやになっちゃうなぁ。」というセリフを言う演出まであった。本番では大ウケで父兄席から大爆笑が起こったが、僕は大観衆の前で泣いてしまった。以来それがトラウマになって歌を歌えもしないし聞くことすらできない。


 少年は当時のことを思い出したのか、耳まで真っ赤にして「ほ、他には。」と話を変えた。意外だった。問答無用で追い出されるものと思っていたが、思いのほか食いついてきた。よし、あともう一息だ。
「君はセミを虫かごに20匹捕まえて、縁の下に隠している。後に10日以上放置して、気付いたときにはすでに全滅していた。以後生き物を飼えなくなるトラウマを背負うことになる。」
そういうと少年はドタバタと慌てて階段を駆け下りていった。あれ、もしかして失敗した?ともかく父親を呼ばれる前に逃げるしかない。慎重に、慎重に。二階の窓から雨どいと軒をつたって降りる。大丈夫、大丈夫。小学生のときにはこうやってよく遊んだじゃないか。そう念じながら、まるで間男のように情けなく降りる。僕は自分の家でなにをやっているのだろう。なんとか脱出できると思ったが甘かった。さすが僕自身。己の行動はお見通しという訳か。待ち伏せをしている少年は両手で虫かごを持っている。どうやらセミが気になっただけだったようだ。
「ありがとう自分。」
そう言って虫かごの扉を開け放つ。セミたちはほの暗い空に向かって飛び立っていった。


 とにかく翔少年にだけは信じてもらえたようだ。だが新たな問題が持ち上がった。お金と住む場所である。当面は大丈夫だったが、いずれは働かなくてはならないだろう。仕事を探しながら僕は考えていた。僕はなんのためにこの時代にタイムスリップしたのかと。どうすればもとの時代に戻れるのかと。過去の自分にセミの一件を話したことによって、生き物を飼えなくなるトラウマはなくなった。自力で未来を変えることができたという実感が残った。そして気付いたのだ。僕は僕の人生をやり直すためにタイムスリップしたのだと。
 僕の人生で最も大きな分岐点、それがこの10年前にある。それは僕の初恋。今、翔少年はあの栗色の髪の女の子に恋をしている。しかしどうしたらいいか分からず、僕は選択することを放棄した。それは選択から逃れられたのではなく、何もしないことの消極的な選択。この時から僕にはすっかり逃げグセが付いてしまった。告白しなかったからだ。それ以来、誰かを好きになったことはなかった。運命の人に一番最初に出会ってしまうこともある。そう気付いたときにはもう遅かった。いまさらなりふり構わず、誰かに告白する気にはなれない。だが僕は変えられるのだ。もしも僕があの時告白していたら。今それを試すことができる。それが僕が10年前にタイムスリップした理由なのかも知れない。


「という訳で早く告白しろ。」
そう毎日言い続けてようやく今日で決心してくれた。ただし僕が遠くから見守っているのが条件だそうだ。それでこうして放課後に体育館裏を塀越しにのぞいている。思い出補正というものがあるが、そういうフィルターは僕の脳内にはかからなかったようだ。セミロングの栗色の髪に、ハーフではないのにほんの少し起伏のある整った顔立ち。つぶらな瞳にはヒマワリが咲いている。こんな美少女を呼び出しておいて、翔少年は30分もただうつむいてだんまり。いったい何をやっているんだ。大場さんは文句も言わずに待ってくれている。えー子や。それにひきかえ翔の奴ときたら。さっさと告白して振られてしまえばいいんだ。
 さて、あまり進展がないようなので目をよそに移す。校庭では天然記念物となってしまったブルマ少女達がキャッキャウフフしている様子。鑑賞して眼福をたまわろうではないか。
「どうされました。」
「うっさい。今忙しいから。」
「何を見ているんですか?」
「ナニって、お前……」
そう言って振り返えったまま僕の体は硬直した。言葉は丁寧だが独特な威圧感のある警官が目の前にいる。
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