Paranoia
これは、遺書である。同時に手記である。これは私の体験した恐怖の顕現にしてこれを読むであろう貴殿の身にいつ襲いかかるかわからぬ悪夢の記録である。私は私に降りかかり、自らを殺めるまでに至らしめた恐怖を後に残すためにこれを記述する。
始めに感じたのは、気配だった。暗闇に、何かが潜んでいる。それはひしひしと私に近づき、逃げても逃げてもどこまでも付いてきた。やがて私は諦めた。気のせいだと思う事にした。実際、気配を感じる頻度は少なかったのだ。
そうして日が経つ内に、それは今度は視線を以て私を苛むようになった配は常に私の近くに潜むようになり、時折周囲の暗がりに、例えばベッドの下や部屋の隅などに視線を感じるようになった。暗がりからじぃっと私の方を見つめ、あるいは睨めつけているのだ。はっとしてそちらを見てもそこにはただ闇が渦巻いているだけである。
私は努めて平静を保とうとした。脅えを周囲に気取られてはならないと。しかし、その試みはうまくいかなかった。いつからかそれがそれらへと変化していたのだ。私は戦慄した。ひしひし、ひしひしと気配は押し寄せ、至る所から視線は私を射た。やがてそれらは夢の中にまで現れるようになった。暗闇を一人でずっと走っている。実体のない何かから逃げるためだ。逃げても逃げてもそれは迫り、ただ気配だけが後を付いてくる。やがて疲れ果てた私は足を止める。すると気配は私をぐるりと取り囲みじぃ、と私の方を見つめる。堪らず私は叫び声をあげ…そこで目を覚ますのだ。しかし目を覚ましても現状は何も変わらなかった。夜の闇の中にそれらはいるのだ。私はその度布団を頭から被り視線から逃れ、それきり一睡もできないまま夜を明かす事もしばしばだった。そして、ついにそれらは現実に形を示すまでに至ったのだ。
悪夢を見るようになってから二週間ほど後のある日だった。私が視線に気づいてかつそれを無視して振り返る事を頑なに拒んでいると、その視線を感じる辺りの闇と気配が急に濃縮され始めたのだ。気配はどんどん濃くなり、濃密な存在感をそこに呈するようになった。同時に視線も強くなりもはや背筋に痛みを感じるが如く無視できるものではなくなった。絶対的な、恐怖。首がわずかにそちらを振り向きかけ、私は理性を総動員してそれを抑えた。見てはならない、見たら正気を失う。そんな思いが私の胸に暗雲のように押し寄せ、また同時に好奇心ともつかない思いが首を後ろに向けようとした。二つの思いに板挟みにされ、結局私の首は首の回る限界まで後ろを向いて止まった。すぐそこに、いる。異形のモノが、この世ならざるモノが、いる。気配がある、視線がある。背後に――ある。僅かに肩を動かすだけでそれは私の視界に入る。そして私の肩がゆっくりと動きそれと同時に視界の端に白い物が映り、そして私は絶叫した。そこにあったのは眼球だった。人の目玉。赤く細い血管の浮き出た目玉。それがぬらりとした光沢と共に闇の中に浮かんでいたのだ。物言う事なく、ただ私の方を睨んでいた。私は絶叫した。そしてそれがくるりと緩慢な動作で一回転して闇に押し潰されるように消えた瞬間、私は気を失った。
それからというもの、私は視界の端にしばしば悪夢の片鱗を見る事となった。ドアの透き間から誰かが覗いていた。鏡の中の自分がにたりと笑っていた。木の枝から首吊りの縄が垂れていた。水の中から伸びた腕が手招きしていた。暗がりには気配が息衝き、私を嘲笑っていた。本物の恐怖だった。しかし、恐怖はこれで終わりではなかった。まだ、発現していない要素がある。私は気が狂いそうな恐怖に苛まれながらもこの時点ですでにそれに気付き、恐れていたのだ。
最初の内は、音だった。何かが動くかたっという音、重い物…いや、負傷した足を引きずるようなずずず…という重たい音、肉を叩きつけるようなびしゃっというしめった音…それらは私の心に恐怖という黒雲を生み付けるのに十分な物だった。極め付けは…声だった。おいで…おいで…。何かに呼ばれている。空から降ってくるような狂的な笑い声。私はただただ恐ろしかった。
なんだこれは、なんなんだこれは。私の心はもはや限界だった。しかし私は、ふとある時思いついた。私自身が彼らを受け入れてはどうだろうか、と。すなわち、命なき亡者となり、すべてを受け入れてはどうだろうか、と。そして、私は彼らと同じものになることを決意した。
よって、私はここに遺書を記す。何人を私を、彼らと一つとなった私を恐れるなかれ。闇を、恐れるなかれ。恐怖は身を滅ぼす物と知れ。
私の命を持ってそれを世に知らしめん。
*
父が首を吊った一週間ほど後、僕は父の机の中からこの遺書を見つけた。最後まで読んで、僕は父が彼らと読んだ物たちの真理を知らなかったという事実に気付いた。
「闇はこんなにも身近にあるのに、人はなぜそれを恐れるんだろうねぇ…?」
僕は、父が恐れたという闇に向かって訊ねた。
―――闇は、ただただ、笑みを浮かべているだけだった。