第一話 「マクドナルドで朝食を」
『いつもの朝、いつものマフィン。いつものマクドで、彼女は運命の人と出逢う。
その出逢いは味気ない目玉焼きにかけた黒コショウみたく、
代わり映えのしなかった日常にピリっとした刺激を与えてくれることになるのだ。』
悠愛(ゆめ)は目を見開いた。
雨戸の隙間から漏れるほのかな空の明るさと、線路を走る列車の音が朝の訪れを知らせている。
「ナレーションつきの夢なんて、ドラマの見すぎかな」
夢の余韻を残してぼんやりとしたままの頭の中で、そう呟いた。
季節はもう冬になり、暖房の切れた部屋の空気は布団と毛布をすり抜けて手足の先を凍えさせている。ベットの上で一旦丸まって指先を暖めてから、悠愛はゆっくりと起き上がった。
「うー、さぶっ」
ファンヒーターとTVのスイッチを入れてドアを開け、手狭なキッチンでインスタントコーヒーを淹れる。引っ越し祝いに友達から貰った掛け時計の針はまだ6時過ぎを指していて、部屋にはみのもんたの説教臭い声が流れている。ファンヒータの前でカップを半分ほど空けてから、悠愛はシャワーを浴びた。
学校はあれほど寝坊していたのに、今はすっかり生活リズムが出来上がっているなぁ。そんなことを考えつつアパートの戸締りをして駅へ向かう。通りに出ると雲ひとつなく晴れた冬の空はどこまでも澄み切っていて、冷たく乾いた風の鋭さを一層際立たせているように思えてくる。悠愛は首をすくめてマフラーの端を掴んだ。
結局スーツも靴もバックも今朝の夢で見たのと同じものを選んでしまった。まあみんな普段占いとか信じてなくても、朝のTVでやってる番組のラッキーアイテムとか気にしちゃうもんね、と自分に言い聞かせて満員電車に乗り込む。この季節、着膨れした乗客で混み合う車内はさながら縁日の夜店でヒヨコがひしめき合うトレーのような状態だ。身長150ちょっとの悠愛は四方を囲まれると自分の空間を確保しつつ息苦しさに耐えるのが精一杯で、大学の頃は下り電車で楽だったな、などと思いながら目を閉じてイヤホンの音楽に集中するしかなかった。
列車に30分間揺られて改札を出ると、悠愛はそのままマクドナルドの自動ドアをくぐる。入店すると見慣れた顔の店員がすかさずいらっしゃいませー、と愛想良く迎えてくれる。悠愛はマフィンとコーヒーのセットを注文して、いつもと同じように窓際の席で一息つくのだ。そして鞄から手帳と携帯を出したところでふと今朝の夢を思い出した。
「やけにリアルな夢だったなあ」
不思議なことに、それは誰かが撮影したかのようなアングルで悠愛自身の姿を映し出していた。昨日職場で課長に書類のダメ出しをされていたシーン、寝癖のついたまま眠そうな顔をして部屋でコーヒーを飲むシーン、満員電車に揺られてうつむいているシーン。まるでドラマの次回予告のように場面は次々と切り替わっていき、「いつもの朝」というナレーションが流れると、丁度この席に座ってマフィンを頬張る自分の目の前に──。
「いらっしゃいませー」
来店を告げる店員の挨拶に、ドキッとしながら悠愛は店の入り口に視線を投げた。そこには夢の中の人物とは似ても似つかない中年のサラリーマンの姿があった。前の席に座っているのもいたって普通のオジサンである。
「……まさかね」
ホッとしたような、ちょっとがっかりしたような気分で視線を落とすと、そこにはカラフルな蛍光ペンやキラキラしたシールで埋め尽くされていた学生時代の手帳とは無縁の、簡潔な箇条書きだけが並んでいた。悠愛はため息をつきながら今日の予定を確認した。
“14:00 新都舎との打ち合わせ 上野さん同伴”
午前中には資料を仕上げて課長の承認を貰わなければならないことを思い出して、頭を仕事モードに切り替える。今年の春に入社して研修を終え、上野と共に業務をこなしながらやっと自分が担当に加わる取引先を持てたのだ。先方とは電話でのやり取りをこなしてきたが、実際に訪問するのは今日が初めてだ。とはいえ他の取引先は同僚と共に何社も回ってきている。別に気負うことはないよな、と思いながらマフィンを口に運び、悠愛は顔を上げた。そのとき──。
前の席の客が立ち上がり、さらに一つ離れた席に、丁度向かい合う形で男が座っているのが目に飛び込んできた。グレーのコート、濃いベージュのマフラー、きっちりとセットされた短い髪の毛に整った顔立ち。「夢の中そのままの姿」に、悠愛は自分の心臓が踏んづけたピンポン玉みたくペコン、と大きくへこむのを感じた。
見たところ20代後半の男は、時折カップを口元に運びながら新聞を読んでいる。まるで一度見たビデオをリプレイしているかのような光景に、悠愛は目をそらせずにいた。男はこちらに少しも気を留めず、カップの中身を飲み干す。悠愛は左手でマフィンを握り締めたまま、夢で見た映像を重ね合わせる。
──この時はまだ、言葉を交わさない。
男は新聞を鞄に放り込んで席を立つ。そして内ポケットに携帯を仕舞う瞬間、スーツの襟元にチラリと覗いたのは、
新都舎の社章だった。