健全という町(グロ注意
「じゃあ、また」
「うん、それじゃ」
エティクスに揃えて貰った支度を持って、僕らは生業の町を出ることになる。
「さあ、行くよ」
四人連れ立って、エティクスの家を出た。エティクスは町の入口まで見送りにくる。
「この道をまっすぐ行けば、健全の町だ。半日くらいで着くだろう。知りたいことはそこで訊けばいい。僕達が説明するよりはマシだろうから」
「ありがとう。また来るよ」
「随意に。そんなのは君達の自由さ。僕達には関係がない」
エティクスは踵を返そうとする。僕はその背中に訊いた。
「あのさ、僕らみたいな人間が来たのは、いつ以来?」
「さあ……つい最近だった気もするし、もうずっと来ていない気もする。記憶がはっきりとしないのさ」
僕はそれを聞いて、何か思い付きそうな気がしたが、やっぱり靄がかかったように思い出せなかった。
僕の世界が二割減しようと、この空間は変わらない。ここは僕の世界じゃない。
足音が減り、言葉を発する者がいなくなった。マチはもともと無口だし、ミアは思案げに俯いていた。メイだけが元気そうに両手両足を動かしている。
「ユタカ、虫」
「そうだね」
「あれ、リンゴ?」
「そうかも」
パタパタと駆け寄り、背伸びしてリンゴをもいだ。その場でかぶりつく。顔を不快そうに歪めた。
「酸っぱい……」
「野性みたいなものだからね」
メイはリンゴを捨て、戻ってきた。
「まだ歩くの?」
「我慢だよ、我慢」
半日というエティクスの言は、歩き慣れた彼らの足でという意味だ。となれば、いくらかの余裕を見ても、あまり休憩ばかりもしていられない。
僕は明らかに消耗していた。慣れない環境、意味のわからない展開、歩き疲れに切り離し。情けないことに、メイに気を使われていると気付いた時、僕はいっそう反省した。
切り離しの件について、メイに動揺はない。だから、この場で一番平素通りなのはメイだ。そのメイに気を使われているのは、やはり僕の顔に出ていたのだろう。
ミアはやはり動揺していたし、マチは顔にこそ出さないが、思うところはあるだろう。しかし「何故?」とはもう誰も問わない。そうする者は、ここにはいない。僕の決定は世界の決定。理由も目的も関係ないのだ。
切り離された世界がどうなるのか……僕は知らない。興味もない。
「あっ」
考え事をしていたせいか、周囲への警戒が疎かになっていた。
だから、僕は気付けなかったのだ。いや、言い訳かもしれない。どちらにせよ、僕のお粗末な危機管理能力では、それから逃れるのは無理だっただろう。
ミアの声が聞こえたことに気づいたのは、一拍遅れたタイミングだった。道路上で猫の死骸でも見つけた時みたいな、少し沈んだような声。振り返った時、僕にはミアの身体から何かが生えたように見えた。それが何なのか理解した時には、とっくに必要な全ての動作が終わっていた。
一本の矢が、ミアの身体を貫いていた。
「ミアっ!」
僕が慌てて駆け寄った時、ミアの身体は地面に伏していた。
「え……?」
理解できないといった顔で、ミアは自分の胸から生える矢を見た。抱き起こして背中に触れると、僕の手に真っ赤な血がべったりとついた。矢は背中にまで貫通している。
「伏せろっ!」
遅ればせながらメイとマチに叫ぶ。二人は言った通り頭を抱えて地面に伏せた。
「ミア!」
「あれ……ユタカ、なに? なにか、あったの……?」
「動くな! 血が出る! くそっ」
周囲を伺う。木の影に誰かがいるのが見えた。
僕は……馬鹿かっ! こんな場所を安全だと思うなんて!
地下に広がる世界? 研究所? 得体の知れない町? 人間じゃない人間? 友好的なエティクスを見て、すっかり気が緩んでいたのか。ふざけるな。
この……こんなふざけた空間のどこが、安全だっていうんだ!
「ユタカ、ユタカ……」
「ミアっ! いいから」
ミアの唇が震えている。手を持ち上げようとするが、うまくいかない。僕の服を握った。
「ユタカ、ユタ……」
握った指から伝わる痙攣するような震え。僕はミアの服を千切った。左の乳房の下に矢が刺さっている。抜くのはまずい。抜けば血が吹き出るだろう。
「動くな」
木の影から声が掛けられる。感情の感じられない、冷たい声。目を向ければそこに誰かが立っていて、矢をつがえていた。
「お前がっ!」
僕はそいつを睨みつける。頭が熱い。熱くて熱くて煮えるようだ。ああ、殺す。
「お前がミアをっ!」
「動くなと言った」
そいつもまた、簡素な服だった。それは女で、髪の毛を後頭部で結わえていて、肩掛けの矢筒が背中にある。腰にベルトをし、そこには大振りのナイフが一つと、丸まったロープ。
狩人。女であるという以外は、そんな表現が当て嵌まる。
「お前達は、何者だ?」
女は油断なく弓を構えながら、じりじりとこちらに近寄る。僕の三歩手前で止まると、呟くように質問した。
「人間……ではないな。かといって人形でもない」
「人間だ!」
僕はほとんど泣くようにして叫んだ。
「僕らは人間で、お前のせいで困っている! 手当てをしろ!」
「人間? そんな……」
「手当てをしろ!」
ぴくりと眉根を動かし、ミアの様子をうかがう。僕はその瞬間を見逃さなかった。
「ふっ!」
息を一つ、それから、女に躍りかかる。
「こいつ!」
「くっ……」
僕と女はもんどりうって倒れ込む。女の手を掴んで弓を取り上げようとした。女はそれに抵抗しようとせず、自ら手を離す。
「えっ?」
弓はあっさりと僕の手に納まった。支えを失った身体はバランスを崩す。同時に、後頭部に鈍い衝撃が走る。手を離した瞬間、女の手は僕の首に手刀を叩き込んでいた。ぐらぐらと脳が揺れる。視界が歪んだ。僕の中身が意識を手離そうとしているのがわかる。そうする訳にはいかない。そうすることはできない。ああ、しかしそうせざるを得ない。
ああまずいこれは僕の意識ミアが矢が胸にマチなんとかメイ逃げミアに手当てをなん――――
「て、あて……を」
ぎりぎりの意識の中、それだけ呟く。それで限界だった。
ブレーカーでも落とすみたいに、僕の意識は遠ざかった。
「うん、それじゃ」
エティクスに揃えて貰った支度を持って、僕らは生業の町を出ることになる。
「さあ、行くよ」
四人連れ立って、エティクスの家を出た。エティクスは町の入口まで見送りにくる。
「この道をまっすぐ行けば、健全の町だ。半日くらいで着くだろう。知りたいことはそこで訊けばいい。僕達が説明するよりはマシだろうから」
「ありがとう。また来るよ」
「随意に。そんなのは君達の自由さ。僕達には関係がない」
エティクスは踵を返そうとする。僕はその背中に訊いた。
「あのさ、僕らみたいな人間が来たのは、いつ以来?」
「さあ……つい最近だった気もするし、もうずっと来ていない気もする。記憶がはっきりとしないのさ」
僕はそれを聞いて、何か思い付きそうな気がしたが、やっぱり靄がかかったように思い出せなかった。
僕の世界が二割減しようと、この空間は変わらない。ここは僕の世界じゃない。
足音が減り、言葉を発する者がいなくなった。マチはもともと無口だし、ミアは思案げに俯いていた。メイだけが元気そうに両手両足を動かしている。
「ユタカ、虫」
「そうだね」
「あれ、リンゴ?」
「そうかも」
パタパタと駆け寄り、背伸びしてリンゴをもいだ。その場でかぶりつく。顔を不快そうに歪めた。
「酸っぱい……」
「野性みたいなものだからね」
メイはリンゴを捨て、戻ってきた。
「まだ歩くの?」
「我慢だよ、我慢」
半日というエティクスの言は、歩き慣れた彼らの足でという意味だ。となれば、いくらかの余裕を見ても、あまり休憩ばかりもしていられない。
僕は明らかに消耗していた。慣れない環境、意味のわからない展開、歩き疲れに切り離し。情けないことに、メイに気を使われていると気付いた時、僕はいっそう反省した。
切り離しの件について、メイに動揺はない。だから、この場で一番平素通りなのはメイだ。そのメイに気を使われているのは、やはり僕の顔に出ていたのだろう。
ミアはやはり動揺していたし、マチは顔にこそ出さないが、思うところはあるだろう。しかし「何故?」とはもう誰も問わない。そうする者は、ここにはいない。僕の決定は世界の決定。理由も目的も関係ないのだ。
切り離された世界がどうなるのか……僕は知らない。興味もない。
「あっ」
考え事をしていたせいか、周囲への警戒が疎かになっていた。
だから、僕は気付けなかったのだ。いや、言い訳かもしれない。どちらにせよ、僕のお粗末な危機管理能力では、それから逃れるのは無理だっただろう。
ミアの声が聞こえたことに気づいたのは、一拍遅れたタイミングだった。道路上で猫の死骸でも見つけた時みたいな、少し沈んだような声。振り返った時、僕にはミアの身体から何かが生えたように見えた。それが何なのか理解した時には、とっくに必要な全ての動作が終わっていた。
一本の矢が、ミアの身体を貫いていた。
「ミアっ!」
僕が慌てて駆け寄った時、ミアの身体は地面に伏していた。
「え……?」
理解できないといった顔で、ミアは自分の胸から生える矢を見た。抱き起こして背中に触れると、僕の手に真っ赤な血がべったりとついた。矢は背中にまで貫通している。
「伏せろっ!」
遅ればせながらメイとマチに叫ぶ。二人は言った通り頭を抱えて地面に伏せた。
「ミア!」
「あれ……ユタカ、なに? なにか、あったの……?」
「動くな! 血が出る! くそっ」
周囲を伺う。木の影に誰かがいるのが見えた。
僕は……馬鹿かっ! こんな場所を安全だと思うなんて!
地下に広がる世界? 研究所? 得体の知れない町? 人間じゃない人間? 友好的なエティクスを見て、すっかり気が緩んでいたのか。ふざけるな。
この……こんなふざけた空間のどこが、安全だっていうんだ!
「ユタカ、ユタカ……」
「ミアっ! いいから」
ミアの唇が震えている。手を持ち上げようとするが、うまくいかない。僕の服を握った。
「ユタカ、ユタ……」
握った指から伝わる痙攣するような震え。僕はミアの服を千切った。左の乳房の下に矢が刺さっている。抜くのはまずい。抜けば血が吹き出るだろう。
「動くな」
木の影から声が掛けられる。感情の感じられない、冷たい声。目を向ければそこに誰かが立っていて、矢をつがえていた。
「お前がっ!」
僕はそいつを睨みつける。頭が熱い。熱くて熱くて煮えるようだ。ああ、殺す。
「お前がミアをっ!」
「動くなと言った」
そいつもまた、簡素な服だった。それは女で、髪の毛を後頭部で結わえていて、肩掛けの矢筒が背中にある。腰にベルトをし、そこには大振りのナイフが一つと、丸まったロープ。
狩人。女であるという以外は、そんな表現が当て嵌まる。
「お前達は、何者だ?」
女は油断なく弓を構えながら、じりじりとこちらに近寄る。僕の三歩手前で止まると、呟くように質問した。
「人間……ではないな。かといって人形でもない」
「人間だ!」
僕はほとんど泣くようにして叫んだ。
「僕らは人間で、お前のせいで困っている! 手当てをしろ!」
「人間? そんな……」
「手当てをしろ!」
ぴくりと眉根を動かし、ミアの様子をうかがう。僕はその瞬間を見逃さなかった。
「ふっ!」
息を一つ、それから、女に躍りかかる。
「こいつ!」
「くっ……」
僕と女はもんどりうって倒れ込む。女の手を掴んで弓を取り上げようとした。女はそれに抵抗しようとせず、自ら手を離す。
「えっ?」
弓はあっさりと僕の手に納まった。支えを失った身体はバランスを崩す。同時に、後頭部に鈍い衝撃が走る。手を離した瞬間、女の手は僕の首に手刀を叩き込んでいた。ぐらぐらと脳が揺れる。視界が歪んだ。僕の中身が意識を手離そうとしているのがわかる。そうする訳にはいかない。そうすることはできない。ああ、しかしそうせざるを得ない。
ああまずいこれは僕の意識ミアが矢が胸にマチなんとかメイ逃げミアに手当てをなん――――
「て、あて……を」
ぎりぎりの意識の中、それだけ呟く。それで限界だった。
ブレーカーでも落とすみたいに、僕の意識は遠ざかった。
「起きろ」
頭に痛みが走る。たった今叩かれたのと、首筋のそれが混ざった痛み。目を開く。
「ん……」
首の後ろと連動するように、開いた目が痛かった。ぼんやりと、誰かがいるのが見えた。狩りの支度――弓と矢筒を外し、ナイフを置き、腰布を解く。
それは平坦な声で語りかけてくる。
「今、生産から連絡があった。お前達は人間。宮殿からの見物客らしいな。連れの二人も客人として向こうで寝ている。すまない、手違いだ」
女は、狩人の女は、頭を下げるでもなく淡々と謝った。
僕を叩き伏せ、ミアを射ったことを、ほんの一言で。
「そうだ……ミアはっ!?」
跳ね起きる。また首が痛かったが、そんなことより!
胸を貫かれて、血があんなに出て。手当は間に合ったのか!?
ミアは!?
「ああ、あの女か」
今の今まで忘れていたというように、女は上を見る。
「死んだよ」
女はあっさりと言って……僕は一瞬、何を言ったのか、理解できなかった。
死んだ? ミアが?
理解が及ばないうちに、女は続けた。
「出血が激しくてな。手当は無駄と判断した。まだ息はあったが、私達が始末したよ。放っておいてもすぐに死んだだろうが」
始末……? その言葉を理――
意識が飛ぶ。僕は女を床に組み伏せていた。
「ふざけるなよ……ミアを殺しただと!?」
「痛っ……おい、やめてくれ」
「お前が殺した! ミアをっ!」
僕の、僕の世界を! 壊した!
お前が先に死んでどうなる!? ミアは……こんなの、なんの意味もない!
「まったく……」
力任せに押し潰していた僕を、女は身体を捻って跳ね返す。位置関係は嘘みたいに逆転して、僕の身体は女に組み敷かれた。
「ッ! クソッタレ!」
「いつ私達が糞を垂れるのを見たんだ? ……情欲ではないな。怒りか? 何故そんなに怒っている?」
女は呆れたように言った。
「ミアを殺しておいてよくも!」
「だから、何を怒る必要がある?」
女の口調は、あくまで平坦だった。
ふざけるな! 殺してやる。爪先から順々に皮を剥いでやる! 冷凍庫の牛みたいにしてから指を切り落としてやる! その赤い目を二つともくり抜いてホルマリンに漬けてやる! 内臓一つ一つを並べて鳥に食わせてやる!
渦巻く怨嗟を向けられた女は、いずれ関心のなさそうな顔で言った。
「死んだのなら、また生産すればいいだろう」
「ああっ? 意味のわからないことを……!」
「バックアップはあるのだろう? ああ、人間は生産ではなく、再誕というのか」
スッと、怒りが引いていく。
それを聞いて、僕の脳裏に浮かぶ言葉があった。
再誕、生産、人間。
人間を、複製すること。
「クローン……」
「そんな名前だったか。なんだお前、忘れていたのか?」
女はいつの間にか、僕から離れていた。
「宮殿に帰れ。こちらの設備とは違うのだろう?」
「…………」
やはり当然のように、女は言った。
クローン、とは、やはり……細胞からコピーを作り出す、あの技術か。
馬鹿みたいに倫理倫理と言って研究の進まない、あの技術。あれを人間に使うというのか?
それを使えば、ミアは生き返るのか……? 僕の世界は、修復されるのか?
それは、ミアなのだろうか。クローンとして生まれたそれは、ミアと呼べるのか?
頭を振る。
どうでもいい。どうでもいいんだ。例えそれがミアではないとしても、僕の世界の穴埋めにはなる。欠けた世界は、僕の意思から外れた世界は、もう僕の世界じゃない。本物のミアができれば良し。それが本物のミアじゃないとして。
代わりのカケラが見つかるまでの、繋ぎにはなるだろう。
「どうした?」
「ああ、いや……宮殿か。そうだね、そうしようか。それで」
今のままでは情報が少ない。脳味噌を解体し、現状を打破する。
僕はクローン技術を使う為の行動を開始する。
なるべく温和に、できるだけ感情を内に。
息を小さく吐いて、準備を完了した。
「君、宮殿まで案内してくれないかな」
「何故だ。宮殿から来たというのに、宮殿の位置がわからないというのか?」
「実はそうなんだ。意気揚々と出掛けたはいいけど迷ってしまってね、難儀していたんだよ」
「ふむ、そうか、わかった」
女はそれを信じたようで、あっさりと頷いた。
「とは言え、まだだな。お前の連れが目を覚まし次第、出発するとしよう」
その連れの一人はお前が殺したのだ。僕はよっぽど机に置かれたナイフを手に取ろうと思った。自制できたのは、偏に感情を切り替えていたおかげだ。
笑顔を保てるのは、せいぜい一日くらいのものだろう。
マチとメイはまだ起きて来ない。特にメイは、僕が気絶したことで受けた衝撃は計り知れなかっただろう。マチはもしかしたらもう起きていて、展開を観察しているのかもしれない。
ミアの血まみれになった僕の身体は綺麗に拭かれていたが、服はその限りではない。僕は女――フラベティと名乗った――が用意した服に着替える。素材はわからないが絹のようにすべらかで、美しい幾何学模様の刺繍が入ったものだった。
「人間の服はそれしかない。我慢しろ」
是非もない。僕は喜んでそれを着た。着心地は悪くない。
着替えを終えてマチとメイの様子を見に行くと、メイはベッドに横たわり苦しげに顔を歪ませていた。僕はメイの顔に手を伸ばす。鼻先をくすぐると、メイの表情は安心したように落ち着いた。マチはなんてこともないように眠っている、ように見える。
それからフラベティにミアを見たいと告げると、地下――穴の中だ。それに木の梯子をつけただけ――に通された。
「見ないほうがいいかもしれないぞ」
フラベティは言ったが、僕にはそうする必要があった。
とどめを刺した。その言葉で、いくらかの想像はできる。僕は覚悟を決める。平然と言い放ったフラベティにまた怒りが出そうになったが、堪える。
階段を下りると、すぐに階下に着いた。中は涼しく、乾燥した空気で満ちていた。それに、血の匂い。
暗い。フラベティが電気を点ける。裸電球が地下を照らした。電球は過剰なまでに地下を明るくする。そうしてフラベティは踵を返し、地下を出ていった。僕は気付かないふりをしてちらとも見なかった。
「…………」
木切れの塊のようなベッドに、白いシーツが被せられていた。それは人間の形に盛り上がっている。僕は手を伸ばし、シーツの裾をめくる。
生白い足先が見えた。僕は一気にシーツをはぐ。ミアの身体があらわになった。
ミアの衣服は僕が破ったから、服はボロボロではだけていた。その胸には細い菱形の傷口がぽかりと開いていた。乳房の下の辺り……乱暴に引き抜いたような、汚い傷口。もう血は止まっていたが、肉の赤黒さはそのままだ。血は拭われているようで傷口付近は綺麗なものだったが、衣服に染みた血は消えていない。
エティクスやフラベティのような色の無い白ではない、そこかしこに生命の面影がある白い肌、乳首の薄い赤色、傷口の赤黒さ、服に滲んだ黒い水。
ああ……。
僕の脳に、今まで経験したことのない感覚が生まれた。
これが、ミアの言っていた感覚なのだろう。あの時は理解できなかったが、今なら解る。多分、少しだけ。
僕はミアの首を見る。
そこから上には何も無かった。デパートのマネキンのように、首までで完成している。切り口は鋭利な刃物で切り取られたようで、プラムの色をした種無し西瓜の断面のようだった。
ミアの頭は右肩の横に置かれていた。
フラベティの言う、とどめ。これがそうだろう。あの大きなナイフならば、首を切断するくらいのことは簡単だろう。
僕はミアの頭を持ち上げる。両手で掬うように、髪を掻き上げ耳に触れるように、優しく、ゆっくりと。ミアの長く茶色がかった髪の毛は、緩やかにウェーブして僕の手にかかった。
正面から顔を見る。顔色は悪い。重い生理の時よりも血の気が無い。一瞬心配になったが当然だと思い直す。目は閉じていて、眠っているようだった。口はほんの僅かに開いている。
僕はミアの頭を抱いた。ミアは文句も言わずに腕の中に収まる。髪に顔を埋めると、ミアの匂いが漂ってきた。頭皮と、汗と、血の匂い。酸味の少ない、ミアの匂い。
「え、な、なに?」なんて、ミアの慌てた声が聞こえてきそうだった。僕が突然抱きしめたら、ミアはそんな事を言うだろう。
鼻で深呼吸をして、僕はミアの頭を置いた。
僕は意味もなく辺りを見てから、血で汚れたミアの服を脱がす。破れた服は奇妙に絡まった。血が乾いて粘着質な液体となり、肌に張り付いていた。片方ずつ袖を抜く。関節が固まり、自由が効かなかった。
ボタンを外し、スカートを下げる。下着に手を掛けて一気にずり下げた。身体が曲がらないから、持ち上げるのに苦労する。
靴下を脱がすと、ミアからすべての余計な物が取り除かれた。
足の爪先から順に見上げていく。丸まった爪は、女の子にしては短い。足は細くもなく、太くもない。平均的な肉付き。丸みのあるふくらはぎ、つるりとした膝、ゆったりとして柔らかそうな太股、陰部の茂みは髪の毛よりも色が薄い。少し茶がかったクリトリスの包皮。陰唇は小さく皴があり、内に篭っている。尻は四角形に近く、それでいて角は丸い。腰は綺麗にくびれているとは言い難いが、触れば柔らかかった。あばらは肋骨の浮き出る気配もなく、ただその形が判る程度にへこみがある。腕から手まではなんのためらいもなく滑り落ちていて、指先は固くて柔らかい。爪が僕にはない艶を発している。濡れたような肌は生気を発しない。僕はまたミアの感覚に近付く。また少し、理解が及んだ。
瞬間、僕の中のあらゆる語彙が無意味になった。如何なる美辞麗句を並べても足りない。美しいとか、柔らかいとか、まるで某のようだとか、そんなものはどうだっていいんだ。
それには欲もなく、気取りもなく、ただそこにあるだけの美しさがあるのだから。
完全な人間がそこにいた。
ミアの求めた物の一端……僕に完全な理解ができるとは思えないけれど、ほんの一端だけ、わかった気がした。
死体愛好家とは違う。屍姦をしたい訳でもない。この感覚は性的な物とは切り離されている。強いて言うのなら、在り様か。いや、そんな一言で解るものとは違う気がする。……それもまた恣意的だけれど。それは下地として敷いてあるものだ。
あくまで僕の感覚でしかないから、ミアの嗜好とはまるで違うかもしれないけれど。解ったふりでも構わないんだ。
ミアは僕の世界で永遠になった。これはもう、変えてはいけないものだった。
もちろん、ミアの身体はそのままにならない。いずれ腐敗が始まり、腹がふくれ、目は落ち窪み、ベッドに染みを作るだろう。そうなる過程を見てみたい気もするけど……それを楽しむのは、感覚が拒否していた。感情ではなく、ミアを見て心に涌いたそれが、そうするべきではないと叫ぶようだった。それはミアが最も恐れていたことだから。
完全な人間は変化してはいけないのだ。それを許容することが、ミアを完全から遠ざけてしまう。そんなことで揺らぐようでは、やはり僕はまだ何も理解できていない。
……それも言い訳だ。僕に出来ることなんて高が知れているし、所詮は痴れている。
ミアの髪を一本、引っこ抜いた。ミアは文句一つ言わない。僕の生半可な知識でしかないけれど……クローンを作るには、その人の細胞が必要だったはずだ。僕はそれをしまい込む。
「見ないほうがいいかもしれないぞ」
フラベティは言ったが、僕にはそうする必要があった。
とどめを刺した。その言葉で、いくらかの想像はできる。僕は覚悟を決める。平然と言い放ったフラベティにまた怒りが出そうになったが、堪える。
階段を下りると、すぐに階下に着いた。中は涼しく、乾燥した空気で満ちていた。それに、血の匂い。
暗い。フラベティが電気を点ける。裸電球が地下を照らした。電球は過剰なまでに地下を明るくする。そうしてフラベティは踵を返し、地下を出ていった。僕は気付かないふりをしてちらとも見なかった。
「…………」
木切れの塊のようなベッドに、白いシーツが被せられていた。それは人間の形に盛り上がっている。僕は手を伸ばし、シーツの裾をめくる。
生白い足先が見えた。僕は一気にシーツをはぐ。ミアの身体があらわになった。
ミアの衣服は僕が破ったから、服はボロボロではだけていた。その胸には細い菱形の傷口がぽかりと開いていた。乳房の下の辺り……乱暴に引き抜いたような、汚い傷口。もう血は止まっていたが、肉の赤黒さはそのままだ。血は拭われているようで傷口付近は綺麗なものだったが、衣服に染みた血は消えていない。
エティクスやフラベティのような色の無い白ではない、そこかしこに生命の面影がある白い肌、乳首の薄い赤色、傷口の赤黒さ、服に滲んだ黒い水。
ああ……。
僕の脳に、今まで経験したことのない感覚が生まれた。
これが、ミアの言っていた感覚なのだろう。あの時は理解できなかったが、今なら解る。多分、少しだけ。
僕はミアの首を見る。
そこから上には何も無かった。デパートのマネキンのように、首までで完成している。切り口は鋭利な刃物で切り取られたようで、プラムの色をした種無し西瓜の断面のようだった。
ミアの頭は右肩の横に置かれていた。
フラベティの言う、とどめ。これがそうだろう。あの大きなナイフならば、首を切断するくらいのことは簡単だろう。
僕はミアの頭を持ち上げる。両手で掬うように、髪を掻き上げ耳に触れるように、優しく、ゆっくりと。ミアの長く茶色がかった髪の毛は、緩やかにウェーブして僕の手にかかった。
正面から顔を見る。顔色は悪い。重い生理の時よりも血の気が無い。一瞬心配になったが当然だと思い直す。目は閉じていて、眠っているようだった。口はほんの僅かに開いている。
僕はミアの頭を抱いた。ミアは文句も言わずに腕の中に収まる。髪に顔を埋めると、ミアの匂いが漂ってきた。頭皮と、汗と、血の匂い。酸味の少ない、ミアの匂い。
「え、な、なに?」なんて、ミアの慌てた声が聞こえてきそうだった。僕が突然抱きしめたら、ミアはそんな事を言うだろう。
鼻で深呼吸をして、僕はミアの頭を置いた。
僕は意味もなく辺りを見てから、血で汚れたミアの服を脱がす。破れた服は奇妙に絡まった。血が乾いて粘着質な液体となり、肌に張り付いていた。片方ずつ袖を抜く。関節が固まり、自由が効かなかった。
ボタンを外し、スカートを下げる。下着に手を掛けて一気にずり下げた。身体が曲がらないから、持ち上げるのに苦労する。
靴下を脱がすと、ミアからすべての余計な物が取り除かれた。
足の爪先から順に見上げていく。丸まった爪は、女の子にしては短い。足は細くもなく、太くもない。平均的な肉付き。丸みのあるふくらはぎ、つるりとした膝、ゆったりとして柔らかそうな太股、陰部の茂みは髪の毛よりも色が薄い。少し茶がかったクリトリスの包皮。陰唇は小さく皴があり、内に篭っている。尻は四角形に近く、それでいて角は丸い。腰は綺麗にくびれているとは言い難いが、触れば柔らかかった。あばらは肋骨の浮き出る気配もなく、ただその形が判る程度にへこみがある。腕から手まではなんのためらいもなく滑り落ちていて、指先は固くて柔らかい。爪が僕にはない艶を発している。濡れたような肌は生気を発しない。僕はまたミアの感覚に近付く。また少し、理解が及んだ。
瞬間、僕の中のあらゆる語彙が無意味になった。如何なる美辞麗句を並べても足りない。美しいとか、柔らかいとか、まるで某のようだとか、そんなものはどうだっていいんだ。
それには欲もなく、気取りもなく、ただそこにあるだけの美しさがあるのだから。
完全な人間がそこにいた。
ミアの求めた物の一端……僕に完全な理解ができるとは思えないけれど、ほんの一端だけ、わかった気がした。
死体愛好家とは違う。屍姦をしたい訳でもない。この感覚は性的な物とは切り離されている。強いて言うのなら、在り様か。いや、そんな一言で解るものとは違う気がする。……それもまた恣意的だけれど。それは下地として敷いてあるものだ。
あくまで僕の感覚でしかないから、ミアの嗜好とはまるで違うかもしれないけれど。解ったふりでも構わないんだ。
ミアは僕の世界で永遠になった。これはもう、変えてはいけないものだった。
もちろん、ミアの身体はそのままにならない。いずれ腐敗が始まり、腹がふくれ、目は落ち窪み、ベッドに染みを作るだろう。そうなる過程を見てみたい気もするけど……それを楽しむのは、感覚が拒否していた。感情ではなく、ミアを見て心に涌いたそれが、そうするべきではないと叫ぶようだった。それはミアが最も恐れていたことだから。
完全な人間は変化してはいけないのだ。それを許容することが、ミアを完全から遠ざけてしまう。そんなことで揺らぐようでは、やはり僕はまだ何も理解できていない。
……それも言い訳だ。僕に出来ることなんて高が知れているし、所詮は痴れている。
ミアの髪を一本、引っこ抜いた。ミアは文句一つ言わない。僕の生半可な知識でしかないけれど……クローンを作るには、その人の細胞が必要だったはずだ。僕はそれをしまい込む。