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 宮殿。
 微かに風の流れる音が聞こえた。気温は扉が無いので外と変わらない。こちらから見ると、うっすらと透けて外が見えた。
 外から想像した通りに広い部屋。真ん中まで来て見回す。ごく普通のタイル貼りの床に赤い絨毯が敷かれ、壁は白い。柱のようなものはなく、正面には壁があり、そこには扉が二つあった。ここは半分ほどを区切ったのだろうか、半円状で、おそらくその扉の奥にはもう一つずつ部屋があるのだろう。
 右の扉には奉納と書かれていて、左の扉には何も書かれていない。
 両開きの扉だ。恐らく右に物資を運び入れるのだろう。となると、左に行くのが正しい道か。
 左の扉に近づく。触れようとすると勝手に開いた。珍しくもないが一瞬ぎょっとする。
 扉の向こうは、ほとんど同じ構造の部屋だった。違うのは、入り口の対角線上にエレベーターらしきものがあることだけ。
「マチ、メイ」
 呼びかけるとマチはこくんと首を動かす。僕は二人の手を握った。
「行こう。離れないように」
 メイの左手は暖かく、マチの右手は冷たい。引けば抵抗もなくついてくる。
 エレベーターの前に立つ。一般的なそれと同じく、扉の右手に上と下のボタンがある。階数表示のようなものは見当たらなかった。
 恐る恐る、メイの手とつないだ手でボタンを押した。
 シュインシュインと、内部から何か音が聞こえた。どうやら動いているらしい。ほっとする。この塔を歩いて昇ることを想像するのは恐ろしかった。
 長い時間が経ったように思えた。実際にはほんの一分かそこらの話だっただろう。駆動音が少し大きくなり、止まる。空気の抜けるような音がして、扉が開いた。
 内部は広いことを除けば、ごく一般的なエレベーターのようだった。乗り込み、閉まるボタンを押す。ほかにスイッチはない。閉まると、エレベーターは自動的に動いた。昇っていく感覚があって、それもまた長く続いた気がした。上昇が止まり、ゆっくりと扉が開いていく。



 エレベーターの扉が開いて、空間が広がる。そこは広いホールのようで、壁は一面に黒い。床には赤い絨毯が敷かれていた。
 濃い色の中で、唯一、異質な物が、壁に寄りかかるようにしているのが、嫌でも目に入った。
 真っ黒な壁の前に、真っ白なそいつが。
「ゼノ……?」
 いや、違う。例によってあいつらの一人ではあるのだろうけど。
 華奢で真っ白な身体、癖のない真っ白な髪。そこだけスプレーを撒いたみたいに煌いている。太陽の光、じゃない、スクリーンの光に照らされて、ぼんやりと輝いていた。誰も彼も似てはいたが、こいつが一番ゼノに近い。少なくとも見た目だけは。
 ぼんやりとした顔で僕を見ていた。
「だぁれ?」
 そいつは首を傾げた。仕種は幼く、柔らかい。動く度に粒子のようなものが舞う。
「みんななの?」
 なんと答えていいか判らず、僕らは黙った。みんなが指すものはなんだ? 小山真世か、お前らか。
 狂おしい情欲が、腰から臍に走った。身体の真ん中を何かが通り抜ける。足が突っ張るような感覚。爪先からつむじまで総毛立つ。
 無闇な拒絶は意味がない。僕はもう、世界の一部にこいつらを組み込んでしまっている。不可避で不可解な感情。
 依り処の無い船のように、僕はゆらゆらとさ迷う。逃げ場はある。逃げる意味はない。
 僕は呆けたように立ちすくむ。マチもミアも、僕が動かないから動かない。態度を決めかねる。指で合図する。何も言うな。
 僕の世界。僕を愛する? 敵、敵かもしれない。組み込める? 情報はあるが、無いに等しい。こいつはゼノか? 違う、でも同じだ。外にも似たやつらはいた。違う。奴らには色があった。肌や髪。共通するのは目だ。目、目だ。目が美しい。赤い緋い朱い。朝焼けより夕焼けよりルビーより、血より炎より柘榴より、何よりも何よりも何よりも。僕の知っている何よりも。世界になる可能性は? 世界との整合性は? 他の奴らはどこにいる? 人間は、人間はいるのか? 含まれる対象は? 外に出たとして連れていくことはできるか? 何を食うのか? 特有の何かは? 愛の形は? 愛とはなんだ? 人間なのか、人なのか、人形なのか、物なのか。物に命を宿らせる。禁忌? くだらない。可能性があるなら追い求めろ。夢は叶う。命は宿る。
 かつてないくらいに、脳が回転していた。三つ四つの思考が違う指向を持って意見を出す。
 結論など出て来ない。無意味ではないが無価値だった。何もしないのは意味がない。何をどうする。
 結果、死体になろうとも。世界を無視などできるものか。
 ああ、我慢の限界だ。
 僕は無防備なそいつに飛び掛かる。急な動作に驚いたのか、咄嗟に反応できないでいた。右手で右手を掴むと「え?」という疑問符を口から漏らす。半回転させるようにして僕の胸へ。左手で口を塞いだ。
「わう」
 特に騒ぎ立てるでもない。大人しく僕の胸に収まった。
 右手。皮膚は素晴らしく滑らかで、握れば指の形にへこむだろうと思う程に、骨の硬さを感じない。握れば折れてしまいそうだけど、芯が通っているのは間違いない。
 左手。唇は少し湿り気があった。指の腹でなぞる。上唇のへこみは薄く、下唇は太陽に当てた羽毛のようだった。顔の中で、色らしい色は瞳とそこにしかない。それ以外の皮膚は雪のように白く、ひなたのように暖かい。血管の透けるアルビノとは違い、本当に真っ白だった。血の気が無い。肉はあまりないように見えるのに、むしろ折れそうなくらいに華奢なのに、指が沈み込むように柔らかい。
 身長も体重もさほど無いだろう。身長が百四十八センチのマチよりも小さくて軽い。白いワンピース状の服の下には何も身につけていないようで、衿元から二つの突起が覗いていて、そこにだけ薄い色がある。陰影に過ぎないような、ほとんど感知できないような。
 真っ白な髪に鼻を埋める。匂いはない。生き物として異常。警告、それは人形か? 人間か?
 肉欲は感じない。むしろ禁欲的な印象すら受ける。求めてはいない。求めてはいけない。
 そこまでの動作洞察観察干渉をしても、そいつは不平を言うことすらしなかった。
「ええと、咄嗟に捕まえたけど」
「手が痛いわ」
 そいつ……少女は状況を報告するように言う。媚びも嫌悪も厭味もない、ただそうであると告げる。
「ごめん。それで、誰、きみ」
「きみじゃないわ」
 なんだ、あいつらの仲間で間違いないのか。少し落胆した。
「わたし、渡り鳥。あなたはだぁれ?」
 なんだって?
「渡り鳥?」
「ええ、そうよ。わたしは渡り鳥。わたしは風。わたしは光。わたしは空。わたしは天使。わたしは悪魔。わたしは粘土。わたしは水。わたしは」
 すらすらと、決まり文句のように言う。
「どれなんだ?」
「どれもよ。どれもわたし。わたしは自由なの」
 少女はふとした隙に、僕の手から逃れた。
「あっ」
「ふふ」
 逃げるでもなく両手を広げ、その場でくるくると回った。
「はじめまして。いいえ、もしかしたらお久しぶりかしら。わたしはわたし。あなたじゃないわ」
「そりゃまあ、僕じゃないだろうね」
 要領を得ない。とりあえず危害を加える気は無いようだけど……。
「ねえ、みんなって」
「あら」
 質問しようとした矢先、少女はメイとマチを見て声を上げた。
「一人、二人、三人」
 指折り数える。
「なぁんだ、三人しかいないのね。お姉様から聞いたのと違うわ」
「お姉様?」
「ええ、あなたも会ったでしょう?」
 ゼノ、か?
「わたしはお姉様から生まれた。わたしはたくさん産んだわ」
 不明瞭だ。お姉様はゼノ? ゼノから生まれた? たくさん産んだ?
「何を、どうやって産んだの?」
「ボタンを押すのよ。教わった通りに。そうすると、たくさんの子供が生まれるの。千人は普通の子で、一人は特別なのよ」
 頭が混乱する。ヒントはたくさんあるのに。疲れているのもあるし、そもそも理解が及ぶ話なのかも判らない。
「それから、必要なことを教えるの。たくさんある記録の中から、相応しいのを選んで」
 話は聞きたい。聞き出せる限りは聞き出したい。しかし、今の状態でうまく記憶できるだろうか。
 ぐう、と、音が聞こえた。
 僕じゃない。振り向くと、メイの様子がおかしかった。腹の虫だ。
「お腹が空いたの?」
「うん」
 メイに代わって僕が答える。僕は今空腹じゃないが、休めるなら休みたかった。
「ごはんにしましょう」
 少女はひらりと跳ねる。体重を感じさせない動きだった。
「ここで待っていてね。すぐ戻るわ」
 扉から出て行くと、ふっと気が抜けた。僕はその場に崩れ落ちそうになる。慌てて手をついて、それでも座り込んだ。
「ユタカ?」
 メイが顔の目の前でしゃがんだ。手を肩にもたれかからせると、メイは静かに目を閉じた。それから僕の背中に手を回し、ぽんぽんと叩く。
 僕は意識を手放した。
 目を覚ますと、膝に頭を乗せていた。足はメイのものだろう。触れる肌でわかる。
 考えるのに一瞬。そう、あの少女だ。気が抜けた瞬間に倒れてしまった。僕はどうやら予想以上に疲れていたらしい。ただでさえメイを背負って歩いたのだし、新たに世界を取り入れるのは、思いの外疲れる。それが不確定ならなおさらだ。
「起きた」
 メイが僕の顔に手を添える。口が何かモグモグと動いている。僕はその手をそっと外して起き上がった。
 見回すと、部屋の隅にマチがいた。さっきとは違う部屋だ。小さな間接照明が一つだけ。薄暗い。古い洋館の一室のような、飾り気のある部屋だ。床はフローリングで、毛足の長い白の絨毯が敷かれている。僕はそこに寝ていた。他には冗談みたいなベッドが一つに、木製の机と椅子が一つずつ。手入れは今ひとつされていないようで、古びた印象を受けた。壁に湖を描いた風景画が飾られている。扉が一つあって、奇妙な模様が彫られている。窓は無い。絨毯の真ん中にはおぼんが一つ置かれていて、その上には果物と野菜が調理もされないままあった。
 あの少女の姿はない。
「あいつは?」
「えと、着替えるって」
「そう」
 メイが正しく認識している。それはつまり、少女が僕の世界だと認めたということだ。
 着替えだって? 何を悠長な……。
「マチ」
「……何?」
「何かあった?」
「何も。ユタカが倒れ、て、ここに、運んだ。食べ物を、持って来て、置いた。着替えると言って、どこかに、行った」
 それなら、そのうち戻ってくるだろう。
 僕はベルトに挟んだナイフに触れた。フラベティの持っていた大型のナイフ。何かあればこれで対応できる。
「食べる?」
 メイは歯形のついたかじりかけの林檎を僕に差し出す。
「ああ、うん」
 皮も剥かずに食べたのか。僕はそれを受け取り、かじった。甘い。酸味と甘さが口に広がる。
 見ればおぼんには林檎、葡萄、トマトなど、調理しなくても食べられるものばかりがのっていた。手を伸ばしてトマトを取る。
「あ、起きた?」
 トマトにかじりつこうとした時、少女の声が入って来た。扉が開く。
「…………」
「どうかした?」
「いや……」
 一目で僕は心を奪われた。
 白い少女は、黒い服を纏っていた。ドレス、なのか? 服にはあまり詳しくないが、それがあまりに美しいことは理解できる。
 黒を基調にした、レースをあしらったドレス。何層にも重ね合わせられた、優美な服。細部まで精緻に計算し尽くされた、黒と白。少女の白い白い肌に乗って、溶けるように混じり合う。誂えたように……いや、誂えたのだろう。少女以外の誰が着ても、これほど似合わないことが確信できる。装飾以外の意味はない。そして、それ以上の意味はいらない。
 退廃的で精力的。華美で簡素。単純で複雑。豊かで透明。漆黒、純白。躍動的で不動。形容の言葉はいくらでも浮かぶのに、そのどれもが矛盾している。うまい言葉が見つからない。
「お客様を迎える時は、正装をするのよ」
 少女は裾をつまみ、一礼した。
「いらっしゃいませ。ようこそ、宮殿へ」
 笑顔。これほどまでに矛盾した表情を、僕は見たことがない。喜びに満ち溢れたようでいて、全てを拒絶するような。柔らかく、深い。浅く、堅い。
 人形の顔は見る人の感情によって変わるというが、そんな感覚が近い。違いがあるとすれば、その表情はころころと変わるのだ。その全ての表情が、見る者によって違う解釈を持つだろう。一瞬一瞬、一つ一つ、全てが違う。目の開き、口の角度、眉の傾き、前髪の掛かりかた、眉間の皺、頬の動き。一つ一つが表情の意味を変える。たった今笑っていたのに、次の瞬間には悲しんでいるように見える。かと思えば哀れむような目にも見え、また笑って見えるのだ。
 人間にできる表情じゃない。かといって、人形にも不可能だ。背筋がざわつく。
「お客様?」
「そう。わたしの産んだ子達はここに入れないし、あなたはみんなじゃないわ。だったら、どこかから来たお客様でしょう? お客様なら、お姉様とも会っているはずよ。お姉様が通したのだから、あなたはお客様なのよ」
「あの、梯子の上の部屋にいる、あいつ?」
「ええ、そうよ。わたしを産んだお姉様。わたしを産むお姉様」
 僕はこの白い少女を世界と認めた理由を理解した。
 代替品。あまりに似ている。僕を魅了した、あの赤い目。幻想的に揺れる白い肌。形だけなら同一と言ったっていい。
 決して手に入らない、あの円柱。
 少しの違和感。代替品? 本当にそうなのか?
「あなたのお名前は?」
 メイが尋ねる。世界を増やすのはいつ以来だろう。マチが一番新しい世界だから、もう三年近くか。メイの目は好奇心に満ちていた。
「わたし? わたしは渡り鳥。わたしは風。わたしは……」
「それはもういいから」
 遮る。放っておくと、またいつまでも名乗りを上げていそうだった。
「じゃあ、みんなには何て呼ばれてる?」
「んー……」
 思い出すように、目を上に向ける。
 そもそも、みんなって誰だ。話振りから、こいつと暮らしている誰かだと思ったけど。
 ここには、どれくらいの人がいるのだろう。いや、それは人なのだろうか。
「シロ」
「え?」
「シロって呼んで」
「シロ」
 ミアが呼ぶ。
「はい」
「シロ!」
「ええ!」
「メイ」
「メイ?」
「メイ」
「メイ!」
「はい!」
 メイが楽しそうにじゃれつく。まるで同年代の子供同士のようだ。
 犬や猫じゃないのだから、もう少しましな呼び名があるだろうに。
「それじゃあ、シロ」
「ええ」
「いくつか、聞きたいんだけど」
「わたしも聞きたいことがあるわ」
「そうかい。じゃあ、僕の質問に答えたら、僕もシロの質問に答えるよ」
「わかったわ」
 嬉しそうに微笑む。それは、同時に悲しんでいるようにも見えた。
 ベクシンスキーの絵画のような、言い知れない不安。キリコの影ような、楽しげな寂寥。それは騙し絵みたいに、心のどこかを引っ掻く。
 何故だ。何故、シロはこんなにも僕を惹きつける?
「それじゃあ、まず、シロ以外の人はどこにいるのかな?」
「人?」
「君の世話をする人がいるだろ」
「あら。わたし、なんだって自分でできるのよ」
 得意げに胸を反らす。子供じみているとは言えない。見た目には子供と言っても間違いではないのだ。
「……そう。じゃあ、みんなはどこにいるの?」
「ああ、それなら、宮殿の中よ。みんなは色んな所にいるわ」
「そう、じゃあ案内してもらえる? そうだな、一番偉い人の所へ」
「偉い人? わからないわ」
 上下はないのか。小山真世が最も偉いと思っていたのだけど。小山真世の理想の中では、少なくとも人間は平等なのだろうか?
「そうか。じゃあ、誰でもいいや」
「ええ。わかったわ。でも、その前に」
「君の質問だろ? わかってるさ」
 扱い易いような、要領を得ないような。手放す気にはなれない。相互に利用しあうことが必要だ。
 僕はシロの目を見た。誠実そうに。そのほうが信頼できるだろう。
「それで、何が聞きたいの?」
「ええ」
 シロは薄い胸に手を当て、目を閉じる。それから、小さな口を開いた。
「わたしは何?」
 その問いに、僕はすぐに答えられなかった。意味がよく解らなかった。
「ねえ、わたしは何なの?」
「ごめん、どういう意味かよく解らない」
「うーんと」
 シロは顎に指をやり、上を見る。何かを考える時の癖のようだ。
「わたしの可愛い子達は、それぞれに役割があるでしょう? それは生産だったり、研究だったり、管理だったり、指導だったりするわ。お姉様は全部を見て、全部を知るのが役割でしょう?」
 当然のことを説明するように、シロは言う。
「この世界の中で、わたしだけが何も無いの。役割を与えられていないわ。あるのかも知れないけれど、わたしは知らないの」
 役割……。世界における存在価値。何の為に生まれて、何の為に生きるのか。
 そんなもの、自覚している人のほうが少ないだろうけど。
「ねえ、わたしは何? わたしは、何をする為に生まれたの?」
 生まれた、生まれた。同じ言葉だけど、意味が違う。
 シロが言うのは、何故自分が作られたのか。そういう意味だろう。
 人間の、いや、生物の生まれる意味は、次代に命を繋ぐこと。子孫を残すことが、生まれる意味だ。なら、子孫を残さずに死んでいく命には何の意味もないのかといえば、そんなことはないだろう。
 生きる過程で、生物は何かに影響を与える。それは他の生物の餌としてだったり、敵味方としてだったり、道具としてだったりするだろう。もちろん、子孫を残すこともだ。生物は、何かしらの影響を生態系に与える。
 それが人間になると、与えることができる影響は増える。
 優れた政治家、芸術家、宗教家、知識人など、多くの影響を与えた人の中にも、子供を作らなかった者は大勢いるだろう。
 なにもそんな大それた存在に限らなくてもいい。家族がいれば家族に、友達がいればその友達に、その人が所属するコミュニティーの中で、何の影響も与えない者はいないだろう。ほんの一度会話をしただけでも。例え天涯孤独の身の上だろうと、生きていく為に金は使う。社会に関わらずに生きている者はいない。ただ影響の大小があるだけだ。
 世捨て人だって生きている以上は食事をするし、生まれてすぐに死ぬ赤ん坊ですら、生まれる為に栄養を必要とするし、中絶で殺される胎児にすら、中絶費用だとかの影響がある。誰にも何の影響も与えない人間はいない。自覚のあるなしに関わらず。
 生きる意味とは、何かに影響を与えることに他ならない。自らの役割を知る人間なんて、ほんの一握りだけど。
 僕はそんなようなことを、かみ砕いて伝えた。
「あなたのそれは、哲学ね」
 シロは答えた。そう言うシロの姿は、妙に大人びて見えた。いや、実際に大人なのかもしれないと、そう思った。見た目から年齢が計れないのだから。
「そうじゃないわ。そういうことじゃないの。この世界は管理された世界だから、全員に役割があるはず。なのにその中でわたしだけ、与えられた役割が無い。そのことを言っているの」
「ふうん……」
 そんなもの、僕に解るはずがない。それこそ、役割を与える役割のやつにしか解らないだろう。
 作られた世界。その主導権を握るのは、小山真世だろうか。
「世界に役割を与えるのは誰?」
「お姉様。それに、エミット」
「エミット?」
「そうよ。エミットはお姉様と一緒に全部を見ているわ」
 全部を見ている? 小山真世ではないのか?
 エミット。嘘臭い名前だ。でも、支配者としては相応しいのかもしれない。
「なら、そいつに訊けばいいじゃないか」
「無理よ。エミットとお話ができるのは、お姉様だけだもの」
「それじゃあそのお姉様に」
「お姉様が教えてくれないから、あなたに訊いたのよ」
 なるほどもっともだと納得する。
「うーん……今すぐ答えなきゃ駄目かな?」
「いつでも構わないわよ。時間に限りは無いのだから」
 本当の意味で、それは正しいのだろう。僕に適用されないだけで。
 なあ、こんなの最低だろう?
19, 18

  

 生の果物と野菜ばかりの食事を終えると、体力は幾分回復した。歩いてみて、血糖値が上がったのを実感する。
 シロはおぼんを持って立ち上がると、歩いていって壁を触った。すると壁がへこんで穴が現れた。ダストシュートか何かなのだろうが、皮や芯なんかの食べかすを壁の穴に放り込む。おぼんには果汁やらなにやらが付着していたが、一向に気にする様子もなく机の上に置いた。
 それだけ終えると、シロはどこかそわそわとした様子で腰を下ろした。僕はシロの求めていることを察した。なんのことはない。褒められるのを待っているのだ。
「自分のことができるっていうのは、本当みたいだね」
 僕が言うと、シロは取り澄ました顔で目を閉じる。
「当たり前じゃないの」
「そうだね、ごめん」
 僕はシロについていくつかのことを推測した。
 シロは褒められることに慣れていないか、日常的に褒められているかのどちらかだろう。表面を取り繕うあたり、前者の可能性が高いか。軽いものではあるが、プライドというか、虚栄心というか、そういったものを満たされたがっている。
 どちらにせよ、まるっきり子供だ。
「それじゃあ」
「ええ、行きましょう。そうする約束だもの」
 皆まで言わなくても、こちらの意図を察する。世間知らずにしろ頭はいい。言葉の言い回しからも独特の知性を感じた。
「メイ、マチ、行こう」
「うん」
 二人は僕が観察しているのに気付いているから口を挟まない。場合によっては僕以外の誰かが対応したほうが事を運びやすいこともあるけど、今回は僕が適任だ。
 まだ、シロの世界を今ひとつ理解できていない。気分はすっかりその気だけれど、シロを僕の世界にするには、もう少し時間が掛かりそうだった。
 部屋から出ると、環状の廊下だった。ちょうどあの研究所のような。しかしあちらよりは装飾的で、扉や壁には彫り物があるし、照明は生きていた。センサー式で、蛍光灯や電球ではなく、空と同じモニター照明だった。本当に三十年も前の施設なのかと疑いたくなる。
 廊下を歩く。シロを先頭に、僕、メイ、マチの順。いくらか歩くごとに扉があった。シロはそれらに目もくれない。
「ねえ、まずどこに行くつもり?」
「え? みんなに会うんでしょう?」
「うん、まあ」
「一番近い人で、三つ上の階よ。エレベーターを使う?」
「いや、任せるよ」
「わたし、エレベーターは嫌いなの」
 ここはシロに任せたほうがいいだろう。下手に口を出すと機嫌を損ねる。案内に関してはもう何も言わないことにして、別の質問をする。
「シロはさ、いつも何をしているの?」
「何をって?」
「今は僕らの案内をしてるだろ? 僕らの案内をしていない時はさ」
「そうね……本を読んだりしているわ」
「へえ、どんな本?」
「学術書よ。研究とかの。古いものばかりだから、古典のようなものね」
「その手の本は、今はほとんど電子書だからね」
 劣化しない、場所を取らない、整理が簡単で探しやすい。娯楽以外のデータは、電子化されるのが一般的だ。持ち出しは容易で、だからこそ対策、セキュリティは必要なのだけど。
 研究所を思い出す。あそこのデータ管理は徹底していた。外部からの接続が無ければ、あとは内部の犯行しか考えられない。
 研究の世界は日進月歩だ。研究者には、常に最新の情報が求められる。だというのに、紙媒体の古い資料? 役に立つのか?
 無意味じゃない。でも、有用でもないはずだ。だからやっぱり、それらは娯楽のようなものなんだろう。
 少なくとも、そんな趣味を持つ輩がいるのは間違いない。紙媒体を捨てられない愛好家は数多い。僕やマチもその一人。
 その感性も好ましい。


 シロと会話をすることで、情報がいくつも得られた。これは、思ったより有用かもしれない。僕が話題を振ると、丁寧に答えてくれる。言葉足らずなうえ独特の世界観を持っているから要領を得ないことも多いけれど、コントロールは追い追いできるようになるだろう。
 当たり前のように出る言葉の端々に、僕の常識からすると理解できない内容がある。
「本を読む以外には?」
「うーん……改めて言われると、よくわからないわ。ずっと同じことをしているわけではないもの」
 シロは眉をハの字にした。行進するように手足を大きく動かす。
「でも、そうね。あえてしていたという言い方をするのなら、なんでもないことをしていたわ。お絵かきとか。誰にも見せない落書きだけれど。あとは、古い美術品を見たり、楽器を触ってみたり、そんなところ」
 この理想郷の中にいて、やっていることはそんなものなのか? 新しい情報に触れることもなく、暇を持て余すことが幸せなのか? 小山真世の理想は、そんなものなのか?
「つまらないな」
「ええ。やるべき事が無いのは辛いわ。無為に過ごす時間を楽しむことはできるけれど、無意味に時間を過ごすのは、終わらない苦痛でしかないもの」
 僕はシロに奇妙な人間臭さを感じた。見た目は間違いなくあいつらだ。でも、本当に中身までそうなのか? 記憶の移植が出来るのなら、適合できる脳さえあれば見た目は別人になれるのではないかなんて、そんなことを考えた。
 考えたって厄体も無い。それを肯定するのなら、全部が全部怪しいじゃないか。
「何をしてもいいってのは、裏を返せば何もしなくてもいいってことだもんな。行動しないのも自由だ。結果として何も残らないけど」
「何もしなかったわけじゃないわよ。知識を蓄えて、ずっと考えていた。でも、あなたの言うように、何かに対して結果を残すことが『行動』なら、わたしは何もしていなかったわ」
「結果を残すことができるやつなんてほんの一握りだよ。少なくとも、僕は何も残せていない」
 僕は世界を構築して、その中で排他的に暮らしてきた。何かに影響を与えたとすれば、それは世界の中身とその周りにだけ。
 どれだけ多く見積もっても、結果らしい結果なんて無い。
 一つの宗教組織、一人の死、五人とその家族の生活、そんなものだけだ。
 そしてそれは僕の都合ではなく、誰かがそう望んだか、望まなかった結果でしかない。僕の都合と誰かの都合が合致してこそ、僕の世界になる為の行動がある。
 僕の世界の中で、僕の都合だけでそこにいるものはいない。少なくとも、全員がそう思っていると僕は思っている。
 僕はメイの信者で、マチの物語の主役で、ミアの最期を見届けた。ミアの望みは、今は叶えられないけれど……。
 そして、僕はシロの導き手になる。
 多分に恣意的に、僕の好みに偏向させるにしても、僕はシロを世界にしたい。シロには本来、僕の世界になる資格が無い。それでも無条件でそう思わされたのは、やはりあの紅い目のせいだ。見た目が内面に勝ったのは、僕の経験に無いことだった。
 世界は僕を必要としなくてはならない。僕を必要としない世界は世界ではない。その意味で、シロは非常に微妙な立場にいる。必要とするか否かは、これからの僕にかかってくるだろう。
「結果なんて、一側面だけから見てもわからないものさ。もしかしたら、僕らをこうして案内する為に生まれたのかもしれないよ」
「ちっぽけな理由ね」
「例えばの話だよ。目的なんて、一つだけとは限らないんだから」
 シロの中に僕の居場所を作る。僕の隣にシロの居場所を作る。
 簡単なことだ。必要とされるには、自分も必要とすればいい。
「結果的にだけど、君の生まれた意味の一つ。僕らは君が必要だ。君は僕を理由に生まれた意味を作ればいい」
「……つまんないわ」
 そう言った顔は、否定的とは言えなかった。
 役割を与えることで成長する人がいるが、シロはきっとその類だった。
 シロは大手を振り、足取りも軽く僕らを先導する。その様子は、端的に言って浮かれているように見えた。なにせ話の通りなら、シロは生まれて初めて役割を与えられたのだ。
 そんなシロを、メイが興味津々といった様子で見ていた。僕の態度を見て、自分が応対しても大丈夫だと判断したのだろう。もう僕の探りは終わったから、メイにも交流してもらいたい。メイは話したくてウズウズしているのだが、シロはずっと前を見ているから、それに気付かない。
「うう~……」
 廊下を進む。階段を上がる。踊り場に絵が飾ってあった。有名な絵のレプリカだ。タイトルも作者も知らないが、どこかで見たことがある。横目に通り過ぎた時。
「ねえっ」
「え?」
 メイは意を決したのか、シロに話し掛けた。
「なに?」
「んー」
 シロは振り返って立ち止まる。メイはその目をじっと見詰めた。
「綺麗だねっ」
 メイは僕と同じ感想を漏らす。あんな近距離でじっと眺めたことはない。さぞや美しいのだろう。僕の美的感覚では(概ねイカレてると思うが)、形状は思想、色彩は感情だ。僕の見た目に関する嗜好は、その姿形よりも、色に対する依存が強い。鮮烈な色や、淡い色、要素は様々だが、僕は色で造形を捉える。調和とは違う、その色が他の色の中で映えているのを、僕は好む。数ある僕の嗜好の中では、割と一般的な部類に入るだろう。
「そうかしら」
「うん、綺麗だよー」
「まあ、そうでしょうね。お姉様から譲られた大切な目ですもの」
「舐めてもいい?」
 同じ感想と言ったけど、前言撤回。そんな感想は抱いていない。
「駄目よ」
「ええー」
 にべもなく拒絶され、不満げな声を出した。
「いいでしょー」
「ねえ、なんなのこいつ?」
 シロが僕に助けを求めた。僕はにこりと笑って何も言わない。
「……行くわ」
 前に向き直り、歩みを再開する。
 いつもなら、ミアがメイのフォローをしていた。ミアさえ居れば、もう少し違う反応を引き出せていたのかもしれないと思うと……いや、意味の無いことを考えるのはやめよう。今ここにあるのは、メイとマチと僕、シロだけだ。
 シロは努めて前を向いていた。僕らの目に見えぬ距離にある場所を狙うように頑なだった。
 シロの足が止まる。ほんの少したたらを踏み、かかとを合わせた。
「ここよ」
「え、どこ?」
「この中には、アカサカがいるの」
 アカサカ……赤坂、だろうか。名前からすると人間だ。おそらくこの場所を作った一人。それは一体どんな人物なのだろう。当時既にそれなりの――選ばれるくらいの――地位にいたのなら、今は七十か八十か、そんなところだろう。真新しい白衣を着た、科学者然とした男を思い浮かべる。細身で眼鏡をかけた男だ。赤坂は想像の中で白髪頭を揺らし、フラスコやビーカーを揺らしていた。
 扉はどこも同じだった。さっきまでいた部屋と同じ、彫り物のある扉。洋館の一部のようでいて、恐らくは木製ではない。よく見れば無機質なのがわかる。木目の硬化プラスチックだろう。ちょっと見では木製に見える。ドアノブがあって、その下にカードを入れるソケットがある。
 シロが扉をトントンとノックした。
「アカサカ、入るよ」
 返事を待たず、シロはノブを握った。鍵は掛かっていないようで、軋むこともなく扉は開く。僕は軽く身構えた。またフラベティの時のようなことは御免だ。マチと目を合わせる。マチは小さく頷いてメイの前に立った。
 扉の中は暗かった。シロが入ると同時に薄い電気が点く。蝋燭に似た淡い光。センサー式の自動照明。簡素な部屋。ホテルの一室のような、十畳くらいの部屋の中に、ソファとテーブル、執務机、本棚とベッドが見える。薄暗くてよく見えないが、部屋の中には何の気配もない。
 一歩中に踏み入ると、微かな匂いがした。
「……留守なんじゃないか?」
「いるよ」
 僕が言うと、シロは執務机を指差した。
 視線をそちらにやる。薄暗い部屋に目が慣れていく。ぼんやりとした輪郭しか見えなかった室内が、徐々に鮮明になっていった。
 そこには確かに人がいる。
 まず輪郭。それで誰かがそこにいることが知れる。目を凝らすと、その誰かが椅子に座り、頭をもたげているのがわかった。
 僕は息を飲む。
「これがアカサカよ。アカサカ、こっちはユタカ。お客様よ」
 シロが紹介する声は、耳に入ることもなくすり抜けた。
 二つの目が、僕を見ている。
 空洞だ。真っ暗な二つの穴が、呆けたように僕を見ていた。
 あれは――あれは、……じゃないか。
 カラカラに乾いた、頭蓋の形になった顔。骨に皮膚が張り付いただけの、地面のような色をした身体。ぼろきれのように薄汚れた衣服が絡み付いた身体。両手を手摺りに乗せ、まっすぐ前を向き、来訪者を出迎えるような姿勢で固まっている。
 そこにいたのは、確かに人間だった。
 いや……人間だったものだった。
「ユタカに、アカサカ」
 シロが嬉しそうに言う。案内役としての職務だとでもいうように、そうするのが当然のように。
「ああ……」
「アカサカはね、遺伝工学のエキスパートなのよ」
 自分の手柄を自慢するように、シロは胸を反らせた。
「ほら、挨拶して」
「うん」
 僕は赤坂に近付く。メイとマチも続いた。シロは執務机に両手を着いて、ピョンピョンと身体を浮かせる。
「シロ」
「なにかしら?」
「赤坂さんはいつから動かない?」
「え?」
「どのくらい前に、赤坂さんは動かなくなった?」
「ずっとよ」
 シロは言った。
「会話をしたことは無いわ。でも、いつも会っているのよ」
「そう……」
 とどのつまり、そういうことだ。シロには、シロにとっては、これも人間なんだ。
 生きていても、死んでいても、シロにとっては同じ人間。
 僕はそのあまりに無垢な存在に、畏怖にも似た感情を抱いた。
 シロは決して無知ではない。会話の端々に知性と教養を窺わせる。基本的には子供のようだが、そうすることがより人間らしいということは知っている。
 ただ、決定的に、シロは知らない。教える者がいなかったのか、教えなかったのかはわからないが、多分、後者だろう。シロはごく当たり前のことを知らない。
 人間は、死ぬのだということを。
「シロ、これはね」
「ん?」
「アカサカさんじゃない。これはアカサカさんだったものだ」
「…………?」
 よくわからないといった様子で首を傾げた。
「アカサカはアカサカでしょう?」
「そうだよ。でも、これは……」
 そこまで言って言葉を切った。それから僕は想像する。この無垢な存在は、きっと人為的なものだ。その身体から有り様、全てに至るまで。シロ。真っ白。真っさらで、何にも染まっていない。知識だけを詰め込まれ、それを活かす術を持たない。自分で何一つ考えない。考えることを教わっていないから。だから、死体を死体と認識できない。目の前にあるものの正体を知っているのに、それがそうだと解らない。
 赤子か、コンピュータのように作られた。
 何のためにこんなものを作った? 決まってる。怖いからだ。思考を与えては。指向を与えては。嗜好を与えては。
 趣味が悪い。
 死が、その絶対的な暴君が、あまりにも遠い。
 死ぬことの意味を言葉で知っていても、死ぬことがどういうことだかは知らない。それがどんなに変わっても疑問を持たない。変化に対して考える事を放棄する。
 奇妙なバランス。綱渡りのような価値観。
 汚いものを根こそぎ排除した、あまりにもあまりにも綺麗な存在。
 壊したいと、そう思った。
 下卑た妄想。単純に純潔を踏みにじるのとはまた違う。真っ白な壁に落書きをするような、澄んだ水に不純物を溶かすような……違う。それをしたらどうなるのか、知っていてもしたくなる。そんな気分が近いだろうか。
世界にひとつしかないものを破壊したり、夢を語る子供に、その不可能性を説くように。
 見せ付けてやれば、シロの価値観は変わるのだろうか。命とは何なのか、死とは何なのか。
 でもきっと、それをするのは僕の役割ではない。方向性を誘導したり僕の都合を押し付けることはあっても、その人の根幹に関わる物まで変えることはしない。しないし、出来る限りはしたくない。
「いや、なんでもない」
「そう……?」
「それよかさ、できれば会話のできる相手がいいんだけど」
 死体と会っても意味がない。ミアがいれば別だったかもしれないけど。死体は何も言わない。
 いや、臭わせることはするだろう。死体の匂いということではない。情報を残す、いや、遺すことはある。例えばこの死体ならば、目立つ外傷も血の跡もなく椅子に座って死んでいることから、病気か何かの突発的な死であることが解る。またはここではない場所で死に、誰かがわざわざここに運んだかだけど……死者を生前と同じ環境に置く埋葬方法があるらしいが、それくらいしかこんなことをする理由が浮かばない。恐らく前者だろう。あくまで推測でしかないが。
 え?
 ふと、疑問がよぎる。
 何故、死体をそのままにしておく?
 クローン技術があるのだ。このアカサカとは違っても、アカサカはきっとどこかで生きているだろう。
 例えばアカサカがクローン技術で生き返ったとして、自分の死体を保管したいと思うだろうか? 一般的には否定。限定的に肯定。自分の死体を眺めたいとは思わないだろうけど、処分するとして、自分の身体が焼却なりゴミになるというのに忌避感があってもおかしくないし、何かを保管しておくコレクションのような趣味は有り得ないでもない。
 どちらでも有り得るのだから、この考察は意味がない。
 それよりも、そうじゃない場合だ。
 そもそも、片付ける人がいないとしたら?
「いないわ」
「え?」
 僕の推測を読んだわけじゃないだろうけれど、絶妙のタイミングでシロが言った。
「会話できる人は、いない。お姉様だけよ」
 …………。
 会話できる人は、いない。
 勿論、死体を片付ける者も。
「なら……」
 クローンはどうしたっていうんだ? 死んだ人間を再生する、あのクローンは? こんな場所を作っておいて、漫然と、ただ死んでいったっていうのか?
何百年も生きた後なら分かる。生きるのに飽いたというのなら、死んでしまっても。でも、まだほんの三十年だ。三十年で生きるのに飽きたとでも言うのか?
 有り得ない。
 そんなやつが、こんな場所を作るものか!
 なら、やはり何かあったのだ。クローンを作り、命を長らえることもできないようなこと。
 例えば……クローン技術を扱える技術者全員が、同時に命を落とすような……そんな決定的な何かが。
「全員が」
「え?」
「全員が、アカサカさんみたいな……つまり、会話のできない状態なのか?」
「ええ」
「会話できるのは、お姉様だけ?」
「そうよ」
 宮殿――この塔に、生きている人はいない。
 お姉様とはゼノのこと。どう会話するかも知らない。ゼノがいるのは遥か高みだ。シロはどうやらここで暮らしている。どうやって会話をするというんだ?
 決まってる。通信方法があるんだ。
 何故、誰が殺した? 理由は?
 そんなもの、もういい。どうでもいい。僕の疑問は一つだけ。
 今この場所で、クローン技術は使えるのか?
 それだけ解ればそれでいい。
「シロ」
「なに?」
「ゼノとは、どうやって話す?」
 ゼノという言葉に、シロは反応した。
「お姉様、お名前を、あなたに?」
「ああ」
「ふぅん……」
「それで、どうすればいい?」
 シロは含みのある目をして、くるりと僕に背を向けた。
「あなたには無理よ」
「どうして?」
「人間だもの」
「はぁ?」
「あなたは人間だもの。人間ではお姉様と繋がれないわ」
 意味がよくわからなかった。人間……つまり僕らだ。ここに死体がある以上、人間は僕ら三人……ああ、あとは記者達がいるか。でもたぶん他にはいない。
 人間ではない者……つまり、あいつらだ。それは種族として考えていいのだろうか? つまり人種や文化圏の違いだとか、そういうことでなく、DNAからして人間ではない、いわば新しい生き物だと。
 だとしたら、何かしら名前のようなものがあるはず。この種族についての情報はほとんど無かったから、今が訊くにはいい機会だろう。他にもいくつか訊きたいことがある。
「……人間には無理、か。なら、何になら可能なんだ?」
「わたし達よ」
 シロは右手を胸に当てた。
 あいつら。わたし達。この場合のわたし達は、個人ではなく全体を指すのだろう。複数形の時も単数形の時も同じ言葉を使うからややこしい。
「僕らは人間。では、君達は?」
「わたし達はわたし達よ。人間じゃないもの。人間でもないし、他の生き物でもないもの。それ以上の意味はないでしょう?」
「この空間には人間がいる。牛もいる。豚も鶏もいるね。区別の必要はあるんじゃないかな」
「羊もいる。犬や猫、ネズミや猿もいるし、全ての生き物には名前がある。空だって渡り鳥だって、そのくらいは知っているわ。そして、それ以外がわたし達なの」
「全部の、他の全ての生き物以外?」
「それがわたし達。全部とそれ以外よ」
「だから、名前はないと?」
「必要がないのよ」
 シロは人差し指を唇に当てて言った。
「何にどんな名前が付いているとしても、その名前を呼ぶのはわたし達だけだから。人間はもう、どんな名前も呼ばないわ」
 人間はもう呼ばない。
 人間はもうここにはいないから。
 人間はもう……シロや、他の動物を呼ばない。
 だからって……それでも。
「それでも、かつては必要だったはずだ」
 人間が生きていた頃。そう遠くない昔。言葉は人間のものだから、一人称は人間のみを指したはずだ。人間以外を指す言葉として『私達』は相応しくない。何か呼称があったはずだ。
「無いわ」
 シロが言う。
「だってわたし達が知らないんだから」
「それは君が知らないだけだ」
「君、達」
「君達が知らないだけ」
 人間が人間の尺度で話す時に『我々』と言えば、それは人間を指す。自分と、自分以外のもの。世界は大雑把に分けると、この二つしかない。僕らの言葉は、人間本意のものだ。だから、一人称とはあくまで人間のみを指す。そうでない場合は擬人化したものだ。
 人間を自分達ということはあれど、人間以外をそう呼ぶことはない。言葉とは、そういう不自由さを抱えている。
 つまり、一人称を使うのは、生き物全ての代表と同じ意味を持つ。人間は全ての生き物の代表であり中心。あくまで価値観の中でのことに過ぎないが。
 支配者、責任者である人間が死んだ今、生き物の代表はこいつらになったのだろう。
 しかし。
「不便だな」
「そうかしら。必要なら必要と言うでしょう?」
「ゼノと話ができるなら、自分達の名前を訊いてみれば?」
 僕は挑発するように言った。
「僕らには無理でも、君達はできるんだろ?」
「二つの理由で無理よ」
 シロがツンとすました顔で言う。
「一つ、わたし達には本当に名前なんか無いわ。名前があるのは名前が必要なものだけよ。二つ、わたし達は確かに繋がっている。でも、そこに用いるのは言葉じゃないわ。あなたに伝わるとも思えないけれど、強いて言うなら、映像、波長、匂い、それに体温。その中間にある感覚が行き来するようなものなの。黄色と赤の真ん中で、石のように熱くて、甘くて苦い香りがするの。時々、冷たい光が走るのよ」
 理解不能。僕にはさっぱりわからない。テレパシーのようなものを想像していたが、言っていることが正しいとするなら、もっと漠然とした大雑把な感覚なのだろう。おそらく、虫の知らせか胸騒ぎのような。
 伝えたいことを全て伝えられたら、それはどんなに良いだろう。そして、どんなに残酷だろう。どんな手段を用いても、全てを伝えるのは不可能だ。それは時に救いでもある。
 もう駄目だろう。頭にそんな言葉が浮かんだ。
 今のは知らない話でもないから、新しい情報が増えたとは言えない。新たな情報か、新たな展開が望ましい。望ましいだって?
 僕は突き動かされるように質問を考えた。
「シロ、クローン製造はどこでやるんだ?」
 クローン。ミアの髪は僕が持っている。DNA配列さえあれば再生はできるはずだ。
 生まれてくるそれが、本当にミアなのかはわからないけれど。SFなんかでよくあるじゃないか。身体は同じでも中身が違うだとか、クローンには同じ魂が宿らないだとか。
「んー……たしか、培養装置は上に七つ行った階にあるけど、制御をするのはその上よ」
 シロは面倒臭そうに言った。
「でもわたしは使い方を知らないわ。使ったことがないから」
「そうかい」
 僕にはマチがいる。マチなら大抵の機械は操作できるだろう。マニュアルがあればいいのだけど……問題は機械が生きているか、生きているとして、素材があるかだ。
「じゃあ、そこに向かうとしよう。案内してくれる?」
「ええ、いいわよ」
 嬉しそうな顔。きっと頼られるのが嬉しいのだろう。
「マチ、いけるか?」
「大丈夫、だと、思う。操作履歴は、探れる。でも、アナログな部分は、自信がない」
「マチならできるさ」
 頭をぽんと叩くと、マチはこそばゆそうに首をすくめた。
「ごめんな、いっぱい働かせて」
 マチの理想は、第三者なのに。
「平気」
「うん、さんきゅ」
「ミア、が、いないのは、やっぱり寂しいから」
 そう言ったマチは、いつになく登場人物で、その理由はやはり読者だった。
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