僕は事故にあった。それは一瞬の出来事で、気がついたときにはもう僕の体はベッドの上にあった。
それから僕はずっと眠り続けている。植物状態ってやつだ。だけど、(医学的にどうかは知らないけど)僕にはしっかり意識があった。だから、彼の事にもすぐ気が付いた。
彼がきたのは、僕がこの病室に移動になったその日の夜の事だ。
僕がふと目を覚ますと、ドアのところに誰か立っていた。
僕は、声をかけた。
「誰?」
彼は俯いたまま、僕の問いに答えようともせず、静かに言った。
「そこを、どいてくれ」
「どいてあげたいのはやまやまだけど、ごめん、無理なんだ」
「……たのむ、どいてくれ」
「どうして?」
「そこに、彼女がいたんだ」
「でも、今はいない。いるのは僕だけだよ」
「……」
彼は見たところ三十代前半くらい。背は少し高め。痩せていて、不健康そうだ。
「どいてくれ」彼はまた繰り返した。
「悪いけど無理なんだよ。このままじゃダメかい?」
「君には、何故かこれ以上近付けないんだ」
「そっか……でも、明日になれば、ちょっとくらいはここを離れる事、あると思うけど……?」
「今日じゃなきゃダメなんだ」
「何故?」
彼はいっそう暗い声で答えた。
「今日は、彼女の命日なんだ」
……さて困った。詳しい理由はわからないが、彼はどうしても僕にどいてもらわないと困るらしい。しかし僕はここから自力で離れられない。誰かを呼ぼうにも、僕にはそれをする力も無い。
そんな僕を見て、彼は苛立たしそうにしている。
「頼む、早くどいてくれ。早くしないと、彼女の命日が終わってしまう!」
時計を見ると、今は夜の十一時半。明日はもう目の前だ。
「ちょ、ちょっと落ち着いてくれよ。まずはわけを話してくれないか? それでどうなるわけでも無いけれど……」僕がそう言うと、彼は少し考えてから、口をひらいた。
「俺は、今日、死んだんだ」
驚いた。
どうやら彼は幽霊らしい。
幽霊って本当にいたんだ……
「今朝、ビルの屋上から飛び降りたんだ。本当は、即死する予定だったんだけど……なのに、なかなか死ねなくて……こんな時間になってしまって……」
「そ、それで、どうしてここにきたの?」
そう、そこが問題なのだ。
「俺は、彼女が死んでから、ずっと、死のうと思ってた……それで、今日やっと決心がついたんだ……。死んだあと、俺の目の前に死神が現れた。よく、漫画なんかに出てくるようなやつが、だ。そいつは言った『さぁ、地獄へ行こう』ってね。俺は焦った、あの子が地獄にいるはずが無い、このままでは死んだ意味が無い、と。それで俺は死神にたずねた『彼女に会うにはどうすれば良い?』と」彼はそこで一息ついてから、また語りだした。「すると死神は『今日中に、彼女が最後にいた場所に行け』と言った。だから、俺はここにきたんだ。しかし、そこには君がいた。さぁ、これでわかっただろ? 頼む、時間が無いんだ、今すぐそこをどいてくれ!」
……これは大変だ、後追いなんてどうかと思うが、このまま彼女に会えないなんて、あまりに可哀想である。
しかし、僕は自力でここから動けない。何か誰かに伝える術はないかと考えても、やはり何も思いつかない。
「うーん、やっぱり無理だよ。悪いけど……あきらめられないかな?」
「あきらめられるわけがないだろう!」
もっともだ。
なんてったって、彼は彼女に会うために、命まで捨てたのだから。
「……彼女が地獄にいる、って事はないのかな?」
「そんな事あるはずがないだろう! 彼女は……彼女はそんな人間じゃない!」
「い、いや、そうなのかも知れないけど……もしかしたら、さ」
「ありえないな」
「じゃあ『最後にいた場所』っていうのがここじゃないって事は?」
「他に思い当たる場所にはもう行ってきた。何も、起こらなかったよ」
これはやはり、僕がここからどくのが一番の解決法だろう。
「ねぇ、どうしても近付けない?」
「あぁ、君の体質か何か知らないが、本当にいい迷惑だ」
そう言われても困る。
そんな事、今の今まで知らなかったし、それがこんなカタチで迷惑をかける事になるとは、誰が予想できただろう。
「あぁ……俺は死んでも彼女に再会できないのか……」
「ま、待ってよ、まだ時間はある。二人で考えよう」
しかし、もう時計は十一時四五分を告げている。
しかも、何も思いつかない。
それから二人で十分ほど考えていたが、ふいに彼が口を開いた。
「……もう良いよ。後追いなんてした、バチがあたったんだ。死神が迎えにきた時から、俺はもう地獄にいるのさ……」
彼は完全にあきらめていた。
心なしか、体も薄くなっている。
「そんな……あきらめちゃダメだよ! まだ、時間も残ってる」
しかし彼は首を横に振ると、くるりと僕に背をむけた。
そして一言、「同情してくれて、ありがとう」と呟くと、夜の闇へと溶けてった。
部屋には、僕と夜だけが残された。
胸が、何故か、ひどく痛む。
(あぁ……何だろう、こんな悲しい気持ちは初めてだ……くそっ! 僕がここにいなければ……)
鼓動がスピードを増していく。
後悔は血液に乗って体中を駆け巡る。
その時だ。
どたどたと数人の医師が僕の病室に駆け込んできた。
彼らは何か叫びながら僕の方へと近づいてきた。
そして、僕は病室の外に連れ出された。
十二時ちょうどの事だ。