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童貞を捨てる話:maatsha

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 他愛ない、というのが男の持った感想だった。男は今さっきまで童貞だった。こじらせたチェリー野郎だった。それを捨てることにある種の信仰すら抱いていた。その瞬間というのは、とてつもない感動があるに違いないと、そう信じ込んでいた。
 ところがどうだ、いざ捨ててみるとこれがちっとも心動かされない。童貞であったときと、捨てたときと、たしかにそこには隔たりがあると思っていたのに、過ぎてしまえば何のことはない。以前も以後もなく、己はただ己であった。

「だが、」必要なことだった、と男の口から音が漏れる。なるほど、必要だった。このときこの場で、男には童貞を捨てる必要性というのが充分にあった。それほどに切羽詰った状況ではあった。捨てるべき、などという微温的なものではない。捨てなければならない。断じるに不足のない状況なのだった。
 男と女とはその半生ほどを互いに友として過ごした。過ごしたがしかし、この男女での組み合わせが今の状況、男の童貞を女に捧げるようなことに陥るなどと想像してはいなかった。互いの人生の上で欠かすことのできない大切なピースではあったろうが、番う相手だという想定はお互いの中にやはりなかった。だのに。
 男は傍らで横たわる女を見た。全裸だ。彼の童貞を持ち去った当人である。今はもうこちらに背を向けて、寝息を立てることもなく静かに眠っている。いつの間にか露わになってしまった肩に、男はブランケットを掛けなおす。いい女だった。閉じられた目が開き、下がった口角が頬に引かれ上がり、柔和に優美に微笑む様が寝姿からも想像できる。だが今は、そう「今は、」

「おやすみ、友よ」

 そう声をかけると男はこれまで座っていたベッドを後にし、まずは悠長にシャワーを浴びた。次いで正装と言っていいほどきちんとした服を着込み、そうしておいてから再び、女に声をかけた。

「では、行こうか」

 女は動かない。応答もない。男はそれ以上の声を上げず、淡々とブランケットで女の体をくるむと、ひょいと横抱きに持ち上げた。

「はは、やはり人1人抱きかかえるのは結構つらいものだね。
 さぁ、海にしようか。山にしようか。折角の週末だ。
 遠く、とおくへ、行こうじゃないか」

 男と女が去った後の部屋では、夥しい血痕の残されたベッドがただ、そこで誰かの命が絶えたことを喧伝しているのだった。
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