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第一章『斯くして彼は終わってしまった』

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1.

 真っ暗だった。それはもう、自分の手足が見えないくらいに。
 目を瞑っているのか、開いているのかもわからない。そんな暗闇。
 往生際が悪い事この上ないが、こんな状況になっても、まだ死んだと認めたがらない自分が居る。当然だ。
 それと言うのも、いつも通り、いや、いつも以上に幸せを感じる日になるはずだったことにある。趣味として買っていた宝くじで、なんと一等を当ててしまったのだから。薄給の派遣社員である俺に突然舞い降りた異質の幸運。前後賞込みの三億円だ。
 そんな具合で、るんるん気分なんて今時少女漫画でも使わないような言葉を脳裏に掠めながら家に帰っていたら、これだよ。自転車を漕いでたはずなのに、気付けば真っ暗。なんだこりゃ。人生お先真っ暗ってか。上手かねえよ。
 原因を考えた結果、おそらく交通事故的な突発っぽい何かで死んだに違いないという仮説が俺限定で最有力候補だ。非常にあてにならない。
 まあ、死後の世界なんて死んでからしかわからないしな。こうやって物を考えることが出来るってのもあり得る。……そのうち生まれ変わったりしちゃうかもしれない。困る。未練どころじゃ済まされんぞ。億だぞ。
 なんて、答えが出ない考えを何周もしていたりする。どれだけの時間この場所に居るのか分からなくなってきたりもする。
 どこぞの宗教観では天国だの地獄だの在るらしいが、なんてことはない。何も無い。せめて神様的な案内人が欲しい。永遠にここで同じことを考えて過ごすなんて、それこそ地獄だ。考えるの止めちまうぞ。
 ……と、考えたのも何周目か。恐ろしい事に、そろそろ考えることが無くなってきた。秘蔵の恥ずかしい記憶まで引っ張り出して色んなことを考えてきたつもりだが、なあに、弾が無い。これで手足が動いて触感が有れば、もう少し暇潰しが出来たに違いない。しかしながら、何度か試しても手足は動かず、仮に動いていたとしてもそれは見えず、さらに触感が無い。
 これも今ので三周目だ。人間、やれば出来る。泣きそう。
「なるほど、人間ってのはそんなことを考えてるんだね」
 ……涙が出た。
「しかもここで泣き始めるという不可解な行為。さらにわからなくなるなあ」
 俺がここに来てから三分、いや一年、いや、とにかく。目の前に怪物が現れた。しかも何やらこの怪物、人語を解している。
 外見を事細かく説明するとしたら、まず目に付く所が青黒い色をした体表。次に、人間で言う手足らしき部分が少なくとも五十本以上生えている点……やっぱこれが一番目につくわ。続いて、胴体らしき部分には無数に生えている牙を見せつけるように、大きな口が開いている。あと忘れてた、コイツでかい。胴体は目測五メートルを超えていて、一本一本の手足が俺の身長より長い。そんな怪物。
 そう、そんな怪物が真っ暗な空間にいきなり毒々しい色を撒き散らしながら現れて、さらに意外と親しそうな口調で話しかけてきたら涙も出る。やっと変化が有ったと思ったらこれだ。涙も出る。
「なんで俺がこんな目に遭わなきゃならんのか――あ、声が聞こえるぞ」
「うん、ごめんごめん。何かが入ってきちゃったのは気付いてたんだけど、面倒くさくて今まで放置しちゃってたんだ」
 と、怪物は俺の目の前で手足をわさわさと動かしながら言ってのけた。
「オイ、放置ってどういうことだ。面倒くさいってなによ。いろいろと説明しろ」
 今まで溜まりに溜まっていた現状に対する鬱憤が、口調の荒々しさという形を持って溢れる。
 怪物はそれを気にしてないのか、胴体にある口から涎と思わしき液体を撒き散らしながら応える。きたねえ。
「ここは僕の家なんだけど、誰かが入って来たのは感じた。だけど、ちょっとね、三分ほど放置してたんだ。ごめんね」
「家って……ここは死後の世界なんじゃないのか?」
 怪物は俺の言葉を聞いた途端、滝のように涎を吹き出し始めた。きたねえ。
「そんなわけないじゃないか。そうだね、僕の感だと、君は隙間に入っちゃったんじゃないかな。そうじゃなきゃ、人間なんかが僕の家に来れるわけがないし」
 ……どうでもいいが俺と怪物には致命的な感性の相違が見られる気がする。主に涎的な意味で。
「隙間? それはアレか、俗に言う次元の割れ目とかワームホール的なアレなのか?」
「うん。そうだね、その認識でいいと思う」
 それを聞いて、俺は溜まっていた鬱憤が晴れていく感覚をはっきりと感じた。
 俺は死んでない、死んでないのだ。ただ、そう、平たく言えばうっかり転んじゃったような。その先に穴が有っただけ、のような。要するにここから出れば何の問題も無い話だという事に気付いたのだ。
「なるほど、よく分かった。親切に教えてくれてありがとう。それじゃあ、俺を元の場所に戻してくれ」
「ごめん、無理」
 涙が出た。
「ど、どうして?」
「正確に言えば元の世界に戻すのは簡単に出来るんだ」
「尚更、なんでだよ?」
「さっきも言ったけど、見に行くのが面倒で三分ほど君の事を放置しちゃったんだよね。ああ、うん、君の価値観で言うと三百十一年くらいかな」
 怪物の口から出る涎に負けじと、俺の目から涙が溢れる。
 宝くじの有効期限が過ぎるとかそんなレベルじゃない。なんだ三百十二年って。浦島太郎でもまだ良心的だ。そんな事をなに軽々しく言ってるんだコイツは。端数が有るのもイライラするなあオイ。
「あ、ごめん、こうやって話してる間にも多分君の世界じゃ二十年くらい過ぎてるかも」
「おい! 待て! 言わせてもらうけどな、全部お前の責任じゃないか! 家の穴くらい埋めとけよ涎を飛ばすなァ!!」
 死んだと思ってたら、実は終わってた。つまり向こうじゃ俺は死んだも同然ってことじゃないか。そもそも俺が生きているという保証すらない。こんな怪物じゃあ証拠にはもちろん証人にもなりゃしない。
 どっ、と胸の中に鬱憤とは違う重い感情が襲い掛かってくる。人生お先真っ暗だよ。考えるの止めようかな。
「あ、思い出した」
「え?」
 怪物は一際強く手足を震わせると、話を続ける。
「そういえば、あそこの中央神なら君を元の時間軸に則った世界に戻してくれるかも」
「そうやって希望を持たせようとしても無駄だ。俺はもう考えるのを止める。そしてここで物言わぬ置物として永遠を生きる」
「残念だけどここは僕の家だからね、勝手に居着かれても困る。勘弁してほしいね」
「言うに事欠いて困るって、困るってなあ、俺が困り中なんだよ! どうしてくれんだ! どうにかしろ!」
 もう相手が怪物なのもお構い無しに、俺は捲し立てる。これで怒って殺されようが食われようが、結局のところ現状は変わらんのだ。
「だから、僕はどうにか出来ないんだよ。今言ったけど、どうにか出来る神が居る世界は知ってるよ」
「どうにか、ど、どう、え? ホントに? どうにかなるのか?」
「うん。なんて言ったかな、パーセクだったかな。彼ならなんとかしてくれるかも。うん」
「じゃあそいつに会わせてくれ」
「すぐには無理かなあ」
 涙が、出そうになるが堪える。垣間見えた希望に縋り付こう。これでもし見当違いな事をこの怪物が言っていたとしたら、その時は、死のう。人生諦めが肝心だと祖父ちゃんが言っていた気がする。
「でも、彼の居る世界に送るのはすぐに出来るよ。どうする? 送ろうか? 自力で会いに行かなきゃいけないから結構面倒だと思うんだけど……」
「頼む。よく分からんが」
 即答だった。いや、確かに怪物の言う事だし、全て本当の事かもわからないし、状況が好転する要因も無い。しかしながらこの真っ暗な所でコイツと喋り続けるよりかは有益な提案に思えたのだ。
 怪物は微かに手足を揺らすと、不意に強く振り始める。
「忘れてた。僕の名前はね、ハロンって言うんだ。君は?」
「堺、琢磨だ。……いや、待て、自己紹介は必要ないだろ。どうせすぐ会わなくなるんだし。さっさとその世界とやらに送ってくれ」
「名前が分からないと出来ないんだよ、注文が多いなあ」
 そりゃ多くもなるだろ、と、ここも堪える。ここで怪物……ハロンの機嫌を損ねても何の得も無い。ここは穏便に済ませるべきだ。そう、穏便に送ってもらい、穏便に縁を切る。それがいい。
「向こうはなんて名前だったかなあ。ア……いや、ハ、んん、あ、セファイドだ」
 その言葉を話した瞬間、ハロンの姿が消えた。そしてすぐに、ハロンが消えたのではなく俺が移動しているのだと気付く。真っ暗だったはずの空間は白い線を見せるようになり、それが伸び、縮み、歪曲しながら、俺に迫っては過ぎ去っていく。
 いつの間にか、五感が戻りつつあった。耳は高周波のような高い音を鳴らし始め、手足からは冷え切った感覚が送られてくる。
「あ、危ない危ない。向こうは結構物騒だから、僕の力を少しだけ君に分けておくよ。しゃあなしでね」
 どこからともなくハロンの声が聞こえたかと思うと、突然、黒が基本だった空間が白一色へと変わった。
「頑張ってねー」
 そんな気の抜けるような言葉を最後に、俺は意識を失った。



2.

 誰かが呼んでいるような気がした。
 それが女の声だと分かった瞬間、すぐさま職場のやかましい同僚を思い出す。彼女は俺に対して、いつも“日本男子たる者、早起きくらいはするべきじゃない?”なんて、遅刻気味の俺に対して言ってくるんですわ。日本男子と早起きに何の関連性も見いだせない辺り、少なくとも俺か彼女が大馬鹿者なのだろう。すげえどうでもいい。
 そこまで考えて、俺は目を開けることにした。彼女は無視すると非常に機嫌が悪くなるのだ。と、そこでふわりと、濃厚な植物の匂いが鼻を掠めて。
「M、Mkm?」
「だ、誰だよ……」
 覗き込むようにして体を揺さぶっていた原因を視界に捉えた俺は、真っ先に頭に浮かんだ言葉をそのまま口から漏らした。目の前に居たのは、全く知らない少女だったのだ。
 混乱する中、慌てて上半身を起こして周囲を見渡し、さらに混乱する。何故か、俺の周囲には青々とした木が生えていた。生えまくっていた。要するに森である。この時になって、俺は何か途轍もなくおかしなことになっている事を自覚する。
 夢なわけがない。こんなリアルな夢を見れたら現実を捨てられる自信がある。ああ、しかし、これが現実だとしたら俺の考える現実はあれでこれで、ああ、これがパニック症状という奴ですな。
「el、km?」
「日本語喋れ」
 先程から少女が喋っている言葉らしき音、残念ながら理解出来る自信が無い。確かに俺の知能は自分でも残念だと思うが、しかしながらテレビでもラジオでも聞いたことの無い言語なのだからどうしようもないだろう。
「?」
 どうやら向こうにも俺の言葉は通じていないようである。……よし、先ずは落ち着こう。現状を確認しよう。落ち着こう。ひとまず、涙目になりながら目を忙しなく動かして周囲を見渡すという、挙動不審極まる動きを止めよう。
 結論として、ここは俺の知らない場所なのだ。それを前提にして考えようじゃないか。
「……c!」
 と、寝起きの頭で現状をのろのろと考え始めようとした時、少女が急に驚いたような表情を浮かべながら、俺の後ろを指差す。
 一体なんだと、つられるように少女の指が示す位置に視線を持っていくと、俺はすぐさま涙目になりながら目を忙しなく動かして周囲を見渡し、逃げ道を探し始めた。
 ……ああ、マンティコア、という怪物が頭に浮かんだ。顔にはライオンのようなたてがみを有していて、鋭い牙が何本も立ち並ぶ大口を持ち、筋肉質な胴体には一対の爬虫類然とした翼が生えていて、尻尾には牙や爪よりも太い毒針が生えているという、アレだ。
 どうして今この場でそんな怪物を思い出したかと言えば、俺の背後には知識としてかすかに残っていた、今説明した通りの怪物そっくりな生き物が、涎を盛大に地面へ零しながら俺を見ていたからだった事にあり。
 もう駄目だと思った。……夢じゃない、知らない場所なだけ。そう結論付けた矢先に、この非現実な生き物。どうしていいのか分からなくなってしまった。いわゆる、頭が真っ白になったという状態。人生の先は真っ暗だけどな。
 ……お先、真っ暗?
「mmckp、ptrdlea!」
 現実逃避していると、目の前の少女が俺に向かって必死に何かを叫んでいた。しかしながら、わからない。正直に言えば、目の前で死なれるのは夢見が悪いので、どこの誰かもわからない俺なんて放っておいて、すぐにでも逃げて欲しかった。
 そこに、背後から植物を強引に踏み抜く音が聞こえてくる。目の前の少女は涙目になりながら、俺を見つめていた。俺の方がもっと涙目ってる自信がある。なので、俺は少女に向かって、しっしと、右手でどこかへ行けというボディランゲージを試みた。果たして通じるのかどうかわからんが、言わんとしている事は分かってくれるに違いない。そう思って、俺はもう一度右手をひらひらと動かした。すると、いきなりそれを阻まれた。
「お、おい、お、ま、ま」
 ちょっと待て、という言葉が咄嗟に出なかったのは仕方がない。人生最大の動揺を感じている瞬間である。
 目の前の少女は何をどう間違えて捉えたのか、宙でぶらぶらと揺れていた俺の右手を同じく右手で掴むと、そのまま強引に俺を立たせてしまったのだ。えらくアグレッシブな行為である。同時に、後ろから重いものが近付いてくるような感覚、所謂プレッシャーを感じていたりもする。
「待て、俺は諦めのいい男なんだ。お前だけ逃げろ」
「ftlnd!」
「ぐおあ!? いてえ!」
 少女は俺を責めるような目で睨みながら未知の言語を吐き捨てると、俺に背を向けて走り出した。俺の手を握ったまま。俺の肩から不穏な音が聞こえた気がする。
 ……非常に不本意。不本意だが、俺はこの時、その行為に甘んじることにした。なんせ、俺は諦めのいい男。悪い意味で夢のような出来事が起こっている現状で、今更意地汚く生き足掻くなんて選択肢はそもそも無かったのだ。無駄だろう、そう思ったから少女にはさっさと逃げて欲しかった。
 しかし、それを伝えようにもその手段が無い。このまま俺がもたもたしていれば、俺だけではなく少女までも犠牲になる。……あの怪物が無害だという可能性も考えた。しかし、少女の反応を見る限りそうではないのだろう。だから、仕方なく俺も逃げることにした。
 背後から大きなものが動く気配を感じる。もしかしなくても、この背中がひりひりするような感覚は殺気なのだろうか。初めて感じたぞ殺気なんて。
「twp!?」
「ばっ」
 か野郎。
 俺の手を引いていた少女が、木の根にでも足を取られたのか急に転んでしまう。咄嗟に俺の手を放したのか、俺までつられて転ぶことは無かった。
 万事休す。人生で初めて実用する言葉だ。しかし、現状を表すにおいて真っ先に思い浮かんだ言葉だった。
 転んだ少女が、立ち止まる俺を批難するように何かを叫びながら、先程までの進行方向に指を差す。つまりそれは、先に逃げろという意味なのか。そうだろうな。……だが、俺はそれを無視した。
 少女に背を向ける。自然と、俺の視界にはとっても恐ろしい怪物が映る。そう、怪物。その怪物は腹でも空かしているのか、人間ならば一飲みだろう大きな口から涎を地面へ垂らし続けている。ああ、人生お先真っ暗だ。
「――あ」
 と、この期に及んで、俺は思い出してしまった。目の前で佇む怪物よりも、さらに異様な怪物をこの目で見たことを。そして、どうしてこんな場所で目を覚ましたのかを。
「やべえ……俺、宝くじ当たったんだわ……やべえ……」
 ……もっと早く思い出しておけば、もっと早く逃げられたのかもしれない。ついうっかり、何の前知識も無いものだから、素の自分を出してしまったというか、所謂諦めが良すぎる行動をしてしまった。
 いかんじゃないか。こんな所で死んでる場合じゃない、俺には元の場所に戻るという非常に重要な目的があるじゃないか。死んでる場合じゃねえ。三億使い切らずに死んでたまるか。
「何が、“向こうは結構物騒だから”、だ。結構どころじゃないだろ、死ぬだろ」
 “力を少し分ける”、とも言っていた。しかしながら、さて。
 俺の目の前には、今にも飛び掛かってきそうな怪物が居る。果たして俺にコイツをどうにかできる力があるのだろうか。依然として、背後からは少女の声が聞こえてくる。そして、目の前からは咆哮。……咆哮? いや、それはまずいんじゃねえの?
「うおわあ!?」
 俺は反射的に横へ飛び退いていた。慌てて怪物に目を向ければ、つい一瞬前まで俺が立っていた場所には、怪物の太い腕と長い爪が居座っている。
 まぐれ避けが成功したはいいけど……どうしよう、どう考えても、どうにか出来るとは思えない。3Dってやつだ。
 怪物は奥で倒れたままの少女には目もくれずに俺の方へ顔を向けると、ネコ科特有の鋭い瞳孔を狭める。なんだよコイツ、先ずは俺からかよ。まるで俺が不味そうだから先に食っちゃおう的な、ああ、わかるその気持ち。
 だが、まあ、好都合と言えば好都合なのかもしれない。俺は思い切って、駆け出した。怪物のすぐ横を通り過ぎる形で、一直線に先程まで走っていた方向とは逆の方、つまり、俺が目を覚ました場所の方へ走り始めたのだ。案の定、後ろから力強い足音が追ってくる。
 あの女の子には、正直な話、助けられた。もし彼女が居なければ、俺は怪物に食われてただろう。割と自然体で。なので、そんな少女が俺のせいで食われてしまうのは非常に心苦しいものがあった。
 なんとか出来る算段があるわけじゃなく、ただ、怪物と少女を引き離す為だけの行動。だった。
「マジ、かよ」
 よくモンスターパニック映画だと、登場人物がモンスターから走って逃げる描写がある。非常に緊迫感溢れる場面だ。決して絶望まみれの場面ではない。……あくまで映画の話だったのだ。
 現実と言えば、怪物は一瞬で俺を飛び越えると、進路を塞ぐ形で目の前に着地した。なるほど、頭がいい。俺でもそうする。確かに直線を只走って追いかけるなんてのは、怪物という自らのスペックを放棄してる。
 ああ、そうだ、俺の頭が寝惚けたままだったんだ。
 ――ここは、現実だ。
「ゥオオオォオオォォオオオッ!!」
「わぁぁぁぁ……」
 俺へと向き直った怪物は、一際大きな咆哮を森中に響き渡らせた。勝鬨か。勝鬨なのか。死刑宣告か。否定出来ない俺は死ねってか。否定出来ないな。
 意識の中にあるのは、目で見えているものだけ。現状を対処するためには最善だろう。……だが、そこで俺は違う事を考え始める。決して諦めたわけじゃない。逆に、意地汚く生き足掻こうとしているのだ。
 怪物……目の前のではなく、あの真っ暗な空間で出会った怪物は力をくれると言っていた。確かに聞いた。だが、その内容も使い方も聞いていない。普通に考えれば、あれは夢だ。でも、目の前で起こっている事は間違いなく現実だ。……あの怪物が嘘を言ったとは思えない。嘘ならば、そもそも俺はこんな場所に居ないからであり。ならば、思い出せ、思い出そう、あの怪物との会話を。何か、些細な事でもいいからヒントを……。
“だから、僕はどうにか出来ないんだよ。今言ったけど、どうにか出来る神が居る世界は知ってるよ”
“でも、彼の居る世界に送るのはすぐに出来るよ。どうする? 送ろうか?”
“向こうはなんて名前だったかなあ。ア……いや、ハ、んん、あ、セファイド”
“あ、危ない危ない。向こうは結構物騒だから、僕の力を少しだけ君に分けておくよ”
“頑張ってねー”
 ……待て待て待て、抜けたぞ。会話が何個か抜けている。そうだ、あの怪物は何と言っていた。
“名前が分からないと出来ないんだよ、注文が多いなあ”
 名前、そう、名前だ。俺は怪物の名前を聞いたはずだ。もしかしたら、いや、間違いない。あの怪物の力ならば、怪物の名前を口にすりゃあ――!
「――ハラン!」
 ……。
 …………。
 ……ん? いや、待って、ちょっと違うかもしれない。
 が、目の前の怪物は待ってくれなかった。
 完全に別の事を考えていた俺は、その巨体とは不釣り合いな速さに反応しきれるはずもなく、易々と地面に突っ伏す形となった。正確には、そんな生易しい状態ではない。視界には土しか映らないが、恐らく俺の背中には太い腕が乗っている。さらに、あまり意識したくはないが、爪がそれなりに深く、俺の背中に食い込んでいる気がする。ああ、駄目だ、意識したら痛みが、あ。
「っ、ああああああ!?」
 ああ、ダメダメダメ、火傷なんてもんじゃない、もう、意識が飛ぶ、飛ぶ飛ぶ、地面に居ながら飛んじゃうからね俺、もうダメ――――ああ! 思い出した、アイツの名前、は。
「は、ああ、あ、ハ、ロン……ッ!」
 その時、何かが俺の中で爆ぜたように感じた。そう、頭の天辺から手足の指先まで広がるような、浸透するような、そんな感覚。
 視界が土で覆われている中、不思議と痛みを感じなくなったことに気付いた。心なしか背中の重さも消えている気がする。
 ……もしや、俺は死んでしまったのではなかろうか。と、不安になったので、俺はゆっくりと様子を窺うように上体を起こし、土以外の物が目に映った時、さらに不安になった。
「おう……!?」
 全てを取っ払った言葉を先ず言うとすれば、実に単純。俺の左腕が無くなっていた。しかしながら、全てを説明していく過程で、なくなるの意味が分かる。俺の左腕、その肩下から先は、見覚えのあるものにすり替わっていた。あの、触手のような青黒いアレ、ハロンの胴体から生えていた手足。それが一本、俺の左腕に生えていたのだ。
 さらに付け加えさせてもらうと、その、少なくとも俺のものではない左腕は、俺が知ってる食物連鎖のピラミッドの頂点に立ち始めていた怪物を、いとも簡単に押さえつけていた。ぐねぐねと怪物の右後ろ脚を締め付け、両前足は手錠をするように巻きつき、何よりも、ここが重要だ。ああ、認めたくないが、その“元”俺の左腕は、“口”を開けて怪物を頭から食い始めていたのだ。
「……これは夢だ」
 俺は自ら意識を手放した。


3, 2

  

3.

「ほ、ほあああァ!?」
 一瞬で目が覚めた。
 俺の背中に途轍もない痛みが走っている。非常に痛い。うつ伏せの態勢で寝ていた俺は、勢いよく体を上へ回転させ、痛みの原因と目が合った。
 見覚えのある少女が、長い栗色の髪を垂らしながら俺を見ていた。手に壺のようなものを持っている。……段々と意識が現状に追い付いてきた。そういえば俺は、背中に怪我をしていたような気がする。もしかしなくても、この少女は俺を看病してくれたのではなかろうか。
 俺は慌てて怒りを滲ませていた表情を柔らかなものに変えると、口を開く。非常に乾いていたが、お構いなしだ。
「あー、ごめん。怪我、手当てしてくれてたんだろ? その、ありがとう」
「気にしないでください。助けてもらったのは、こちらの方ですし」
 助けてもらった? いや、そんな事は……ああ、そうだ、俺が怪我をする原因になった、あの怪物の話か。その時の事を思い出した瞬間、俺は自分の左腕を見る。そこには、いつもと変わりない俺の左腕があった。当然だろ。無かったらショックだろ。
 が、ある意味無かった方がショックが少なかったかもしれない。なんせ、この左腕が怪物を咀嚼している瞬間を俺は見てしまったのだから。どうなっちまったんだ、俺の左腕は。というか食ったんだよねアレ、大丈夫なの俺。腹壊すっつーか左腕壊れたりしないの?
「大丈夫ですか? 顔色が悪いですけど?」
「あ、ああ。心配してくれてありがとう。いや、どうにも怪物に襲われた時の事を考えると、現実味を感じないというのか……」
「あの時、急いで様子を見に行って正解でした。血だらけで倒れているんですもの」
「あの怪物は?」
「居ませんでした。貴方が追い払ってくれたんじゃないんですか?」
「ど、どうなんだろうな……ん?」
「どうかされました?」
 俺はまじまじと少女の顔を見つめる。向こうは首を傾げながら、俺の話に耳を傾けてくれている。穏かなブラウンの瞳が俺を心配そうに見つめていて、じゃなくて……いや、おかしいだろう。
「なんで普通に会話出来てんだよ!」
「……確かに!」
 確かにじゃねえよ。
「不思議ですね、森で会った時は何を話してるのか全然わかりませんでしたのに。魔法でも使われたのですか?」
 少女は首を傾げたまま、素っ頓狂なことを言う。俺は間髪入れずに応える。
「魔法とか冗談だろ? そんな便利なものがあったら世の中もっと平和になってるだろうに」
「意思疎通の魔法ならちゃんとありますよう。私は使えませんけど……でも、だとしたら本当に不思議ですね」
 意思疎通の魔法……? いや、不思議なのは俺の方だと言いたくなるも、それを抑えて、少女の言った言葉を吟味する。
 そうだ、少女の言い方は、まるで魔法が本当にあるような。そんな言い方だったじゃないか。……待て待て、おかしいだろう。いくら見た事の無い怪物が居たからって、魔法まであるのは話が飛躍しすぎている。怪物に関しては、まだ未発見の動物という事で強引に解決できる。が、魔法ばかりは存在するわけがないのだ。
「あの、本当に大丈夫ですか? 顔色がどんどん悪くなってますけど」
「……大丈夫だ。それよりも、凄く変なことを聞いてもいいだろうか」
 俺は意を決して、ある質問を行う事にした。疑問は解決するだろうが、確実に俺を見る目が変わる質問を。
「なんですか?」
「今は何年何月何日、そして、ここはどこなんだ?」
 だから前置きしたんだ。
 予想通りと言うべきか、少女は傾げた首が九十度に達する直前で止めると、“なんだコイツ”という目を向けてきた。予想通りなのだ。俺が聞かれても、同じような反応をするだろう。だが、少女はすぐさま分かり易い作り笑いを浮かべると、口を開く。
「きょ、今日はネーパ歴四万五千とんで五年、真っ白の月、九の日です、よ? あと、ここはエリプソ異歪国の北外れにあるヤード村です。……大丈夫、ですか?」
 大丈夫ではなかった。少女の教えてくれた言葉の数々、その概ねが聞いたことの無いものだったからだ。ネーパ歴? 四万五千とんで五年? 真っ白の月? 異歪国? いやいや、どれも日本と掠りもしないどころか、そもそも地球かどうかも怪しい言葉ばかりだ。
 せめて年月日という概念があったことを喜ぶべきなのか。俺は思わず溜め息を漏らすと、これからの事を考えざるを得なくなった。
 確かにハロンは言っていた。“あの世界”やら何やらと。思えばあんな怪物が居る空間が存在するのだから、別の世界があったって不思議じゃあない。俺の頭はまだ寝惚けていたのだ。
 頭を切り替えよう。ひとまず、この場を上手くやり過ごすことが先決だ。
 俺はこのまま黙っていても変な先入観を持たれるだけだと判断し、咄嗟に思いついたことを少女に話す。
「大丈夫じゃ無さそうだ。どうやら俺は記憶喪失らしい」
「そ、そうなんですか!?」
「ああ。自分の名前しか分からない」
 少女の変人を見る目付きが、段々と可哀そうな人を見る目に変わりつつあるのを確認すると、ひとまず安心する。
 嘘は言っちゃあいない。この見知らぬ世界であろう場所では、俺の常識など無いに等しいのだから。
「ああ、そうですね、名前を知りませんでした。私の名前はエルスと言います。貴方は?」
「堺琢磨だ」
「サカイ、タクマ……サカイさん?」
 少女の癖なのだろうか。首を傾げたまま、疑問符を頭に浮かべる。
「いや、どうだろう、俺としては琢磨って呼んでもらえた方が気が楽なんだが」
「じゃあ、タクマさんですね」
 そう言うと、少女は俺に一点の曇りもない笑顔を向けた。……久々に、こんな笑顔を見た気がする。一瞬見入ってしまった俺は、頭に浮かんだ元の世界での冷たい社会を慌てて掻き消す。
「それにしても、姓を持っているってことは、タクマさんはどこかの貴族様なのかもしれませんね。サカイ、が姓なんですよね?」
「ああ、姓で合ってる。……しかし、貴族か。全く記憶に無いな」
「そうですか。でも、少なくともこの村周辺には貴族様なんていないので、知り合いを探すのは難しそうです」
 貴族が記憶に無いのも当然だ。日本で貴族なんてものは存在しない。貴族が居るという事は、その下で働く平民が居るってことだからな。そんなことが日本で行われたら、大顰蹙で済めばいいものである。
 俺が現状を必死に把握しようとしている傍らで、本気で心配してくれているんだろう、少女……エルスは首を傾げながら――考え事をしているときに出る癖なのかもしれない――云々と唸っている。
 良い子なんだろうが、そんな良い子に対して嘘を吐いている事が今になって悪いことに思えてきた。まあ、かと言って本当のことを言っても信じてもらえないだろう。変人扱いされるのが落ちだ。
 そこまで考えて、頭を切り替える。今考えなきゃならんのは、当面の生活だ。衣食住、全てが無い状態の俺が果たして生きていけるのかと言えば、無理に決まってる。
 そして目的であるアレ、そう、何て名前だっけ。とりあえず神様を見つけなきゃならんのだよな。それもあるからして、うん、考えてる途中でなんだけど、すげえ面倒だぞこの状況。
 未だに唸り続けるエルスを見て、俺はとりあえず聞いてみることにした。
「なあ、エルス……さん。その、ここらで住み込みで働けるような場所って無いのかな」
「そうですね……あ、ちょうどありますよ。そう言えば、カンデラさんが男手が欲しいって言ってたような気がします」
「カンデラさん?」
「ええ、森の近くに住んでる猟師さんなんですけど、そろそろ収穫祭なので、狩りをする男手が欲しいそうなんです。頼めば住み込みで働かせてくれると思いますよ」
 エルスは思い付いたことがそこまで嬉しかったのか、顔を輝かせながら教えてくれた。
 しかし、エルスには悪いが、狩りなんて俺は一度もやったことが無い。そこは日本の現代っ子、子という歳でもないが、飯はコンビニで済ましていた俺だ。残念ながら役に立てそうにはない。
「教えてくれたところ悪いんだが、ごめん、エルスさん。俺は狩りの仕方を知らないし、おそらくやったこともない」
「そ、そうですか……」
 がっくりと、どこかのデッサン本にテンプレとして載りそうなくらい項垂れるエルス。心が痛い。何故俺は日本で狩りをしていなかったんだ、と一瞬思ったが、理性が素早く「無理がある」と突っ込みを入れる。そうだ、仕方がない。
「でも、そうなると限られてきます。ここに泊めて差し上げるのが一番いいんですけど、お父さんが許してくれないでしょうし」
「いや、そこまでしてくれなくてもいい。いざとなったら野宿でもなんでもする」
「そんなことしたら風邪引いちゃいますよお」
 困った。目の前のエルスが、俺よりも困った表情を浮かべながらおろおろしている。それを見ていると、心のどこかから何とかしてあげたいという気持ちが湧いてくる。そこで、よく友人から女に甘いのは悪い癖と言われていたことを思い出した。……癖じゃねえ。性格なんだ、これは。
「やっぱり、そのカンデラさんとやらの所に行ってみることにするよ」
「え? でも、狩りが出来ないのなら……」
「覚えればいいんだろう? なに、これでも男だ。要領さえ教えてもらえるなら、後は自分で練習出来るわけだし」
 なんせ俺は諦めのいい男。現状、これしか選択肢が無いのなら、それを頑張るしかない。見えない他の可能性なんかは、見えてから考えればいいのだ。
 現実的に考えても当面の生活と、この世界の情報収集、そして先立つものを得るにはこれしかないんだよね。
 エルスは少しの間、心配そうな表情を浮かべていたが、何度も大丈夫と言い聞かせることによって、何とか納得してくれた。
「じゃあエルスさん、看病してくれてありがとう。いつまでもここに居るわけにもいかないし、とりあえずカンデラさんとやらの所まで言ってみることにする」
 そう言って、俺は寝かされていたベッドから起き上がる。不思議と、ひどいと思われた背中の怪我は痛まなかった。……ああ、俺上半身裸じゃん。非常に今更だが、恥ずかしいなこれは。裸のまま真面目な顔して会話してたのか、俺は。シット。
 察してくれたのか、気付いてしまったのか、エルスは顔を少し赤くしながら、黙って俺が着ていた無地の黒いTシャツを手渡してくる。俺も黙ったままそれを受け取ると、気持ち急いで着ることにした。
「その、まあ、重ね重ねありがとう。この恩は忘れないよ、エルスさん」
 俺はエルスに背を向けると、その言葉を最後に部屋から出て行こうとして、止められた。見れば、Tシャツの裾が掴まれている。掴んでいるのはもちろんエルスで、そのエルスは言いにくそうに口を開いた。
「あの、一つ聞きますけど。タクマさん、カンデラさんの家がある場所、知ってます?」
「いや、知らないな」
「もう一つ聞きますけど。この村のこと、知ってます?」
「それも知らない」
 言われてみればそうである。気持ちが焦りすぎていたと言い訳させてほしいが、目の前のエルスは「どうだ」と言わんばかりの得意げな顔を見せていた。反論出来る箇所が一つもないので、それは甘んじて受け入れよう。
「じゃあ、決まりです。とりあえず私がこの村を案内します。目的地はカンデラさんの家、それでいいですよね?」
「いいです、はい。というか割と真面目にお願いしたい」
「おまけにもう一つ聞きますけど。私のことはエルスでいいですよ? 慣れないんです。そんな呼び方する人、この村に居ませんから」
「知らなかった」
 当然である。



4.

 エルスに村を案内してもらえることになった俺は、後に続く形で部屋から出る。家全体が木造なのか、ほのかに木の匂いが香る。非常に趣があってよろしいと思う。しかしそれは部屋を出た瞬間、物凄い形相で睨みつけてくるオジサンが居なければの話だ。
 状況的に考えて、この男はエルスの親父さんと判断していいだろう。それならば、娘の部屋から出て来たラフな格好をしている見知らぬ男に対して、こんな形相を浮かべているのも納得出来る。
「お邪魔してます」
 ここまでの思考、時間にして数秒にも満たないだろう。俺は流れるように素っ気なく、その一言を親父さんに向けて言い放った。
 人間、危機的状況と判断した時は予想以上の能力を発揮することがある。それが今だ。俺は見知らぬ世界での、見知らぬ家の、見知らぬ親父さんの目の前で、思考加速という貴重な体験をしたのだ。
「貴様、娘の部屋で何をしている」
「すみません」
 すぐに謝るのは日本で俺が身に着けた処世術である。
 恐かった。茶色の短い髪が逆立っている様は、さながらライオンのようだ。深く刻まれた皺は人生経験の深さを表しているようで、薄い服を盛り上げている筋肉が目を引く。何よりも、そんな見た目でドスの利いた声を向けられては、謝るしかないだろう。
 蛇に睨まれた蛙のように固まっていると、遅れてエルスが間に割り込んできた。
「ちょっとお父さん、お客さんにいきなり何て言いようですか。失礼でしょう」
「いや、だが、やましい事があるのだから謝ったのだろう? そうだ、この男と部屋で何をしてたんだ!」
 一瞬うろたえるも、親父さんはすぐさま反撃に出る。が、エルスも負けていない。
「森で怪我をしていたから看病してたんです! なんですか、やましい事って。そんなこと考えてるお父さんの方がやましいです!」
「んが、やま、いや、しかし、見ない顔だな。うん」
「なんでも、記憶喪失らしいです。珍しい服を着てますし、ここら辺の人じゃないのは確かなんですけど」
「そうだったのか、いや、失礼した」
 すっかり勢いを殺された親父さんは、素直に俺へ頭を下げてきた。慌てて、俺も応える。
「い、いいですよ。確かに、親の了解も無しに娘さんの部屋に上がりこんだのは不作法でした。こちらもすみません」
「ふむ、礼儀は忘れてないと見えるな。……しかし、森と言えば、あそこには主がおるだろう。エルスは大丈夫だったのか?」
「はい。タクマさん……こちらの方が助けてくれました」
「ほう」
 親父さんは、感心するように俺を見つめてくる。
 主というのは、間違いなくあの怪物だろう。助けた、というのも成り行き上だが間違ってはいない。……が、くすぐったい事この上ない。そもそも意図してやったことではないこともあり、睨み付けられている時とはまた違った居心地の悪さを感じてしまう。
「重ねて失礼をしたようだ。私の名はラザフォード、この村の長をやっている。娘を助けてもらったようで、感謝する」
「いえいえ、そんな。俺の方としましても、助けていただいたのは同じですので」
 どうやらラザフォードさんは機嫌を良くしたようで、これからどうするのかを話した所、見知らぬ男が出歩くのは目立つという事で、村に連絡してくれると言ってくれた。
「……よし、これでいいだろう。タクマ君と言ったかな、ひとまず記憶喪失の青年がしばらくの間この村で暮らすという事を皆に伝えておいた。その点は安心してくれて構わない」
「え、もう伝えたんですか?」
「お父さんは念話の魔法が得意なんです」
「ま、魔法、ですか」
 エルスの事を疑っていたわけではないが、どうやら魔法というものは本当に存在しているらしい。頷くラザフォードさんを見ながら、俺は本当に知らない世界に来てしまったことを再認識した。
「私としてはいつまでもこの村に居てくれて構わんよ。なんせ娘の恩人だからな、婿に欲しいくらいだ」
「ちょっと! またそういう話に持って行って!」
 婿という言葉に反応したのか、エルスがラザフォードさんに腰の入った腹へのパンチ、略して腹パンを食らわせる。ラザフォードさんは一瞬だけ苦悶の表情を浮かべたが、すぐに小刻みに震えながら口を開く。
「なに、冗談だ。しかし、行く当てがないのなら本当にずっと居てくれて構わんからな」
「ありがとうございます」
 エルスにラザフォードさん、二人と話してみてわかった事だが、どうにも俺は無償の優しさというものに弱いらしい。不覚にもうるっと来てしまった俺は、誤魔化すようにお礼の言葉を言うと、エルスと共にこの家を後にした。



 家を出た瞬間、強い日差しが俺の目を覆い隠した。徐々に目が慣れていく中、視界に入ってくるのは、自然と調和した家々の風景だった。見るからに村と言った具合だが、日本のそれとは違い、もっと牧歌的と言えばいいのか。遠くの方で見慣れない動物が柵に囲われていたり、金髪や銀髪の子供が走り回っている辺り、欧米のような印象を受ける。
「カンデラさんの家はあっちの方です。……タクマさん? 大丈夫ですか?」
「ちょっと日差しが強くて。ごめん、もう大丈夫だ」
 呆けていた俺は慌てて反応すると、歩き始めたエルスの後についていく。
「さっきお父さんが言ってたこと、真に受けないでくださいね」
「ん? 何の話だ?」
 俺はいくつかの視線を感じながら聞く。
「その、婿がどうのという話です。お父さんたら、最近そんな話ばかりするんですよ」
「ほお」
 俺にそんな話を振られても相槌を返すくらいしか出来ないのだが、まあ、見た感じではまだ早いとは思う。高めに見ても、俺より三、四歳ほど下か。日本じゃあまだまだ学生真っ盛りな時期だろう。
 それよりも。
 俺は周りを見渡して、視線の元を辿る。すると、その視線の主は急いで顔を背ける。……なるほど、いくらラザフォードさんが伝えてくれたと言っても、結局は見知らぬ男。どんな反応をしたらいいのかわからんのだろうな。
 エルスと歩き始めてからしばらく。その間に十数人の村人とすれ違ったが、その全員から同じ反応をされてしまった。
 まあいいか。俺でも厄介事には近付きたくないし、そう思えば気分を害することもない。
「タクマさんが倒れていた森はあっちの方です。近くに小屋があるの、見えます?」
「ああ。あそこがエルスの言っていたカンデラさんの家か?」
 エルスが指を差す方向に、小山のように盛り上がった森が見えた。その手前に、ポツンと一軒だけ小屋が建っているのを確認する。
「はい。カンデラさんはこの村唯一の猟師さんなんですけど、それはもう凄腕なんですよ。この前も、すごく大きなニブルを仕留めてきましたし」
 ニブル? 動物だろうか。……そういえば、さっきから人間以外の動物で見た事のあるものが一匹もいない。豚のような生き物に角が生えていたり、牛のような生き物に羽が生えていたりと、進化の過程において非常に用途が無さそうな部位を持っている。おかしな世界だ。
 農道のような場所を歩き続けてしばらく。民家が少なくなり、カンデラさんが住むという小屋が近付いてきた。探りを入れるような視線も少なくなり、多少気が楽になる。
「……すみません。気を悪くしないでくださいね。みんな、悪気があって見てたわけじゃないんです」
 と、先程と違ってあからさまに力の抜いていた俺を見て気付いたのか、エルスが突然謝ってくる。
「気は悪くしてないさ。俺だって同じ境遇だったら、同じような反応をしただろうし。当然だろう、狭い村にいきなり見知らぬ男がやってきたんだから」
 俺が嘘偽りない言葉を伝えると、エルスはにっこりと笑みを浮かべる。本当に感情が出やすい子だ。
「そう言って下さると助かります。でも、そう、当然なんですよね。私だって、タクマさんが森に居るのを初めて見た時はびっくりしましたし」
「ああ、俺も言葉が通じないと分かった時は焦ったな」
「やっぱり、どうして言葉が分かるようになったかは分かりませんよね」
「さっぱりだ」
 これも嘘偽りないことだ。……しかし、なんとなくの見当があると言えばある。が、非常に都合が良い話なので、そろそろ忘れようとも思っている。
 そんなこんなでエルスの家から二十分程歩いたところで、目的地である小屋に着いた。
「カンデラさん? いますかー?」
 エルスがノックをしながら声を張っている。俺はその傍ら、小屋の周辺を観察していた。とは言ったもの、特に目を引くようなものはない。やはり人間が使う道具というのは世界が違ってても似通うものなのかと、斧やら鉈やらが壁に立てかけてあるのを見つけて思う。
 俺が綺麗に割られた薪を見ていた時、木が軋む甲高い音が周囲に響いた。音がした方を見れば、たっぷりと口ひげを蓄えたガタイの良い男が扉から顔を覗かせていた。
「誰かと思ったらラザフんとこの嬢ちゃんじゃねえか。どうしたんだ?」
「はい、カンデラさんも聞いたと思うんですけど、実はその記憶喪失の彼のことで相談しに来たんです」
 と、急に振られた俺はカンデラさんと目が合い、思わず愛想笑いを返す。
「コイツが例の記憶喪失か。ほお、あんまり強そうにゃ見えねえなァ。まあいい、とりあえず中に入んな」
 カンデラさんは俺を一通り観察し終えると、身も蓋もない感想を言って、俺達を家の中へ招き入れた。
 俺は諦めの良い男。実際その通りなので、反論する気も起きないのだ。
 中に入ると、不意に獣臭さが鼻を掠めた。すぐに中を見渡して納得する。動物から剥いだと思われる毛皮が、壁に幾つも掛けられていたのだ。中には元は可愛らしい動物だったと思われる毛皮もあり、俺は少しだけ狩りを始める決心が揺らぐ。
「ほら、そこに座りや。嬢ちゃんも、そっちの柔らかい方に座ってくれ」
「ありがとうございます」
 エルスはそう応えると、ふかふかの毛皮が敷かれた椅子に腰かける。俺も遅れて、カンデラさんの正面に位置する椅子に座った。硬い。
「で、相談ってえのはなんだ。恐らくの見当は付くが、まあ話してみろ」
 俺はエルスをちらりと見るが、黙ったまま俺を見ている。なるほど、ここからは俺が話す番というわけか。……当たり前か、自分の事だし。
「はい、率直に言わせてもらえば、俺をここで雇ってもらいたいんです」
「いいぞ」
「「え?」」
 余りの即断即答に、俺とエルスは同時に疑問の声を漏らす。
 おかしい、俺の中ではもっと悪戦苦闘して、やっとのことで認めてもらえたら雇ってもらえる、そんな展開を予想していたのだが。
「お前さん、名前は?」
「タクマといいます」
「そうか。タクマ、俺はタクマが強かろうが弱かろうが一向に構わんのよ。記憶喪失ってのはどんな状態なのか想像出来ねえが、少なくとも身寄りのないこの場所で生活することは出来ねえんだろ? そんな奴がここに来ることくらい、すぐに予想は出来てたわけよ」
 カンデラさんは鼻を鳴らすと、得意げに人差し指で口ひげを撫でる。
「まあ、もちろん仕事が出来りゃもっといいがな。これは親切心だ、タクマ。落ち着くまで、ここで暮らせばいい」
「ほ、本当にいいんですか? こんな身元も分からない、悪く言えば不審者ですよ?」
「自分でそれだけ言えりゃあいい、逆に安心だ。もし記憶喪失だというのに愛想を振りまいてゴマでもすってきたら、それこそ不審者だろう?」
 俺はついさっき浮かべた愛想笑いを思い出し、ほっとする。そういう見方もあるんだな。
 確かに、記憶喪失だったとしたら不安だろう。そんな人間が、他人の心の機微などを気にしていたら、何か他に意図している事があるのか、本当に記憶喪失なのか、と。そういう話になる。
「じゃあカンデラさん、タクマさんを雇ってもらえるんですね?」
「おうよ。明日からは早速使えるようになってもらう為にビシバシ鍛えるぞ。見る限り、タクマの体は貧弱そのものだからな」
 ガハハと笑いながら、カンデラさんはバスト百二十以上はあるだろう胸筋を膨らませる。布のような服がはちきれそうだった。別に羨ましくはない。
「たぶん……いや、確実に色々と迷惑をかけると思いますが、しばらくの間お世話になります」
「いいってことよ。その代わり、働かざる者食うべからずだ。怠けたら飯は出さねえからな」
「はい!」
 思わず中学校の頃に入っていた部活のノリを思い出してしまい、元気よく返事をしてしまう。体育会系は嫌いじゃあないのだが、如何せん本人の性格が災いして、勝負に関する運動は全て長続きしなかった。……生活がかかっていると自分に言い聞かせよう。
 そんな俺の返事で気を良くしたのか、カンデラさんは陽が傾いてきたこともあり、俺とエルスにささやかな御馳走を振る舞ってくれた。意外と言っては失礼だが、出された料理は全て繊細な味付けの下、とても美味しく調理されていた。これだけ食事が美味しければ、この世界でもしばらくはやっていけそうである。
 家に帰るエルスを見送ってから、俺の部屋として使ってもいいと言われた別室に入り、そのままベッドに寝転がる。広くはないが、狭すぎず、人一人が生活するには余裕がある、そんな広さ。そんな部屋の隅に置かれたベッドの上で、俺はゆっくりと目を瞑った。
 落ちる意識とは逆に、ゆっくりと浮かんできたのは、この世界に来た目的。……そうだ、俺は元の世界へ帰らなきゃいけない。その為には、この世界の中央神とやらに会わなければならないらしい。
 実際問題、俺はこの世界の神どころか、一般常識でさえ知らない。一人では生活すらままならないのだ。……急ぐ必要は無い。着実に知識を得て、それから行動すればいい。
 俺は意識がゆっくりと落ちていくのを感じながら、悠長にもそう考えていたのだ。



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