数ヶ月前の正月のこと。元日の鶴陵八幡宮は人でごった返していた。釜倉駅から宮へと続く小町通りはいっそう賑わいを見せ、屋台が立ち並ぶ境内にはわやわやと喧騒に包まれている。
釜倉駅の前にて、菊里はきょろきょろと後輩を探していた。
「菊里先輩! 菊里先輩! こっちです」
声する方を向くと、結衣が手を振っていた。年明けが開けた第一日目、結衣はいつにも増してはしゃいでいる。濃赤の地色に桜柄の振袖姿が良く似合っていた。手にさげる薄桃色の巾着も可愛らしい。
対して菊里は灰色のニットロングカーディガンを羽織り、タイトなデニムジーンズに茶系色のブーツという飾り気のない格好だった。悩ましい体のラインを強調するコーディネートな上、そこそこ背も高く、整った顔立ちの菊里はよく目立つ。それでも道行く若い男に全く声をかけられないのは、彼女の纏う隙のない空気故だろう。
小走りに菊里に駆け寄るなり、結衣は頭を下げた。
「ごめんなさい、着付けに思ったよりも時間がかかってしまって」
約束の時間よりも十分ほど遅れていた。結衣は心底申し訳なさそうにしている。
「良いよ、急いでいるわけじゃないしね」
そんなに真剣に謝らなくてもいいのに、と菊里は苦笑気味に笑みを零した。
「何かおごります」
「んー……じゃあわたあめかなぁ」
結衣が一瞬、ぽかんと菊里を見返した。
「……なんか可愛いですね」
「え? なんで?」
「ギャップ……でしょうか?」
「ギャップ……」
ほんのわずかに笑みを引きつらせ、菊里は鸚鵡返しに呟いた。「……そんなに可愛いものが似合わないだろうか……」
「あ、いえいえいえ! 違います違います! そういう意味じゃなくて!」
「やっぱもう少しくらい女の子らしくした方がいいかなぁ……」
「いえ、普段がクールで格好良いからギャップがあるという意味でですね!」
「……うん、みんなそういうんだけどさ、はぁ……」
その超然とした雰囲気と、知り合いでも引くほどの容貌から忘れ去れているが、五百蔵菊里はまだ高校二年の女子である。当然それ相応の乙女心を持っていたりもする。式者として一人前以上の実力を備えているが、だからといって日常生活の全てにおいて、そんな風に扱って欲しいわけでもない。素直に可愛いと言われてみたかったりもするのであった。
「あーあー、落ちこまないでくださよぅ! ほら、わたあめ食べましょ!」
「……うん」
買ってもらったわたあめをはむはむ貪り、菊里達は鶴陵宮へとゆるゆる歩を進めた。時折、「甘い……」と零して頬を緩める。結衣のまだ知らなかった彼女の一面だ。これからもまだまだこんなことがたくさんあるのかもしれない、と結衣は一人微笑んだ。
◆◆◆
釜倉高校は釜倉市南西の端にあり、すぐ近くに湘難の海を臨む。天気が良い時は富治の山も眺望することができ、住宅街にありながら豊かな自然に目を向けることが多い立地であった。
潮風に晒され薄汚れた白の校舎、その二階の教室に五百蔵菊里はいた。教室前方の出入り口につるされたプラスチックプレートには「2-B」とプリントされている。彼女のホームルームである。時刻は早朝八時十五分。期末テストは二月の末に終わったが、在校生は終業式まで消化試合のような気だるい授業に出席せねばならなかった。それはテストの返却も兼ねている。
朝の空気に満たされた教室に生徒はまばらにいたが、彼女の周りには誰もいない。
五百蔵菊里はあまり友人が多くない。片手の指に数えられる程度だ。式者として身に着けるべき技術に時間を使うために、同年代の子とどうしても話が合わなかった。もともとあまり人と話すことが得意ではなかった菊里は、式者になってからますます人と話さなくなった。
そんな菊里の環境にあって、木乃峰結衣は異色の存在だった。式者の仕事の一つに後輩の指導があり(もちろん菊里の年齢で指導側になることは極めて稀だ)、菊里は結衣の担当になった。通常、指導は週に一度だったが、同じ高校に通う結衣とはそれ以上にプライベートな関わりがあった。そのほとんどは駅までの帰り道を一緒に帰る程度の些細なことだったが、菊里にとって結衣は気の置けない貴重な友人の一人になっていた。結衣にしても菊里と同じような寂しさもあり、その親近感からか彼女によく懐いていた。ころころ変わる結衣の表情を眺めながら、菊里は久しく感じていなかった親しみの暖かさを思い出したりもした。
結衣が行方不明になってから、今日で一週間が過ぎようとしていた。
菊里は憂鬱な表情で、窓の外をぼんやりと眺めていた。この週末、行方不明とされている後輩、木乃峰結衣を探し回っていたのが、結局彼女の足取りを掴むことはできなかった。
会敵した妖魔の中で唯一討ち漏らした妖魔の根城、円角寺周辺も入念に調べてみたものの、結衣の足跡どころか妖魔の気配すらありはしなかった。彼女が一帯の妖魔を狩り尽くしたせいで、いまや釜倉からは妖魔の気配が根こそぎ消え失せている。幸運にも菊里の視界に入らなかった妖魔は、まだ有利な情勢にある織田原に逃げたようだった。
今後のことを考えると、さらに気が重くなる。日々激化する妖魔との戦闘に神奈河の式者は疲れを隠せない。妖魔は補給が一切ないが、式者側の人的資源にも限りがあり、そして式者は妖魔ほど心身の回復は早くない。丹本各地の式者もそれぞれの土地での役割があり、簡単には神奈河の戦線に参加できないでいた。
もともと、神奈河に式者の数は決して多くはない。五百蔵の家に寄せられる依頼の数も、戦闘の激化につれて多くなっている。今後、妖鬼征伐を考えるならば結衣を探す暇(いとま)さえなくなりそうだった。
(横濱に逃げた円覚寺の妖魔は結衣を連れていなかった。何か知っていそうだけど、ホウキに匿われ今は手が出せない……。次の可能性は織田原のゴウキの許に逃げた妖魔が結衣を連れていることだけど……)
もしも織田原で結衣を探すとなれば、どうしてもゴウキが障害になる。ならばいっそ討ち取ってしまえば良い。横濱のホウキはともかく、ゴウキ一人ならばどうにかする算段があった。
(問題は、ゴウキの取り巻きがどこまで厄介か。できるだけ不確定要素は排除したい。でも取り巻きから潰そうとしたら時間がかかりすぎるし、何よりそのタイミングでゴウキに襲われるを考えると、決してリスクは小さくない……)
助っ人が一人欲しかった。
菊里にその当てがないわけではない。ただ頼みごとをするには一つ気がかりなことがあった。
釜倉高校三年、菊里の一つ先輩にあたるその人物、鳴神晶(なるかみ あきら)は本来において妖魔討伐などよりもよほど重要な任務についている。
式者でありながら妖魔討伐を主としない者はごく限られる。その中で最もメジャーなものが要人護衛であり、晶もその一人であった。
東京にあってその勇名を全国に轟かす式者の名家、鳴神。その鳴神家が長女、鳴神晶は神奈河においても無論最高峰の式者だ。その実力は菊里を容易く上回る。それほどの貴重な戦力を割いてまで神奈河で守るべき人物など一人しかいない。鳴神晶は鶴陵の巫女の従者である。
◆◆◆
菊里は校門に体重を預けて晶を待っていた。相談事があると言って晶にメールをしたところ、『直接聞く。授業終わったら校門前に』という簡素なメールが返ってきたのだった。
晶はすぐに現れた。菊里よりもすらりと背が高い彼女の姿は遠目にもよく分かる。無造作に切り揃えられた赤銅色の髪から覗く双眸には、やはり式者特有の鋭さがあった。身体は鍛えあげられ、無駄な脂肪が一切ない。その脂肪が胸にもないのが彼女のコンプレックスであったりする。女性らしい健康美こそ備わっているものの、菊里と並ぶといかんせん性的魅力に欠けた。
「こんにちは。忙しいところすいません」
菊里が軽く頭を下げると、晶はひらひら手を振って曖昧に笑った。
「あーあー、そんなかたっ苦しいのはよそうよ、菊里。それで、相談があるんだっけ? ま、歩きながら行こうか」
すたすた歩いていく晶の後に菊里は続いた。
「前に話した後輩のこと、覚えてますか? 木乃峰結衣なんですけど」
「ん、覚えてるよ。あんたが可愛がってた子だろ」
「あの子が、しばらく行方不明なんです」
「……いつから?」
晶の声のトーンが少し低くなった。
「もう一週間になります」
「あんた、そりゃあ……」
その先の言葉を晶は飲み込んだ。妖魔に関わる人間が一週間以上もいなくなって無事でいるはずがない。もちろん菊里だってそんなことは百も承知だ。
「結衣は……まだ生きているような気がするんです。ただの直感ですけど」
「だけど、その場合でも……」
「ええ。確実に妖魔の慰みものでしょうね……でも、死んだわけじゃない。それならやり直せる可能性もあると思うんです」
晶は歩みを止めた。その鋭い眼差しが菊里を射抜く。
、、、、、、
「……みんなが菊里みたいにやりなおせるとは限らないよ? 助けた後に殺してくれって懇願されて、その場はなんとか引き止めても、すぐに自分で命を断つ奴だっているんだ。自我が全部ぶっ壊されてる場合だってある。少なくとも、私はそういう人達を知ってる。助けられた側も助けた側も、誰の救いにもならないこともあるんだよ」
「その時は……受け止めます。その結果を」
「……相変わらず強いね、菊里は」
晶は憐れむような瞳で彼女を見た。
「それで、相談事ってのはその結衣ちゃんに関することかな」
「はい。釜倉を虱潰しに探したんですが、見つからなくて。横濱か織田原に逃げた妖魔が、結衣を連れているんじゃないかと。それでまずは織田原を探したいんですけど、どうしても妖鬼相手では私一人では力不足で……」
「私に手伝ってくれと」
「謝礼はきちんとしますから」
「……わかった。だけど、私の刀は抜けないからね。アレには制約の巫術がかかってるからさ」
「承知してます。織田原のゴウキが引連れる中下級の妖魔をどうにかしてくだされば」
「菊里一人で妖鬼を相手にするの? そこまで危険なことをしてまで助けたい?」
「ゴウキは最前線に立つと聞きます。それなら罠も大掛かりなものは出来ないでしょうし、逆にこちらの術中に嵌めることもできると考えています。リスクはありますが、悪くない賭けじゃないかと。上手くいけば、押されている織田原の戦線をひっくり返して、制圧、織田原の式者を釜倉、横濱に充填することもできます。困窮している今の織田原の戦線ならば、下らない大人のメンツに拘ることもなく、私達のような生意気な小娘の戦力でも迎合してくれましょう。そうなれば織田原の式者に恩も売り、今後の神奈河の戦線動員もスムーズにことが運ぶのではないでしょうか?」
「……後輩一人助けるためには、随分とできた言い分じゃないか」
「利用できるものは全部有効活用したいんです。お願いします。協力していただけませんか?」
彼女は晶を挑むように見返した。その視線から逃れるように、晶は小さく頷きを返す。
「断る理由はないよ。決行は?」
「三日後。日没と共に、ゴウキの塒(ねぐら)に奇襲をかけます。傘下の妖魔を殺されれば奴はすぐでも引きずりだせるはずです。それまでに戦闘の準備と織田原の式者に通達を済ませておきます」
「分かった。こっちは巫女様に許可をもらうだけだ。今日中に連絡するよ」
「お願いします」
深く下げられた頭に、晶は「ああ」と短く返答した。その返事一つで、ほんのわずか、晶の気の逸れているのが分かった。戦いの場に身を置く菊里が、その気の逸れを察知しないはずがない。鶴陵の巫女のことを口に出した瞬間、晶の表情が微かに曇ったのを、菊里は視界の端で捉えていた。
「……やはり今回の結界に、なにか疑問が?」
兼ねてから、疑問だったことを、菊里はいつになく率直に尋ねた。
今回の騒動のそもそもの発端、鶴陵の巫女が張った結界に、その意義に、言い知れない懐疑を持つ式者は菊里の他にも数多く存在する。何か情報が欲しかった。不意打ちの居合切りのような質問でなければ、巫女の側近である晶から、何かを聞き出せるとは思えない。故に菊里は敢えて身構えることなく、そして一息に急所を突くような質問をした。
結果は、彼女が想定して中で、最悪のものだった。
「……疑問は、ない。何か分からないことが、分かってないことが……あるようには思うが」
鶴陵の巫女の従者が、本来誰よりも巫女から信を置かれるべき人間が、呻くように答えた。
「冴瑛様の仰ることも分かる。整合性もある。ただ、誰よりもケンキを殺すことに疑問を感じていた冴瑛様が、なぜ急に、という想いはある」
鶴陵の巫女が結界を張った理由。神奈河の式者には、ケンキを征伐するためだと伝えられている。
神奈河の大妖鬼、ケンキ。三百年以上を生きる妖魔の英雄だ。かつてその征伐を掲げた名のある式者達を悉く血祭りに上げ、当代の鶴陵の巫女の母と七日七晩戦い続けて引き分けたという。
妖魔は老化することはない。年月を経ればその分強くなる。故に長寿であるというだけで、その存在は例外なく脅威になる。
しかして当代の鶴陵の巫女は、幾百年に一度の逸材。今ケンキを叩くというのは、本来神奈河全ての式者にとって迎合すべきことのはずだ。だからこそ急と思われるような鶴陵のケンキ征伐にも、神奈河の式者達は強い反発をすることなく、激戦を予想される今回の戦線に参加を決意できた。
時期的にも、急な決定になったのは、鶴陵の巫女の都合を考えればむしろ自然とも考えられた。四月になれば彼女は二十歳になる。鶴陵の血筋を絶やす訳にはいかず、しきたりに従い彼女は婿を取らねばならない。式者としての力が全てなくなるわけではないが、純血を失えば彼女の巫女としての力は消失し、今までのように絶対的な式者には成り得ない。その前にケンキを叩くというのはいかにも納得できる理由だった。
ただそれでも疑問が拭いきれないのは、ひとつに結界の範囲があった。本来ならば、神奈河全土を覆う結界など張らず、ケンキの潜む一帯を封鎖すれば良い。
、、、、、、
鶴陵の巫女がそうしなかった理由は単純で、それが出来なかったからだ。神奈河にいることは分かるが、深い位相に潜り過ぎており、位置が特定出来ないのだという。そのため、神奈河全土に結界を張り、ケンキを炙り出さなくてならなくなった。一ヶ月という異常なまでに長い期間、結界を張ることになったのはそのためだ。鶴陵の巫女ほどの式者が、いくら位相が深く違うとはいえ、妖鬼の居場所がわからないなどということがあるだろうか。菊里を含めて幾らかの式者達の疑いの発端はそれだった。
疑いだせば、疑問はまだまだ出てきた。もともと、鶴陵の巫女はケンキが妖魔ながら高い理性を備え、また自ら人間を襲ったことがないという事実を調べ上げ、妖魔との対話を訴える立場にあった。そのことで式者の協会とも対立が目立ったという。それが二月に入り、手の平を返したようにケンキ征伐を決定したという。
他にも、張られた結界が、妖魔を封鎖するためにしてはあまりにも複雑過ぎ、なおかつ誰も見たことがない術式で編まれている。それに鶴陵の巫女本人も、八幡宮に張られてた結界の内側に引き籠もるばかりで、戦線に決して立とうとしない。勘の良い一部の式者が、違和感を感じるには十分過ぎる要素が至るところに散在していた。
それらの疑問がまだ表面化しないのは、激化する戦いにそれらの疑問を正確に検討する余裕がないからだ。
「……いや、やはり今のことは聞かなかったことにしてくれ。私の立場じゃ信じることしかできん」
「私は、疑い続けますよ」
「好きにすると良い。ともかくは織田原だろう? 三日後に、また」
「……はい」
頷いた菊里は、神奈河が迎える四月の様相を、すでに想像出来なくなっていた。
【残り23日】