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Never/椋木りょう

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 反射が僕を振り返らせる。飛んでくるコンクリートブロック。走馬灯が僕に人生を振り返らせる。

 †

 初めにちらついたのはあいつの顔。約束を守れなかったあいつの顔。
 僕はあいつを守ると言った。子供心というのはいつも本気だ。あいつは仕方ないから守られてあげると言った。子供心というのはいつも無邪気さを含んでいる。
 男女が友達でいられるのは何才までなのだろう。僕とあいつはよく一緒にサッカーをしていた。小学生、特に低学年においては男女の運動能力にあまり差がなく、成長のスピードによっては女子の方が高い運動能力を所持していたりする。事実、あいつは僕より足が速かった。スピードスターへの憧れは、いつか抜いてやるという野心とセットだった。野心は思わぬ形で実を結ぶ。
 サッカーができる場所は限られていて、公園は高学年との取り合いだった。学年が一つ二つ違うと絶対に逆らえない力の差がある。どっか行けよ。そう言って迫りくる年長者とあいつの間に立つ。僕はヒーロー。スピードではあいつに勝てなくても、あいつを守るのは僕の役目。上昇する体温。僕の手から弾かれるサッカーボール。追いかけるあいつ。上級生を睨みつける怯えたヒーロー。急ブレーキ音。僕は、振り返った。
 僕はあいつを守れなかった。罪の意識からか中学生になっても僕は毎日のようにあいつと話をしに行った。ありがとう。もう来てくれなくてもいいのよ。あなたにはあなたの人生があるのだから。あいつの母親はそう言う。僕はあいつに話しかける。返事はない。今日も。両足を失ったあいつが部屋に閉じこもってから五年。僕の言葉は扉の向こう側には届いていないようだった。扉のそばに置かれた空の食器だけがあいつを外の世界と繋ぐ唯一のものだった。
 僕の初恋は間違いなくあいつだ。けれど、恋愛というものが二者関係の最たるものではないと思う。君のためなら死ねる、とは言えないけれど、あいつのためにできるだけのことをしようと思っていた。恋愛感情ではなく自責の念から来る義務感によって。その感情は恋愛感情に勝ると思う。終わりのないものだから。僕の考えは甘かったのだろうか。
 その日も扉越しに学校の話をしていた。外の世界は面白いんだ。出てきて一緒に楽しもう。そんな思いを込めて。サッカーはもうやめちゃったの。扉の向こうからきこえた掠れ声の疑問。笑わない客ひとりだけのために語り続けたピエロは自分自身に酔いしれていたのかもしれない。冷静に判断ができなくなっていたのだ。ネガティブな内容とは裏腹に声は弾けた。もうやってない、スポーツなんて嫌いだから。後半は僕なりのやさしい嘘のつもりだった。返ってきたのは、そうなんだ、いつも来てくれてありがとう。素っ気ない返事だが、ようやく未来が開けた気がした。しかし、僕の考えはやはり甘かったのだ。
 次の日、学校が終わると急いであいつの家に向かった。僕はいつものように学校の話をした。今日はいつ言葉を返してくれるだろうと思い、わくわくしながら話すも返事はない。ただ昨日までとは違う。僕はあいつが聞いていることを知ったから。ピエロはピエロらしく最後まで浮かれた調子で喋りつづけた。いつもは空の扉脇の食器に食事が盛られたままであることに気づいたのは、帰ろうとした時だった。あの子昨日の夜から何も食べてないのよ。昨日の夕方についに話してくれたのにそんなことあるのか。僕は初めて二人を遮っていたドアをこじ開けた。
 思っていたより簡単に取れた錠。取れかかっていたのか。けれどドアは重たい。半分開けて中に入る。臭いがきつい。電気はつかない。椅子を見てもベッドを見てもそこにあいつはいない。僕は振り返った。ドアノブに大きいものがぶら下がっている。近づいてみると、首を吊ったあいつがいた。
 あいつの身体は床につかず宙に浮いていた。久々に見た脚のない身体はあまりに小さかった。床に落ちていた錠はホームセンターで売っている一番安いスライド式。なぜ僕は今まで扉を開けることができなかったんだろう。せめて開けようとさえしていれば、錠が傷ついて、あいつの体重を支えきれずにドアが開いていたかもしれないのに。未来が開けていたかもしれないのに。
 二枚しかなかった遺書のうち一枚は僕宛だった。
 いつも話に来てくれてありがとう。私が自分のせいでひかれただけなのに、あんたをうらんでたときもあった。どうかしてた。わたしはみんなのじゃまになっているんじゃないかな。わたしがいるかぎりあんたは来てくれるから。あんたはあんたのやりたいことをしてほしい。私とちがうんだから、あんたは走っててほしい。本当にありがとう。
 久々に書いたであろう文字は震えていた。
 あいつは僕の人生を守って死んだ。
 僕は守れなかった。

 ††

 次にちらついたのは彼女の顔。僕に期待していない彼女の顔。
 彼女との出会いは陸上部。生きることに無気力でありながら、生き続けた理由の一つは走り続けるため。毎朝毎晩ただ走り続けて、大学まで推薦で入ってしまった。あいつ以外の誰にも負けたくなかった。長距離を走る僕と違い、彼女は短距離走者だった。彼女の走る姿は極限まで機能的で美しかった。もしあいつが生きていたら、こんな風に走ったのだろうか。
 「先輩は何もしなくていいですよ。」
彼女の声を初めて聞いた瞬間だった。大学に入って二年目。アップ用のミニハードル並べを手伝おうとした瞬間の、冷たいのか優しいのかよく分からない言葉。
 フィールド組とそれ以外に別れてアップをするうちの部活では、長距離組と短距離組の距離は走る距離ほどには離れていなかった。大規模な飲み会はさておき、小規模な飲み会は長距離と短距離で一緒にやることが多かった。人と絡むことをあまり望んでいなかった僕だが、孤立するのも嫌で二、三回に一度のペースで参加していた。上級生の前に立ちはだかった時から臆病さは変わっていない。彼女は面倒見がいいことで知られているらしい。飲み会でも、率先して取り分けたりしていた。
「先輩は何もしなくていいですよ。」
お酒のせいか、少し冷たさが薄れた気がした。
「そんなにしっかりしてたら逆に嫁の貰い手ないぞ。」
僕の一つ上から彼女へのセクハラ野次。誰に助けを求めるわけでもなく、媚びるわけでもなく、彼女は毅然とした態度で言い返した。
「お互い自立できている方が、相手が弱っているときに支えられると思うんです。」
先輩は、
「可愛くない奴。」
と捨て台詞を吐いた。その後も、彼女は毅然とした態度を崩さなかった。
 飲み会は盛り上がり続け、体育会系独特の悪ノリに移行しつつあった。僕は数少ない友人にそっと会費を渡し逃げた。店から出るとすすり泣く声が聞こえた。僕は振り返った。店の入り口のすぐそばで彼女がしゃがみ込んでいた。
「大丈夫?」
先輩としての義務感が声をかけさせる。彼女は見られていたとは露にも思っていなかった様子でこちらを見る。
「ちょっとだけショックでした。」
すぐに毅然とした表情に戻す。
「良ければ、抜け出して二人で飲みにいかないか。」
自分でもなぜそんなことを言ったのかは分からない。彼女の表情が崩れるところをもう一度見たかったのかもしれない。断りの台詞を考えているであろう彼女の手を握り立ち上がらせると、そのまま次の店に向かった。
 僕の二度目の恋は間違いなく彼女だ。けれど交際するだなんていうことを僕は考えることができなかった。あれ以降彼女からお誘いが来るようになり二人で出かけたりもした。けれど、守れないことが怖かった。誰かを大事だと思い、失う。耐えきれないと思った。
 「先輩は彼女作らないんですか。」
お酒が進むと彼女はいつもこの話題を出す。
「もう誰かを守ろうとするのすら怖いんだよ。」
僕は酔ったはずみで既に彼女にすべてを喋っていた。
「その話を出すのはずるいですよ。死んだ人には勝てませんからね。もう死ぬまで作らないつもりですか。」
「どうだろう。でも君だってあまり誰にも期待してないんじゃないの。」
「先輩には期待してます。」
「え?」
「だから、私は先輩に期待してるんです。先輩は私の手を引っ張ったじゃないですか。そのくせ自分は過去を振り返ってばっかりなんですよ。私は先輩があの時みたいにこっち振り返ってくれるのを待ってるんです。」
「それって、」
「好きなんです。ばか。」
彼女はもはや毅然としてはいなかった。けれども僕の答えは決まっている。
「ごめん。あいつみたいなことになるのはもう怖いんだ。」
「あいつあいつってなんでそんな振り返ってばっかいるんですか。いつまで引きずってるんですか。」
「お前があいつの何を!」
「知りませんよ。どうせ私は知りませんよ。でも先輩だって全部知ってるわけじゃないじゃないですか。最後の五年間なんて一回しか会話してないんですよ。それで知った気になってるなんて、ストーカーと同じ思考回路じゃないですか。五年間も先輩のこと独り占めしといて紙一枚でお別れ告げるなんて許せません。」
「ふざけるなよ。あいつがその一枚書くのにどれだけ考えたか知ってるのかよ。」
「だから知らないって言ってるじゃないですか。先輩だって知らないじゃないですか。本当にちゃんと考えたんですか。あいつさんは先輩にそんなうじうじしてて欲しいと思ってたんですか。」
「それは。」
あいつが僕に走っててほしいと言ったのはどういう意味だったんだろうか。
「私、先輩に守ってほしいだなんて思ってませんから。こっち振り向いてほしいって以外何も期待してませんから。何も守れないと思うのなら、あなたは何も守らなくていい。私があなたを守るから。」
僕は、振り返ってばかりで、走り出していなかったのかもしれない。僕は息を吸って、吐いて、吸った。
「分かったよ。でも僕にも少しくらい守らせてよ。」
「今はあなたが守るより私が守る方が良い時期だと思います。私よりあなたの方が守る役目にふさわしいと思ったらちゃんとお願いします。それまで待っていてください。」
ピシャリと言い切る彼女。この毅然とした態度に初めからやられていたのかもしれない 

 †††

 結婚記念日なんだから今日くらい二人で出かけておいで。彼女の妹が十か月の娘を預かってくれると言う。お互い家事に仕事に忙しくなって出かける機会なんてなくなっていた。彼女は僕だけじゃなくて家庭まで守ってくれていた。ドライブの車の中では、お父さんお母さんと呼び合うのをやめて、久々に名前で呼び合った。けれど話の内容は、陸上部の頃の内緒話を少ししたくらいで、残りは、娘がつかまり立ちしそうだとか、いつもと変わらぬ話題ばかりだった。
 娘のオムツ買っておきたいからとショッピングモールに向かう。娘は僕たちの生きた証だ。話題の内容が娘のことばかりなのも仕方がない。そんな話をしながら駐車場に車を駐める。娘のためなら死ねるな、と言いながらキーを抜いた。馬鹿ね、逆よ。彼女はそう言って車のドアを閉めた。
 ショッピングモールは横に長く吹き抜けになっている。等間隔に並んでいるオブジェのうちひとつがお気に入りな彼女はそれを眺めてからエスカレーターに乗ろうとしたが、ブルーシートで四角く被われていた。残念がる彼女を連れて二階の赤ちゃん用品売り場に。妊婦さんも来るんだから一階にすべきだわ、という彼女の尤もな怒りを聞きながらオムツを購入する。映画でも見ようかと思ったけれど、娘のことを考えて二人で先ほどのオブジェ隣のエスカレーターに乗る。上から見えるかな、と覗き込むが、上からもコンクリートで見えないようになっていた。下り終わった後も、後方のオブジェをちらちら気にする彼女の前を歩く。手でも繋いでみようかな。手でも繋いでいれば良かった。本当にそうすればよかった。背後で爆発音がした。僕は反射的に振り返った。
 走馬灯から覚めた瞬間は夢から覚めた瞬間と似ていた。飛んでくるコンクリートブロック。とっさに彼女に覆い被さる。僕が守る番だ。すり抜ける影。大の字になって身を呈する彼女。聞こえた。確かに聞こえたんだ。
 病院で僕は頭に包帯を巻かれていた。看護士が分かりますかと指を立てる。生きていることが実感になってしまう。先生を呼んできます。寝返りは打てない。僕は首だけで振り返る。彼女の妹が僕らの娘を抱いている。彼女は、と聞くと静かに首を横に振った。僕は、また守られた。また守れなかった。娘が泣き喚いた。

 ††††

 昼下がりの公園にて、一人で歩けるようになった愛娘と遊ぶ。生きるというのはとても厄介なことに思える。生きている限り大事なものができてしまう。大事なものを守るためには生きなきゃいけない。僕たちはそう簡単に死んではいけないようになっている。そのくせいとも簡単に死んでしまう。
 爆破テロの犯人グループはあれから程なくして全員捕まった。実行犯の一人は家族の命を握られテログループから抜けられなかったと言ったらしい。世界の至る所で戦火は未だ続いている。消えていく命は誰かにとって大切なもので誰かを守るものだったろうか。人が人である限り、爆音はいつまでも鳴り続けるだろう。
 淡々と語ってはいるが、別に妻の死を乗り越えたわけじゃない。ただ、さっきも言ったように、守るべきものがあるから生きなくちゃいけないだけ。
 僕は過去を振り返っては立ち止まる男だった。でもそれじゃ何も守れない。僕は守らなくちゃいけない。過去の失敗を受け入れて、現実を見据えなきゃいけないんだ。僕はもう目を逸らさない。聞こえた。確かに聞こえたんだ。彼女の声が。私たちの生きた証を守ってください。
 僕はもう振り返らない。

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