智子が懸念を抱いていた自己紹介は何事もなく終わった。みなが淡々と自己紹介をこなし、いっそ呆気ないと思えるほど何も起こらなかった。涼宮ハルヒ的な自己紹介も、家庭の事情でくるくる廻りながらの自己紹介も、ましてや緊張してうんこを漏らす人などいようはずもなかった。
その様子はみなが同じマニュアルの文章をもとに淡々と自己紹介を読み上げているようであり、そのマニュアルから少しでも逸脱しようもなら直ちに然るべき処置を施す、といった見えない強制力が働いているようでもあった。いや、智子にはもっと人間味の感じられない何かを思わせた。その姿はそう、まるで同一の規格の下に製造された機械かなにかのよう。自己紹介はその初期起動テストであって、プログラム通りの動作が確認されなかった機械は直ちに破棄されるのだ。そうした無機的でありながら強迫観念めいた何かを感じたのだ。
本当にこの人たちは自分と同じうんこを垂れ流す人間なのでしょうか、と不安を覚え智子の背筋を寒がらせた。
しかし、そうした智子もまた彼らの例に漏れず「ヨシダトモコデス。ヨロシクオネガイシマス」と妙に片言になって自己紹介をしたのも事実だった。
そう、よく考えれば何てことはない、自分も彼らもただ緊張していただけのだ。だが、そう考えても智子の脳裏を過った不穏な影はなかなか拭いきれなかった。こうして、彼らを機械ではないかと疑っている自分もまた彼らと同じように機械的に自己紹介をした事実、それは自身もまた機械である証拠なのではないか? 今朝したうんこは本当に自分が排泄したものだったのか? あれは姉がうんこを流し忘れたものであって機械である自分はそもそもうんこなどしてなかったのではないか? 今朝踏んだうんこは犬のものだと考えていたが、あれは本当に犬のうんこだったのか? あれは姉が道端にしたうんこだったのではないか? そもそも、だ。十五年間姉だと思い続けたあの女は本当に姉なのか? あれはうんこなのじゃないか? 今朝踏み潰したのも姉のうんこではなく姉そのものなのではないか? おお、なんてことだ、私はうんこを踏んだつもりでいたのが実は姉を踏み潰していたのだ! おお主よ。私は姉を踏み潰してしまった! だが主よ。私はあれが姉だと知り得なかったのだ。うんこだと思っていたのだ。姉がうんこだとは知らなかったのだ。うんこが姉で姉がうんこであれ? おお主よ! どうか主よ。我が罪に赦しの秘跡を! 我が罪をうんこのように洗い流してください!
「あー、なんか質問はないのかー?」
と、そこで智子の思考は担任の声によって遮られた。たしか、みなの自己紹介が思っていたより大幅に早く終わってしまったため、担任の教師がやむなく自己紹介をしていたのだが。
「あー、別に俺のことじゃなくてもいいぞー。学校の事とかでもいいぞー」
どうやら担任の自己紹介もすぐに終わってしまい、間が持たなくなって質問がないかと生徒たちに促していたようだった。だが、みなの反応はまったくなく教室は静寂に包まれていた。その無言の空気が「そのプログラムは実行されません」と言っているようでもあり「質問なんてねーんだよとっとと消えろカス」とプレッシャーを放っているようでもあった。
「あー、じゃあちょっと早いけど終わりにするかー」
そうして、生徒が放つ無言のプレッシャーに耐えられなくなったのか担任はそそくさと教室を出て行ってしまった。
はて、しかし自分はなぜ先ほど神に告解などしていたのでしょうか、と智子は不思議に思った。クリスチャンでもなんでもないのに。確か姉のうんこのことを……と考えてはたと思い出した。
そう、自分は先ほど遅刻してきた女生徒に声を掛けてみようと思っていたのだ。彼女の頭に鳥の糞が落ちてきたということ、そして自分がうんこを踏んだということ。これを話しかけるきっかけにして高校最初の友達を作るとそう考えていたのだった。
「あ、あの実は私も今朝姉の糞を踏んでしまったんですよ」「えー、あなたのお姉さんってトイレでうんこしないの?」「そうなんです! ほんと所構わずどこでもうんこする姉なんです!」「えー汚―い。あはは」「すいません汚い姉で。うふふ。あ、私、吉田智子と言います。これからよろしくお願いしますね」「いえいえ、こちらこそー」「今度ぜひ家にいらしてくださいね」「えー、吉田さんのお姉さんのうんこ踏みそうで怖―い」「それまでにちゃんと言い聞かせておきますね、うちの汚い姉に」「あはは」「うふふ」
これです! この作戦です!
智子は自分が立案した作戦に内心でガッツポーズを決めた。常日頃から頭の片隅を占めている姉を陥れる、ということをさりげなく行いながらかつ自然に話しかけて友達になる。まさに完璧の作戦でありシミュレーションだった。名付けて「姉のうんこ作戦」この作戦があれば、もう何も怖くない。状況開始、と智子は内心で号令を発し、さっそく例の鳥の糞の女の子に声を掛けてみるべく後ろを振り返った。
「あ、あの……」
「ん?」
窓の外をぽけーっと眺めていた女の子が智子に顔を向けた。その顔が警戒しているような、不機嫌な表情に見えて智子の頭の中にあった「姉のうんこ作戦」は尻を拭いたトイレットペーパーが水洗便所に流されるがごとく、忘却の彼方へと流されていった。
「あの、えと…………わ、和田さん……でしたよね?」
「うん! 和田アキ子の和田に土を上下に二回書いて圭、で和田アキ子の子で和田圭子!」
そして、何故か急に表情明るくした女の子、圭子がいきなり両手をむんずと握ってきたので、智子はますます混乱してしまった。
「あ、わ、私は、吉田松陰の吉田に叡智の智とうんこのこで吉田智子です」
「そう! 学校来る途中さあ、鳥のうんこが頭に落ちてきて最悪だったんだよ!」
「そ、それは災難でしたね」
「そう本当に災難だったよ! あ、これからよろしくね、智子ちゃん!」
「あ、はい。こちらこそこれからよろしくお願いします、圭子さん」
智子も真っ白の頭でなんとか圭子の両手を握り返して微笑んだ。
こうして吉田智子に高校での初めての友達ができた。
おい、姉のうんこの話はどうした、と頭の片隅で何かが囁いていた。