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 中世という時代は、人間が進化を遂げようとしていた時代でもある。暗黒時代と呼ばれるように、冷戦が続き、宗教分離も起こした。
 そんな中でマグナス、すなわちアルベルト=マグナスは暮らしていた。
 裏通りに面した小さなアパートに彼は暮らしており、生活はそれなりに裕福だった。
 彼の職業は、錬金術師といって、貴族のパートナーから報奨金を受け取り、さまざまな分野で依頼を受け、そつなくこなす技術者なのだ。
 美術や技術での依頼を受ける錬金術師も多いと聞く、マグナスは主に技術面での依頼が多い。
 貴族が夢見てやまないのは、不老不死である。
 老いもせず、死にもせぬなら、王座は永遠に続くものとなる。
 そして、マグナスが最近始めたのは、死んだ師から受け継いだ賢者の石の製作である。
 賢者の石は何でも願いをかなえるだけの力があって、師匠はこれの危険性を訴えていた。
 そのさなかである、彼は突然息絶えた。心臓麻痺と診断されたが、マグナスだけは納得いかなかった。
 必ず何か裏で動いていたに違いない、マグナスは疑惑のまなざしを、貴族連中に抱きもした。
 だが権力者にかなうものなど、この時代にはいなかった。
 マグナスは決意していた、きっと師匠を暗殺した者がいるはずだから、その敵は自分がとって見せると。
 拳を握り、決意を固めていた刹那である。扉を乱暴に叩く客がやってきた。
「アルベルト。いるかい、俺だよ。トマスだよ」
 いつになく上機嫌である。
 どうやらしこたま酒を飲んだらしい。マグナスは扉を開いて客人を招き入れてやった。
「やあトマス。ご機嫌じゃないか、うれしいことでもあったのかい」
「ああ、うれしいね。毎日大親友たる、お前の顔を見られてさ。俺のこと考えてくれてたんだろう」
 トマスはノルウェーの片田舎で生まれ、修道院に入った、とマグナスは聞いていた。
 パステル調のブロンドの髪がそよ風に揺れ、顔全体が現れると、男のマグナスでさえ、ドキリとするほどの端麗さである。
「残念だけど、きょうは君の事を考えていたわけじゃないんだ。もっとほかのことを」 
「師匠のことか」
 トマスの表情がいきなり険しくなった。
 マグナスはごまかそうとつとめるが、感性の鋭いトマスには無駄なことだった。
「たしかに、俺も師匠の死に方はおかしいと思ったぜ。けどな、人間や生命体はいつか死ぬと決まってる。どんな人間にも平等に与えられた特権、それが『死』だろ。早いか遅いか。それだけの違いなのだ。お前も錬金術師なら、わかってるはずだ。それに、今お前が動けば、お前の身に何が起こるか、知れたものじゃないぞ」
「何か、何か知ってるのかい、教えてくれ」
 同じ師を持ち、ともに勉学したトマスから忠告を受けたにもかかわらず、マグナスは友の襟元をつかみ、押し迫った。
 トマスは気迫負けしそうになり、あとずさった。いつも穏やかなマグナスが、これだけ迫ってくることは、今まで殆どなかったことだからである。
「落ち着け。俺は知らねえよ。お前の身を案じて、ああいっただけだ」
 マグナスは両手で頭を抱え込むように座り込んだ。
「師匠のことは、もう諦めろ。その代わりにお前が師匠の分まで研究して、結果を出しゃいいだけの話じゃないか。そうすりゃ師匠も報われる。そうだろ」
 トマスの言っているのは、賢者の石のことであろう。マグナスは以前、彼に相談をしたことがあったからだ。
「ああ、わかっている。僕はもう休むよ。せっかく来てもらって悪いけど」  
 トマスは気にするなと微笑み、マグナスの家を去っていった。
 しばらく微動だにしなかったマグナスは、やがて起き上がると、涙で濡れた頬を拭いながら呟いた。
「でも、それでも僕は、師匠の敵討ちをやめるわけには、いかないんだ」
 マグナスは外に出て、拳を強く握り締めると、夜空の星を仰ぎ見た。 

 
 マグナスは悩み事があると、通うなじみの店があった。
 町一番の華やかな美女、看板娘ルチアのいる店である。
「いらっしゃい、あら、マグナスさん。こんばんは」
「やあ、ルチア。酒もらえるかな」
 美人の笑顔に、マグナスはつかの間の安堵を覚えた。
「はい、どうぞ。ねえ、今日は元気ないのね。どうしたの、何かあった」
 じつは、とルチアにすべて吐露してしまおうか、という衝動に駆られはしたが、やめておいた。
「なんでもないよ。研究が進まなくて疲れているんだ」
「マグナスさんて、天才だものねえ。何でも作っちゃうんでしょ、えらいわ」
「何でも作れるわけじゃないさ」
 と、マグナスは気弱そうに微笑む。      
 それから、グラスを一気に傾けた。
「いい飲みっぷりね。でも大丈夫、下戸なんでしょ」
「か、かまわない。飲みたいんだ、飲ませてくれ」
「ああ、そうそう。そういえばね。さっきトマスさん来てたの。あの人、酔うと人が変わるから苦手なのよ。いつもはほら、無口じゃない。でも飲むと途端にからむのね。しかも『ルチア、俺と寝てくれ』ですって。そういうこと、言う人じゃないのに、柄にもなく無理するのよねぇ」
 マグナスはルチアの心底困ったような表情に、苦笑せざるをえなかった。
「彼の場合は本気じゃないから」
「そうなの。その点、あなたとは安心して話せるから、好きなのよ。ねえ、今夜も朝まで付き合ってもらえる」
「そうしたいけど、今何時。夜明けまでに作らないといけない品物が」
「ええっ、残念だわ。それじゃあね、マグナスさん」
 ルチアの、好きなのよ、の言葉が、マグナスの中で渦巻きのごとく巻きついていた。
「好きなのよ、好きなのよ、好きなのよ、かあ。いいなあ、ルチア。僕はもう、死」
 死んでもいい、といいたかったのだろうが、酔いが醒め、顔をたたいた。
「いや、死ぬわけには行かない。僕が死んだら誰が先生の敵を討つというのか」 
 
 
「お帰りなさい、アルベルト=マグナス殿」
 窓がぼんやりして、明かりが点いているのかと思いきや、ランプを灯した光ではなく、家路に着いたマグナスを待っていたのは、黒い外套に身を包んだ中年男であった。 
「誰だ、アンタは」
 マグナスの声は低くうなるような、警戒しているようだった。
「人を待たせておいて、その態度。気にいりませんな。客をもてなすには、それなりの言い方というのが」
「あいにく、来客の予定はないのでね」
「言う」
 男はマントを広げると、嵐のごとく吹き荒れた。その直後、大きな物体が放り出されたように思うが、気に留めるどころではなかった。
「これはね、風の魔法です。あなたは作ってはいけないものを作っているようなので、警告しに来たと、こういうわけですよ」
「け、警告。作ってはいけないって、いったい何の話だ」
「まだとぼける気か、この下賎者」   
 今度はマグナスの胸倉につかみかかってきた。 
「ぐっ、なんなんだ、いったい」
「貴様はアレを作っただろうが。アレはな、神々だけのレアものなんだよ」
「あれって、なんのことだ。言ってくれなきゃ、わからないだろう」
 マグナスが意識を失おうという瞬間、男の黒マントを切り裂く人物が現れた。
「その手を離すんだ」
 オレンジ色の髪を後ろで束ねた、年の頃は十六くらいだろうか。緑の瞳が印象的の娘だった。   
「でたな、ユーリ=ケストナー。先ほどは失礼した、マグナス殿、できればあの娘、殺していただけないだろうか」
「なにっ」
 態度を翻した男の本意がわからず、戸惑うマグナス。娘のほうへと視線を向けた。
「あの娘は世界を崩壊へと導く悪魔の娘なのです。さあ、マグナス殿。さすれば神のレアアイテムのこと、帳消しにしてやってもいい」
「わけのわからない話に乗るつもりなど、僕にはない。帰ってくれ」
「ならば、死ね」
 マグナスに振り下ろされた大剣を、躍り出た少女が白く輝く刀身の美しい剣で支えた。
「きっさまぁ」
「マグナスさん、早く逃げて」
「ユーリさん、いまこそ、聖なる剣、ユグドラシルの力を解放するのです」
 背後から若い男の声がする。彼は道士の服を身に着けていた。    
「まかせて、李さん。たあっ」
 黒マントの男に一太刀浴びせる少女だが、男は、剣の切れ先が当たる寸前、姿を消してしまった。 
「これですむと思うなよ。ユーリ=ケストナー。いずれまた会おう、そのときこそ、マグナスの命はもらう」
「上等だ。何度でも来い」
 少女は壁際で気を失っている自分と同じ年頃の娘に気づき、抱き起こした。
 娘は目覚めると、あわてたように立ち上がった。
「あ、あの、私、どうしてここに」
「さあ。それはぼくが聞きたいよ。きみ、どこから来たの」
 娘はしばらく考え込んでいたが、記憶の混乱か、欠落があるらしく、
「わ、わからないわ。おぼえてないの」
 と答えるので精一杯だった。
「困ったね、こりゃ。ところでマグナスさん、怪我はないですか。あれ、どこいったの」
 少女がマグナスを捜すと、娘が指差す方向に、奇妙な物体を発見する。
「え。まさか、これがマグナスさん」
 少女はうなだれ、自分の不甲斐なさを呪っていた様子だった。
「これは、猫ですね。化け猫の呪いをかけられたんでしょうか」
「ちょっとカッコいいお兄さんが、その姿になってくの、私、みたわ」
 床に転がっていたのは、まさしく猫。猫といっても大きさは犬ほど、少し小太りのまだら三毛で、愛嬌はありそうな、貫禄もありそうな、奇抜な容姿の猫だった。
「よく寝たにゃん。ありゃ、僕はいったい、どうしちゃったんだろう」
 肉球で床を押さえれば、起き上がることはできるようだ。しぐさが愛らしい。
「あ、マグナスさん。鏡、見ないほうがいいよ」
「にゃん、鏡」
「ちょ、ユーリさん」
 少女の一言にマグナスは、まっすぐ鏡へ向かっていった。
「だめでしょ、余計なこと言っちゃ」
「うあ、しまった」
 マグナスは、鏡の前で硬直し、彼の周囲だけ時間が止まってしまったようだった。
 



 いつもの調子で、
「よう、いるかい、アルベルト」
 とやってきたトマスの視界に飛び込んだ光景は、世にも珍しいものだった。
 見慣れない面々が、太っちょの猫人間を取り囲んで、暗い雰囲気の中、沈黙を守っているのだ。
「な、なんなんだ、この光景は」
「あなたが、トマスさんですね」
 道士が声をかけてきた。人懐こそうな物言いにトマスも多少はやんわりした態度で返事する。
「ああ、そうだが、あんたたちは」
「じつは」
 ユーリ=ケストナーと呼ばれた少女が、トマスにかいつまんで話を聞かせた。
「僕の家には代々このユグドラシルという聖なる剣が祀られていて、神と呼ばれし存在がこいつを狙ってきている。たしかに、これには破壊と創造の力が備わっていて危険だけど、ぼくにはこれを扱うだけの力があるんだ。それとマグナスさんの研究材料を狙ってきていた」
「で、その神様とやら。本物なのか、それとも」
「わかりません」
 かわりに答えたのは、李という道士。
「なぜか猫の呪いを受けたのですが」
「かわいそうになあ、アルベルト。俺がその場にいても、きっと、何も出来なかったよ」
「フォローになってないじゃん、それ」      
 一同の陰にひっそりと佇む娘が、つぶやいた。
「そういやさ。そこにいるお嬢ちゃんは誰なんだ」
「お嬢ちゃんじゃない、シホよ、シホ。どうしてここにいるかなんて、わからないの」
「ふうん、そうか」
 関心がないのだろうか、トマスは再び李とユーリのほうへと向き直った。
「あの、マグナスさん。ちょっといい」
 シホはマグナスのもとへ歩み寄り、耳打ちした。
「トマスって人、顔はいいのに、ぶっきらぼうじゃない。失礼よね」
「あいつは昔から、ああだよ。気にしないほうがいいにゃン」
「で、でもぉ」
 シホはなぜか、トマスのことが気にかかるようで、盗み見を繰り返していた。
「そんなに気になるかにゃ。好きになったのか。シホたん」
「そ、それは、その」
 しどろもどろになったので、マグナスはシホの心情を悟った。
「けどなあ。トマスは朴念仁だにゃ。あいつとうまくいく自信、シホちゃんにはあるかにゃ」
 シホはマグナスの言葉に肩をがっくり落としていた。
  


 同じ頃、霧の深いロンドン近郊の海域で、ヴィヴィアン=ローズと名乗る女海賊が対峙していた。
 その相手は、マグナスを襲った黒マントである。
「何を考えている。もう一度言って見なさい」
「いいだろう、どうだ、オレと手を組まないか。礼は、はずむぞ」
「ふざけてるわね。そして、わからないわ。どうしてアンタみたいな得体の知れないヤツと手を組まなくちゃいけないのか」
「お前の捜している敵が、イタリアにいるからだ」
 急速に、ローズの顔色が変化していった。
「イタリアですって、イタリアのどこっ」
「ローマだ。必ずしとめて、赤い石を持って来い。さすれば永遠の美貌を与えてやる」
 ローズは、口元を歪めて、
「面白いじゃない。不老不死か。ローマね、行くわ、行って確かめてくる。待ってて、アントニー。あなたの敵は、必ず」
 それから、胸元のロケットを抱きしめ、誓いの言葉を発した。   
 

 
「これから、どうするの」
 ルチアの店で皆が緊迫するなか、何もすることのないシホはユーリに尋ねていた。
「そうだなあ。とりあえず、アトラス大陸でも探してみようか」
「アトラス、って。どこにあるの、それ」   
「わからないから、探すんじゃないか」
 ユーリは大口を開けて笑い転げた。
 シホは馬鹿にされたと思いこんだ様子で、頬を膨らませている。
「アトラス大陸というのはだな」
 トマスがすかさず口を挟む。
「大きな巨人が大昔にこしらえたと伝説のある、銀山のある島さ。そこへいけば、大量のシルバーが手に入る。まあ噂なんだが」
「へえ、そうなんだ。ユーリも、そう教えてくれたらよかったのに。さすがトマスさん、頭がいいのねぇ。よくわかった」
「な、なんだい、そりゃ。なんっか腹立つよね」
 ユーリの腰に手を当てるマグナスの姿があった。
「ユーリちゃん。トマスはそっち方面の男だから、詳しくて当然にゃんだよ。逆に言うとそれしか知識がないんだにゃ」
「あっそう。でね、マグナスさん。どこ触ってるの」
 マグナスは言い訳がましいことを言ってから、手を離す。
「わざとじゃないんだにゃん。何しろ肩まで手が届かなくて」
 ユーリは手を叩いて納得したようだ。
「これがわたしなら、平手打ちなんですが。動物さんはいいなあ」
 小声でもそもそと言いながら指をくわえて遠目でやり取りを眺める李の姿が、わびしげだった。
「さあ、みんな。あたしの驕りよ。ドンドン食べて」
 ルチアは特大のピザなどを運んできてくれた。特に喜んだのは大食いのユーリだ。
「本当だ、マグナスさんが言ったとおり、ルチアさんは美人なのね」
 シホがうっとりした目つきでルチアを見つめていた。
「えっ、ありがとう。カワイイ女の子からそういわれるの、珍しいかな。そういえばマグナスさん、遅いじゃない。どうしちゃったのかしら」
 トマスがシホのわき腹を小さく小突いた。
「ねえ、トマスさん。今日はお酒飲まないのかしら、いつもみたいに『ルチア、俺と寝てくれ』とか騒がないじゃない」
「アホか。俺がそんなキャラじゃないって事、お前が一番知ってるだろ。しばくぞ」
 吸っていたタバコの灰がテーブルにパラリと落ちた。
「そ、そうなの、トマスさん。いやらしい」
「ほらみろ。誤解されてんじゃねえか。人権侵害で告訴するぞ」
「ごめんなさい、変なこと口走るのは飲んだときだけなの。ふだんはクールで無口な人よ」
「でも、するんだね」
 トマスは頭痛を抑えるしぐさで、シホから視線をそらした。     
「言っておくが、俺は女が好きじゃない。触ったことすらねえよ」
「じゃあ、男が好きなの」
「ああ、もう」
 トマスは髪をくしゃくしゃにすると、
「男も好きじゃねえ。俺はこの間まで修道士だったから、その、慣れてないって言うか」
 シホは、トマスの肩をはたくようにして言った。
「なあんだ、そういうことだったの。じつをいうと、私、ルチアさんの言葉信じてたわけじゃないの、いつも冷静なトマスさんが、えっと」
 言いよどんだ挙句に背中を向けて、
「何でもないの、とにかくトマスさんのこと、信じてる」
「いや、何をどう信じてくれるのか、まったく理解できないんだが」
「だって、私、あのその、えっと」
 耳まで朱色に染まったシホは、トマスと目線を合わせることができなくなっていた。
「私も、トマスさんにだったら、言われてみたいかなぁ、なんて」
「は。言われてみたいって、何をだ」
「おっ。『俺と寝てくれ』って」  
 小声で呟いたので、トマスに聞こえたかは定かではなかったが。
 傍目から見ると、違和感のある二人ではない。
 しかし、トマスが鈍感すぎるが故に、シホは想いを募らせていた。
 恋というものは時間が問題ではない。一目あったその瞬間から、始まる恋もあるには、あるのだ。
「シホちゃん。お兄さんが断言するにゃン、トマスはやめたほうがいい。かわりにこの僕とっ」
 ほろ酔い気分に浸っていたマグナスは、冗談めかしてシホに口説き文句を言った。
「大丈夫か、下戸のクセに飲むからだよ」
「え、このちびっこい人、下戸なの。マグナスさんみたぁい」
 ルチアはケラケラ笑いながらテーブルを移った。
「なんだか、かわいそうね。マグナスさん」
「それにしても、さっき変なことを言っていたな。トマスをやめて代わりにこの僕とって、いったい何のことだ」
「い、いいんじゃない、酔ってるだけよ、きっと。あははは」        
 シホはぐったり突っ伏すマグナスの襟をつかむと、
「このおしゃべり。二度と口きいてやらないっ」
 と一喝したのだった。

 
 その晩は、満月を迎えていた。
 宿屋のベッドで寝言をいっているシホ、東洋人らしい黒髪が印象的である。
 部屋の扉が開き、紳士が栗色の髪を揺らし、シホをやさしく揺り起こした。
「シホ、シホ。起きて」
「だあれ、こんな時間に」
 寝ぼけ眼で起きたシホは、見覚えのある紳士を目の当たりにして叫びそうになるが、マグナスは咄嗟に口を押さえた。
「頼むから、おとなしくしてっ」    
「あなたは、もしかして、マグナスさん。でも、その姿は」
「どうやら満月の晩にだけ、元に戻れるみたいなんだ。さっき本を読んでわかったことだけど、この呪いを解呪するのも難しい」
 シホにそのページを見せるマグナス。しかし。
「これ、ラテン語でしょ、私読めないんだけど」
「じゃあ、読んであげる。元に戻るには、新月の晩、乙女の接吻が必要なんだって」 
「せっぷんって、キスのことよね。乙女なら誰でもいいのかしら」
「いや、術にかかった人間が、特に心を寄せた人物だと、書いてある」
 マグナスは一瞬だけ、シホに視線をすべらせたが、シホは気づかない様子で外の月を眺めていた。
「シホ、ちょっと、いいかい。聞いて欲しいことがあるんだ」
「うん、なあに」
「僕はルチアのことが好きだった。それは事実なんだ。あんな美人が僕と結婚してくれたら、いつもそう思ってた」
「それは知ってるけど」
「でも、ルチアにこのことは打ち明けられない。僕は呪いで醜い猫の姿になってしまったから。プロポーズもできそうになくなってしまった」
「真摯に話せば、きっとわかってくれるはずよ。話したらどう」
「だめなんだ、できないんだ」
 マグナスはシホの両手を自分の両手で包み込むと、顔を近づけてきた。
 トマスとはまた違う雰囲気の端麗さが、うかがえた。シホの鼓動は高まっていく。
「できないんだよ」
 ため息まじりでマグナスは言葉を吐き出した。
「じゃあ、どうしたいの。このまま諦めちゃうの」
「シホちゃん」
 マグナスのため息が、シホの両手を暖め、体温をあげていく。
 いや、おそらくは、吐息のせいで体温が上がっただけではないだろう。
「僕は、ルチアの前に出ると、何もいえなくなってしまう臆病者だ。けど、きみにだったら、言えそうな気がして。そう、何でも」
「何でも」
「そう、僕は、シホのことが、きっと」  
 マグナスの唇が、シホの唇と触れ合う距離まで近寄ってくる。
「や、やめて」
 シホはマグナスの胸板を強くはたいた。
「ごめん、わかっていたんだけどね。きみはトマスを好きなんだ。わかってたことだから」
「ルチアさんが、好きなんでしょう、私に代わりはできないわよ」
「うん。ごめん、おやすみ」
 マグナスの去った後、シホは放心状態で先ほどのやりとりを思い出していた。
 彼の美しい草原のような瞳が、そして熱い吐息と男の残り香が、シホの心を束縛する。
「もう、あんなことして。ただじゃすまないんだからっ」
 枕を投げて扉にぶつけた。
    


「新月の晩に乙女の接吻だって。それで戻るって、そういったんだな」
 翌朝、トマスとシホの会話。トマスは食べる手を休めフォークを置いた。
「ふう。厄介だなあ。昔そんな童話があった気もするが、あくまでおとぎ話だろ」
「でもマグナスさん、ラテン語の本を見せてくれたわ。間違いないんじゃ」
「お前はそれ、読めたのかい」
「い、いいえ」
 シホの返答に肩をすくめるトマス。
「それじゃ、本当かどうか、わからないじゃないか」
 マグナスに迫られたことは、さすがに言い難かった。
 朝になると可愛らしい猫人間の姿に戻っていたマグナスを見ていると、夢のようにも思えたのだが。
 マグナスはというと、もしゃもしゃと朝の食事中である。
「おはよう、シホ、トマス」
 ユーリは乱れた髪をそのままにやって来た。
「ユーリ、その髪じゃダメ。女の子でしょ」
「うっさいなあ。だから女子は苦手だよ。ぼくはお洒落には興味ないんだ、ほっといてくれる」
 トマスは咳払いするフリをして笑いをこらえているようだった。
「まあ、そうですね。ユーリは勇者なんだから、服装や身だしなみくらいは、きちんとしておかないと。王侯貴族といつどこで会うやも知れません」
 挨拶しながら李がこういって、ユーリに含み笑いを投げかけた。
「うっさいよ、李さん。フン。ぼくに必要なものは武術だけさ。余分なステイタスは要らないよ」
「ところで、アトラスまでの足なんですが、どうします、船を貸していただける場所などご存じないですか」
 ユーリの言葉を無視するように話を進めると、李は表情をゆがめた。ユーリに足を踏みつけられているのであった。
「うわ、痛そう」
 シホは心の中で李に同情していた。
 ちょうどそのころ、宿屋に到着した人物の姿があった。
「ここだね」
 黒マントの情報でやってきたヴィヴィアン=ローズは、鼻を鳴らし、誇らしげに歩き始めた。
 向かった先は、マグナス一行の宿泊している宿である。
「ここにアントニーを殺した奴がいるのか。見ておいで、絶対、生かしちゃおかないよ」
 入店直後、一行が船を借りたい旨を店主らに尋ねているところが耳に入った。
 ローズは獲物を見つけた猛獣のごとく、この話に喰らいついた。
「偶然ですわね。わたしの船だったら、お乗せできますわ」
「本当ですか」
 女に弱いと見える李は、ローズの言葉に身を乗り出した。  
「ええ。アトラス島まで行きたいのですよね。いいですわ、すぐにでも出発できますけれど」
「いきましょう、みなさん。この人についていきましょう」
「まあ待て。他の船でもいいじゃないか。ゆっくり探そうぜ」
 トマスだけがなぜか反対していたので、ローズは躍起になってきたようだ。
「よ、よろしいじゃございませんの。わたくし、けっして、怪しいものじゃないですわ」
「だったら、最初に名乗るのが礼儀ってものじゃないのかね」
 ローズは背中から冷たい汗を流しつつも、冷静に受け答えする。
「ご、ごめんあそばせ。わたくし、バーバラと申します。とにかく、行き先が同じ方向でしたので、いかがかと」
「いいじゃない、トマスさん。バーバラさんもああ言ってるし、船借りようよ」
 シホは上目遣いの訴えるような眼差しでトマスを見つめた。
 トマスはいつものように、勝手にしろ、とぶっきらぼうに言って、その場を離れた。
「バーバラさん、ごめんなさい、ではさっそく、お船のほうを」
 李はローズに船を見せて欲しいとねだったが、トマスだけは頑として打ち解けるつもりはなさそうだった。
  

    
 ヴィヴィアン=ローズの口八丁によって、一行は船に乗り込んでしまった。
 トマスは初めこそ乗船を拒否していたのだが、マグナスやシホのことが気がかりのようで、渋々乗り込んだ。
 そして、シホにすばやく耳打ちした。
「いいかシホ。あいつに、この猫がアルベルトだとバレないように努めてくれ。頼むぞ」
「そ、そんなこといわれても。どうすればいいわけ」
「そうだな。あだ名でもつけて呼んでやれ」
 めったに頼みごとをしないトマスから、用事を言いつけられた喜びがあり、シホは夢中でマグナスに合うあだ名を模索した。
「まだらだから、マーブルってどう」
 トマスは黙ったまま頷いた。
 シホはマグナスに手招きして、
「マグナスさんは今後、マーブルと名乗って。トマスさんから伝言よ」
 マグナスは小首をかしげていたが、従っておこうと素直に頷いていた。
「李さんも、ユーリも。お願いね」
 ローズのいない間の隙を狙い、こっそり仲間内に伝言した。
「わかりました、が。なぜそこまでバーバラさんをお疑いになるのです」
「勘だよ、勘。文句あるのか」
「いいえ、ありませんけどぉ」
 不満そうな李だったが、トマスの考えには乗っておこうと考えていたようだ。
 ユーリはといえば、トマスの肩を持つ意見を言った。
「まあね、ぼくも実のところ、あのお姉ちゃんのこと、怪しいと思う」
「どうして」
「シホ。うまい話には罠が仕掛けてあるものだよ」 
「イヤというほど味わいましたからねぇ、ユーリの場合。うぐっ」
 再びユーリに足を踏まれる李であった。
     
 


 
 ヴィヴィアン・ローズは意外なほどたやすくことが運んだことで、ほくそえんでいた。  
 あの男、黒マントが言う相手とは、ほかならぬアルベルト・マグナスその人。
 眼前にいる金髪の二枚目修道士がマグナスと、ヴィヴィアンは勝手に思い込んでいた。
『こいつはあたしのことに感づいていやがるのか。だから、乗船を拒んだのだろうか』と。
 足元にはフードをかぶった子供がいつもいて、襲う機会を逃していた。
「バーバラさん」
 ヴィヴィアン・ローズは、はっと呼吸をひとのみし、声をかけてきた方向に顔を向けた。
 声の主は、シホである。
「ど、どうかしましたか、シホさん、でしたわね。悩み事かしら」
 できるかぎりのスマイルを浮かべ、警戒させぬようつとめる。
「あのう、私、こんなこと同じ女の子だけどユーリには、ちょっと相談できませんもので。バーバラさんにだったら、相談できるんじゃないかと思って」
 ヴィヴィアン・ローズは怪訝そうな表情をしながらも、弱みを握れる可能性があるからと、黙って聴いてやることにした。
「そう、いいわ。わたくしでいいなら、なんでも聞いて」
「ほんとですか。じつは」
 シホは男ふたり、すなわち、トマスとマグナスのほうを振り返ると、人気のないところへ行きましょう、と、ヴィヴィアン・ローズをうながした。
「聞かれると、まずいんです」
 ヴィヴィアン・ローズは、シホが丸腰であることを既知しており、危険はないだろう、と鼻を鳴らす。
「ええ、いいですわよ、それだったら地下へでも」
 移動し、落ち着いたところでシホは悩み事を吐露するのだった。
「あのね。じつは、私、あの、好きな人がいるんです」
「まあ、そうでしたの。もしかして金髪の人かしら。いい男ですものね、わかるわ」
 シホは確認するような、心の中を探られるような言葉を耳にすると、顔を真っ赤にする。
「ふふ、かわいいわねぇ。かなわぬ、ガキの恋か」
 ヴィヴィアン・ローズは口には出さなかったが、心ではそういっていた。
「そ、それで、ええと。もうひとりからも、好きだって言われたんですが」
「は、あ、いえ、つづけてちょうだい」
「そ、その彼も、トマスさんとは違うカッコよさがあるんです。私、どうすればいいんですか。今度の新月の晩に、そっちの彼と、キスしなくちゃいけないんです。あ、あの、バーバラさん。聞いてます、バーバラさん」
 ヴィヴィアン・ローズは呆けたような表情でシホを見据えていた。
 馬鹿馬鹿しい、といった顔つきで、である。勝手にすればいい、といいたかったが、作戦を実行するまでは、むげに扱うわけにもいかなかった。
「なぜ新月の晩に、愛してもいない彼とキスするのかしら」
「あ。くわしいことは、言えないんです。でも、私、それであの人が元に戻るならそれもいいかな、とも思ってて」
「もとに、もどる。いったい、どういうことかしら」 
 興味の出てきた話題に、ヴィヴィアン・ローズはシホのほうへ身体を傾け始めていた。そのときである。         
「どういうことも何も、その男は、ちょっと、精神がイカれてましてね」
 やってきたのは、なんと、李道士であった。
 シホとヴィヴィアン・ローズの態度に不審を抱いた彼は、こっそり立ち聞きしていた、というわけで。
「キスで治るんですか、不思議なお話ですのねえ」
「まったく、不思議なお話ですよ。おもしろいでしょ。でも恐らく、シホさんの心を向けさせるための、彼の作り話です。シホさんはそれを本気にしたと。こういうわけなんですね」
「お嬢さん。そりゃあ、悩みたくなりますわね。かわいそうに、ストーカーってやつかしら。お気をつけなさい、襲われそうになったら助けに行ってあげますわ」    
 ヴィヴィアン・ローズはシホの肩をたたくと、甲板へあがっていった。
 李道士は、シホのほうへ向き直り、肩をすくめてこういった。
「はあ、やれやれ。間一髪でしたね。あのことがバレたら、コトでした」
「ご、ごめんなさい。でも、私、どうすれば、マグナスさんのこと救えるのか」
「ううん、そうですねぇ。こういう場合、わたしならこうしますがねぇ」
 片目を閉じ、シホの返事を待つ李。
「えっ、どうするんです」
「わたしがもしあなたで、片思いの相手がいたら、好いている殿方に相談します。相手の気持ちをたしかめる意味もありますよ」
「相手の。き、きもち」
「そうです、それでフラれたって、いいじゃないですか。自分は想いを打ち明けられたんですから。悪いのは気持ちをためこむことです。どうです、一度すっきりしてみては」
 シホは、李からそういわれ、黙ったまま、頷くことにしたようだ。
「やってみる。当たって砕けろってやつよね、李さん」
「そうそう、その意気です。がんばってくださいね」
 重い足取りで、それでも何か、決意のようなものを背中から漂わせているシホを、まぶしそうに見上げる李は、独り言をつぶやいた。
「若いって、やはり、いいものですねえ。わたしなど恋とは無縁になっちまいましたよ」
 シホが地下から出ると、トマスはしゃがみ、小さくなったマグナスに何かを話しかけているところだった。
 突然話すことをやめ、トマスは目線をシホのほうへと動かした。
「トマスさん、相談があるんだけど」 
 言われてトマスは鼻白んだ。
「なんだよ。いま、こいつといい話してたんだぜ。話の腰、折るな」 
「こら、トマス。シホちゃんをいじめるにゃ」
「いていて。いじめてねえだろがっ。ああ、もう」
 シホは、ふたりのじゃれあう様子に噴出していた。
「仲がいいのね」
「それより、相談って」
 トマスに尋ねられ、シホは紅色に染まった頬を押さえながら言った。
「えっと。その。マグナスさ、いえ、マーブルのことで」
「それは聞いたな。それで」  
「私、好きな人がいるんだけど」
 トマスは話の内容が見えないといった表情で、小首を傾げてシホを見た。
「な、なんだ。どういうこった。あいつとお前の好きな男と、どういう関係が」
「言ったじゃない、私。マグナスさんに頼まれごとしたって。私にはとてもできそうにない、から」
「できないことなら、しなけりゃいい」
「でも、しないと、一生マグナスさんは、あのままなんだよ。トマスさんは、それでもいいの」 
 ここまでいってようやく、トマスにも事情が飲み込めた様子だった。 
「しないと、ってそのことか。えっ、待て、なんでシホが、それをあいつに、しなくちゃいけないんだよ」
「だから、頼まれたから」
「誰に」
 シホは、うつむいたまま沈黙を守っていた。
 ふだん毒づくときは言葉を操るのに、どういうわけか、今のトマスは鈍くなっているようだった。
「新月の晩になったら、私はマグナスさんとキスをしなくちゃいけないのよ。せめてマグナスさんを好きだったら、こんなに悩まなかったのに」
「そ、そうなのか。しかし、そんなに嫌がるものでもないんじゃないか。ほんの一瞬、我慢すればいいことで。たかがキスだろ、深く考えるなって」
 シホの表情は歪み、トマスの心ないひと言で傷ついたに違いなかった。
「そうだよね。ほんの少し我慢すれば、いいだけなんでしょ。やってあげなって」
 剣の素振りをしているユーリが横からさりげなく口を挟む。  
「ひ、ひどい。トマスさんもユーリも、だいっきらい」
 駆け出すシホはヴィヴィアン・ローズの胸板にぶつかって、転びそうになるところを支えられた。
「ちょっとあなた。聞き捨てならないお言葉を聞いたものですから。彼女に代わって、一発殴らせてくださらない」
 ヴィヴィアン・ローズの平手打ちが、甲板中に甲高い音を響かせ、トマスの頬に炸裂した。  
「そうやって逃げるつもり。あなた、ホントの気持ちを彼女にいったらどう」
「逃げるだって。はん、俺が何から逃げてるって言うんだい」
「好きなんでしょ。皮肉言って誤魔化しているけどね」
 ヴィヴィアン・ローズは周囲に聞こえないよう配慮して、トマスの耳元で囁いた。
「ば、ばかなことを。なんで俺が、あんな小娘に、熱あげなきゃならないんだよ」
「いいのかしら。あなたが人殺しってこと、彼女にバラされても」   
 トマスは殴られた頬を押さえ、小首を傾げるほかなかった。
「はあ、なにいってんだ、あんた。俺は人を殺してなど」
「うそおっしゃい。証拠はあるのよ、黒マントの男からすべて聞いてるわ。アントニーって名前に聞き覚えあるでしょ、覚悟おし」  
「アントニーねえ。そういえば、アントワープだかアムステルダムだかのちっぽけな修道院で、俺のこと、かいがいしく世話してくれたエリート修道士で、アントニー・ファン・レンブラントっていたぜ。あいつのことかな」
「やっぱり知ってたんじゃない、彼のかたき」
 ヴィヴィアン・ローズは懐から短剣を出し、トマスに斬りかかった。
 慌てて飛びのき攻撃をかわすのが精一杯のトマス。
「まて、敵ってなんのことだよ。説明しろよ」
「問答無用、いくぞ」
「待ってください」
 間に割って入ったのは、例のごとく李道士。
「はいはい、そこまで。バーバラさん、そろそろ打ち明けてくれても、いい頃じゃありませんか。あなたが隠し事をしてるってことくらい、お見通しでしたよ」
 李はヴィヴィアン・ローズに片目を閉じた。
「でも、こいつがっ。こいつがアントニーをっ。アントニー。アントニー」
 その場にいた一同は、ヴィヴィアン・ローズに視線をむけた。
 だがシホは、先ほどのひと言に傷ついていたのか、トマスと目が合っても、視線を交わそうとはしなかった。
 

 そのうち、雨が降ってきた。
 冷たい冬の雨は、次第に凍てつき、骨まで凍らせる勢いである。


「あたしは、グウェンドリン・ノールっていう、侯爵家の娘だった」
「だった、というのは」
「いまじゃ落ちぶれて没落貴族ってやつさね。残ったのは、過去に得た名誉だけ」     
 船室のテーブルを囲み、一同は暖を取っていた、シホだけは部屋にこもったままだったが。
 李はヴィヴィアン・ローズ、本名を明かしたのでグウェンドリン・ノールと呼ぶことにするが、グウェンドリンに質問していた。
「あ、では。アントニーという人はトマスさんの知り合いだったとか」
「俺もびっくりだったんだけどな。なんであんたが、あいつと知り合いなんだか」
 トマスは混乱したのか、考えをまとめようと頭をかいていた。
「アントニーの家は東インド会社を営む大会社でね、父親は名のある提督さんなのさ。それであたしとの縁談が舞い込んできたの。彼は言ってたわ。家と僕とは関係ない。きみと僕との関係だけが未来を築くんだよって。その言葉で、あたし」
「オノロケごくろうさん」
 トマスは肩をすくめて苦笑した。
「だけど、アントニーは何者かに殺されたんだ。その敵がトマス・ヴィスコンティって元修道士だと聞かされてたもんだから」
「誰にそれ、聞いた」
 トマスは椅子の背もたれに寄りかかっていたが、その言葉で身体を起こすと険しい表情でグウェンドリンの返答を待つ。
「ウィリアム・リード卿。大ブリテンの貴族よ。あの黒マントの男も、リード卿とつるんでる」
「ウィリアム・リード。どこかで聞いた気が」
「そりゃあね。あれだけの公爵さまですもの。名を轟かせているし、聞こえない名前じゃないでしょう」
 グウェンドリンは仰々しく両手を開き、リード卿を嘲笑した。
「もっとも、女とあれば手当たりしだい。しかも、好みのタイプっていうのが、ね」
 グウェンドリンは大盛りの皿を平らげていくユーリのほうへ視線を泳がせ、
「ま。気をつけてやることだ」
「いてえ。まだうずくな。ちくしょう、さっきはよくも思い切り殴りやがって」
 思い出したようにトマスが恨み言を言う。
「あら。あんたが悪いのよ。シホちゃんにあんなこというから。謝ってきたら。このままじゃ可哀想よ」
「いくにゃん。トマス。お前が悪い、お前が」
 すり切れた修道ローブのすそを引っ張って、ぷにぷに足のマグナスがシホのいる部屋へ導こうと躍起になった。
「あっ、この、アルベルト。やめろ、やめねえか」
 グウェンドリンは先ほど大笑いしたにもかかわらず、再び噴出しそうになっていた。
「しっかし、何度見ても笑っちゃうわね。これが噂の天才で、イケメンさんだって。へええ。悪魔だか天使だか知らないけど、おつなことしてくれちゃったわねぇ」
「悪いのは黒マントのオッサンだろ。マグナスじゃねえ」
 しかめっ面しながらグウェンドリンを見据えるトマス。グウェンドリンはさすがに悪いと思ったか、口元を押さえた。
「ご、ごめんなさい。あたしもいろんな海域を渡ってきたけど、こんな珍妙なことには出くわしたことないわ。敵がほかにいるとわかった以上、一緒に行動させていただくわね」
「そうですね。いつになるかわかりませんが、あなたの敵にぶち当たるかもしれません」
「そんなこと決まってるわ。すぐよ。すぐ」
 グウェンドリン・ノールは確信でもあるのか、不敵な笑みを浮かべていた。  
   





 
 薄暗く狭い船室の一角で、シホは、トマスにいわれたひと言をひどく気にしていた。
 くわえて、ユーリのトドメである、このダブルパンチが効かないわけはなかった。
 シホは目頭を真っ赤にしながら毛布にもぐりこみ、すっかり不貞寝を決め込んでいた。
「シホちゃあん。シホちゃあん」
 猫が扉を開けて欲しいときにするしぐさである。 
 がりがりとひっかいている。
 その様子がおかしくて、気落ちしていたシホも少しは笑う余裕が出来たようだった。
「まって、いま、あけ」
 扉をあけると、マグナスだけではなく、トマスの姿も視界に飛び込んできた。
「な、なにかご用」
 後ろ手にまわし、膨れツラでトマスに言った。
 何事かを言いかけてはやめる。もどかしい態度にシホはムッときたらしい。
「用がないなら閉めるわよ」
「待ってくれ」
 あわてたようすで扉をおさえた。
「じゃあ早く言って。部屋が冷えちゃう。あれっ、そういえばマグナスさん見当たらないけど」
 トマスは額に手を当て、ため息をついた。
「どうせ気を利かせたつもりだろ。それより、入っていいかな」
「どうぞ」
 不安そうにトマスを招きいれた。
 トマスのほうでも恐る恐る部屋へ足を運んだ。
「あの、さ。さっきのこと、怒ってるよな」
 シホは何も言わぬまま枕を抱きしめる。
 トマスはシホの隣に腰を下ろすと、少し距離を置いてシホの様子を窺っていた。
「機嫌、なおせ。な。俺、あんなこというつもりじゃなかった。本当だよ」
「それじゃあ、何ていうつもりだったのか、言って」
「え」
「言って」
 トマスはまっすぐ見つめてくるシホから視線をはずした。
 だが、シホが『やっぱり。あれが本音でしょう』と抗議しようと口を開きかけた、次の刹那。  
「俺が、あいつより先にしてやる。そういうつもりだった」
 意外な告白に、シホは振り上げかけた拳を引っ込めることすら忘れ、ひたすらにトマスの顔ばかり見つめていた。
「気づいてたんだ。シホ。お前が俺を好いてること。だけど、俺とお前じゃ釣り合わない。俺は言いたいことを素直に言えない、こんな男だし、ましてや俺は、破門された身だ。そりゃ、ルター派(プロテスタント)に寝返って妻帯してるやつならいくらでもいるけど」  
「だから、私と釣り合わないなんて、誰が決めたの」
 シホは枕を投げ捨てて、トマスの膝もとにすがりついた。
「今だから言っちゃうけど。マグナスさん、私がトマスさんを好きなことはわかってる、でも、っていって、私に迫ってきてたんだよね。あともう少しでされちゃうとこだった。だからあせってたの。このまま私、どうにかなりそうって」
 トマスはあんぐりと大口を開いたまま、シホの顔を見つめていた。
「あのやろう」
 しばらくの呆けの後、扉の向こうを睨みつけると、
「俺の気持ち知ってて、そういうことを。ゆるせん」
「へっ。し、知ってたの。マグナスさんがトマスさんの気持ちを、って」
 シホはトマスに再確認するかのように尋ねていた。
 するとトマスは、皮肉を含んだ微笑を浮かべ、
「俺がルチアに酒飲むと寝てくれ、と騒いでた。そういってたこと、あっただろう」
「ええ。聞いたわ」
「なぜあのとき、ルチアがああいったか、お前は知らないだろうから教えてやる。アルベルト、いやマグナスの仕業だよ。あいつめ、俺がシホに一目惚れしたこと知ってたから、焼もち焼いてルチアにけしかけたんだろう。あいつ、顔がいいだろう。自分じゃ言えないくせに、言い寄られるだけのタイプだから、本当に好きな相手には何もいえないのさ」
「は、はあ」
「お前、からかわれたんだよ。あいつがお前を本気で好きなら、絶対本音は明かさないぜ」
 シホは、半ばあきらめたような表情をしていた。  
「そっか。そうだよね、私みたいなのが、イケメンふたりに言い寄られるわけないモンね。じゃあ、トマスさん、あなたも、まさか」    
「ばっ、それはないって」
 血の気の引いた顔で尋ねるシホの頭を、トマスはやさしく撫でていた。
「さて。キスの件だけど、お前さんどうする。今なら誰も来ないだろ」
 シホは、あっ、と声を上げそうになり、真っ赤な顔でうつむいていた。      
「『ほんの一瞬だろ、少し我慢すればいいさ』ていったわね」 
 トマスは眉をひそめながらシホを見下ろした。
「ふうん、あっそ。いやならいいけど。じゃあ、俺いくわ。せっかく人が助けてやろうって気になったのに」
 小声でぶつぶつと文句を言いながら腰を上げ、退室しようとするトマスの服をつかんで離さないシホ。
 立ち止まったトマスの背中にしがみついた。
「いや。いきなりされると、恥ずかしいもん」
 トマスは何を考えているのだろう。それとも緊張しているのか。背中を伝って息を呑む音が聞こえてくるようだ。 
 
               

 
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