全国的に見ても、魔法高等学校というところはおおよそ自由な校風が過ぎており、琴羽の通う邑夢（ゆうめ）高校もその例外に漏れることはない。生徒達はその好奇心を頼りに日々密かに法律ぎりぎりの魔法を探求しては、彼らの青春に色を添えている。それがまた魔法の勉強になったりするものだから、生徒管理者側としても軽度な遊びは黙認している節があったりする。
とはいえ、どこの世界にも度を超えて危険なことをする輩（やから）はいるし、教師は教師でPTAという圧力から立場を守るために、それらの“危険な魔法行為”を牽制する機関を設立している。『危険魔法規制執行部』、大抵は単に執行部と呼ばれる組織がそれに当たる。構成メンバーは複数名の教師と、十数名の有志の生徒から成る。不良生徒の規制は時に危険を伴うので、有志の生徒は魔法に関しては腕利きの者達であることが多い。
蜜城唯（みつぎ ゆい）は邑夢高校二年の執行部員だ。ショートの黒髪は飴細工のように光沢豊かで、顔立ちも一際整っているために精巧な人形のようにも見える。爛々と光を湛える丸い瞳と、常に微かな微少を浮かべた唇が、彼女に少女らしい愛らしさを与えており、幸いにしてその近寄りがたい造形美を緩和していた。
彼女は原則的に非常に柔和で寛容的な人物であることが知られており、本来ならば執行部員を目の敵にする不良学生一同も、唯に対しては友好的な態度を取る者が多い。時に甘すぎるとも思える処罰を下す彼女が、執行部にあって重用されているのは、ひとえにその人徳を生かして不良学生とのネットワークを構築しているからであり、緊急時においては彼女の情報網は特に重要視されている。
ところがそんな彼女に真っ向から刃向かう不良学生もいたりする。薬袋陽菜（みない ひな）である。
さて時刻は午後四時五十分を過ぎたところ、場所はサークル棟最上階最奥の調薬部室である。唯は“危険な魔法行為”を犯した生徒二名を捕縛した所であった。拘束魔法で両手足を完全に拘束された二人の女生徒は床に転がり、うねうね芋虫のように蠢いていた。
「……あのね、陽菜ちゃん」
彼女は呆れかえった声で呟いた。
「こら、唯！ なんだこれは！ 僕にはこんな不当な暴力を受ける覚えはないぞ！」
「陽菜ちゃん、本当に身に覚えがないの？」
「ない！！」
「じゃあこれはなんでしょうか？」
唯は試験菅に入った黒褐色の液体を陽菜の目の前で振った。微炭酸の液体は極小の泡沫を内部に生滅させている。
「……こ、コーラか何かじゃないのか……」
「陽菜ちゃん、素直に言えば反省文で済ませてあげるんだけど」
「くっ……！ そうやって僕を脅すのか！？ くそっ！ 汚らわしい執行部（けんりょく）の狗めっ！」
「……今すぐ謝るならその暴言は聞かなかったことにしてあげるね？」
「ふっ……。だれがそんなことをするか！ 僕は僕の正義を貫き通、」
「“くすぐりの刑”」
パチンと唯が指を鳴らすと、拘束された陽菜の周りに六本の腕が現れた。腕の先の手はわきわきと指を動かすと、陽菜の腋、脇腹、足の裏にそれぞれ両サイドから殺到し、一斉に彼女をくすぐり始めた。
「うわ、まて、やめ――あひゃひゃひゃひゃひゃひゃ！！ これ、ひゃ、ダメぇ！ ゆ！ い! くすぐった、ひゃ、あ、あひゃひゃひゃひゃひゃ！！」
「さてと、」
何事もなかったかのように、唯はもう一人床で転がされている生徒に向き直った。彼女は終始わずかな微笑みを浮かべたままだ。黒歴史薬の生産に携わっていた琴羽は、怯えた表情で微笑む唯を見上げた。
「……琴羽ちゃんはまたどうせケーキに釣られたんでしょう？」
「うひゃひゃひゃひゃ！ やめっ、てっ！ くるし！ ひゃひゃ！ い、息が！ うひゃひゃひゃひゃひゃ！ あひゃひゃひゃ！」
「違うもん、今回はケーキセットだったもん……美味しい紅茶や珈琲がセットだったもん……」
涙目で訴えかける琴羽。しかし訴えるべき事柄を根本的に間違えている。もっとも、お金を稼ぐ目的での魔法薬製造と分かって荷担した彼女に、なんらかの情状酌量を求める訴えがあるわけではないのだが。
「とりあえず、反省文、書く？」
「うん」
「あひゃひゃひゃ！ ら、らめぇ！ ひゃひゃ！」
「じゃあ明日までに原稿用紙五枚ね」
「五枚も！？ そこはどうにか三枚くらいになりませんかっ！？」
「ならないよ！ 君たち普通なら停学並の悪事働いてるんだからね！ 私が友達のよしみでなんとか教師を言いくるめてるから反省文程度で済んでるんだよ？」
「え？ あ……そうなの？」
「唯！ ゆ、ひゃあ！ ゆ、たす……ひゃひゃひゃひゃ！」
「そうだよ！ 今回の騒動だってすぐに原因が陽菜ちゃんってわかったから色々偽装工作かけて、お金儲けを主体としてるんじゃなくて、純粋に悪戯ってことにしたんだから」
「ほぇー……そんなことを。っていうかそれって唯も結構グレーなことしてるんじゃないの？」
「うひゃあん！ ひゃああ！ あひゃひゃ！ ひぬ……！ ひゃひゃ！ これ、しんじゃうぅよぉ！！！！ や、ひゃひゃひゃひゃ！」
「グレーどころか今回は真っ黒だよ！ まったく……！ 陽菜ちゃんじゃなかったらとっくに見捨ててるのに……」
「そっかー。幼なじみってすごいね！」
「うん、だからお願いだからもうちょっと大人しくしててくれないかな？」
「ひゃひゃひゃひゃひゃひゃ！ ひゃう！ ひゃあ！ たす、たすけて！ ゆ、あひゃひゃ！！」
「多分しばらく大人しくなると思うな。だってさっきからずっと悲鳴が聞こえるもの」
「そうかな。そうだと良いんだけど」
「ひゃめてぇ！ ひゃあああ！ あひゃあああ！」
「ところでいつの間にくすぐりの刑なんてえげつない攻撃魔法覚えたの？」
「ん？ 三日くらい前かな。先生に『蜜城はこの手の攻撃魔法に関しては類を見ない才能があるな……』って褒められちゃった。えへへ」
「それ褒められたんじゃなくて怖れられてるよ！！」
「……え？」
「え！？」
「そうかな？」
「そうだよ！ 口調から察しようよ！」
「そっか。だから次の日からあの先生の態度がおかしかったのかな？」
「先生の態度が変わるほど！？ 一体何したのさ！？」
「普通に、くすぐりの刑の効果を体験してもらっただけだよ」
「あー……ああいうのって使い慣れてない頃は先生が効果を確かめてくれるんだっけ？」
「そうそう。そうしないと実際に効果があるかわからないしね。でも魔法耐性（レジスト）が効くから実際ほど被害はでないんだよ」
「待って待って待って！！！ 教師レベルのレジストを持ってしても、唯のくすぐり魔法は耐え難いレベルだったの！？ 強すぎるよね！？ 陽菜は大丈夫なの！？」
「うーん……でも反省して貰わないといけないし……あ、静かになったと思ったらぐったりしてる。ほら、陽菜ちゃん起きて。まだ懲罰時間終わってないんだよ？」
「失神したのにまだやるんですか！！！？」
「うん。陽菜ちゃん、私が言ってもあんまり反省してくれないから」
そう言って唯があまりに清々しくにっこりと笑うので、「もう絶対蜜城唯には逆らわないでおこう」と心にかたく誓う琴羽であった。
さて薬袋陽菜がしばらく大人しくなったのは言うまでもないが（彼女は翌日に反省文十枚を提出している）、あの薬袋陽菜を矯正したのは誰かということで不良学生の間ではたいそうな噂が流れた。様々な尾ひれが付いた噂も行き着くところは一つで、邑夢執行部に少なくとも一人の悪魔めいた執行官（執行部を構成するメンバーの内で、生徒ではなく教師を指す）がいるということだった。誰も薬袋陽菜を矯正できる生徒がいるとは思わなかったのである。ましてやそれがあの虫も殺さないような顔をした蜜城唯だと考える人物は、生徒の間では本件に関わった二人を除いていないのだった。