「あした俺は選挙に行くだろうか?」自分に問いかけながらバンニャは歩いていた。砂場をよけて、できるだけ平らなところを選んで歩いた……枯れ葉が醗酵していく匂いが鼻の横を通り過ぎる……ところどころに腐りかけた落ち葉が山盛りだった。落ち葉は赤か茶で、黄色はなかった。このへんではイチョウは見ない。
「俺は選挙に行きたいのだろうか?」考え中だった。いつも考え中だ。だが長続きしない。バンニャにとって、じっくり考えるのはつらいことだ。肝心な決断のところに差し掛かると、きまって全身がむずむずしてくる。ティフ院長がうらやましいと思った。つねづね彼女のことはねたましい。きっと彼女は、俺より数十倍も密度の濃い世界に生きているんだろう。そんな雰囲気を発散させている。頭がいいというのはたぶんそういうことだ。出来が違うのだ。俺はといえば、どこから手をつけていいのかってセンスがまるで身につかず、あまりにも頭の中がかすみがかっているために、こうして不毛に考えてるうちにイライラして敵意がふくらんでくる。それもこれも、俺がバカなせいだ。しかし、実のところはわかってる。バカかどうかじゃなく、欠けてるのは忍耐だ。経験を待てない。わかってるのに、俺は今のところ不満たらたらで、ティフ院長のいとも簡単に結論を述べる口調のあざやかさのことなんか思い出している。理性が俺にありさえしたら。ティフみたいな理性とはいかないにしても。
「で、選挙って俺にとって大事なことだったか? こうして考える価値があるくらいに?」バンニャの手の届くところに一本だけ長い枝が伸びていて、まるでかまわれたいかのようだった。一枚だけ残ったひし型の葉っぱがぶらぶら揺れている。葉っぱにパンチして、ふちのささくれが手の甲にひっかかって白いひっかき傷を作った。腫れはしないが、かゆくなった。バンニャに仮説が生まれた、もしかして、考えてると最終的にかゆくなるものなのかもしれない……
気軽に外を歩いていいような時間帯でもなかった。バンニャの他に通りを歩いている生き物は誰もいない。だが、しっくいのハゲた壁の向こうから何かがそそくさと飛び出してきて、バンニャはびっくりした。犬だった。とっさに胸元からドライバーの端っこを取り出し、身構えた。この後自分がするかもしれないことでショックを受ける覚悟もした。身を守るためとはいえ、犬を相手にするのは最も気が進まないことだ。なぜなら犬は特別だから。すべての犬が。誰かイヤな奴の犬であっても、最近よく見る、誰のでもないタチの悪い犬であっても。しかし向こうの出方によっては、先手を打って犬のやわらかいところめがけてドライバーを突き刺さなくちゃならない。
犬はシバの血が濃いみたいに見えた。全身クリーム色で、とはいえそれはうす汚れているからだ。行くところが決まっているらしく、飛び出してきたあとの走りはギャロップめいた優雅なものだったが、わき目もふらなかった。今のところすぐ近くに特定の誰かがついているわけではないようだ。しかしバンニャにとっての決め手は、犬が犬なりに正気だとわかったことだった。単独で行動しているが、必要以上に舌を出してないし、ぎくしゃくした唐突な動きも見せない。これはよかった、犬が敵でなく、こっちに何の関心も持ってないって証明されたから。何であれ、引っこ抜くときが重要だが、ドライバーを引っこ抜くのは特にやるせないもので、そういう思いをしなくて済んだ。今着てる服の染めた部分に、血とかその他の液体が花火のように飛び散る心配もしなくて済んだ。気分良く、バンニャは犬の姿が見えなくなるまで見送った。
それからちょっと2ブロックばかり歩いたとき、突然バンニャは思い出した。天啓のようなひらめきだった。「犬――犬か!」つい声に出し、バンニャは自分の頭をはたいた。犬だ。驚いたことに、忘れていた。選挙どころじゃなかった。たまたまさっきのシバを見て思い出したからよかったものの。なぜ忘れていたんだろう? 俺のクラリスを探さなくちゃ。昨日からもう十五時間も見ていない。もっと見ていないような気さえするほどだ。何かあったのかもしれない。でも、そんなに心配しなかった。クラリスをどうにかできるやつなんて、そんなにはいない。それより、クラリスがそばにいないとさみしくなる。さっきまで忘れてはいたけど。
早く見つけてやらなくちゃ。あのかわいいハウンドは、きっと今ごろ、ぶるぶる震えながらさまよっているだろう。あいつがどんなにいい犬でも、ひとりで俺のもとに帰ってくるなんてこと、できやしない。俺だってできない。この目印の足りないディカ・イカで、俺はいつも自分でもどこにいるかわからない。
犬笛は、とふところを探ってみて、今さらそんなものは役に立たないのを思い出した。どっちにしろ、ポケットの中にもどこにも、犬笛どころか穴あきコインすらなかった。こうなった以上、地道に歩いて探すか、あるいはそれに加えて何か工夫しないと、バンニャのクラリスは出てきそうにない。もちろん、犬のためならなんでもやらなければ。探すあては、ないこともなかった。まずは同世代をあたってみる。同じ世代ならだいたい犬持ちだし、犬なら犬同士、動向を知っているかもしれない。
テントは遠かったが、何かしら用事があってやってくる同世代に途中で必ず出くわすので、たどり着くまでずっと一人ということはない。今日も、半分も行かないうちに、バンニャを見つけて道をななめに横切ってこようとするやつがいた。
「バンニャ」と、そいつはまだ遠いうちから大声で呼んだ。寄ってきながら話をし始めた。「聞いたか? 大変なことになったな。こともあろうに、ディロの野郎が当選とは」
「ディロだと?」バンニャはさすがにびっくりして、思わず首に巻いていたタオルをかなぐり捨てた。「まさか!」今度は選挙のことを忘れていた……ひとつ思い出すと、ひとつ犠牲になる……でもここでちゃんと戻ってきた。ただ、選挙は今日だったらしい。それにしてもディロとは。
声の感じでそうだろうとは思ったが、よく見てみると、相手がゼイ・ハニハであることがわかった。ゼイ・ハニハは同情するみたいにちょっと薄笑いを浮かべながらぺらぺらしゃべりだした。
「そのまさかだ。よりによってあいつなんだとさ。しかもだんとつらしい。ところでおまえ、選挙のやり方、知ってたか? まあ、知ってたら驚かないだろうけど。ディロのクソは、買収するのが惜しいばっかりに、誘導で票を取ったんだぜ。印象票ってやつだ。奴にしちゃ、なかなか巧みなやり口だった。日ごろから自分を印象づけておいて――後ろから登場してびっくりさせるとか、そんなようなおもちゃみたいなことだろうけど――それで、存在感を高めるというか、とにかく無意識的にやつの顔がぱっと浮かぶように仕向けるんだ。そんなマネ、もしもやってみる気がおきたとしたってうまく行きっこないって思うだろ? でもあいつはやったし、うまく行ったんだ、どういうわけか。いい意味にしろ、悪い意味にしろ、めだった奴が勝ちってわけさ。そういうわけで、あいつはまんまと当選して、今のところその事実を見せびらかしてふんぞり返ってる」
バンニャはもう一度「まさか!」と言いそうになったが、もう一度ゼイ・ハニハがぺらぺらしゃべりだしそうなのでやめた。代わりに、こう言っておいた。「てっきり、当選するのはあいつだとばかり思ってたけどな……ほら、あいつだよ、よそから来たあいつ」
「ツシか?」とゼイ・ハニハは間髪入れずに叫んだ。「あんなやつ、話にならなかったよ。とはいえ、じつは俺、やつに一票入れたつもりなんだけど。まあ、毒にも薬にもならなさそうって理由で」
バンニャが言ったつもりなのは別のやつだったが、たいした違いはなさそうに思えた。バンニャは「ふーん」と言い、興味を失くしかけたが、その時またしてもあの晴れがましいお知らせのようなひらめきが脳みそをつらぬいた。「ハニハ」と、バンニャはばっと振り向いて言った。
たまたま右手が胸のところに当たっていたので、ゼイ・ハニハはドライバーを警戒して飛びのいた。「なんだ?」と努めてのんびりした調子で言い、様子をうかがうハニハ。しかし、バンニャには争い気分はこれっぽっちもなかった。たしかにやつにはちょっとした恨みつらみがないこともないが、今はそんなことちっとも気にならない。バンニャは言った。
「なあ、こういうのはどうだろう……つまり、ディロのやつは当選したはいいものの、たいしてやることもなくて退屈してるんだろう。代表者なんてヒマだしな。今はそうでもなくても、きっとすぐにそうなるさ。だったら、俺たち個人の願いを聞いてくれてもいいんじゃないか? たとえばだけど、探し物……そう、例を挙げると、いなくなった犬を探し出してもらうとか。俺の場合、たまたま今ちょうど、そうしてもらえると手間が省けるんだ。そういえばハニハ、おまえも最近いなくなったって聞いたけど、本当か? もしそうなら……」
ゼイ・ハニハは考えるふりをしながらゆっくり言った。「別に、俺のはちょっと散歩に出てるだけだよ。バカンスの一種さ。たしかに今は近くにはいないけど、なにも永遠にいなくなったってわけじゃないんだ。もしその気なら、代わりもいるわけだし。でも――持ちかけてみる価値はあるな。うん、いいかもしれない」
こんなことを言ってるが、バンニャにはちゃんとわかっていた。ハニハには今、どんな犬もいない。いるつもりの犬すらいない。前はなかなか順調な犬がいつもこいつのまわりをうろちょろしていて、といっても単なるダックスだったんだが、それでもなかなか連携はばっちりみたいだった。バンニャはこっそり思った。実のところ、一度だけ俺がゼイ・ハニハにしてやられたのも、その犬の功績によるところが大だ。ハニハの采配なんか、ほとんど関係ない。いい犬だったからな、茶色くて、いかつくて。ダックスとはいえ。
ゼイ・ハニハがさらに自分の利益を計算しながらゆっくりしゃべってる間に、バンニャは決めた。やはりあいつ、当選したばかりの代表者たるディロの奴に気張ってもらって、うまいこと俺のクラリスを見つけ出してもらおう。そのついでに、もしかしたらジーナも。ブルのジーナ、もうまるで五十年くらい顔を見ていないような気すらするが。当選したのがディロなら、汗をかくのもディロというわけだ。
ゼイ・ハニハも本格的にその気になったので、バンニャと二人、連れ立って直談判しに行くことにした。テントに着く前に、その裏手が目指す現場だとわかった。いまだにディロの取り巻きや、同世代の末期みたいな奴や、違う世代の奴や、さらにピンからキリまでの輩が浮かれて騒いでいたからだ。
「もう五時間前の話だぜ、その当選とか何とかってのは」とゼイ・ハニハがおおげさに肩をすくめて見せながら言った。その辺に大小の空き缶が散らばっていて、足にぶつかって転がると粘液みたいなシロップの残りかすみたいなものがどろっと流れ出した。よく見ると、すごくちっちゃな虫も群がってた。不潔な虫だ。こんなのにさわっていいことは何もない。
ディロの周りのやつらは、バンニャとゼイ・ハニハみたいにディロに何かをやらせようとたくらんでいたと見え、おもむろのテントの横から登場した二人組を見るとあからさまに不愉快な顔をした。「おいおい、お呼びじゃないぜ」と一人がどこか遠いところからエコーがかった声で言った。「ほんとにな」ともう一人が普通の声で言った。しかしバンニャはドライバーを持っている。ドライバーだけじゃなく、一応飛び道具も持っていた。ゼイ・ハニハだって、それに近いものは持ってた。しかも数だけはバンニャよりもそろえている。それがこいつのいいところだ、とバンニャは思う。オールマイティーってところが。
さりげない様子で、でも誰の目にもはっきりと見えるように、ゼイ・ハニハは各種の武器を、全部ちょっとずつ出してみせた。だが、これで相手が怖気づくと思ったら、それはかわいい勘違いというものだ。相手もそれぞれ一個か二個ずつ、使い方を工夫しさえすればどうにでも使えるようなものをちらつかせた。
一触即発といった雰囲気だった。しかし、箱とか缶とか、そういうものを積んで作った山の裏側では、そんなことにも気づかないのほほんとした奴らがしゃべっていた。どうやらそっちに、目当てのディロも混じっているようだった。なぜなら、ひときわ甲高い声でキーキー笑うような奴は、ディロ以外には考えられないからだ。