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序幕

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 ――前触れもなく、目前の身体がバラバラに吹き飛んだ。

 それは誰の仕業であるのか、という陳腐な問いは赤い弾幕の先にいる青年の笑いしか誘わないのだろう。
 宙を舞う血肉。申し訳程度に形を保った手足は奇妙にくねり、投擲されたような慣性を持って背後の壁に叩き付けられる。棒立ちをする男、荒崎弧太郎(あらざきこたろう)にはそんな想像が出来ていた。
 ほんの一瞬の出来事だったのだ。先程まであったことをあれこれと描写することは弧太郎には出来ない。
 辺り一面に広がっていた白い壁は鮮やかな朱色に染まり、密閉された空間の中で吐き気を催すような臭いが充満していく。弧太郎に浴びせかけられた様々な津液は、酸味や苦味として知覚される。
 弧太郎は両手を顔に当て、ゆっくりとその液体に触れた。手にべっとりと付いた液体の中には柔らかい固体が存在していた。それが何であるのか、疑問に思う暇(いとま)も心も知識も弧太郎は持ち合わせていない。
 ああ、と彼の口からただ呻き声が漏れた。

「うあうう」

 弧太郎の挙動に応じてか、部屋の奥底から染み出てくるように声が響いた。声の質は低く、弧太郎の目前に見えるその姿から男性の声であることは瞭然としていた。
 ただ、そんな声にしてはあまりにもあどけない、と弧太郎は感じたのだ。膝を抱えて座る青年の口は何かの言葉をなぞる様に動くが、言葉らしきものは何も聞こえない。
 青年の目が弧太郎とその周りを見渡すように動く。しかし、焦点の合わないその眼差しからは、実際には彼は何も見ていないのではないかと思わせられる。
 その時、弧太郎の背後で重量を持った何かが落ちる音がした。それは赤い水溜まりに落ちたのだろうと弧太郎は思った。しかし、それが手なのか足なのか、それとも形を崩した臓物であるのか彼は知りえなかったのだ。

「ううああ。あう。ああ。ああああ。あ」

 粘液性のどろどろとした何かが、弧太郎の顔面をなぞる。透明色の触手のようなものは、弧太郎の顔に付着した様々なものを絡め取り、そのまま通り過ぎてゆく。
 当の弧太郎は声も上げられぬまま、ただ茫然と立ち尽くしていた。名状しがたい呻き声や笑い声を生暖かい吐息と共に背中で感じながら、彼の頭は此処から逃げなければいけないということを幾度も反芻する。
 しかし、当時の弧太郎は此処から逃げ出す方法を知らず、なんらかの行動を起こそうともしなかった。
 むしゃむしゃ、くちゃくちゃと、背後から聞こえた奇妙な音につられて振り向くまでは。

「あ」

 弧太郎は見てしまった。
 白に映えた透明色の触手が、何かを絡め取っているのを。そうして、付着した赤をその身に吸収してゆくのを。
 弧太郎は理解した。
 触手はあの赤い塊を喰らっているのだと。人肉を、人の死体を捕食しているのだと。

「あ、あっ……あああ」

 瞬間、平衡感覚を失ったように弧太郎は眩暈を覚えた。思い出したように脂汗が流れ、強い吐き気が胸の奥からこみ上げる。
 いいや、嘔吐している場合ではない。早く此処から逃げ出さなくては。そのように考える弧太郎の精神は、『あたかも狂気に慣れているかのように』不思議と安定していた。
 背後に向くことを所望する視線を強引に前へ向け、弧太郎は咄嗟に走り出そうとする。その時の彼は、閉塞されたこの空間で何処に逃げればいいのか考えることもなく。
 ――加えて、目前に伸びた手に気付くこともなく。

「ううっうううううううあうううううううううううううううううううううううああああううううううううううううううううううううううううううううう」

 ゆらゆらと歩み寄ってくる青年の姿に弧太郎が気付いたのは、寸刻後だった。虚ろな眼差し、口からとめどなく溢れる唾液は、弧太郎の視界に入りながら、それでも輪郭を失ったかのように徐々にぼんやりとしてゆく。
 間もなく、言葉を失った悲鳴は強い耳鳴りに掻き消される。自分が叫んでいることも弧太郎は分からず、目の前の青年を通り過ぎるようにただやけくそに走った。
 歩む青年と走る弧太郎がすれ違う。いつの間にか崩壊してゆく空間の中で、弧太郎は青年の顔を間近で見た。見てしまった。
 吹聴に現れた一つの確信が、弧太郎の思考を黒く塗りつぶす。彼が知ってしまったことはなんなのか、さらにそれは何故そうなのか、考えを整理するのには随分と時間がかかりそうではあった。
 白い密室が、弧太郎の視界から剥がれるのを合図に壊れてゆく。
 それから弧太郎を迎えるのは、酷い現実味を帯びた闇だ。夜の暗闇に身を投じて、彼はただ今はなにもかもを有耶無耶にしようと考えていた。
 振り返った先であの青年はやはり笑っているのだろうか。振り向きはしないが、弧太郎にはそのような気はしていた。その理由は簡単である。

 ――あの青年は弧太郎自身なのだから。



           ≪アウターヒーロー≫
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