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The Unspeakable

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 たとえ誘拐されようが何をしようが、世界は変わらず回っている。
 家に戻って一日経てばテストの結果を受け取らねばならないし、数学の課題を追加で貰う必要もあった。何に追加されるかといえばそれは休み中の課題に他ならず、つまりは夏休みがやってくる。
 テストという正当な対価を払った以上学校に拘束される理由は何もなく、死人の出そうな体育館での試練を乗り越えて遂に40日余の怠惰な日々が始まる――――
 はずだったのだが、今日も牡丹は学校へ向けて、真昼の日差しの中をチャリを漕いでいる。
 原因はといえば昨晩送られてきた一通のメールだ。差出人は『石井護国(いしいごこく)』。
 この時浮かび上がっていたのは桜だったが、その名を見るや否や「うわぁ」と呟いて身体から抜け出し、何事かと訝る牡丹に携帯を見せてやる。「うわぁ」。
 このむやみやたらと右翼臭い名前の男は、ふたりの通う笠雲高校写真部部長である。
 すらりと言うよりはひょろりとした長身に眼鏡、真冬でもワイシャツ一枚を旨とし最大の武器はマシンガントークと豪語するこの男は校内きっての有名人で、夏休みに入ろうというこの時期この男の名前までは知らずとも顔を知らない人間というのはそうはいない。
 新入生にその顔を知られるようになったのは4月、新入生勧誘だ。何を隠そう、入学したてで右も左も分からない、その上周りの人間の名前を覚えるのに非常な苦労がいるとあって元々部活になど入る気のなかった牡丹を写真部へと引きずり込んだのもこの男である。
 笠雲の文化部は大人しいもので、仮入部期間をぶっちぎり下駄箱を出た新入生に襲いかかるだとか、昼休みに身内ノリ甚だしいテンションで教室に殴りこみをかけやや引かれるようなことはしない。せいぜいが校内の掲示板にポスターがちらほら見受けられる程度で、それも謎の黒人が描かれた水泳部のポスターに比べればインパクトは微々たるものだ。
 唯一の例外を除いては。
 まだポスターは大人しい。『俺は見つけた、文化の真髄を!!!』というハナから世間を置いてけぼりにする気満々のアオリと共に写っているのは校舎裏にある送電塔と入道雲。それ単体で見れば確かになかなかの一枚であろうが、問題はそれ以上の情報がないということだ。隅に生徒会の判子があるので公式に認められたものではあるらしいが、「写真部」の文字はどこを探しても見当たらない。
 そして本人だが、どこから借りてきたのか小型の黒板をラウンドガールよろしく掲げて運動部の群れの中に混ざっている。しかし流石に重いのか30秒ほどで下ろしては一息つき、それからまた掲げては声を張り上げる。写真部です写真部です、そこのあなた写真を撮ってみませんか、ていうかむしろ撮ってくださいおねがいします。また一息つこうとしたところで黒板が風に煽られてバランスを崩しそうになる、サッカー部に支えられて事なきを得たそこに書かれた文字は『廃部寸前』。
 どこをどう取っても目を引く男であり、そして賢明な人間ならば近寄らない方が安全と判断する男であった。そして、牡丹はいたって健全かつ賢明な一女子である。当然この愉快すぎる見世物は一瞥して通り過ぎる――はずだった。
 あるいは牡丹が『白木牡丹』としてこの世に存在していたならそうなっていただろう。しかし牡丹はふたつの魂を持つ身体。ふたりは半分だけの記憶を埋める術をいつでも欲していて、数え切れないほど書いた日記でもそれは埋められない。だからふたりは入学祝いに何が欲しいか、と聞かれたとき迷わずデジカメをねだった。自分の中でまどろむ姉妹に見た景色を伝えられるように。
 だから、ほんの少し足を止めてしまったのである。
 石井はそれを見逃さなかったし、そこからの営業トークはまさしく嵐のようであった。あれよあれよという間に牡丹は一度写真部の部室に来る約束をさせられてしまったが、その日の日記には会話の内容について「なんかすごかった」とだけ書かれている。
 それからなんとなく入部することになってしまい、今ではそれも悪くはなかったと思ってはいるのだが。
 この部長からのメールというのはたいていロクでもなく、ましてその内容が一方的に集合日時を書いただけというときは尚更だ。
 また何か思いついたのであり、行かなければ勝手に役割が振られているだけだろう。
「ねえ」
 牡丹が口を開く。
「振り回される奴でもあたしに代わらないでね」
「……ダメ?」
「ダメ」
 一方的に逃げられる立場の桜にはこうやって釘を刺しておいたのだが、結局牡丹が浮かび上がることになってしまっている。不幸だ、と思いながら日差しの中をチャリを走らせるうちようやく校舎が見えてきて、
 あれ、と思った。
 なにとは言えないが学校に違和感がある。夏休みだからというのとも違うような、何かが。
 不思議に思いながら学校へ続くゆるい下り坂を降りて、校門をくぐる――――
 目の前が白くなった。驚いて自転車を停めて、ようやく気付く。ひとつはそれが自分からあふれる『炎』であること、そしてもうひとつはこの違和感の正体。
 この学校の敷地から、『音』がしないのだ。すぐ目の前には特別棟と呼ばれている方の校舎があって、3階の音楽室では吹奏楽部が練習しているはずだ。もしそこにいなくても校舎のいたるところでその姿は見られるし、みんながお弁当を食べているということもそうはないだろう。
 それになにより、ついこの間は朝から騒々しかったセミですら、一匹も鳴いていない。
 音の代わりにこの空間を支配しているのは「気配」だ。それも、とんでもないものの。魂が飲み込まれないために咄嗟に防御反応をした結果がこの炎なのだ。
 考えるより先に身体が動いてチャリをターンさせていた。ここにいるのは明らかにまずいと魂が警告を発している。
 しかし、ペダルは踏めなかった。
 振り返った先にあったのは牡丹の知っている道ではなくて、霧に覆われた森。この夏の日差しはどこにいったかと思うような――――
 そこでまた気付いてしまったが、恐ろしくて確認はできなかった。いつの間にかブラウスを通して突き刺さる暑さが消えている、その理由は。空を見上げてしまえば、また一歩自分の知っている世界とは違うところに連れて行かれてしまう気がする。
 こんな時に頼れるところはひとつしかなかった。半ば祈るような気持ちで携帯を取り出して、
 そこにある「圏外」の文字を見たとき、今度こそ震えが来た。
 いったい何が起きているのか。部長のやることは大抵とんでもなかったが、それでもちょっと面白いから手伝っていたのだ。けれどこれは違う。呼びつけられたらこんなとんでもないことになっていて、逃げられないし助けも呼べない。下手にハーメルンというサンプルがあるから分かる、これはあんな規模のやつじゃない。今は『炎』があるからいいが、もし桜と入れ替わったり炎を出せる限界が来たら、
 炎。
 ほとんど縋るような思いで、まだ制御のうまくいかない炎をなんとか操り携帯を包む。この炎は『鬼火』という魂力が炎の形をとっているもので、物理的に何かを燃やすことはない。だからこその行動だった。
 その思いに呼応するように、あかあかと照らされる液晶にアンテナが一本戻る。そしてもう一本立ったかと思うとまた一本に戻る。
 握る手に力が籠もり、炎も明るさを増す。なおも一本と二本を行きつ戻りつするアンテナを祈るように見ながら、番号を呼び出す。
 途方もなく長く思えたコールの後、ようやく出た相手に向けて叫ぶ。
「もしもし!? ベイビーさん!?」

 シートベルトを締めたところで着信に気付いた。携帯を取り出して液晶の『白木単』の文字を見てやらかしたと思う。
 自分としたことが連絡先を残したままにしておくとは。ハーメルンという化け物を相手にしたことで疲れていたのだろうが、あまりにも初歩的なミスだ。
 出るかどうか悩んだが、どうせ一度接触してこの連絡先を消す必要がある。どうせまた霊でも見つけたのだろうが、しかしあんなことがあったばかりでまた霊に会うとはツイていない、などと思いながら電話に出て、
『もしもし!? ベイビーさん!?』
 いきなりの大声に受話器から耳を遠ざける。
「そだけどォ、どしたの大声出しちゃって」
『なんか高校がヤバいんですけど、えっと、森みたいなのがあって……』
 電波が悪いのかそこで声がフェードアウトしていく。
『……で、明らかに夏じゃない温…………ずっと音がしな…………』
 やはり電話口がおかしいようで、声は大きくなったり小さくなったりを繰り返し、時折ノイズも混じる。
「あのさァ、えっと桜ちゃん? 牡丹ちゃん? まァいいや、なんかちょっと電波悪いみたいで、」
 デジャブした。
 昔、同じように電波が悪いと仕事仲間に言ったことがあった。あの時は確か――――
「……もしもし? 聞こえてる?」
『はい』
 辛うじて返事があった。しかしそれはだいぶ小さく聞き取りづらい。
「もうちょっと大声で返事してみてくれるかな」
『え、はい』
 ようやく普通に聞き取れるようにはなったがノイズが混ざる。そして「学校がおかしい」という発言と、自分に連絡してくるということの意味。
「教えてくれ! キミは桜ちゃん? 牡丹ちゃん?」
『……丹です』
「よし牡丹ちゃん、これからボクがいいって言うまで絶対に喋ることをやめないでくれ。なんでもいい、絶対に話し続けるんだ」
『え、』
「絶対だ」
 返事の代わりにノイズが聞こえた。車のキーを引き抜いて、整備されているとは言いがたい山道をつい先ほどまでいた建物へと走る。
ここはちょっとした山奥にある寂れた神社で、『山神』と呼ぶには少々危険なものが祀られているらしいがその力で社で暴れようとするものを抑制できるということがあり、表の連中でも知らないものの方が多いようなことに使われているらしい。今はハーメルンが監禁されており、ベイビーは仕事の後始末として『ドナー・ドリーマー』で握っている情報を吐かせようとしている。
 表がこれをやりたがらないのは縁を結ぶのを恐れているからで、腹いせとばかりにベイビーは所構わずその辺の人間に話しかけては自分との縁を切る手間をかけさせようとしている。だが今は嫌がらせがどうとかではない。真っ先に目に入った、山道を降りてくる魂力を隠す気のない禿頭に声をかける。
「すいませェん」
 自分が「例の」裏の人間だと分かった途端嫌な顔をされるが、今更気にもならない。牡丹の声がまだ聞こえるのを確認して、
「異界からの通信ノイズが解析できる人、ここにいます?」
「あ?」
 何を言っているんだ、という顔をされたが、携帯を渡すと耳にあてすぐ真顔になった。
「何処かわかるか」
 過程をすっ飛ばしてくるあたり玄人だ。彼女のデータを思い出す。確か、
「笠雲高校」
「笠雲か。ちと距離があるから飛ばさにゃならんな。あんた一緒に来れるか」
「無理ですねェ」
 即答だった。「じゃあ電話だけでも」「無理です」やはり即答する。
「あんたな、知り合いなんだろうこの子」
 電話口を押さえつつ禿頭が剣呑な目つきになる。言わんとすることは分かる、だがベイビーは命が惜しい。ついさっきまで『ドナー・ドリーマー』を使い続けて魂力は尽きかけだし、何より行った先の『もの』は間違いなくチャチな能力が通じるような存在ではない。
 勘弁してくれ、といったように肩をすくめるベイビーを見て禿頭も諦めたのか、
「分かった。好きにしろい。だが今こじ開けられる人がいるか確認するから待ってろ」
 そう言って携帯を返し走り出そうとする。繋がりを絶やさないようすぐに携帯を耳に当て、七の段を聞きながら禿頭を呼び止める。
「それなら一人アテがあるんですが」
「裏の手は借りんぞ」
 ぴしゃりと言われるがベイビーの笑みは崩れない。
「違います違います。大二郎さんですよォ、鬼殺しの」
 禿頭の雰囲気が変わった。身体から漏れる魂力の質すら変容した気がする。
「冗談も大概にしろい。適当に出していい名じゃないぞそれは」
「知ってますよォ。なんだったらボクの名を出してくれたっていい」
 禿頭の威圧を受け止める。この言葉は嘘ではない、むしろほぼ間違いなくこの男よりは本人のことを知っているはずだ。
「……一応、名前を聞かせておけ」
「あァ、ベイビーっていいます――――」
 耳障りな音が右耳を支配する。それから小さく息を呑む声だけが驚いて離した耳にもはっきりと聞こえて、再びそれを上書きするようなノイズ。
「もしもし牡丹ちゃん? もしもしィ!?」
 柄にもなく声が大きくなる、しかし返答は聞こえない。ノイズはなおも続き――それが突如ぷつりと止んだ。
 通話の切れた携帯をだらりと耳から離す。禿頭はその様子を無言で見ていたが、
「信用するぞ」
「よろしく頼むぜェ」
 そして今度こそ踵を返して山道を駆け上っていく。
 残されたベイビーはしばらく携帯を手に立ちすくんでいたが、やがて車に向けて歩き出した。ここから先は自分の仕事じゃない。もっと力のある奴が解決することなのだ。
 ただ。
「うらやましいよなァ」
 戻ってテンフィンガーがいたら、たまには煙草を一本もらおうと思った。
 なんでもいいから喋れと言われても困った。
 それこそ部長ならこういう時にも何か喋れるのだろうけれど、自分は何も思いつかない。一瞬悩んで、とりあえず九九を唱えてみることにする。
 過去の経験から何も見ないように目を閉じて、こんな状況でなければ快適と思ってしまいそうな涼しさの中電話に耳を傾ける。先ほどまでベイビーが出ていたはずの電話口から知らない人の声が聞こえてきてびっくりしたけれど、「笠雲」という言葉が聞こえたからきっと助けに来てくれる誰かなのだろう……あれ、七の段がすらすら出てこない。
 少し焦りを感じながらも八の段に入って、「鬼殺し」だのと物騒なワードが聞こえてくるのを聞きながら九九が終わったらどうしようか、とちらりと想う。別に繰り返してもいいのかもしれないけれど、何か他に唱えられそうな――――
 ぞわり、と。
 感じたのは総毛立つ感覚。寒気が這い上がるように身体中を廻って、炎の勢いが衰えていくのを止められない。携帯からすごいノイズが聞こえ出して、けれどそれをどうすることもできない。足にも震えが来てバランスを崩しかける。
 校舎から強い『気配』が来ている。それは明らかに牡丹のことを把握していて、この学校のどこへ逃げても目をくらますことはできない、理由は分からないけれどそんな確信がある。
『…………さん』
 今度こそ自転車を倒しかけた。
 さっきからずっと聞こえていたノイズがおもむろに止んで声がする。そのことへの安堵などできるはずもなく、反射的に耳から離して横目で画面を見てしまう。はっきりと書かれた『圏外』の文字、にもかかわらず通話中を示す画面。その相手はベイビーではなく、
『白木さぁーん』
 石井護国。
 理屈も何もなく通話を切ろうとした、けれど何度ボタンを叩いても画面は変わらず、その間も絶えず自分を呼ぶ部長の声は聞こえてくる。返事を求めるように。逃がさないというように。
 確かめる必要もない、今校舎からこちらへ向かってきているのは部長だ。逃げなければ。でもどこへ? 背後に茂る森の中へ突っ込むのは論外で、つまり学校からは出られない。かといって校舎の中に突っ込むのも、
『「白木さぁーん」』
 声が二つ重なった。ひとつは携帯からで、もうひとつは。
 ぎしり、という音が聞こえる。生徒棟は牡丹たちが入学する何年か前に建て直されたらしいけれど特別棟はそのままで、玄関のドアを開けるときに軋む音がする、それだ。
 細く開いたドアをするりと抜け出てくる見慣れた半袖のワイシャツに黒縁眼鏡。笠雲高校写真部部長石井護国、その人であった。
 固まる牡丹に向けてゆっくりと歩いてくる、その身体が左右に揺れている。その動きは人間が意識的に作っているとすればあまりに奇妙な不規則さ。けれど眼鏡越しの視線ははっきりと牡丹を捉えていて、張り付いたような笑顔は一度も瞬きをしない――――
 そのことに気付いてようやく金縛りが解けた。
 なけなしの魂力を絞るようにして炎を燃やす。ハーメルンの時ほどの激しい敵意は持てないけれど、目の前にいるのが「部長」でないことくらいは分かる。それを焼き払ってやると無理や右手の熱を高め、ブレーキから離す。
 伸ばした手の真正面に部長を据えて、眼鏡を狙った。白い火球は幸運にもぶれるその的を直撃し小さな、しかし顔面を包み込むには十分な爆発を起こす。
 そして、それだけだった。
 部長の足取りは変わらない。体の揺れも変わらない。一年以上付き合いのある先輩と後輩、「縁」は十分に結ばれているのにも拘らずまるで効いた様子はなく、ゆっくりと近づいてくる。
 悲鳴を堪えることができただけでも上出来というべきで、あらん限りの力を籠めてペダルを踏んで逃げ出した。とにかく特別棟から離れようと自転車置き場と普段授業を受けている生徒棟のほうへ走る。
 あんなの無理だ。そんなことは気配だけで十分すぎるほど分かっていたはずなのにバカをやった。調子に乗りやすい桜を日記で怒ることがあったけれど自分だって人のことは言えないのだ。
 振り返ればこっちが逃げたのに部長はあのペースのまま追ってきている、これは不幸中の幸いかもしれない。さっきの話だと助けは来てくれるらしい、だったらこのままグラウンドに出て追いかけっこをしていればいい。自分の発想に感動しながらグラウンドに抜けるために生徒棟の向こう、自転車置き場の方へと曲がる。
 そして、牡丹はそこに自転車を横倒しにして立ち尽くす十人あまりの生徒がいるのを見た。
 倒れた自転車が道を塞いでいて、とてもそこを通り抜けることはできそうにない。それどころか、彼らは牡丹の姿を見るや否やこちらへゆっくりと歩いてきた。その目は瞬きをしていなくて、
 方向転換、特別棟と生徒棟の間を牡丹は走る。ここを突っ切ってもグラウンドに出ることはできる、ただふたつの校舎の渡り廊下にはチャリで走っては越えられない段差があるから一旦止まらなければ――
 考えている側からその渡り廊下に特別棟から人が現れた。やっぱり呆けた顔をしていて、その身体は左右に揺れている。別に渡り廊下を埋め尽くすほどの数がいるわけではない、けれどチャリを持ち上げて渡るとなると話は別だ。
 急ブレーキをかけて止まる。ターンしようかと思ったけれど、後ろからはさっきの生徒たちがゆっくりと距離を詰めてきている。渡り廊下の生徒たちもこちらに向かってきていて、左右には特別棟と生徒棟。
 この空間を支配する何かの悪意が、ひしひしと伝わってくるようだった。
 残された選択肢はひとつ、昇降口に飛び込むこと。けれどそれもまた罠なのは明々白々。
 それでもこの集団に捕まるよりはマシだった。昇降口に鞄ごとチャリを乗り捨てて異様な雰囲気の更に濃く漂う校舎に飛び込む。こんな状況でも習性というのは恐ろしいもので、ローファーを上履きに履き替えてとりあえず上の階を目指そうと階段に足をかけて――そこで時間がやってきた。
 ニコタマとして宿命付けられた入れ替わり。するりと『牡丹』の意識が沈んでいく。『桜』の意識が浮かび上がる。不意打ちでの入れ替わりに踏み外しかけた足をしっかりつけて、桜は「やばい」と呟いた。
 第一にはこの気配。牡丹は「炎」を宿しているため魂力にはそれなりの抵抗力がある。『ドナー・ドリーマー』もヨモツヘグイもハーメルンも、完全にではないが跳ね除けていたのだ。しかし桜にはそれがない。多少常人より魂力が多いからといってこの状況では焼け石に水、押しつぶされそうな気配に身体は震え頭ががんがんする。
 そしてもうひとつ、ある意味ではより致命的ともいえるのが「しばらくはトバシとしての能力を使えない」という点だ。
 入れ替わりはどちらかの魂力が消耗することによって起こる。つまり牡丹から桜に入れ替わった直後というのはもっとも牡丹が消耗している状況で、その状態で桜の魂が身体を離れようとすると牡丹の魂は再び浮かび上がることができず、すぐに「引き戻し」が起きて桜は身体に戻ってしまうのだ。
 ふたりはそこまで詳細な原理を知っているわけではないものの、経験からそのことは把握している。使えないといっても5分やそこらで最低限の回復は済むのだが、この状況での5分はどれほど長いか。桜はまだこの状況を把握しきってもいない、とにかく逃げなくてはと思っているくらいだ。
 とにかく2階まで階段を駆け上がる。運動不足すぎるのかここまでチャリを全力で漕いだせいかそれだけで上がった息を整えようとして、しかし階全体から漂う気配に首筋が粟立つ。
 それに呼応するように教室からわらわらと人が溢れてくる。今は夏休みだが明ければすぐに文化祭がやってくる。2階は3年生の教室で、高校生活最後の文化祭に向けて夏期講習もなんのそのと準備をするクラスは多い。
 つまり、その3年生がすべて自分に向かってくるのだ。
 泣きそうになりながら更に一階。今度こそ息が切れてへたりこみそうになる。踊り場から見えるのは2年2組と3組と女子更衣室、幸いにもそのどれからも人の出てくる様子はない。でも下を見てみれば3年生たちが階段をゆっくりと上ってきていてやっぱり追われることには変わりないみたいだ。ていうかこのままだとパンツ見られそう。
 見上げられても大丈夫な位置に移動してみると廊下の向こう、5組や6組からは何人かが出てきている。見知った顔もいるけれどやっぱりみんな首が揺れていて通れそうにもない。選択肢はふたつあるけれどひとつはできれば取りたくなくて、仕方なく4階への逃げを選択する。
 半ば自暴自棄になりながら一段飛ばし、気力で上りきって、
 そこに、3人の1年生がいた。
 思わず息を呑む。男子がひとり女子がふたり、楽器は持っていないけれど三人とも吹奏楽部のTシャツを着ているからこっちで練習していたらしい、少なくともこうなるまでは。片方は水色のTシャツから白黒ボーダーのブラが透けているし巨乳だしでなんかけしからんがそんなことを気にしている場合じゃない。階段はまだ上に続いているけれどその先に待っているのは開かない屋上への扉とカップルのランデブーのための空間、そっちには行けない。
 つまりこの3人を突破していくしかない。問題はその後どうするかで、ここまで来たら残された選択肢は一つだけだ。
「やるしかないのかぁ」
 本当はすごく怖くてやりたくなかったのだけれど、背に腹は変えられない。覚悟を決めて桜は肉体から躍り出る。
 途端に防御するものの何もない、生の「気配」が全身を包む。想定していた以上のそれに懸命に抗いつつ、目の前の巨乳ちゃんに突っ込んだ。心の中でごめんと呟きながら床に押し倒し、残るふたりの関心がそれに向く。これで自分にできることは全てやった、あとはついこないだまで顔を合わせたこともなかった姉妹との以心伝心を信じて叫ぶ。
「入って鍵かけて!」
 返事は動き出す気配だった。男子の横を抜けて牡丹が踊り場の目の前、半開きの女子更衣室の扉へと滑りこむ。もがく巨乳ちゃんを押さえこみながら鍵のかかる音を聞いて一安心、さあ身体に戻ろうと手を離したそのとき巨乳ちゃんの顔を初めてちゃんと見て――そこに浮かぶ笑顔にようやく気がついた。
 今までの呆けた表情とは違う、さっきの部長のような張り付いた笑み。おかしいのはそれだけじゃない。離したのにその手足はもがくことをやめない。いや、よく見ればそれはもがいているのではなく踊っているとでも言ったほうがいいかもしれない。全くといっていいほどの不規則さで、関節を感じさせないようにくねくねと――――――
 そこまで認識したところで、割れるような頭痛と共にとんでもない力で引っ張られた。
 気付けば目の前にあるのは女子更衣室の扉で、自分の凄まじい冷や汗と荒い息が身体に戻ったことを伝えてくれていた。
 最後の手段、助けが来るまで引きこもる。桜にすれば助けが来るというのも「うっすらと聞いていたかもしれない」程度の情報で、できればそれに頼らない方法がよかったけれどもうどうしようもなかった。
 当然桜に安堵なんてものはない、けれどその原因はほとんど今の「動き」だ。間違いない、あの「動き」はこの世で最も見てはいけないものだ。たまたま自分は引き戻しが起きたから助かったに過ぎない。この校舎の人たちはみんなあれを見てしまったのだろうし、あと1秒長く眺めていれば自分もどうなったか、
 がたん、と扉が揺れて思考が途切れる。すりガラス越しに映るシルエットはさっきの男子と思われるそれ、扉を開けようとしているらしい。声にならない悲鳴をあげて後ずさる。
 できることはもう全てやった、あとは精々窓際で耳を塞いで蹲るより他にないし、実際そうした。じわじわと人が集まってくるのがわかる、揺すられる音も大きくなる。遂に耐え切れなくなって、身体から抜け出した。浮かび上がったことに驚いて顔を上げた牡丹と目が合うや否や、全ての感情が抑えきれなくなってただ抱きついた。一言も漏らさず泣くこともなく、震えるだけの桜の頭をそっと牡丹が撫でる。伝わるその手の温かさは人肌なのか燃ゆる鬼火か、牡丹自身にも分からない。
「白木さぁーん」
 そこに聞こえてきたのは、あの声。
 はっとその方向を見てしまう。犇く制服の群れ、それらを代表するかのようにすりガラスの真ん前に立つひょろ長い男。
「ぶちょ、」
 根拠はない、ただ猛烈に嫌な予感の元にその名を呟こうとした桜の口を牡丹が塞ぐ。
 しかしもう遅かった。
「はいありがとうございまーす」
 不気味なほどにいつものテンションの部長の声。そしてその手が上へ伸びて、小窓が開いた。
 息が止まるかと思った。扉の上にある小窓の鍵、そんなものは一顧だにしていなかった。けれど夏場でも扉を締め切るこの部屋ではそこが唯一の風を通すためのスペースで、掃除するのも女子だから身長が足りなくていちいち鍵を閉めたりはしないし、先生もそんなところを責めたりはしない。けれど男子にとってそこは立派な『扉』になる。
 慌てて桜がそこ目がけて飛び――そして扉の外に集う数多の瞬きせぬ眼、その視線に晒された。ただそれだけで怖気が走り、何もできずに牡丹のところへ震えながら舞い戻る。
 そして、男子生徒を踏み台として部長が枠を乗り越える。
 地面に両手をついての着地のあと、それがなかったかのような華麗な着地ポーズを改めて取る。先ほどまでの体の揺れはどこへやら、数秒静止するととても満足げな笑顔でふたりの方へ向き直る。その目はどこまでもまっすぐにこちらを見つめていた。
 そこから目を離すことができない。再び身体に揺れが起きてくる。最初は上半身だけ、それがやがて手足に伝わっていき、くねくねと独特の動きを――――
 凄まじい勢いで背後の窓ガラスが叩かれた。
 拘束が解かれたように背後を振り返ると、女の人がいた。
 結わわれた長い黒髪に赤さの際立つ唇と整えられすぎというほどに綺麗な眉、それに反するかのような作業着とウエストポーチという出で立ち。
 しかし、その目は確かに瞬きをしていて、しきりに窓を叩いては「開けて!」と叫んでいる。
 慌てて鍵を外す。開くが早いか女性は窓を叩いていない手を伸ばし、
「どーん」
 その手に握られていた矢が部長目がけて飛んでいった。避ける暇もあらばこそ、ぶれる額を正確に撃ちぬいたそこからでたらめな量の魂力が波動となって拡散する。
 嵐のようなそれが止んだときに部屋に残っていたのは、倒れた部長とぽかんとする姉妹。
「もう大丈夫よ」
 そして、窓枠を乗り越えてきて胸を張る女性。
「「え、でも……」」
 死んでませんかこれ。
「確かに『本体』は無傷よ。でもどうやらわたしが勝てる範囲みたい」
「「じゃなくて」」
「……信用してもらえない? 一応わたしね、『鬼』にも勝てちゃうんだけど」
「え」
 今度はハモらなかった。牡丹だけが目を見開く。
「じゃあもしかして『大二郎さん』って」
 女性がびっくりしたように目を見開いた。少しの逡巡の後、ふたりには聞こえないように「ユウめ……」と呟いてから諦めたようにかぶりを振って、
「ええ、確かに私が『鬼殺し』楔大二郎、その十一代目よ」
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 色々おかしい、と思う。
 名乗りを上げて少し胸を張る目の前の女性はそれほど『大』ではないし『二郎』ではもっとない。作業着で分かりにくいけれど鬼殺しだってできると思えない程度には体躯も細そうだ。
「……正直似合わないっしょ?」
 思わず頷いてから「「いや、あの」」と慌てて首を振る、女性はいいのいいのと手で制して
「わたしだって名乗りたくて名乗ってるんじゃないんだからこの名前――――っと」
 足下に転がる部長がびくりと痙攣する。桜と牡丹は思わず距離を取り、女性はウエストポーチからなにやら取り出すとふたりのほうを向いて、
「ちなみに、この人彼氏?」
 即座に首を振った。
 綺麗にシンクロするその動きをちょっと感心して見ながら大二郎と名乗る女性は手の中の紙切れ――御札に魂力を籠める。先ほど放ったのはいわゆる破魔矢、それも斎木から作られた並のソソギならば浮かすことすらできないほどの魂力を要求される代物だ。これを難なく扱う、その莫大な魂力こそが230年続く表最強の代名詞、『鬼殺し』の名を継ぐ理由であり彼女の自信の源である。
 相手が相手なので手は抜かない方がいいのだが破魔矢を二発も撃ちこめばこのひょろ長い高校生の精神は間違いなくぶっこわれる。仕方なく手加減の効く御札にしたのだが、この双子の恋人でないのなら微妙な力加減を放棄してちょっと入院しちゃう程度の魂力を籠めてしまう。
「えいっ」
 御札を部長の額に貼り付けると痙攣が収ま――らない。より激しくなる。
「あー気にしないで。そういうもんだから」
 怯えの色が濃くなるふたりにひらひらと手を振る。憑き物を落としたことのない人間にはちょっと刺激が強いだろうけれど、もがき苦しむのはよくあることなのだ。こればかりはどうしようもないので苦しんでもらうより他にない。
「いいいいいいぃぃぃいいいぃぃぃいぃいぃっ――――――」
 奇声をあげるのもよくあることである。そんなことより、と女子更衣室の扉を見る。さっき撃ちこんだ破魔矢の余波で外の気配はだいぶ沈静化されている、しかしそう遠くないうちに復活してくるだろう。さてどうしようか、
「そぉぉおおぉおおぉおおおぉおおおぉぉおおぉ――――――」
「「わああぁぁぁーーーーっ!?」」
 うるせぇ。
 何かあったのだろうけれど、霊が絡むなら大抵の異常な現象は「立ったぁー!」「部長が立ったぁー!」起きて然るべき、くらいのものだ。たかが立ったぐらいで、
 待て待て待て。
 振り返れば確かに立ち上がろうとする写真部部長石井護国、しかしそんなことはあり得ないはずなのだ。先ほどの御札はこの空間を支配する『気配』の干渉を抑える程度はできる。跳ね除けられるにしてもこんな短期間ではないはずだ。
「くぅぅぅうううぅぅぅぅぅうううううぅぅぅぅぅうううぅぅぅぅる!!!!!!!」
 一際大きい叫びと共に完全に立ち上がると、額の御札をむしり取る。
 大二郎の顔に今までとは比べ物にならない緊張が走る。何が起きた? 目の前の青年からは先ほどまで発していた『気配』は感じられない、しかし起き上がったどころか御札を剥がすなんてかなりの異常事態だ。
「部長、」
「話しちゃダメ!」
 口を開きかけた牡丹を鋭く制する。
「会話が成立するだけで魂力の干渉は一気に大きくなるわ。何も話しちゃダメよ」
 部長はぽかんと大二郎を見ていたが、
「……白木さん、このお姉さまはどこのどちらさまなのか教えてくれると嬉しいんですけども」
 大二郎は視線で牡丹に返事をしないよう訴えかける。姉妹揃って困惑の表情を見せているが、こういう風に油断を誘うのは非常によくある手なのだ。ウエストポーチから新たな御札を取り出して構える。先ほどは「勝てる範囲」などと言ってしまったが、敵の力は想定より上なのかもしれない――
「あの、大二郎さん」
 おずおずと桜が口を開く。
「私、たぶん牡丹もですけど、今の部長は何かに憑かれてるとかそういう風には見えないんですけど」
 その言葉に牡丹も首肯する。しかし大二郎はなおも首を振り
「大抵皆そう言うの。でもね、さっき叫び声を上げてるのを見たでしょ? 明らかにアレは正常な人間のすることじゃないわ。霊は一時的にはカモフラージュしてくるけれど、待っていればいずれボロを――」
「普通なんです」
「え?」
「部長は普段からあれくらいはやってます」
 沈黙。
「ええまあ、確かに普段から叫ぶ方ではありますけども」
 当の部長は神妙な顔をして、
「ここまで真正面から悪口言われるとはオレも思ってなかったですハイ」
 虚空を見つめて悟りの境地。大二郎が助けを求める視線を送る、ふたりでそっと首を振ってやった。

「――――信じられない。本当に正常ね」
 だらだらと脂汗を流す部長の額から手を離し、大二郎が溜息をつく。
 しゅんとしていたのも束の間、「うぉぉー白木さんなんでふたりいるんすか!? スタンド!?」と叫ぶ部長にいろいろな意味で驚いた一同が適当にあしらいつつちょっと確認してみたところ確かに部長は『気配』の影響を脱しており、ついでに霊も見えるようになっていた。
「な、なんだったんすか今の。めっちゃすごい感覚しましたけど」
「あーまあ君に無理やり魂力流したからね。ちょっとキツかったっしょ」
「ええ、まあ、だいぶ……」
 だいぶどころか地べたに座りこみ、今まで見た中でも有数のテンションの低い部長がふたりは少々心配になる。実際のところ今やられたことは「力押しでの魂への侵入」であり、かなりの消耗を伴うのだ。
「で、こんなキツいことしておいて悪いんだけど――あんなレベルで憑かれるなんて君さ、何したの?」
 その部長の前にヤンキー座り、眼鏡のレンズ越しの目を覗き込んで大二郎は問いかける。
「ここに来るまでにどっかしらで記憶が飛んでるでしょ。ちょっと思い出してみて」
「記憶……」
 部長が少し考え込む。顎に手を当てる、その顔から少しずつ血の気が引いていき小刻みに震えだし、
「んなっつおぉ!」
 いけないと思った大二郎がウエストポーチに手を伸ばす直前、部長は叫び声と共に両頬に手を当てる。その両手が一瞬淡く光り、大きな溜息を吐き出した。
「いやー、思い出しましたよ」
「部長、今の――」
「何を思い出したの?」
 口を開こうとする牡丹を手で遮り、大二郎が問いかける。
「オレチャリ通でして、家からここまで40分くらいなんですけども、途中に田んぼがあるんですね。普段ならカエルいないかなーぐらいで走り抜けちゃうんですけども今日は変なものを見つけたんですね」
 そこで大きく一息つく。
「なんていうか半透明? の白い人型っぽいもので、めっちゃくねくねくねくねしてるんですね。なんぞこれって思ってよく見ようとして、チャリ停めてせっかくだから写真撮ろうって思って、」
「待って! 写真? ケータイの?」
「いやいやもちろん普通のデジカメ、」
 どん、と音がした。
 一同が音のした方――女子更衣室の扉を見る。そのすりガラス越しに映るシルエット、その両手が動き始め
「――見るな!」
 大二郎の叫び声と共に一ダースを越える御札がウエストポーチから飛び出した。それらはすりガラスを埋め尽くしシルエットを遮る。
「あーもう、まさかと思ったけどやっぱりか……」
 立ち上がると忌々しげに御札の貼られた扉を見やり、大二郎は頭を掻く。
「なんか分かったんですか?」
「大体、ね。詳しく説明はできないけど」
「えーなんでなんすか。オレ超気になるんですけど」
 溜息をひとつ、
「まずね、君が危ないの。君の見た『それ』は本当にヤバい代物。写真を撮るなんてレベルで『視て』正気に戻れるなんて、わたしがいたとはいえよほど我が強くなきゃ在り得ないことなのよ」
 ちょっと笑った。この部長が助からないならこの世の誰が助かるのだろうか。
「これ以上君が『それ』のことを知れば、それだけ影響されやすくなる。今思い出そうとしただけでそれなりにヤバかったでしょ? この場はわたしがなんとかするけれど、次君がその田んぼの周りで『それ』を見たときにどうなるかは保障できないわ」
 至って真面目な顔でそう言われ、部長も思わず神妙に頷く。桜たちの目から見ればそれは勢いに流されているだけ(部長はそういう人だ)なのだが、大二郎は分かってもらえたと思ったらしく
「じゃ、ここから出ますか」
 そう言ってさらに数十枚の御札を取り出す。それらはたちまち魂力を篭められ光り輝くと、上の窓から外に飛び出していく。
「……白木さん、あの人ほんとにスタンド使いなんすか。オレ的にはあれ陰陽師とかそういう類に入るんすけど」
「「さあ……」」
 陰陽師はともかくスタンド使いってなんだ。
 部長に霊能力のことを教えている時間がない、ということで大二郎は「スタンドみたいなもの」で済ませてしまったのだが、知らないふたりにはそれで通じてしまっているのがよく分からない。その説明だけで「白木単がふたりいる」ということが納得できるのか。
「スタンド『みたいなもの』って言ったでしょー。終わったらちゃんと教えてあげるから――っと、終わったかな」
 大二郎は無造作に鍵を開け、扉を開け放つ。
「「「……うわぁ」」」
 そこには額に御札を貼られ倒れ臥す生徒の群れ。いつの間に集結していたか様々な学年に時折混ざる吹奏楽部のTシャツ。折り重なって倒れる女子生徒のスカートがきわどくめくれるなんてのはお約束、なぜか上半身裸のやつまでいてそんなのに限って女子に覆いかぶさっていたりする。下敷きの一年生のご冥福を祈らざるを得ない。
「安川……無茶しやがって……」
 裸族に向けて敬礼する部長。知り合いなのか。
「とりあえずこの子達はもう大丈夫。――さてと、石井くんだっけ」
「ハイ石井です」
「君、どこにカメラを置いたか、って記憶はある?」
「カメラっすか?」
 大二郎は頷き、
「んー、たぶんこれだけなら言っちゃっていいか。昔の人って『写真を撮られると魂が抜かれる』って言ってたでしょ? あれ、少し正しいのよ」
 え、という表情をしたのは桜。いつだか自作自演の心霊写真を撮ろうとしたときは何も起こらなかった記憶がある。
「写真って『遺す』ために撮られるものだからそこらにいる『遺りたい』ものを呼び寄せる力があるの。君が撮ったものは写真に収まりきるような存在じゃないけれど、それでも一部は引き寄せられて写真に収まったはずよ。それがこの事態の犯人」
 そこまで言って、「たぶん異界を開くに至ったのは君のせいだけどね」という言葉は飲み込む。
 本来ならその写真一枚に収まるはずだった『それ』の力は、おそらくデジカメのデータ全体に広がった。その結果、写真部部長として撮った「学校全体の風景」を介して『それ』はこの学校全体を飲み込んだのだ。おかげで一人当たりの汚染の度合いは薄くなりはしたが、気配の察知が非常に難しくなっている。部長に話が聞けたからいいようなものの、そうでなければ本当に力押しで学校全体を虱潰しに浄化する予定だったのだ。
「つまりカメラを見つければ本体が叩ける、と。なんだやっぱスタンドじゃないすかこれ」
 吉良の親父っすよね、と嬉しそうに話す部長に苦笑で応える。事態の深刻さを分かってないのかこいつは。
「で、カメラの場所は思い出せそう?」
「や、それなんですがどぉーも……気付いたときには校門とこで白木さんと遭ってたんですよねオレ」
 申し訳なさそうな顔で言う部長。
「そう。でもたぶん君と何らかの関連性があるところに置いてあるはずなんだけど、心当たりない?」
 三人は顔を見合わせ、
「そりゃ、あそこしかないですよね」
 牡丹の発言に即座に同意を返す写真部ふたりについていけない大二郎。
 もし何らかの理由でどうしても部長を探さなければならないとしたら、向かうのは写真部部室に決まっている。
 部室といっても部室長屋にあるようなちゃんとしたものではない、正式名称を物理・地学資料室、得体の知れない実験器具と化石が転がる一室であり、伝統的に写真部部室として間借りさせていただいているところである。顧問の傾木先生は「写真部が使いたいです」と言うと大抵鍵を開けておいてくれて、狭っ苦しくて埃っぽいこの部屋の窓を全開にして会議をするのが夏休みの写真部でしばし見られる光景であり、今日もそうなるはずだったのだ。
 そのことを簡単に説明すると、
「なるほど……ならまず間違いなくそこね。案内してもらえる?」
「もーちろんですよー」
 意気揚々と女子更衣室から飛び出そうとして足元の惨状に目を向ける部長。少しの逡巡の末、
「すまん安川」
 十字を切って靴底で裸族を踏みしめて乗り越える。頑張れば足場を探せないこともないのだが、それをしないのが石井護国という男である。
 もちろんそんな気は起きない牡丹、下から覗かれているんじゃないかという一抹の不安を覚えながら足場を探して渡りきる。桜はそもそも足場を探す必要がなく、さて後は大二郎だけだと見ていると、
「よっと」
 彼女はなんでもないように宙に浮いた。
「え、えぇぇー!?」
 オーバーリアクションの部長、流石に桜と牡丹も声が出ない。なんだこの人。
 そのまますーっと滑るように渡ってきて着地する。
「はい拍手」
 うぉーなどと声を上げながら部長が盛大な拍手を送る。それに呑まれて桜たちもぱらぱらと。
「なんすかそれ! なんなんすかそれ!」
「後で教えたげるから。ほら、急ぐわよ」
 なおも興奮冷めやらぬ部長をせっついて大二郎は歩いていく。
「……なんか疲れた」
「うん」
「……どうしてもっすか?」
「どうしても」
 真顔で言い切る大二郎にさしもの部長も動揺を隠せない。
 案内されてやってきた写真部部室こと物理・地学資料室前で、大二郎はふたつのことを宣言した。
 ひとつ、ここから先はあまりに危険すぎる。この中には私が単独で突入する。ふたつ、だからみんな女子トイレに隠れておくこと。
 もちろん問題は「みんな」である。「女子トイレ!?」「部長も!?」「オレまだ捕まりたくないんですけど!?」――その場で三者三様の抗議の声が上がり、それらを大二郎はばさりと斬って捨てた。
「あのね、私は一応石井くんを信じてるんだけど、」「一応ですか!?」「……全幅の信頼を置いてるんだけど、あなた女子トイレ撮影したことないよね?」
「ですから、オレは逮捕されたくないんですって」
「うるさい覚悟決めなさい。――で、女子トイレを撮ったことがないなら、その分カメラに憑いてる『あれ』の影響力は弱まるわけ。さっきまでは女子更衣室でもよかったんだけど、憑かれてる君が入っちゃったからもう後は女子トイレくらいしかないのよね」
 悪魔は招かれざる客にはなれない、とはキリスト教の言うところであるが、霊に関しては半分正解といったところだ。どれほど力の強い霊であっても、霊的に閉じられた空間に入るには空間の主の許可がいる。
 女子更衣室に立てこもるというのは切羽詰った末の苦肉の策と見えたが、実は「空間に縁のある」牡丹が「鍵を閉めた」ことにより空間を霊的に閉じていた。これにより、部長はすりガラスが開いていることを発見しながらも名前を呼ばれるまでは侵入できなかったのだ。
 しかし、一度招き入れてしまった以上はもはや安全とは言えず、かつ、この学校全体に写真を介して影響を及ぼす『それ』を遮断するには、部長がまかり間違っても入ったことも撮ったところもないところ。
 女子トイレである。
「わかってもらえた?」
「わかりたくないです」
「黙れ」の代わりに遠慮も容赦もないグーパンが腹めがけ一発、咄嗟に反応し防御した石井護国18歳、格闘技経験はないが歴戦の兵である。
「茶番やってる暇はないの。これ持って避難して」
 物わかりのよさそうなふたりに向けて一枚の札を放ると、手で追い払う。部長の取り回しを心得ている桜と牡丹は、有無を言わせず二人がかりで連行する。
「トイレに入ったらそれ貼りつけといて。貼れば勝手にくっつくから」
「「はーい」」
 三人の魂力が遠ざかり、やがてひとところに留まり、さらに自分の渡した札がきちんと貼り付けられる。
 それらを一歩も動かずして観測し終え、大二郎は気息を整える。
 さて。
 本気出すか。
 ――その瞬間を、あるいは石井護国が見ていたなら、「黄金聖衣……」と呟いたであろう。そして、それはあながち間違いでもない。「どうぜ仕事着にするならリラックマの着ぐるみみたいなパジャマではだめか」という文字通り巫戯蹴た質問と幾百のお叱り、その果てに辿り着いたツナギ姿は夏は暑いし冬は寒いし色気もない、だが彼女だけはそれを自らを持ち上げ空を飛ぶことも、縁がなければ入れないはずの異界を無理矢理にこじ開け入ることも、さらには大概の霊はおろか銃弾すら弾くことすら可能な無敵の鎧へと変じせしめることができる。
 それに伴い溢れ出す辺りを灼き尽くさんばかりの光は弱い霊ならば跡形もなくなり、下手に魂力が見える人間は魂と目がしばしイカれることは必至。
 『鬼殺し』十一代目禊大二郎、その戦闘時の姿である。
 彼女の恃むはそのあまりに大きな魂の器、つまりは歴代でも珍しい純粋な力押し。自分の普段使っている札が「何をできるか」は知っていても「なぜできるか」はまともに理解していない、それで構わない。彼女はあらゆるものへ魂力を籠められるソソギであり、その素質を以てすれば手に持つ札すべてが必殺の一撃足りうる。
 部室の扉のガラスの中は不自然に暗い。おそらく『それ』はこの部屋を強く閉じているだろうが構わない。押し通る。魂力の残りはなんやかんやで六割強、だが『本体』ならまだしもたかが写真一枚分、勝算は十分すぎるほどだ。
 その手が扉にかかる。鍵は当然かかっている、まずはこいつをこじ開けて宣戦布告だ。出し惜しみはせず、扉に一気に魂力をかけて自分の支配下に置きに行く。抵抗は覚悟の上、この程度の戦いに負けるようじゃ――
 勝った。
 異様にスムーズな制圧、鍵を操作して開けるまでにものの1秒かかったかどうか。
 猛烈に嫌な予感がしたが時既に遅し、逆に中から開け放たれた扉から、三人の人影が滑り出してくる。それが写真部同好会員であることを大二郎は知らないが、おおよその事情は察した。
 ――――やられた。
 先ほど、部活の集まりだということは聞いた。ならば、あのふたり以外の部員も校内にいることは予想して然るべき、ましてこの騒動の原因である『それ』は石井護国のカメラに宿る。そして、『それ』が部室にいるということは、部室と関わりの深い彼らへの影響力はかなりのものになっているはずだ。
 三人がかりの遠慮も何もない突進、真正面からぶつかられてバランスが崩れ後ろに倒れこむ。さすがに動揺を隠せない。偶然か必然か、こいつらは霊能力者の「弱点」を突いてきている。
 霊能力者はおおよその場合、魂力の弱い一般人相手に喧嘩で負けることはない。トバシにソソギに牡丹やモジャのような魂力を特定の形に変換する力を持つウツシ、どれも生半可なことでは負けはしない。しかしそれは例えるなら銃のあるなしに似ている。奪われることこそないが、基本的にその優位は射程の長さであり、反応すること能わぬ奇襲性の高さだ。
 近距離から複数人での突撃、これはまさに肉体的には凡人と変わらない霊能力者にとってその優位を全く活かせない状況である。まして相手は痛みも死も恐れぬであろう忠実な兵士、これを警戒しなかったのは致命的なミスだ。
 ――――それが十一代目禊大二郎でなければ、だが。
 広げた両手は三人を抱き留めるとも宙空に身を投げ出すとも取れる姿勢、衝撃を受け止めたツナギの光をフラッシュ代わりに瞬間を切り取って、大二郎は制動も見事に空間に静止する。たかだか人間三人、彼女にとって受け止められない物量ではない。さて、反撃を
 踏まれた。
 なおも莫大な魂力に鎧われる大二郎にとってはやはり致命傷ではないが、それよりも度肝を抜かれた感があまりに大きい。
 視界を覆う紺と青と白と肌色、盛りのついた男子高校生ならば相応に見ごたえのあるものだろうが、大二郎にとっては女子をとびきりのローアングルから眺めたところで嬉しくもなんともない。時でもかけそうな勢いで大二郎を踏み台にして跳んだ女子生徒の名は春海桐華(はるみ とうか)、無尽蔵のアクティビティとバイタリティを以って君臨する天下無敵の写真部副部長であり、部長とは入学以来二年半の活動を通して互いに互いを振り回しあう仲である。
 空中で静止した人間を踏み台にして飛び越えよう、などという無茶を考えるのは彼女ならそう不自然でもない話であり、支配の軛もどこへやらの個性の噴出であった。
 そのまま彼女は走っていく。二年半を通して図太い縁を結んだ、彼女の相方のもとへ。
 狙いに気付かぬ大二郎ではないが、くるりと姿勢を返して追おうとした彼女の両腕に絡みつく残りふたり。両腕を半ば封じられ、札を使っての力押しが難しいのをいいことに春海は文化部とは思えぬ健脚で階段へと駆けていく。
 こうなると、この鎧でもカバーしきれないもうひとつの弱点が露出することとなる。
 何を隠そう、大二郎は運動が苦手である。
 普通に走っては追いつけないし、自分をブッ飛ばすような出力を出すとさすがに制動が難しいし、決っっっっっっっして重いわけではないが魂力の消費も大きい。念のためもう一度言っておく、決して重いわけではない。
 舌打ちを一つ、ひとまず追うのをあきらめて自分の札の威力を信じることにする。札が使えないので非常手段、少々後遺症は怖いがまずは右腕の女子生徒の腹に手を当てる。うっすらと折ったスカートとベルトの感触がする。よぎる懐かしさを振り払って、ダイレクトに体内に魂力を撃ちこんだ。
 この学校を支配する『それ』に侵食されていた魂を根こそぎ洗い流す、その衝撃に肉体が痙攣する。これの経験はあんまりないから、適正量がわからないのが怖い。女性の魂は防衛システムが男より強いから大丈夫だと信じたいが、うっかり間違えば記憶喪失どころの騒ぎで済むかどうか。
 何はともあれ彼女がずるりと倒れて右手が空いた、即座に札に今度は適正量を籠めて左手の男子生徒に叩き込む。
 両腕は晴れて自由になったものの、代償は大きい。魂力の残量はぎりぎり六割、そのうえ一番やばそうなのを一人逃がした。
「しゃーない、大技で一気に片つけるか……」
 相手が相手だし、削り殺したかったが事が事だ。即座に片づけて、今逃がした子を無力化する。
 ウエストポーチから無数の札を取り出し魂力を籠めて作り出した光の壁を携え、大二郎は今度こそ物理・地学資料室へと踏み込む。

 大二郎の誤算は主に三つある。
 ひとつは階段を駆け上がっていく春海の健脚。三人は念のため棟を変え生徒棟の3階に隠れていたが(そして部長は自主的に眼鏡を外した。もう何も見えないらしい)、そこへ向け女子とは思えぬ速度で突っ走っていく。もうひとつは彼女に籠められた力の強さ。二年半の付き合いはそのまま写真の枚数に比例する。その分写真を介して多くの力を彼女は得ており、それが札の防御と拮抗した。
 そして最大の誤算である三つ目は
「ファイー」
「おお春海!」
 石井護国その人である。
 何も応援されたわけではなく、「ファイ」というのは知ってる人は知っている彼のあだ名だ。その由来には「運動部の背後で叫んでいた」、「FFを『ファイファン』と呼ぶ派」、「空集合」など諸説存在するが、本人は教えようとしないし春海は聞くたびに答えが変わるので未だに桜と牡丹は正解を知らない。
 ともあれ「呼びかけに答えてはいけない」というのはすでに一度経験していることであり、何より本人が一番わかっていると思っていたのだが華麗に裏切られた。
 『我が』意を得たりとばかりに春海が一歩踏み込んでくる。『気配』が濃くなり、牡丹の身体が防衛反応で光り始める。桜があいつらに触るのはまずい、まともに立ち向かえるのは自分だけだ、と残り少ない魂力で鬼火をその手に生み出そうとし、
「待った白木さん」
 隣に立つ男から声がかかる。
「オレに策があるんですよ」
 そう言い放つと目隠し代わりのハンカチを丁寧にポケットにしまい、眼鏡を素早く装着すると一歩踏み出す。
「ファイ、」「その手は食わない」
 びしりとした拒絶。いつも通りだった春海の表情がすっと消える。
「お前の目的はオレをもう一度そちら側へ取り込むこと、だろ? 今うっかり返事してよく分かった、だがお前は一つミスを犯してる。今の攻撃によって、オレはスタンド能力に目覚めた。いや、『自覚した』かもしれないけど」
 その一言は、しかし桜と牡丹にとってはそれほどの驚愕を呼び起こすものではなかった。
 それよりも問題なのは今の部長のしゃべり方である。なんだこれは。これほど淡々とした口調で喋るなど石井護国のアイデンティティを揺るがす問題である。そして今の発言、普段の部長なら最低でも3秒の溜めと決めポーズなしにカミングアウトすることではないはずだ。
「白木さんたちは見ていてくださいよ。一撃で終わらせますから」
 ほら、これだって、部長とは思えぬ間の取らなさだ。「一撃で終わらせますから」のキメ顔はどうした。ジュースを買いに行くじゃんけんに負けただけでも意味もなく決死の覚悟を匂わせる、あのやり方はどこへ消えた。言いたいことは山ほどあるがどれから言ってよいものやら、結果としてぽかんと口を開けたままのふたりに背を向けて、部長は副部長に向けて歩き出す。
 春海が無表情のまま焦ったかのように身体をくねらせはじめる。思わず二人は目を背けるが、部長だけは意に介することなくまっすぐに歩いていく。そして、
「春海、」
 呼びかけるが早いか、
「イイィィィィィヤッフゥゥゥゥゥゥゥ!」
 これぞ石井護国。
 下げ止まっていたテンションはどこへやら、メーターを振り切る勢いのフルスロットルでの高らかな謎の快哉。背けた視線が思わず急旋回した先、ふたりはそれと同時に掲げられる左手とその開かれた掌に宿る紫の光を見た。
 ぱしぃん、といい音が鳴った。
 教本に載ってもおかしくないような、見事なハイタッチである。相手はもちろん写真部副部長春海桐華、それまでの理解を超越した動きから一転、不安定な姿勢ながらも素晴らしいタイミングで左手を合わせる。
 そして、紫の光が瞬いた。
 掌を通して送り込まれた魂力が身体に吸い込まれていく。1秒ほどもそうしていただろうか、部長がするりと脇を抜けていき、トイレの外へ出る。
がくりと春海の膝が崩れた。慌てて桜が抱き留め、どうしようかと考えた結果ふたりで個室にいったん座らせる。
 その間に再び目隠しをした部長がトイレの中に入ってきて、
「大成功」
 やはり淡々と言い放つ。
「……部長、どうしたんですかそのしゃべり方?」
「ああ、これはオレの能力なんですよ」
 きょとんとした顔の二人に向けて、
「オレの能力は魂力、だっけ? を『冷静さ』に変える能力なんです。魂を一旦きれいにする感じっていうんですか、とにかくこれを使えばあの踊り見ても平気でいられるんですけど、当然オレも冷静になっちゃってテンション全然上がらなくなるんですよね」
「え、じゃあさっきのは」
「叫んだのは演技っす。さっき大二郎さんが『我が強い奴なら助かる』みたいなこと言ってましたからあいつなら絶対大丈夫だと思って、ぶち込みました」
 ではなぜ、触れるにしても相手が応じなければならないハイタッチにしたのか。
 その質問に対しては、部長は笑って
「何言ってるんすか、あいつが合わせないわけないでしょう」
 とだけ言ってのけた。
20, 19

  

 釘は刺されていたのだ。
 ――いま、笠雲高校には霊能力が使えるとはいかないまでも、見ることのできる生徒はそれなりの数がいることは間違いない。
 だから、君たち二人のような「目立つ」霊能力を使うのはちょっと控えておいた方がいい。
 まったくその通りだ。
 とはいえ、牡丹の鬼火は普通に生活している分にはあまり使い道がない。実質的には「手癖の悪い」桜ひとりが気をつけていればよかったし、もちろん自重してはいた。
 しかし、気を付けていようがどうしようもないことはある。
 教室の廊下側、前から3番目。
 生けとし生けるもの全てを眠りに誘わんとする中島の古典の授業は夏休みが明けてなお健在で、まして明日から全日文化祭準備という、受けていようがいまいが大差ないような状態では通常の1.5倍の戦死者を出すのも道理といった具合。
 そんな中で、白木桜は耐えきることができるような模範生だろうか。
 否である。
 あのいつもの感覚で眠りから覚まされ、俯く自分を見下ろしてこれはいかんと桜は教室中を見渡す。幸いにも教室の大半は既に中島の術中にあり、これならば大丈夫かと思ったそのとき、
「あ」
 自分の斜め後ろの席で、ぽかんとした表情でこちらを見つめる存在に気付く。
「……ごまちゃん、見えてる?」
 かくんと頷く姿を見て、桜は額を出るはずのない汗が伝う感覚を覚える。
 身体があったら入りたい。

 胡麻蔵 亜美(ごまぞう あみ)は細長い。
 170cm超の長身を「存在がフルート」と称するのは笠雲高校吹奏楽部フルートパートの彼女の紹介文であり、本人はそこまで細くないと主張するものの美容院に行った翌日には「頭部管変えたんだ」といつも言われている。
 いたって真面目でまともな常識人、その上11時には床に就くという健康的な生活リズムの彼女は吹奏楽部の朝練をこなしながらでも中島の古典を耐えきることができる逸材であり、
「……じゃあ、ごまちゃんも使えるのね。霊能力」
 それが故の発覚。
「うん」
 ごまちゃんは背も高いがなんといっても首が長い、そのせいか頷くたびに首がかくん、と大きく動く。
 放課後の教室、自分たちのクラスからは離れて2年2組でメトロノームを挟んで『三人』は向かい合っている。
 体育会系文化部こと吹奏楽部は年中無休、当然放課後だってあちこちの教室に散らばって練習している。さすがに文化祭直前だけあって残って準備しているクラスも多い中、理系連中はどこ吹く風で帰宅するのでありがたい練習の場となる。
 そこで詳しい話を聞こうと、ごまちゃんがフルートパートにお願いして一瞬だけ引き払ってもらったというわけだ。
 それから人目を気にしつつの「自己紹介」が始まり、霊能力に関するもろもろを桜と牡丹がしどろもどろながら説明し終え、ひとつ手から火など出してみたところでようやく本題。
 胡麻蔵亜美には、どんな霊能力があるのか。
「どういう感じの奴? あたしみたいなの?」
 牡丹が再び指先に火を灯して見せる。
「ううん、そういう感じじゃなくて――――ていうかそれ危なくないの?」
「ん、本当にものが燃やせるわけじゃないから平気平気。てことは桜みたいなやつ? それともなんか飛ばせるやつ?」
「あ、それが近いのかな……。でも自分の思った通りに飛ばせるとかじゃなくて、ていうかやったほうが早い?」
「お、見たいー」
 桜がぱちぱちと手を叩く。じゃあ、と言ってごまちゃんは鞄を漁るとコンパスを取り出した。
「――えっと、何がいいかな」
 桜と牡丹が興味津々に覗き込む中しばし考え込むと、
「じゃあ、えーっと二人が明日起きる時間!」
 コンパスを軽く放り投げる。
 淡い緑に輝いたのは魂力を籠められた証、そのまま宙でひとりでに開く。くるくると回りながら落下して、きれいに針を突き立てて机の上に着地すると円を描きだす。三人が注視する中コンパスは徐々に回転を強め、不意に独楽のようにぐらりとバランスを崩す。そのまま机の上で音を立てながら数回転し、ぴたりと止まった。
「……6時48分、かな」
 ごまちゃんがにこりと笑う。
 桜と牡丹の顔に疑問符が浮かぶ。
「ちょっとこっち来て、見てみて」
 その言葉に牡丹が席を立ちあがる。それよりはるかに早く視点を移した桜が「あ!」と声を上げ、牡丹もほどなくその意味を理解する。
 ごまちゃんの側から見ると、コンパスは針をこちらに向けてほぼ直角に開いている。
 これを時計の文字盤に見立てると6時48分、もしくは9時半過ぎに見えるのだ。
「これがウチの霊能力、っていうのかな。コンパスを使って、未来のことが起きる時間を占えるの」
 未来予知!
 霊能力に目覚めてから数か月、随分いろいろな霊能力者を見てきたけれど、初めて見る存在(あの顔色の悪い女の人――センサーはもしかしたらそうかもしれない、と牡丹は思った)。そしてこれまで見た中でもぶっちぎりで、
「「うらやましいー!」」
 ただそれに尽きる。
 そりゃ自分たちの霊能力だってあったに越したことはなかった。けど。
 はっきり言って役に立っていたここまでが何かおかしかったのだ。
 拉致られたりだとか、学校に閉じ込められて操られた生徒から逃げ回る、なんて状況でもなければ桜も牡丹もそう役立つ能力ではない。特に牡丹など日常生活で霊を燃やす機会がないのだ。あってたまるか。
 それに比べてなんだその夢の霊能力は。両手が飛ばせるだの、変な妖精が出せるだの、宙に浮ける超パワーだの、冷静になる(あれはある意味役に立つけれど)だのと比べものにならないくらい持っててうれしい。
「そ、そうかな……? ウチは二人のもいいって思うけど」
「「んなことない!」」
 桜のほうは文字通り魂の叫びである。
「ところで時間以外にはなんかわかんないの?」
「何日後か、ってのは円の大きさでなんとなくわかるけど……それ以上は無理、かな」
「そっか……いや、それでもすごい。お金儲けよう」
 真顔で言った桜の頭を牡丹がはたく。
「あ、へー……」
「やめてごまちゃん、邪な心に染まらないで」
「や、そうじゃなくて。そもそもお金儲けなんて時間分かるだけじゃ無理だし。桜ちゃん、のほうだっけ。普通に触れるんだなーって」
 一瞬顔を見合わせるが、ああ、と合点する。今はたいたことか。
「霊能力持ってれば、普通に触れるよーたぶん」
「……やってみていい?」
「「どうぞどうぞ」」「なんで牡丹も言うの」
 ごまちゃんが恐る恐る手を差し出して、桜の右手を握る。興味深そうに力を入れたり弱めたりして、
「なんか、新感覚だね」
 ごまちゃんが妙に楽しげに腕をぺたぺた触る。実際のところくすぐったいが、ごまちゃん相手だと少し言い出しにくくてされるがままにしている。牡丹が楽しそうに桜の若干困った顔を見ている――――
 気配。
 桜と牡丹の反応は早かった。真後ろの気配にぐるりと振り向き、一瞬遅れてごまちゃんも顔を上げる。
 教室前方、教壇の真上に陣取るようにそれはいた。
 真っ先に想起したのはテンフィンガーと、彼の霊能力、『スロウイン・ファストアウト』――トバシである彼は、魂のうち両手のみを自由に身体から離れさせることができる。
 しかし、テンフィンガーのそれが手首までであるのに対し、今目の前にある『手』はもう少し先――わずかに肘のあたりすら確認できる程度に長い。
 そして差異はもうふたつ。
 ひとつはそれが「右手しかない」こと。そしてもうひとつは――――色。
 その手は血塗られたように。いや、血そのもののように、紅い。
「っ――――」
 ごまちゃんが声にならない悲鳴を上げて、一歩下がる。
「どいて」
 入れ替わるように、牡丹が目の前の二人を押しのけて前に出る。
 幸か不幸か、拉致られたりだとか学校に閉じ込められて操られた生徒から逃げ回るなんて状況を経験した今だからこそ言える。
 目の前にいる存在は桁外れなものではない。自分の炎が通じない相手ではない。
 掌から湧き上がる白い炎が球の形を成し、『赤い手』を撃ち抜く。
 ――――やった。
 そう思った桜と牡丹が目を見合わせるほどに、手ごたえはあった。魂力に敏感な桜には、はっきりと「薄く」なったことすら見て取れる。
 だが。
 『赤い手』は、止まらない。
 なおも熾火をわずかに纏いながら、ゆらりゆらりとこちらに向かってくる。
 ごまちゃんが今度ははっきりと聞こえる悲鳴を上げた。机にがたがたとぶつかりながら教室の後ろへと逃げ退り、桜と牡丹もごまちゃんを守るように後退し、『赤い手』から少し距離を置く。
(――効いてなかった?)
(いや、絶対効いてた)
 視線のみで会話を交わし、桜は『赤い手』からごまちゃんを遮るように後ろへ、牡丹は掌へ先ほどより一回り大きな炎を生み出しぶつけようとしたその時。
 ゆらゆらとこちらへ向かっていた『赤い手』が、突如として動きを変えた。
 それまでの速度が嘘のように、一直線に目指したのは先ほどまで三人が囲んでいた机。桜も牡丹も変化についていけずにいる隙に、そこに倒れていたコンパスを掴みあげる。
「やめてっ!」
 悲鳴に近い叫びがごまちゃんの口から放たれるのと同時に、耳障りな音が響き始めた。
 それはさながら金属同士を無理にこすり合わせているような、不快さに満ちた音。
 ごまちゃんがうずくまって耳を塞ぐ。撃ちこまれた牡丹の火球は一回りどころか全力全開の大きさで、その中にあっても5秒ほどその耳障りな音は止まなかった。
「ごまちゃん大丈夫!?」
 桜がごまちゃんの肩を抱く。ごまちゃんはそっと伏せていた顔を上げ、
「……あの手が」
「あれは、もう牡丹が消してくれたから」
 気配すら残さず『赤い手』が燃え尽きていくのを感じながら、桜はごまちゃんに大丈夫だと囁きかける。
「……いる」
「だから、もう大丈夫だって」
「そうじゃないの。ウチには分かる。あれはまだ消えたわけじゃない。この場からいなくなっただけ」
 そう言ってまた顔を伏せる。
 桜と牡丹は戸惑いながらも直感する。ごまちゃんが嘘をついているわけじゃない。私たちには分からない、「縁」が結ばれてしまったんだと。
「……桜、これ」
 牡丹が掌を炎に輝かせながら、コンパスを拾い上げて見せてくる。
 そこには、無数の細長い傷が刻まれていた。さながら刃物で切り付けられたように。
「……これってさ」
 あえて口に出さずとも、牡丹が何を言いたいかくらいはわかる。
「うん」
 ごまちゃんが直接掴まれていたら、どうなっていたのか。
 九月七日、午後四時半の教室。西日の射しこみ始めた教室は、たとえクーラーが稼働していようと暑くないはずはなく。
 それでも、牡丹の身体は震えた。

「…………なるほどねェ」
 おおよその話を聞き終えて、ベイビーはどうしたらいいものやらと思案していた。
「本当はボクが直接行ければいいんだけど、ちょっと今立て込んでてねェ。悪いけどふたりでできる限りその子は見ててあげてほしいなァ。……ウン? いやいやァ、多分夏休みのとは無関係だよ。『アレ』が出てくるならそんなもので済むはずない。そう、だから、多分学校にいる時だけでも気にかけてあげてれば随分違うと思うからさァ、よろしく頼むよォ。ボクもそういうタイプの霊について調べてみるから。……ウン。じゃあ、何かわかったら連絡するよ。さよならァ」
 電話を少々強引に切って、事務所の椅子に倒れこんで嘆息すると振り返り、スピーカーで聞かせていた他の面々に意見を求める。
「どう思うゥ?」
「無関係っすね」「私もそう思います」「僕も」「よくわかんねーッスわ」
「だよねェ」
 霊能力者たちが自分と同意見なのを確認し、再び溜息する。
 目下、表から請けた仕事のうち最も難航している一つである「赤い手の始末」。
 業界でも名を知られた殺し屋であり、プロの縁切りを掻い潜って暗殺を行えるほどの実力の持ち主だ。それがゆえに「正体を探る」だけでもこちらへ攻撃をされる可能性があり二進も三進もいかない状態だったのだ。
 そこへ飛び込んできた今回の話。最初はまさか、と思い皆に聞かせてみたのだが、
「俺たちが追ってる『赤い手』にしちゃ、弱すぎる。同じ『手』としちゃ癪な話ですけど、俺より弱いのは少なくともありえないと思いますよ」
「それに多分、その『手』はトゴイですよね。こっちのはトバシだって話じゃないですか」
 テンフィンガーとモジャの意見はどちらも的を射ている。この件はベイビーにも話の途中で見当がついたくらい、霊能者の中ではありふれた話だ。一応、どうするか意見を仰ぐために答えを教えるのを保留しこそしたが、教えてやればすぐに解決するだろう――――
 いや。待て。
 椅子から起き上がる。センサーが若干うんざりした顔で問いかけてくる。
「どんな悪いこと思いついたんですか?」
「いやァ、別に悪い事ってわけじゃないんだけどねェ」
 嘘は言っていない。むしろ、これまでの中では善行に入るほうだ。
「その霊退治、一枚噛もうかと思ってるんだけど、どォ?」
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