少年は立っていた。
丑三ツ刻。夜が深く沈み、明け方へと反転しようと試みる時刻。ただでさえ往来の少ないその山道は、壁の如く、重さと硬度を持った黒一色で覆われる。一日で最も深い闇。その中で、少年は灯りも持たずに立っていた。
少年は待っていた。
待ちながら、備えていた。
ざりり、と草履越しに、土の感触を確かめた。
温度をどこかに忘れてきたような、早春の冷気を肌で感じ取った。
吐く息は白い。だが、血の巡りは悪くない。身体の芯で、静かに心臓が脈打つのを感じていた。
半眼を開き、やや伏し目がちに、視線を前方へと投げている。闇を通じて透かし見るのは、外の世界ではない。ひたすらに己自身の、体の裡を見詰めていた。
骨の撓み。
肉の蠢き。
爪の慄き。
髪の囁き。
刀の軋り。
重心が髪の毛一本ほどよれていることに少年は気付く。腰に下げた刀と寒さで萎縮した五体の間の、僅かな齟齬。少年はゆっくりと息を吐き、その差を確かめ、埋めてゆく。
刀。
と、
身体。
二つの異物を繋ぐものは、己の心。
持って生まれた五体と、自ら手にした一振り、
合わせて六体。
それが『自分』だと、少年は感覚する。
柄の芯に、自らの骨を伸ばした。
鉄の表面に、自らの肉をまぶした。
刃の切っ先を、研いだ爪と置き換えた。
刀。
は、
身体。
少年は呼吸を繰り返す――。
ほう。
と、梟がどこかで一声、鳴いた。
霧が出始めた。
重たい水滴の舌が、少年を撫ぜる。
厭だな、と少年は思った。
闇はいい。
寒さはいい。
どちらも、自分の感覚を尖らせてくれる。
霧は違う。
毛穴から忍び込む濡れた空気は、枷のようにまとわりついて、感覚を鈍らせる。
そんな気がした。
だが、いまさら仕方がない。
鈍るなら、鈍るなりの、備えをするだけのこと。
ゆっくりと呼吸をする。
既に半刻が過ぎていた。
夜は僅かに腰を浮かし、代わりに藍染の朝の気配が、空の端に忍び寄る。
呼応するように、灰色の霧が森を覆っていった。
目覚め始めた木々の匂いが鼻腔に引っかかり、気の早い鳥の声と羽ばたきが木々を渡る。
少年は待ち続けた。
そして。
……ざ。……ざ。
草履が地面を蹴る音を、少年の耳は捉える。
ゆっくりと視線を上げた。
霧の中に、ぼう、と人魂のような灯りが浮かび上がる。
少年は推し量る。
灯りの位置から見るに、身の丈は六尺程度。足音から察するに、貫目は二十貫を超えているか。
間違えようもなかった。
……ざ。……ざ。
足音は、一定の間隔で響く。
土を踏みしめた。
……ざ。……ざ。
息を深く吐いた。
……ざ。……ざ。
刀の柄に手をかけた。
……ざ。
揺れながら近づいた提灯と、一定の間隔を刻んでいた足音が、不意にぴたりと止まる。
音が消えた。
鳥の羽ばたき、虫の声、木々の微かなざわめき。
それら一切が消失した。
辺りは既に、針のような殺気で満ちている。
灯りの背後には、朧な人影が揺れていた。
「どちらさまかな」
やおら、影が声を発した。
思いのほか間延びした声だった。
……機を外された。
と、少年は思った。
先手を打つつもりだった。殺意で硬くなった身体は、応じるにも一手遅れる。しかし、相手はこちらの殺気をいなし、意気を削いできた。全力で引き合った綱を、ふっと突然緩められたようなものだ。
空気が僅かに、弛緩する。だが、相手には仕掛ける気配はない。
手の内を読ませたくないのだろう。あるいは、余裕か。
遣り手だな、と少年は思う。
不意打ちは成らず。ならば、真っ向から挑むのみ。少年は人影に言った。
「柿崎呑雲(どんうん)殿とお見受けする」
「……いかにも。して、貴殿は何のご用かな」
「さる者の仇討ちで参った。応じられよ」
「はて。一体どこの誰に恨まれたものか。とんと検討がつかぬな」
どこまでもとぼけた声色である。
「あんたが覚えてなくても、俺は忘れない。忘れたというなら、斬った後で教えてやるよ」
「……くっく。積年の恨み、か。いやあ、そんなものが、よもや私のような小市民の身に降りかかろうとは――」
その後に続く言葉を、少年は聞き落とした。
灯りの後ろにあった影がかき消え、眼前を突如黒い塊が塞ぐ。
その輪郭が、身をたわめた剣客の身体だと理解する前に、少年は後方に飛び退いた。
男が左腰に添えた手から、閃光のような白刃が放たれた。
抜き打ち。
神速の一太刀が、霧の緞帳を裂いて自らの身体に迫るのを、少年は見た。
腹の辺りを、風鳴りが通り過ぎる。
三尺ほども離れた地面に、少年は着地した。
その手には、いつの間にか刀が握られている。
――ぼそん。と、提灯が地面に落ちる音。
灯りが消え、二人の距離は青と黒の中間色で塗りこめられた。
揺らいだ霧が、一拍遅れて、向き合う二人の間から引き下がる。
少年は見た。
残心を取りつつ、こちらを見据える男の姿を。
なるほど、雲を呑むばかりの長身は、その名の通りである。年は二十五と聞いている。口髭を生やした四角四面の顔には、まだ若さの残滓があった。桧皮(ひわだ)色の胴着越しに、盛り上がった筋肉が見て取れる。甲冑を着込んでいるようだ、と少年は思った。
二人は静かに睨みあう。
お互いに、無傷。
否。
一筋の血が、黒々と線を描いて、地面に垂れた。
柿崎呑雲。
四方百里に、彼の名を知らぬ者は一人としていない。
代々続く剣術道場の一人息子として生まれ、二十五でその跡を継いだ天才。
そんな彼の名は、常に尊敬や畏怖と抱き合わせで語られた。
曰く。
数えて七つの頃から剣に親しみ、十になる頃には、師範代でも叶わぬ腕になっていた。
曰く。
道場で叶うものがいなくなると、武者修行と称し、街の道場を片端から潰して回った。
曰く。
さらに、城下に戦う者がいなくなると、山に篭り、熊や猪相手に剣を磨いた。
曰く。
その剣捌きは凄まじく、木刀を用いて尚、兜を両断するという。
どれもこれもが、伝説じみていた。
その名声が藩主の目にとまり、その腕を見せよとの書状が道場に届いたのは、弥生の半ばを過ぎた頃である。
栄転だった。
藩の指南役として召抱えられ、俸禄を賜れば、道場の格は一気に上がる。
呑雲は返事をしたため、道場に代理を立てると、吉日を待った方が、という細君の提案も無視して、その日のうちに故郷を発った。
元より、卜占の吉凶なぞ気にせぬ性質である。
「吉だ凶だと言うのなら、この手紙こそが吉兆。逃さぬうちに掴まずして何とする。なに、凶事が起きればこの剣で斬り捨てればよいだけのこと」
豪放に笑って、そう言い放ったという。
その呑雲が、朝靄の中で対峙したこの賊に、困惑していた。
入ったはずの抜き打ちであった。
相手の機を外し、僅かに弛緩した空気に乗じて間合いを詰める。
相手が飛び退くことも分かっていた。伸びた剣先が、肋骨の間を裂く算段だった。
だが。
呑雲の背中に、冷や汗が流れる。
この男。
まさか、斬り返して来るとは。
太刀が伸びきる直前。奴は、飛び退さると同時に、抜き打ちで応じたのだ。
狙いは腕。
勢いはないが、刃筋は立っている。刀を振り切れば、両断されるのは自分の腕の方だ。
そう気付いた呑雲は、手首を捻って咄嗟に軌道を変えた。刃を避けつつ、腹を狙う。
振り切った。
――だが、一手遅い。
白刃は紙一重で空を斬り、相手は三尺ほど離れた場所に着地した。
呑雲は、揺らいだ霧の合間から覗いた、賊の顔を見据える。
やはり、まだ若い。
声の調子から、二十歳にも届いてないだろうと思ったが、もっと若く見えた。おそらく十四、五。薄汚れたボロを身にまとっているが、幼いながらに鼻筋の通った綺麗な顔立ちをしている。伸ばしきった総髪と、華奢な肩と、細い足。
おおよそ、武芸者の身体ではない。野党のなりをした男娼。そんな言葉が呑雲の頭をよぎった。
だからこそ、解せぬのだ。こんな年端も行かぬ餓鬼に――。
手傷を負わせられるなど。
右手の熱と、滴る血の感覚。呑雲にとって、久しく味わうものだった。
深い傷ではない。刃が皮膚一枚を掠めただけである。
だが。
自分の初太刀は外れ。
向こうの初太刀は届いた。
怪物、天才、化物、神童――そう呼ばれ続けた柿崎呑雲が、一手遅れを取らされたのだ。
呑雲は、自らの頬がみるみる緩んでいくのを感じた。
ああ。
これだから、剣は面白い。
少年はと言えば、そんな呑雲を静かに見据えている。抜き身の刀を八相に構え、刀の重みに従うように、ゆらゆらと妙な拍子を取っていた。だが、その目には、不意を衝かれた恐れも、呑雲の笑みに対する動揺も、一太刀を入れた驕りもない。そして……隙もない。
「お主、名はなんと言う」
問いかけに、少年は答えなかった。
くっく。と、呑雲の口から笑いが漏れる。
「一太刀入れた褒美に教えてやる。お前、もう少し演技を磨いた方がいいぞ」
「……」
「闇討ちは数え切れぬほど受けたがな。貴様の剣にも、言葉にも、恨みを感じぬ。大方、全く見知らぬ他人に頼まれたのだろ」
呑雲の指摘に、少年はぴくりと反応した。
「……師匠(せんせい)」
「あん?」
「師匠に、言われたんだ。殺して来いって」
「ほう」
呑雲の笑みが、ますます勢いを増す。
「そのセンセイとやらは、お前より強いのか」
「うん」
水が高いところから低いところに流れるのは当たり前だ、とでも言いたげな口調で、少年はあっさりと肯定した。
「ふむ……」
呑雲は笑顔のまま、刀を上段に構える。ただでさえの巨躯が、刀を天に差し向けて、仁王の如く聳え立つ。全身から闘気が吹き出した。
「ならば貴様を斬れば、そいつが仇討ちに来るのかな」
「多分ね」
「なるほど」
呑雲は再び、くっくと笑った。
「……それは楽しみだ」
二人の殺意が、再び空間にヒビを入れる。
今度は少年が先に動いた。
つい、と刀を正眼に戻し、その重みに引かれるようにして、前に出る。
残像を元の場所に置いての、地を這うような運足。
呑雲もまた前に出た。
技量の多寡はともかく、体格の差は明白である。鍔迫りになれば、まず負けることはない。間合いを潰した方が優勢との判断だった。
共に、刃圏に踏み込む。
その瞬間。
先を取った少年の太刀が、白蛇の如く放たれた。
下段。
狙いは呑雲が踏み込もうとした、その右足。
呑雲は、咄嗟に足を退く。勢い、振り下ろそうとした刃の勢いが殺された。
その僅かな間隙に。
少年が手首を返す。
刃が閃き、呑雲の顎に向かって躍り上がった。
手首の動きで咄嗟に太刀筋を変えるその動きは、先程呑雲が見せた技と同じもの。
盗まれたか。
あるいは、元より知っていたか。
並の剣客なら、虚を衝いたこの一太刀に、成す術もなく斃れただろう。
だが、柿崎呑雲は、古今に比類なしとまで言われた剣客である。
若い頃から幾度も死線を潜り抜けた結果、刹那に幾百もの逡巡を可能にするほどの集中力を、彼は獲得していた。
ひりつく刀の照り返しを受けた瞬間、空気が粘りつく。
そして、呑雲の時間が引き延ばされた。
しなる帯のような残光を引いていた太刀筋が、一振りの鉄塊となって、ゆっくりと迫ってくるのを、呑雲は見た。残した左足を基点に半身になって。その太刀筋を避ける。
切っ先が、鼻先を舐めて通り過ぎてゆく。
その地肌に刻まれた刃紋のうねりさえも見極められた。
――なるほど、刀は存外に良いものを使っている。
そう感心するほどの余裕さえある。
時間の流れが戻った。
渾身の振りを外された少年は、しかし動じず、滑らかな動きで一歩下がろうとする。
呑雲はそれを読んでいる。
少年が一歩退く動きに合わせて、同じ間、同じ歩幅で踏み込んだ。
距離は変わらない。
しかし、向こうはまだ死に体。こちらは既に、斬る体勢に入っている。
異様な見切りの才が可能にする、後の先。
振り下ろすは、上段からの一撃。木刀の抜き打ちですら、甲冑を切り裂く豪腕である。真剣、それも体重を乗せた上段の一太刀ならば、相手の受けごと身体を両断する自信があった。
――さて少年。どう凌ぐ?
落雷の如き一撃が落とされた。
目測を誤ったか?
頭に一瞬浮かんだ疑念を、呑雲は即座に否定した。
一刀の間合い。互いの剣が喉元に届くほどの至近距離。よもや見誤ろうはずもない。
だが、頭蓋の正中に落とされたはずの呑雲の刀は、本来の太刀筋から逸れ、空を斬った。
まるで呑雲が自ら、剣を外したかのように。
呑雲は確かに見た。
少年が受けに回るのを。
否。
少年が剣撃をいなすのを。
あの刹那、少年は刀を返し、角度をつけて、呑雲の一撃を受けた。
そして、そのまま呑雲の刃を滑らせて、太刀筋を受け流したのだ。
その作業は、言葉で言うほど簡単ではない。
応じる力が少しでも弱ければ、呑雲の太刀筋は毛筋ほどぶれもせず、少年を捉えただろう。
逆に、応じる力が少しでも強ければ、呑雲の一撃は受けた刀を粉砕し、やはり少年を両断しただろう。
相手の力の類推。刀の強度の計算。受け流す角度、応じる力の強さ。そして衝撃を殺す全身のばね。いくつもの条件が僅かでも違えば、少年の命はあっけなく散らされていた。
蜘蛛の糸の上で、綱渡りをするような受け。
神業と言っても良かった。
気付けば、少年はまたも間合いを外れ、大きく息をついている。
しかし。
無傷というわけではない。
少年の左足の向う脛から、血がゆっくりと糸を引いていくのが見て取れる。逸らしきれなかった切っ先が触れたのだろう。
呑雲は手応えから推し量る。
肉を裂くほどの深手ではあるまいが――。
これで互いに一太刀ずつ。
しかし、両者の差は既に歴然としていた。
先程の一合。
渾身の振りを見事に外された呑雲は、瞬間、虚脱状態となった。
少年が返しの太刀を仕掛けるには、十分過ぎる時間。
だが、その絶好の機を活かすことなく、彼は退いた。
呑雲は類推する。
おそらく奴は、退かざるを得なかったのだ。
あの受けは、尋常の技ではない。何せ、あの渾身の一撃を、霞を切ったかと錯覚するほどの絶妙な力加減でいなしたのだ。常軌を逸している。
ゆえに、消耗も激しい。
反撃に転じる余力も、残せないほどに。
再び八相に構える少年の額には、びっしりと汗の玉が張り付いていた。
呑雲は、口角を上げる。
俺に三の太刀まで打たせた奴は久しいぞ、小僧。
だが、次はない。
両者、同時に踏み込んだ。
最後の一合。
恐らくは、これで決着がつく。
互いの間合いまで、あと一歩のところで、呑雲は上体を微かに前へ振る。
先の先。
間合いはこちらの方が広い。相手の踏み込みを利用すれば、一歩遠間からでも相手に届く。
と、思わせるのが狙いだった。
二度に渡る斬り合いを経て、呑雲は少年の強さの正体を見抜いていた。
動きの読みが的確な割に、間の取り方、機の捉え方は拙い。年の若さから見ても、場数はそれほど多くはないのだろう。自分のような刹那の見切りは、幾度もの死線を潜って身につけたもの。おそらく少年の技量はそこまでには達していないと読む。
では、少年のあの反応の早さは、如何にしてなしえているのか。
答えは一つ。
――観察眼。
おそらく少年は、筋肉の動きから技のおこりを見極め、こちらの動きを予測しているのだろう。そう考えると、先ほど自分の技を盗まれた説明もつく。
だが――呑雲はニヤリと笑った。
だからこそ、単純な搦め手にかかりやすい。
呑雲が見せた、ごくごく僅かな上体の振り。その微かな攻撃の兆しに反応して、少年が返しの太刀を放つ。その軌跡が、今再び呑雲の目には、ゆっくりと近づいて見えた。
かかった。
呑雲は、身を引いて死線の機を外し、自らの刀を相手の刀に合わせる。
甲高い音が響き、相手の刀が断ち折れる。
呆然とそれを見詰める少年の顔に。
音を立てて、呑雲の拳がめり込んだ。
糸が切れたように腰から砕け落ちる少年を見つつ、呑雲は言う。
「筋はいいが、まだまだ青いな、小僧」
白目を剥いて倒れた少年の耳に、その言葉はおそらく届いていないだろう。
因果とは、読み難きもの。
勝つと思われた者が負け、当然負けると思われた者が、勝利を拾う。
いつの時代でも、冗談のような偶然によって、運命は容易く流転する。ある人はそれを悪鬼の悪戯といい、ある人は神仏の加護と呼ぶ。
柿崎呑雲にとって、その日の誤算はいくつもあった。
一つは、彼を追ってきた細君が、ちょうどこの朝、呑雲が少年を殴り倒した直後に、彼に追いついたことだ。胸騒ぎがして追って来てみれば、夫が見知らぬ下手人を殴り倒している。おまけにその腕には浅いとはいえ刀傷があったとなれば、細君が騒ぎ立てるのも無理からぬことだろう。だが彼女の存在こそが、呑雲の運命を決定付けたというのは、何とも皮肉な結果ではないか。
もう一つの誤算は、したたかに殴り倒され、半刻は気付かぬとばかり思っていた少年が、すぐに目を覚ましたことだった。だがこれは、呑雲の失態とも言える。呑雲ほどではないとはいえ、咄嗟に身をかわす反射神経を持つ男が、完全に虚をつかれたとは言え、そのまま殴られることがあるだろうか。咄嗟に顔を逸らし、極僅かではあるが衝撃を分散させたことに、何故手応えから気付けなかったのか。
目を覚ました少年の目が捉えたのは、顔を青ざめて呑雲を心配する一人の女性と、それを宥める呑雲の姿。
もちろん、少年にとって、この突如現れた女性が呑雲とどんな関係なのか、知るよしもない。
だが、一つだけ、確実に分かっていたことがあった。
好機。
少年はばね仕掛けのように飛び起き、まっすぐ二人に向かって跳躍する。
呑雲最後の誤算は、彼が懐に小刀を隠し持っていたことだ。
白刃が閃く。
呑雲も並の剣客ではない。虚をつかれても、反応するだけの余裕はある。
だが、死線を越えた瞬間の気の緩み、予想外の細君の登場による気の緩み、そして昇った日の弛緩した空気による気の緩み、そして、彼の細君に真っ先に向かう少年の刃が、彼の理性を、動きを、ほんの一瞬だけ、少年よりも鈍らせた。
後は語るほどのこともない。
悲鳴。
怒号。
鮮血。
断末魔。
地面を掻き毟る手。
痙攣する二つの体――。
そして静寂が訪れる。
無敵と呼ばれた男の、余りにもあっけない最後だった。
「終わったか」
血にまみれた身体と服を川で洗っていた少年の元に、のっそりと一人の人物が姿を現す。
背が高い。酷い猫背だが、それでも先ほど少年が斬った呑雲よりも、頭一つ分高い。
だがその体つきは、背丈に対して異常なほど細かった。夕焼けに伸びる影法師のようだ。長く伸ばした長髪は顔の前に垂らされ、前髪の間から覗く切れ長の目のほかに、顔立ちは分からない。
「せんせい」
少年は振り返ってそう言う。
「終わったか」
無機質に繰り返すその声は、どうやら女のものと思われた。
少年は、黙って川べりの木のふもとを指差す。
そこには、呑雲と、その細君の首が転がっていた。二人の顔には、無念さも怒りもない。ただ驚きで放心したかのように、両目を開いて虚空を見詰めていた。早くも蝿がたかりはじめている。
「あの女は誰だ?」
女は僅かに首をかしげる。
「分かりません。おそらく細君かと。
「なるほど」
女は長い髪を揺らし、クククと笑う。
「お前、救われたな。その女が来たおかげで」
女は指差すが、少年は応えない。うつむいて、服を洗っている。
「呑雲に勝つために、女を斬ったか。何の罪もない女を! ……無抵抗の人間を斬った気分はどうだ? ええ? 楽しかったか? 悲しかったか? 今何を思っている?」
女は愉快そうに続ける。
少年は、空ろな目をゆっくりと上げ、言った。
「何もありません」
そして、再び服を洗い出す。
女はしばらく放心した様子だった。やがて、火がついたように笑い出す。
「ヒヒヒヒヒヒ! 流石だの、お前は。私の言うままに剣客を殺し、成り行きで市井の者を斬っても何も思わぬか。さすが、さすがはわしの弟子じゃ! 全く、ここまで何もない相手に斬られたとあっては、かの柿崎の御仁も浮かばれまいて。ヒヒ! ヒヒヒヒヒヒヒ!」
少年は意に介した様子もない。洗い終えた服を乾かさぬまま身につけ、刀を提げると、狂ったように笑うその女に、淡々と問う。
「言われた通り、斬ったよ。せんせい。次は誰?」
その様子に女は笑いを止めて舌打ちをし、溜息をついた。
「本当につまらぬ奴だ。多少は罪の意識に苛まれるかと思ったが……」
女の名は、八巻幽玄斎という。
その名は決して表に現れることはない。だが実際には四方百里で……いや、全ての国で、彼女の名前を知らぬものはなかった。
異形の女剣士。
そして、どんな殺しでも金で請け負う、外道の存在。
ひとたび依頼を受ければ、誰であっても、彼女から逃げることはできなかった。
大商人、武士、検校……そして、一国の城主ですら。
忍ですら殺されるため、彼女の足跡は誰も捉えることはできない。おまけに依頼は高額だ。時には依頼者の命が天秤にかかることもある。だから、誰もが自由に依頼できるわけではない。そのため、彼女の存在はもはや一種の伝説の如くに語り継がれていた。
当然、そんな彼女に弟子がいることなど、誰も知らない。
「ゆくぞ」
「はい」
やがて二人は連れ立って、深い森の中に消えていった。
後の行方は、少年の手に提げられた二つの首だけが知っている。