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1.落ちていた解答

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『人生は絶え間なく連続した問題集や。揃って複雑、選択肢は酷薄。加えて制限時間まである』

 昔読んだ漫画のセリフだ。そんなものを、最近ふと思い出した。
 人間の可能性は無限。そんなことを本気で考えてるやつなんていないだろう。
 自分の就きたい仕事を『目指す』自由、住みたい所を『探す』自由、恋人にしたい人を『好きになる』自由。
 確かに存在するそんな自由は、もちろん誰も求めていない。誰だって欲しいのは結果だけだ。しかし、そこに手が届くのはほんの一握り。努力はもちろんの大前提として、やはり多分な運がどうしても必要になる。
 ある程度の素質を与えられ、適切な時期に、適切な選択肢を、タイミング良く選べた人間だけが自分の望み通りの人生を歩める。そして声高らかにこういうのだ。
『自分が成功したのはここまで努力したきたおかげ。諦めずに努力すれば、誰にでも夢は叶えられる』
 努力したという自負が運の恩恵という事実を覆い隠し、余りにも周りの見えていない傲慢極まりない言葉を吐き捨てさせるのだ。
 小学生のかけっこじゃないんだ。何かの大会に優勝したいと思う人間を、全員優勝にしてやるわけにもいかないだろうに。
 人間が選べる選択肢は、それこそ無限なのかもしれない。ある場所へ行く道筋一つ取ったって、近道するのも遠まわりするのも、どこかへ寄り道することもできる。やろうと思えば、それこそ無限の選択肢があるだろう。
 だがその選択肢を実際に選べるかといえば、また別の話なのだ。その選択肢には選ぶための条件も無限にある。制限時間、必要な能力や資格、引き換えに失わなければいけない何か。
 それを満たしているかどうかもまた、運の良し悪しによって大抵は決まってしまう。

 だから、思わずにはいられない。
 自分が納得して選んだ物事も、本当はより良い『正解』があったんじゃないか。
 短い制限時間の中で決めてしまった物事が、本当は最悪の『不正解』だったんじゃないかと。

   ●

「で、樫谷は前言ってた彼女とはまだ続いてるんだっけ?」
「ああ、こないだでちょうど二周年だったから、ちょっといいメシ食べに行ったりしたよ」
 社会人になってからというもの、飲みというものが学生の頃と比べてワンパターンになってきたように感じる。
 お互いの近況報告が終われば、会話の流れは自然と恋愛か仕事の愚痴へと落ち着いていってしまう。
 学生時代は友人同士での共通の経験なんて、それこそ吐いて捨てるほどあった。授業、今日の昼飯、今度ある行事、勉強のこと。なんだって話題になった。今ではできないような、バカなこともたくさんやった。
 社会人が日ごろ生きていて、あの頃のように笑える出来事はそうそう起こらない。単純に笑える話よりも同情を買うような話が増えて、苦笑いを作ることにも慣れてしまった。
 そう、もう一つ忘れていた。思い出話も、こういう時の恒例の一つだ。
「二年か……。合コンから始まったにしちゃあ長いよな」
「あー、まぁそうかな。気が付いたらあっという間だったけど。始まり方さえ見なきゃ、二年なんてそう長い方でもないだろ?」
「そんなことないだろう。たとえばだけど、同じペースで全く途切れなく女と付き合えたと仮定したって、貴重な二十代の中で五人としか付き合えない計算だぜ?」
「なんだその仮定。それで行くと、俺はもうすぐ別れなきゃならなくなるじゃねぇか」
「そういうことじゃねぇよ、ただの例え話。……でも俺、前から思ってたことがあんだけど」 
 グラスを拾い、焼酎を舐める。飲む酒も年齢とともに大分変わった。酒を始めてからまだ十年足らずだというのに、覚え始めの頃によく飲んでいた甘い酒は、今では一口二口で胸焼けしそうになってしまう。
「今の仮定通りに進んだとしたって、十年かけてたったの五人。二十年でも十人だ。世の中には余るほど女がいるっつうのに、その中から値踏みできるのがたったの十人っつーのは流石に少なすぎやしないか?」
「あー……結婚相手として、って話?」
「まぁ、そういうこと」
「どうしたんだよ、急に結婚の話なんて。里山に感化でもされたか?」
 里山というのは、つい先日に結婚したばかりの友人だ。俺も樫谷も式に出席したが、それはもう幸せ一杯な様子で正直嫉妬してしまうレベルだった。
「いや、そんな真面目な話でもないんだけどな」
「……俺は、そういう目で女を見たことないからなぁ」
 隣に座る友人――樫谷は、困ったように笑って自分のグラスを傾ける。 
 樫谷は家庭というものに消極的で、いい歳にもなって生涯独身を公言している。
 だからと言って、独身貴族とうそぶいて『自由』をモロ出しに生きているのかといえば、それは全く違う話だ。
 むしろ、何かを『しない』と決めてしまうのは自分を不自由にすることに他ならないと、俺はこいつを見て知っていた。
「じゃあ逆に、どうなればお前は満足なんだ? 要するにたくさんの女をとっかえひっかえしたいってことか?」
「違うっつの。そういう問題じゃねーんだよ!」
 酔いが大分回っていたのか、声が思ったより大きくなってしまったことに俯瞰的な自分が気付く。
 しかしその自分は、『あーあ、明日になったら後悔するぞ』と他人事のように思うだけで、今の俺に歯止めをかけてくれることはないのだ。
「でもそういうことだろ。時間は有限。さっきのお前の話を採用するにしたって、二年じゃあ結婚相手を選ぶ時間には短すぎるくらいだ。大体、俺もお前も休みなく女と付き合えるほどモテる訳じゃないしな」
「そりゃあそうなんだけどよ……。あーいっそのこと、国がそういうの後押ししてくれたらなー。たとえば相手のいない男女でとりあえずペアになって、規定日数恋人として過ごしてみるんだよ。で、日数が過ぎたらどんどんチェンジしていく婚活システムとかどーよ?」
 樫谷は大仰に溜息を吐きだす。
「そんなの成り立たないに決まってるだろ」
「なんでだよ、思い付きだけど結構いい案だろ?」
 向こうも酔っているのか、樫谷は俺の眼前にぴっと人差し指を突き出して、呆れたように答えた。
「じゃあたとえばそういう会ができたとしてだ。お前、やってきた女が二人も三人も全く好みじゃない……むしろ御免こうむりたいタイプだったらどうすんだよ」
「う……」
「挙句の果てに向こうは乗り気だ。婚活なんだしどんどんお前にアピってくるぞ? そんな状態が国の強制力の下で延々と続くわけだ」
「……退会する」
 それ見たことかと、樫谷は肩をすくめた。
「そういうことだ。もしホントにできたとしたら、面白半分でなら俺も入ってみたいとは思うけどな」
 だいたい、と続けて樫谷は言う。
「そんなに数だけたくさん見て、あれがいいこれはダメって買い物みたいに決められるもんじゃないだろ、結婚ってもんは」
「そうだけどさ。でも、母数が多いに越したことはないだろ」
 少ない身近な人間の中だけで恋人を探すということは、サル山のサルと同じだ。
 限られた区域で、制限された条件で、なんとか自分が認められる妥協点を探す。街を歩けばいくらでも、(少なくとも外見だけは)身近にいる誰よりも好みだと分かる女とすれ違っているのに。
 サル山のサルは、そこが世界の全てだと疑わない。だからその小さな小さな世界で完結してしまう不幸を、不幸だとすら思わない。
 すれ違うそれは、選択肢には存在しない。自分の世界にはいない。単なる背景、単なるモノだ。
 そんな盲目さに甘えるのは、絶対に嫌だった。
 人生の選択肢は無限であり、自由なのだ。少なくとも、望むだけならば。
 でも、どうすれば世界を広げられるかなんて分からなくて、今の俺はグラスを煽ることしかできない。
「ナンバーワンよりオンリーワンなんて曲が、昔あっただろうが」
「んなもん、数をこなせなかった負け犬か、しょっぱなで大当たり引いたラッキーな野郎のセリフだろ?」
 我ながら極端なセリフに樫谷は苦笑する。
「お前ってホント捻くれてるのな」
 俺は全くの本心で、キッパリと答えた。
「バカ言え、俺ほど自分に真っ直ぐな人間はそういないだろ」
「それを真顔で言っちゃうやつは、確実に捻くれてるよ」
 樫谷は空になったグラスをテーブルの端に置くと、メニューを手に取り思い出したかのように呟いた。
「そういえばさ」
「うん?」
「さっきの話題には大事なトコが抜け落ちてたよな?」
「ん?」
 無言で続きを促すと、樫谷は割と真面目な顔で言葉を吐き出す。
「お前が、どういう女と結婚したいのか、ってことさ」
「ああ、そりゃあ……」
 即答しようとして、言葉に詰まった。
 美人で性格がよくて、料理が上手くて――。バカみたいな理想論ならいくらでも出てくるが、ここで求められているのはそういう答えではないだろう。言いかえれば、好みのタイプというヤツだ。
 セリフの途中で固まってしまった俺に、樫谷はまた呆れたような顔をする。
「お前……決まってる目標も無しに多くの中から選びたいとか言ってるのかよ」
「いやいや待て待て! そう言われてもパッとは出てこないだけだって! 実際、考えはあるよそりゃあ」
「どうかな。その実際とやらも、なんかもやっとした感じなんじゃないのか?」
 見透かしたように言う樫谷。
「大人になって好きな人ができない、なんてのはよく聞く話だし、『恋とはなんぞや』みたいな青臭いこと言うつもりもないけどよ」
「みなまで言うなよ」
「分かってるよ」
 血の気が引く時のように、すーっと酔いが引いてしまうのが自分でも分かった。
 俺は飲み物を決めかねている樫谷の手を止めると、
「なあ、店変えね?」
 居心地の悪さから、そう切り出すのだった。


 新宿歌舞伎町という場所のセレクトは、いささか失敗だったかもしれない。
 金曜夜の賑わいは凄いというより酷いと表現した方が適切で、大学生や若い社会人の悲鳴や怒号と見まごう声があちこちから飛んでいる。
 居酒屋もそういう連中を詰め込むための――合コンやどんちゃん騒ぎ向けの店が多く、男二人が静かにゆっくり話せるような店は、ぶらぶらしているだけではなかなか見つからない。
 携帯を取り出し時間を確認すると十時を少し回ったところだった。解散に早いとは言えないが、物足りない時間であることも確かだ。
 これからどうする、と喉まで出かかって振り返ったところで、樫谷が少し後ろで立ち止まっていることに気付いた。
「どうした?」
 近寄って声をかけても樫谷はこちらを見ない。樫谷が見ているのは、閉店したアイスクリーム屋のシャッター前だった。
 そこに一人の女がだらしなく倒れていた。初夏の夜にはまだ寒そうな、丈の短いワンピースにカーディガンを羽織っただけの格好。裾からは肉付きのいい脚が惜しげもなく伸び、角度と彼女のこれからの寝相如何では中身を検分することも難しくなさそうだ。
 具合が悪くて倒れたという感じではない。どうみても酔っ払いで、よく見るとうんうん言いながらもぞもぞ動いている。多分素面で向き合えばそこそこの美人なのだろうが、その動作から俺は旧作50円の日にレンタルしたゾンビ映画を思い出してしまった。
 とりあえず、思いついたことを口にしてみる。
「あー、俺、こんなのから始まるAV見たことある」
「アホか。……まぁ、このままほっとけばホントにそういうことになるだろうな」
 答えてようやくこちらを見る樫谷は困ったような、もしくは笑いをこらえているような変な顔をしていた。
 嫌な予感がする。俺はさっと踵を返して早口で言った。
「さっ、じゃあ今日はこのくらいにして帰るとするかな!」
「おい、このまま放置する気かよ!」
「はぁ!?」
 肩を掴む樫谷の手を払って向き直る。
「正気か? 俺たちがあんな女に声かけて、それこそなんかの撮影みたいじゃねぇか。厄介事にしかならないに決まってる」
「じゃあどうすんだよ?」
「知るかよ。おまわりさんか、下心のある輩か、でなくとも誰かが適当に拾ってくれるだろ」
 悪い癖が出たな、と隠しもせずに嘆息する。
 樫谷はどうにもお節介というか、物事に首を突っ込みたがる性質がある。それがすべからく悪いのかと言われればそうではない。実際、彼はその性質から人の愚痴や悩みごとにいちいち真面目に付き合ってくれる。今夜の俺がそうであるように、良き話し相手として樫谷を挙げる友人は多い。
 だがそれも時と場合だ。こんな風に知り合い以外の厄介事に首を突っ込むなんて、お節介以外の何物でもない。
「関わるなら一人でやれよ、俺は帰るから」
「いや、それは無理だろ」
 きっぱりとした否定は、初めからそういうことを決めていたようだった。
 いぶかしむ俺に、樫谷はさらにとんでもないことを言ってきた。
「俺は帰るし。お前が面倒みてやれって」
「……なんだって?」
 自分の耳を、やや本気で疑った。
「だから、俺は帰るからって。つまり面倒見れるのはお前しかいないってことだ」
「……一応聞くけど、なんで?」
「だって俺、彼女いるし。そんな不誠実なことできないだろ?」
 俺は――怒りのせいか酔いのせいか――急に襲ってきた目眩を押さえるために鼻根を押さえる。あまりにも突っ込む部分が露見しすぎていて、逆に一瞬では言葉が返せなかった。
「えーっと……それはお前、アレか。俺にあの子を拾った後、不誠実なアレをしろと言っているのか?」
 お前はさっき、俺に人を好きになることが先決とか偉そうに言っていたのではなかったか。
「いや、そうは言わないけどさ。でもこの状況であの子押しつけるだけ押しつけて、何もすんなよってのも酷い話かなと思って」
 そうあっけらかんと笑う樫谷の顔を、思いっきりはったおしてやりたくなった。押しつけられる時点で十分に酷い話だし、押しつけている自覚があるという点がさらに最悪だ。
「じゃ、そういうことだからまたな!」 
 呆然としている俺の隙をついてに、樫谷はいい笑顔で颯爽と走り去って行った。
 大きくため息をついた後、寝ている女の方に近づく。見下ろしながら、どうしたものかと思案した。
 樫谷は、俺を買い被っている。なんだかんだ言いつつも、自分と同じように人にやさしくできると思っている。
 そんなわけは無い。例えば今回の件だって、できるできないで言ったらそりゃあできなくはない。幸いというか不幸にもというか明日の土曜に予定はなく、一人暮らしの俺に帰りを待つ家族はいない。
 だが、知り合いでもない人間を見返りもなく助けるなんて、したくない。帰りたいという欲求を蹴ってまで彼女を担いで歩きたいかと言われれば、それは間違いなくNOなのだ。
 『やりたくない』というのは、『できない』のと同義だ。本人の中で選択肢として無いのだから当たり前の話だが、『ある』人間にはそれが分からない。
「かといって……なぁ」
 樫谷の言っていた通り、この後不健全な流れがあるとするならば、それは全く見返りが無いとは言えないわけだ。
 それに、この女に何をする義理はなくとも樫谷に対しては別だった。友人の頼みごとを試みもせずに無碍にできない程度には、残念ながら俺は冷たい人間ではないのだ。
「おーい、お姉さん」
 声をかけながらしゃがみこみ、頬を叩く。これで全くの無反応なら諦めて帰ろうと思ったが、思いの外すぐ反応は帰ってきた。
「ん……ふぁっ!」
 頓狂な声を上げていきなり上半身を起こした彼女は、まぁ思いの外しっかりと自分の体を支えられていた。少なくとも担ぐ必要はなさそうだ。
「状況は分かる? まぁ立ち上がれるくらいまでは待つから。せめて職質されないくらいにはシャキっとしてくれよ……?」

   ●

 今思えば懐かしいことこの上ないが、これが俺と豊田愛美との出会いだった。
 出会いと呼ぶにはあまりにも不躾なそれについて、その時の俺が深く考えていたわけもない。
 こんな酒の入った夜の酔った勢いみたいな出来事に、頭を働かせる方がどうかしている。
 だから、仕方ない。……とは言い切れない。
 それほどに彼女とは、長い付き合いになってしまったのだから。
 俺と彼女と、周りの人間との関わりの中で、失敗なんて後にも先にもいくらでもあった。
 それでもやはり、ここが起点だったのだ。
 俺の人生に大きく関わることになった、きっと、これが最初の『不正解』。
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