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序幕「受け問答」

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 池袋は東「日照り街前交差点」より「春日通り池袋三丁目」までの約百二十間、「乙女ろおど」と呼ばれ、古くから腐女子達の「聖地」とされているかの路を、筆名「三世橋 光(さんせばし ひかり)」は駆けていた。高校の制服である女子袴の裾が翻る事などまるで意に介さず、額からは汗が噴出し、その形相はまさしく鬼のそれであった。普段から化粧に金はかけず、眉毛の処理すらひと夏前に覚えたばかりの無精女ではあったが、この時の様子はあまりにも怒気に満ちており、道行く乙女達は皆その異質極まりない三世橋の姿を見て息を飲み込んだ。
 乙女ろおどはかねてより、喫茶店や雑貨店の多い通りである。鶏が先か卵が先かは定かではないが、とにかくそれらの商店に自然と集った乙女達によって御宅向けの本格的な店が立ち並ぶようになったと考える事も出来る。安価で、古めかしく、それでいて居心地の良い喫茶店「風来堂」は大通りから少し路地に入った所にある雑居楼閣の二階にあり、席数は僅か十六ばかり、看板も出しておらず、だからこそ客は少なくゆったりとした空間が保たれ、それでいて珈琲一杯二百円という安さは利益を度外視しているように見えた。
 風来堂の扉を勢い良く開け、鈴の音を店内に響かせた三世橋は、店内最奥、窓からあにめいとがかろうじて見える席に座る二人の腐女子につかつかと歩み寄り、迫っていった。
「納得いきませぬ」
 三世橋は荒い息を殺し、ぶっきらぼうにそう言い放つ。対した二人はいずれも年上。無論、円環(さあくる)内での人気や地位においても、三世橋よりは遥かに格上である。
「書状で述べた通りじゃ」
 と、その内の一人、筆名「明坂 環(あけさか たまき)」が答えると、更にもう一人、筆名「岸辺 十(きしべ じゅう)」は追撃を加える。
「納得がいかぬというのならそれも結構。円環を抜けてもらうだけだからな」
 三世橋の握り拳にはますます力が入り、小刻みに震えている。円環の主催を十年もやっているだけあって、後輩の面倒を見る事には手馴れている明坂は、三世橋の尋常ならざる様子に配慮し、すかさず助け舟を出した。
「ま、座りなされ。描くかどうかはともかくとして、まずは萌語り(腐女子の間で交わす、特定の作中人物についてあれこれと意見を出し合う会議)だけでも参加していったらどうじゃ?」
「……ありえませぬ」と、三世橋の歯軋り。
「ならば帰れ」
 一気に突き放す岸辺を、明坂が片手で制する。
「三世橋君、君も既に知っているじゃろうが、新しい『がんだも零々』はとっくに放送を開始しておる。まだ半年あるが、次回の『夏』は多くの腐者が新しい『がんだも零々』に流れるはずじゃ。前番組『がんだも種子』を主として取り扱う我が円環としては、ここで一度大きな転換を迎えねばならぬ。言うまでもなく、革命に失敗すればじゃんるは衰退し、我々の居場所もなくなるが、言うなればこれは『賭け』じゃ。先んずれば人を制す……腐女子道もまたこれに同じ……」
 明坂の口調は酷く落ち着き払っており、老獪ぶる様が三世橋の気に障った。睨む岸辺の強烈な視線に物怖じせず、三世橋は更に一歩前に踏み出し、明坂に尋ねる。
「……明坂様はそれでも良いと申されるのですか? 好番い(二次創作の対象とする男子同士の組み合わせ。所謂カップリング)を捨て、流行に押され、目新しさに安易に棚引き、同志達を裏切る……それでも明坂様は胸を張って『夏』に参加出来るのですか!?」
「口が過ぎるぞ三世橋!!」
 岸辺が立ち上がり、胸元から愛用の筆を抜きかける。三世橋はそれに構わず続ける。
「『逆』など、腐女子の恥に他なりませぬ! 貴方達は、それでも腐士ですか!?」
「……貴様っ」
 岸辺が飛びかかろうとした瞬間、明坂がそれをじっとり張り付くような視線で止めた。岸辺が振り返ると、微動だにせず、諭すように語りかける明坂。
「三世橋君がどうしても納得がいかぬと言うのならば仕方がないじゃろう。抜けてもらうしかあるまい」
「……それはそうですが、こ奴の言い草はまるで……」
「岸部、そう言うでない。腐女子の道は一筋縄ではいかんのじゃ」
「しかし……」
 二人の会話を眼前で聞きながらも、三世橋の五感は訳の分からぬ虚無に支配され、まともに理解出来る状態にはなかった。今にも取っ組み合いの喧嘩を始めてしまいそうで危なっかしく、それでいて奇妙な悲壮感が全身より立ち上っている。三世橋、中学一年の時分より「がんだも種子」にのめり込み、わざわざ受験する高校の位を落としてまで円環に打ち込み続けてきた腐女子、歳はまだ十七、言うまでもなく生娘である。


 ――「逆」とは、男子同士のまぐわいにおいて、どちらが本来の女役を引き受けるかの取り決めを、これまでの番いとは真逆に設定する事である。「腐女子の真髄は作品で描かれていない部分を妄想の刃により補完し、作品という形に『斬る』事」と想い、信じてきた三世橋にとって、今まで積み重ねてきた妄想を全否定する「逆」は甚だ認められる物ではなかった。これは何も三世橋のみが持っている感情という訳ではなく、長く腐女子として二次創作に携わってきた物ならば誰でも抱くであろう妄執の念と言える。
 とはいえ、明坂の言う事もあながち間違ってはいない。一時代を築き、栄華を極めたじゃんるはやがていつかは衰退を辿る。いざその時になって、腐女子達に取れる選択肢は、じゃんるを去り、別の萌えを見つけるか、先細りしていく道を歩き続け、日々去っていく仲間達の背中を見送るかの二つに一つ。あえて「逆」を打つ事により再興を促すという明坂の考え方は純然たる悪とも言い切れない。
 腐女子の道は一筋縄では……。明坂の言葉は見た目以上に重く、三世橋の肩にのしかかった。 
「おい、三世橋」
 三世橋がその声に振り返ると、既に会計を済ませた明坂と岸辺がこの日の戦利品を両手に下げて店を出る所だった。三世橋は、まるで時間が飛ばされたような気分にさせられ、それでもなお未だ冷静は取り戻せていない事に気づかされた。
「俺達はこれから別の円環との打ち合わせがある。お前は、次の『夏』に参加はしないという事でいいんだな?」
 岸辺の尖った口調に、今度は明坂も口を挟まない。ここははっきりさせておかなければ、いざとなった時同人誌に穴が開く事になる。それだけは明坂としても避けねばならぬので、岸辺に前に行かせている節さえある。
 三世橋は断固として非参加の旨を述べようと口を開くが、言葉が喉から先に出てこない。中学三年の時、明坂主催のこの円環に拾われ、今日まで共に歩み続けてきた。数多の同人誌を共に発行し、ゆっくりと培ってきた二年間の思い出はそう簡単に振り払えるものではない。
「なんだ、まだ未練があるのか?」
 岸辺は目を細め、蛇のように三世橋を睨む。
 思わず拳を振りほどき、顔に当てて泣き出してしまいそうになるのをかろうじて堪え、むしろ血が滲むほどに強く握り直し、三世橋は答える。
「いかに腐れど誇りは捨てられん」
 岸辺は肩に入れていた力を抜き、嘲笑と共に踵を返し、店を出た。
 それを確認した明坂は、懐中より「青封筒(夏に開かれる大規模同人誌即売会に参加する際に提出する封筒で、優先的に空間を確保出来る封筒)」を1枚取り出し、入り口近くの席にそっと置いた。
「三世橋君、これをどう使うかは君の自由じゃ」
 言い残し、鈴の音を響かせ、明坂も店を去った。
 放心状態の三世橋には、普段より顔見知りであった風来堂の従業員も流石に声をかける事が出来ない。机の上に置かれた青封筒に視線を落としながらも、焦点は定まらず、三世橋の脳内はただただ混乱していた。とにかく無性に自宅へ戻り、毛布に包まり、明かりを落とした暗い部屋で動画活劇を見たい気分であったが、それをする為の最初の一歩さえ踏み出せない有様だった。
 明坂主催の円環における活動を主として、三世橋がこれまでにしてきた二次創作は、彼女自身の人生において全てと言っても過言ではないほどの領域を占めていた。あれだけ熱心に「あすきら」を語り合った二人が、容易く「逆」に移った事も三世橋にとっては理解不能であったし、まるで情けのように置き去りにされた青封筒はまるで不可解そのものだった。
 電子書状を見た途端に激情し、放課後になるや否や乙女ろおどまで駆けてきたが、その道中さえ今は記憶にない。ただただ茫然自失、指針は完全に失われていた。


 その時、一人の女が青封筒の置かれた席に座った。三世橋は気づかなかったが、来店した時より別の席に座っていたらしく、半分ほど飲みかけた紅茶茶碗を持って席を移った。三世橋が何も言えないでいると、その女は青封筒を拾い上げ、ひらひらとはためかせ独り言のように呟く。
「いらないのなら私がもらおう」
 それが自分に対してかけられた言葉であると三世橋が気づいた頃には、既に青封筒はその女の鞄の中にあった。席を立とうとする挙動を見て、ようやく三世橋が一歩前に出た。
「待たれよ! その青封筒は私の物だ」
 女は一瞬呆けたような顔になったかと思うと、柔らかい微笑みを浮かべて、「そうか、それはすまなかった」と科白のような物を口にし、鞄から青封筒を取り出し、再び卓子の上に置いた。
 三世橋はその女のまるで無駄のない、どこか気品のある仕草から目を離せなかったが、意外にも女の対応があっさりしていたので、むしろ怪訝になり、ゆっくり慎重に近づいていった。やがて青封筒に手をかけた時、女が尋ねた。
「ところでおぬし、『かっぷ』と『そおさあ』、どちらが『受け』だと思う?」
 三世橋は、改めて女の様子をまじまじと見つめた。年は三世橋と同じか、あるいは少し上くらいだろうか、長い黒髪を後ろで束ね、切れ長の目をしている。美人だが化粧は薄く、遊んでいる印象は受けない。女を構築する一つ一つの記号は、極々平凡な腐女子といった風情だったが、その佇まいには得も言われぬ何かがある。
「……今、何と?」
「『かっぷ』と『そおさあ』。つまり、湯のみか、受け皿だ。どちらが受けで、どちらが攻めか。おぬしも腐女子なら一度くらい考えた事はないか?」
 質問を無視し、さっさと青封筒を取って店を後にする事も、三世橋にはもちろん可能ではあった。それでもはっきりと感じていたのは、目の前の女が自分を試しているという事実、そしてその質問に答えたがっている自分の存在だった。
 さて、「かっぷ」と「そおさあ」。三世橋は目を細め、その二つを凝視する。何の合図もなく、妄想が開始される。
 一見すれば、かっぷが上、そおさあが下、それより何より、「受け皿」という日本語名称からして既に、かっぷが攻めであるように感じられる。だが、この問いはそこまで単純ではない。
 三世橋は、「がんだも種子」一筋で来たとはいえ、というより、だからこそ「無い所に無い物を見る」事を続けてきた腐女子である。原作ではまるでその気の無い二人の行動を、一つ一つ分析し、拾い上げ、慎重に広げ、付け足し、曲げていく巧技。脳内で艶やかに花開く混沌とした夢を、三世橋は今まで飽くる事なく見続けてきた。
 創作者独特の集中力が三世橋の皮膚のほんの一寸周りを包んでいた。女は表情を変えないが、既に三世橋の顔は見えていない。腐に罹り、腐を宿し、腐を司る構えが、三世橋には備わっていた。
「攻めは『かっぷ』。受けは『そおさあ』だ」
 三世橋は迷い無く言い放つ。
 女は薄い唇を歪め、狐が笑っているような奇妙な表情を浮かべ、問いかけを重ねる。
「『かっぷ』は注がれる物だ。熱い液体を全身に注がれ、扱われる側の物だ。それでも『攻め』と申すか?」
 女の太刀筋には一切の淀みが無く、冷たく鋭い。並の腐女子であれば、この問い一つで感嘆のため息を漏らし、「逆」を決められていた所だろう。
「『かっぷ』には『穴』がある」
 三世橋は女の手元にあるかっぷを指差し、取っ手の部分を示した。人差し指が入り、親指で支える部分。どのかっぷにもある、何の変哲もない部品。
「ならば、ますます受けらしくはないか?」
 と、女。三世橋はしっかりとした口調で答える。
「その『穴』が使われている時、『かっぷ』と『そおさあ』は離れている」
 このたった一言で、物語が見えた。
 二つで一つのかっぷとそおさあ。
 かっぷが使われている時は離れ、
 使われていない時は寄り添っている。
 かっぷの中は熱い液体で満ち、
 そおさあはその温度を全身で受け止める。
 二つ、いや、二人の関係性を妄想するには、十分すぎるほどの素材。
 元来ただの食器同士であったはずの二人が、今は口に出すのも憚られるような密な関係にしか見えなくなっている。傍で話を聞いていた封来堂の従業員が、思わず小さな拍手を送った。
「見事だ」
 女はそう言うと、かっぷの底に残った紅茶を飲み干し、立ち上がる。
「やはり、これはおぬしが持つに相応しい物のようだな」
 差し出された青封筒を受け取った三世橋は尋ねる。
「貴殿の名はなんと?」
「名乗るほどの者ではない……が、この道を歩んでいればいずれはまた会う事もあるだろうから、一応名乗っておこう。私の筆名は『懺悔河 怪(ざんげがわ かい)』。今は特定の円環には属しておらん」
 話しつつ、懺悔河が会計を済ませる。三世橋は青封筒に目を落とし、違和感に気づく。
「また、いずれどこかで」
 返事を待たず、懺悔河は店を去った。
 残された三世橋が、青封筒の口を開き、中を覗くと、そこには一枚の紙が入っていた。
 かっぷとそおさあ。擬人化された二人の姿と、その絡みの絵がそこには描かれてあった。影も付けられておらず、簡単な線ではあるが、その筋の者ならば大多数が上手いと思うであろう手馴れた画力であった。
 その構図は、かっぷが攻め、受けはそおさあ。
 懺悔河が青封筒を一度鞄に仕舞った際に仕込んだ物だとすれば、二人の意見は最初から一致していたという事になる。
「あやつ……一体何者だ?」
 不審がるその言葉とは正反対に、ひとりごちる三世橋の目は、その絵に釘付けになっていた。
 三世橋 光。
 懺悔河 怪。
 後に腐女子界を席巻する事になる二人の、これが最初の出会いであった。
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