四月
茂木下はこれから始まる大学生活に期待に胸を膨らませていた。
電車を二回乗り継ぎ片道二時間かけて辿り着いたそのキャンパスは眩く輝いていた。
サークル、飲み会、ゼミ、バイト、飲み会…
灰色の高校生活とは似ても似つかぬ薔薇色または黄金色のキャンパスライフが自分を待ち構えているに違いない、そう茂木下は確信していた。
しかし浮かれる茂木下を待ち構えているものは黒よりも黒い漆黒色のキャンパスライフなのであった。
十二月
木枯らしの舞う街を背に茂木下は今日も大学へと歩を進める。
もう街はすっかり冬色。茂木下は紫色のベロアジャケットを身にまとい寒さで小さな身体をぷるぷると震わせていた。
茂木下は大学に辿り着く。多種多様な学生たちで賑わうキャンパス。
しかし誰一人として茂木下に声をかける者はいない。茂木下が声をかける者もいない。
茂木下は一人で講義を受ける。講義が終わると外に出る。
そしてまた別の教室で一人次の講義を受ける。
昼になる。茂木下が昼食をとる場所は賑わう食堂でもキャンパスのベンチでもない。
大学から徒歩五分の場所にある公園のベンチに座り、茂木下はそこで一人コンビニのおでんを食べる。
茂木下はコンビニのおでんが大好物だったのだ。
どうしてこうなった?
茂木下はおでんのこんにゃくを何度も噛みながらそんなことを考える。毎日毎日そんなことばかり考えている。
自分にミスはなかったはずだ。
基礎ゼミのクラスでも新歓コンパでも自分は積極的に周りに話しかけ、携帯の電話番号を聞いてまわり、気に入られるため持参した飴を皆に配って周った。
サークルはテニスサークルに参加した。そこでも自分は休まず出席し、飲み会の席でも酒の勢いを借りて楽しい奴として振舞ったはずだ。
それがどうしてこうなった。彼女はおろか友達の一人もできず、サークルでも孤立し辞めざるを得なくなった。
「奴の…奴のせいだ…」
茂木下はぼそっとそう口にした。
「帰ろう…」
そうして茂木下はとぼとぼと歩いて駅へと向かった。午後の授業は出席する気になれなかった。
帰りの電車は妙にすいていた。
まだ昼の二時なのだから乗客が少ないのは当然なのだが、何かがおかしい。何かがいつもと違う。
茂木下が気がついた時、その車両には茂木下以外の乗客は誰もいなかった。
まだ昼過ぎなのに妙に空が暗い。さっきまで晴れていたのに。
視界がぐにゃりと歪む。茂木下はその時急激な寒気に襲われた。
ふと前を見ると前方のドアが開きそこから得体のしれない不気味な男がぬるりとこちらの車両に入ってきた。
身長は190センチはあるだろうか。皮と骨だけで出来ているような痩せ細った身体。
青ざめた肌に坊ちゃん刈りのような髪型。そして瓶底のような分厚い眼鏡をかけている。
茂木下は一目でその男が普通ではないと分かった。大量の汗が身体中から流れ出す。
「ウワアアアアーーー!!」
茂木下は叫んだ。そして座席から転がり落ち、這いずりながらその男から逃げだそうとした。
しかし、気がつけばその男は、茂木下の目の前で仁王立ちをしていたのだ。
分厚い眼鏡の奥の狐のような尖った眼が模擬下に向けられている。
「た、助けてくれーーー!!!」
茂木下はまたも叫んだ。
するとその男はニヤリと不気味な笑みを浮かべた。そして堰を切ったように喋り出した。
「怖がる必要は無い僕は君の仲間だよ。君はこう思っている。自分は間違っていないおかしいのはこの世界のほうだと。この世界は狂っていると。少しばかり顔が良くて話が上手くて要領の良いだけのクズが群れをなし、往来を我が物顔で歩き、可愛い女子達は全てそいつらに奪われる。この世界は明らかに狂っている。君はそう思っている。
「あ・・・う・・・」
茂木下はその眼鏡の男にまるで全てを見透かされているかのような気分になった。
「だが君は迷っている。だから答えよう。君は何一つ間違っていない。だから迷ってはいけない。狂っているのは世界だ。狂った世界はまともに戻さなければならない。新しい世界を構築する必要があるのだよ」
「新しい…世界…」
「そう新しい世界だ。顔の良い奴、要領の良い奴、能力のある奴、いわゆる『光』側の人間は全て畜生以下の存在となり、君や僕のような『闇』の人間達がこの世を支配する新しい世界だよ」
「す…」
気がつけば茂木下は泣いていた。
「すばらしい…」
眼鏡の男はニタリと醜悪な笑みを浮かべた。
「君に力を与えよう」
茂木下
地方都市の街外れにある偏差値48の県立高校。茂木下は昨年までこの高校に通っていた。
茂木下の属する3年1組は文系クラスであり女子の数に比べて男子が少なく12人しかいなかった。
そのぶん男子たちの結束は固く仲の良いクラスとして学校でも評判だった。
茂木下を除いては。
茂木下の身長は158センチでこのクラスの男子の中では一番低かった。
茂木下はお世辞にも男前とは言えない外見をしていた。身長のわりに大きな頭、角張った輪郭、つり上がった細い眼。
しかし外見は茂木下の孤立の大きな要因ではなかった。
茂木下は圧倒的に要領が悪く、笑いのセンスがなく、コミュニケーション能力がなかったのだ。
「ワハハハ!何やってんだよ吉田~」
「吉田は本当アホだなー」
「うるせえよ!」
「ワハハハ」
「ワハハハハ」
「ワハハハハ」
クラス一のお調子者である吉田が何かやって笑いを取っていたようだった。
しかしその時茂木下は話題に乗り遅れ、皆が何で笑っているのか全く分からなかった。
「なあ栗本、何でみんな笑ってるんだ?」
「ワハハハ…え?えーっと…吉田がこんな事して…それで皆笑ってるんだよ」
「そうなんだ。それは傑作だな。ハハハ…」
高校生活において茂木下が心から笑ったことは一度たりともなかった。
***
目を覚ますと電車は茂木下の住む街で止まっていた。
誰も乗っていなかったはずの電車から人々が降り、ホームを歩いている。
いつもの光景。眼鏡の男の姿はそこにはなかった。いつもと変わりない日常の風景だった。
あれは全て夢だったのか…?
そんなことを思いながら茂木下は駅から家に向かって歩いていた。
まだ意識がぼやけている。
うつろな目で歩く茂木下の前から一組の高校生の男女が歩いてきた。
二人は手を繋ぎ仲睦まじい様子で幸せそうに歩いている。
男子のほうは茶髪で制服をだらしなく着崩した出で立ち。女子のほうは少し地味で真面目そうな姿だった。
「君に力を与えよう」
眼鏡の男が最後に言った言葉。
それが茂木下の頭の中で何度も反芻されていた。
「この世界は、狂っている」
前方の高校生のカップルに向けて茂木下は手をかざし、そう呟いた。
次の瞬間、ポンという安っぽい音とともに男子高校生の首から上が綺麗に爆発した。
女子高生の悲鳴は既に茂木下の耳には入っていなかった。
「夢じゃない」
茂木下は笑みを浮かべた。
***
翌日
茂木下の通う大学のキャンパス内はいつもと変わらぬ賑わいを見せていた。
いつもと違うのは――その賑わいの中に一際目立つ美しい少女が歩いていたことだ。
その姿に多くの男子学生が振り返る。誰も見たことのない少女。少女は大学の学生ではなく外部の人間だった。
華奢な身体に大きな瞳、髪型はショートカット、利発そうなその少女は何か焦った表情でキャンパス内を歩きまわっていた。
「早く、見つけないと…」
少女には時間が無かった。
一刻も早く目的の人物を見つけなければならなかった。
「キンヤ…!お前の好きには、させない…!」
少女は悔しそうな表情でそう呟いた。