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一.

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 一.
 学校帰りのバイトをこなして帰宅する頃には、時刻は既に十時半を過ぎてしまう。今日もその例に漏れず、終電の二、三個前の電車を捕まえて、ほとんど客のいない車内で疲労した身体をガタゴトと揺さぶられるのだった。
 眠気で崩れ落ちそうになる頭を、線路上でわずかに跳ねる車体に引き起こされ――と繰り返される生き地獄を耐え抜いて目的の駅で降りれば、帰るべき学生寮までは歩いて数分である。誰もいない小さな駅の改札に定期券を読ませ、キオスクを横目に出口をくぐれば、あとは一本道だ。
 街灯も疎らな通りを歩いてすぐ、周りの建物と比べると真新しい外壁のアパートが見えてくる。そこの一階、門から見て奥の二番目の扉が、私の部屋のモノ。
 その扉の表札には、名前が二つ掛かっていた。
 朝川 志弦――あさかわ しづる
 藤田 鞠乃――ふじた まりの
「おかーえりー!」
 ガチャ、とドアノブをひねっただけでお出迎えの声が聞こえた。同時にタタタタッと足音がなり、扉を引き終えたそのときには、既に同居人の影が廊下にあった。恐ろしい聴覚と反応速度である。
「今日も帰り遅かったねぇ。疲れたでしょ? 夜食作ってたから食べて食べてー」
「うん。毎日ありがとうねー鞠乃」
「えへん、コレぐらいのことは当然です!」
 胸を張って豪語する小さい背中は、また廊下を忙しく歩いて奥へと消えていった。あまりうるさくすると隣人から苦情が来そうなものだが、疲れた身では忠告の一つも面倒だ。
 靴を脱ぐため三和土に上がり、手荷物を廊下に置いて一息つくとようやく安心できた。少しボーっと突っ立って、先程勢いよく捲し立てられたせいで言うタイミングを逃した言葉を口にする。
「ただいま」
 おかえりー! と、元気のいい声がまた奥から聞こえてきた。

 学生寮――正確には学校指定の推奨賃貸物件のこのアパートで、私と鞠乃はルームシェアをして共同生活を送っていた。
 リビングに入ると香ばしい香りが漂ってくる。入ってすぐ右手に見えるカウンターキッチンでは、急須を持って夜食の仕上げをしている鞠乃の姿があった。三角巾をつけエプロンをまき、彼女には珍しい真面目な目線は、もはや一昔前の嫁入りした若妻のそれである。ただ一つだけ、身長が足りぬが故それを補う踏み台に乗っているのがアンバランスと言えようか。
 邪魔しても申し訳ないので、そのまま素直にテーブルへと向かう。自分の座椅子に座って重たいブレザーを脱いでいると、コツ、と目の前に茶碗が置かれた。鞠乃は開いた手で私のブレザーを奪い取る。
「あ、いいよ自分で掛けてくるから」
「こっちこそいいよぉ志弦ちゃん疲れてるでしょ? エプロン外してくるついでだから座っててっ」
 そう言って、半ば奪うようにして上着を持っていかれた。この生活も一年と少々続いているが、いよいよ鞠乃の良妻役が板についてきている。
 テーブルを見ると、小振りの茶碗に小盛りのお茶漬けができあがっていた。就寝前の食事は不規則でよくないと言うが、しかしバイト終わりの空腹には抗えない女子高生のニーズにがっちりと対応している。それにちゃっかりと自分の分まで用意してあるのが鞠乃らしかった。
 鞠乃はエプロンも三角巾も外した部屋着姿で戻ってきた。首元で切り揃えられているゆるくウェーブがかかった髪、頭が私の胸のところに位置するぐらいに低い身長では、着るもの全てがダボダボに見えて、髪型もありパッと見全体的にふんわりしている。それほど目立つパーツのない顔には、垂れ目で笑うにこやかな表情が浮かんでおり、この笑顔を見るたびバイトの疲れも癒され、とても落ち着く自分がいた。
「えへ、お待たせぇ。あたしもお腹すいたぁ」
「ふふ、じゃあ一緒に食べようか」
「うん!」
 ちょこん、と対面に座る鞠乃は座高も低いためこちらを見上げるような形になる。膝を崩して、少しだけ目線の高さを合わせた。
「いただきます」
「いっただっきまーす」
「普通のお茶漬けとは色と香りが違うけど、何で作ったの?」
「ふふん、何だと思う? 啜ってみれば分かるんじゃないっかなー」
 言われて一口、お茶碗の中のお湯を啜ってみた。とても香ばしい味がして口当たりも優しい。リビングに入ったときに感じた匂いはコレだったのだろう。
「……麦茶?」
「じゃないっ」
「えー何だろう。ほうじ茶?」
「ちーがーうー」
「うーん?」
 緑茶ではないだろうし、他にお茶の種類なんてあまり知らない。
 悩み顔の私を見てニコニコしながらお茶漬けをはふはふ食べる鞠乃。なんだかとてもむずがゆいような、悔しい気持ちになった。負けじと私も箸を進める。
「答えはねー」
「うんうん」
「……秘密なんですよー」
「な、ちょっと何でよ、教えなさいって」
「やーだー。えへへ」
 いたずらっぽく笑う鞠乃にますます聞き出したくなるが、
「……まぁいいわ。美味しいし」
「本当? 美味しい?」
「えぇ。お茶漬けと言っても、なんか初めて食べる味だったしね」
 空のお茶碗をテーブルに置いてお先にごちそうさまをする。お粗末さま、と言う鞠乃を横目に、寝る準備を始めるため立ち上がった。
 自分のお茶碗は流しに持って行って、寝室で制服を脱いでパジャマに着替えると、鞠乃も食べ終わったらしく食器洗いをしていた。そのまま私は洗面台へ向かって歯磨きを。
 バイト後の目に力のない、見慣れた自分の表情。その隣にひょこり、と小さく遠くに鞠乃の姿が現れた。
「ね、あのお茶漬け……本当に美味しかった?」
「え? あぁうん。斬新というか、何というか……」
 歯ブラシを動かしながらなのではっきりしない声で答える羽目に。
「そっか。へへ」
「……?」
「あぁえっとね。工夫して作ったから、嬉しくてさ」
 鏡越しに疑問顔の私を見たのか、鞠乃は理由付けまでする。新しいレシピ開発が上手くいってよほど嬉しかったらしい。自分が作った料理を褒めてもらうことの喜びは私も分からなくはなかった。
 すっと鏡からいなくなる鞠乃を微笑ましく見送り、歯磨きも終わらせた私は次いでシャワーを浴びるべくドアを閉めた。

 髪も乾かすといよいよ寝るだけである。
 洗面所から出てリビングに戻ると、鞠乃がテレビもつけず座椅子でごろりとしている。姿勢そのものは脱力しきったものだが、目はしっかりと見開かれていた。
「さ、そろそろ寝よう」
「はーい!」
 全く眠たそうにない、よく通った声だった。
 リビングに面した寝室に入ると、先程掛けてもらったブレザーと自分で脱ぎ折りたたんだ制服、他にはタンスと小さい本棚と、そして一つのベッドだけがある。二段ベッドでもダブルなわけでもない、二人で寝るには少々狭く思われるシングルだ。
 だが、私たちにとってコレは普通のことである。
「明日も学校だよぉー。早起きできないー」
「私もちょっと自信ないから、頑張って」
「だーって志弦ちゃんの腕の中寝心地いいんだもーん」
「じゃ、早起きできるよう離れて寝てみる?」
 お茶漬けのときの意趣返しでちょっとしたいじわる心で言ってみたのだが、
「やだ!」
 強烈な拒絶。
「やだよ、そんなこと言わないでぇ。眠れなくなっちゃう……」
「御免御免。冗談だって。ホラ」
 言って、鞠乃を先にベッドに入れる。壁際が落ち着くらしいのでいつもこの順番だった。
 しょげた顔の鞠乃が横になって、私もようやく布団に入った。
「悪かったわ。機嫌なおして、ね?」
 壁に背を付けた鞠乃を、腕で胸元へ引き寄せる。頭の位置が合わないため私の頭は枕、鞠乃の頭は私の腕の上となる。
 ぽふぽふと、浅く波打った鞠乃の髪を撫で付けてると、次第に彼女の方からこちらへ擦り寄ってくる。
「冗談でも、やだ」
「……御免ね」
 それっきり一言も喋らなくなって、寝息だけが聞こえるようになる。
 身体で鞠乃の呼吸による起伏を感じ、私も寝ようとして――。
 ふと頬から、頭の芯から、胸の奥から熱が湧き上がり、じっくりと身体が熱くなるのを感じた。
「――ッ!」
 こんなにも近い鞠乃の四肢。鼻に、彼女の匂いがふわりと辿りつく。同じボディソープに同じシャンプーを使っているため自分と変わらぬ匂いのはずなのに、決して同じでない、彼女本来のふんわりとした甘い匂い。
 それを感じて、熱がさらに膨張したのを悟った。
 勢いで、腕の中にいる鞠乃をきつく強く抱きしめてしまう。これ以上近づきようもない鞠乃をさらに引き寄せようと力が働いて、
「……ぅん」
 鞠乃が眠たげにボソリと唸った。いけない、起こしてしまっただろうか。
 きつく抱き寄せたせいか、搾り出されたように鞠乃の匂いがさらに鼻につく。駄目だ。これ以上この甘い匂いが頭に浸透したら――。
「志弦、ちゃん?」
 鞠乃の呼びかけで、理性が引き戻される。
 本能的に締めていた腕を緩め、少し身体を離す。荒れた呼吸が聞こえないよう必死で息を殺し、何食わぬ顔で鞠乃の方を見た。
「眠れない?」
「ううん」
 答えて、今度は鞠乃が、離した距離を詰めてきた。
 落ち着け。
 自然な呼吸を装って、深呼吸をする。必死に、理性を全開で働かせ、心を落ち着かせる。
 決して、間違えても、この胸の高鳴りを知られぬよう、普段の律動を取り戻すため冷静になる。
 添い寝して心臓が高々と脈打っていたなんて鞠乃に悟られたら、きっとこの子は私を、軽蔑する。
 そんなこと、絶対に嫌だった。
「志弦ちゃん」
「……何」
「志弦ちゃんの胸の音、いつも同じで落ち着くんだ」
「やだ、恥ずかしいこと言わないでよ」
 自分の気がいっているところについて話されて、ドキリと……できない。動揺一つ見せぬよう感情をひた隠す。
「ずっと、一緒なの。自分では分かる?」
「あまり自分の心音って聞こえないものだけど……鞠乃が言うならそうなのかもね」
「うん。このリズム……落ち着くの。コレで、眠れるの」
 そう、彼女もそう言うから。
 彼女もこのリズムを望むから、何があっても乱してはいけない。
 だから、もしかしたらバクバク高鳴っていたのが分かってそんなことを言ってきたのではとか、不安になるようなことを勘ぐったりもしないで、さっさと自分も眠ることだけを考えた。
 その間、腕の中に、私の胸の上にいる存在を意識の外に追いやって。
 こんなにも、これほどまでにも近いのに、鞠乃はとても遠くにいるような気がした。
 残った疲れと、朝早くに起きなければという懸念は、枕元からの大音量と小刻みな振動によって取り除かれた。
 開いている左手で頭の後ろにある発信源を掴みとり、何かしらのボタンを押す。メタリックレッドの私の携帯が、目覚まし機能で動いたようだ。
 止めてから、昨晩鞠乃との会話後、気を紛らわすために端末を色々操作していたのを思い出す。変な形で用意周到さを見せた自分に自分で感心した。
 当の動転の原因である鞠乃を見るとまだ起きる気配はない。ゆっくりと枕代わりだった腕を抜いてから、携帯を持った方の手で目の前の華奢な身体を揺り動かす。
「うぅぅ」
「朝だよ」
「うぅぅん」
 分かったのか寝ぼけてるのかどちらともつかない返事を聞いて、とりあえず自分はベッドから抜けだした。立て続けに鞠乃も上体を起こす。その目はまだつむったままで、放っておいたら起き上がった惰性で頭から前に倒れそうだった。
 寝癖ともとれるゆるゆるで柔らかな髪を、くしゃくしゃと少し乱暴に梳いてやる。
「おはよう」
「……はよ」
 あくび混じりに答えて、自分でも頭をかき始めた。もう大丈夫だろう。
 私もパジャマをさっくり脱ぎ捨て、秋に入って若干重くなった制服を着始める。鞠乃はしばらくベッドから起き上がれないようで、上半身を起こしたまま私の方をずっと見ていた。
「志弦ちゃん」
「ん?」
「どしたの? 制服着づらそうだけど」
「そう? 別に普通だよ」
 痺れる右腕を笑顔で取り繕いながら、片手で器用にボタンを留めてみせた。

 私も鞠乃も寮に帰ってこないということはないので、朝ご飯の準備は基本的に二人揃ってやることができる。
 踏み台に乗らないとコンロや水道が使えず不自由する鞠乃も、私が代わってあげることによって、パンの焼き加減を見ながらドリンクを並べるという軽作業に割り振られるのだ。
 こちらが厚切りのベーコンを片面焼き終える前にパンはもうできあがってしまって、鞠乃だけ手持ち無沙汰になってしまった。こちらも急いで、ベーコンをフライ返しで押し付けたり、ひっくり返してみて焼き色がついたのを確認したら卵を落とし、蓋を閉め……とやっていると、
 ――ピンポーン。
「わぉ、チャイム鳴ったよ」
 おおよそ非常識な時間帯の来客だった。とは言え、
「こんな時間に来るの一人しかいないよ。鞠乃、出てあげて」
「はーい。まさやーん!」
 ちょくちょくと定期的に、それにこんな朝早くの決まりきった時間に来られれば、迎える側としても慣れたものだった。扉を開ける前からそこにいるだろうと思われる人物の愛称を呼ぶほどには。
 遠くで鞠乃ともう一つ、男の声が聞こえてきて予想が当たったことを確認する。シンクに並べてあった皿の上に、二人分のベーコンと目玉焼きを乗せた。使い終えたフライパンに水を張ってからテーブルに朝食を運ぶと、
「志弦ちゃん、まさやんきたよー!」
「お邪魔しまー。飯まだだったのか?」
 来客の男子高校生とそれに腰上の位置でひっついてる鞠乃がリビングに入ってきた。身長差を見るとまるで兄妹、下手すると親子みたいだが、服装も身の上も年齢までも一応同じである。
「えぇ。相変わらず朝早いのね。ここに来たってことは朝練なし?」
「あぁ。試合近いから練習軽いんだわ」
 自分たちと同じ制服を着ているこの男子は佐々木 正也――ささき まさやと言う名で、小さい頃からずっと近所付き合いのあった所謂幼馴染だ。
 長年見ているせいで見慣れた顔だが、こざっぱりとした雰囲気以外には特に目立つところのない外見で、強いて言えば目がほんの少しツリ目なところと、髪の短さのため常に上向いている髪型ぐらいである。どこにでもいる普通の男子高校生といった感じ。
「へー、試合やるの?! ねーねー出る? まさやん試合出るー?」
「……あー」
「鞠乃、鬱陶しいだろうから離れなさい」
 通う高校まで同じで、部活に所属していない私や鞠乃と違いサッカー部に入っている。朝練がほぼ毎日あって厳しいらしいが、暇なときはこうして寮で暮らし始めた私たちのところにちょくちょく様子を見に来てくれていた。
 選手としての実力は、先の鞠乃とのやり取りから推して知るべし。
「しかし悪いな飯時に」
「気にしなくていいよ。食事私たちの分しかないから」
「急に押しかけて食わせてもらうつもりはないって」
 言うところ、既に家で食べてきたのだろう。こんなに朝が早いのは毎日の練習で起きるのに慣れてしまっているからか。
「……まぁ、座って? 椅子もないけどさ」
「あぁ、大丈夫大丈夫」
「まさやーん、あたしの椅子に座るー? 膝借りるけどさ!」
「……大丈夫だ」
 朝から騒々しい食卓だった。

 寮でのくっつきっぷりを見る通り、昔からの付き合いがあるため鞠乃は正也に随分懐いている。
 話し振りなどがとても朗らかで、社交性や友人関係が広そうに見える鞠乃だが、あれで結構人見知りをするため実は学校ではそんなに話し相手がいなかったりする。せいぜい私づてに数人ほどだ。
 そのため正也に寮まで来てくれると、登校中の鞠乃が普段より元気に溢れるようで見ていて安心する。人に話しかけにいかず、人から話しかけられてようやく会話が成り立つような彼女なので、私以外に気兼ねなくお喋りをできる人間というのはとても貴重だ。
 ただ……その姿を見ていると安心する反面、どこか心の底が軋む。
 今日も、隣で腕いっぱい広げて喋る鞠乃とそれを聞く正也を見て、寂しいような、妬ましいような感情が燻る。息が詰まるほど苦しいとかではないが、頭の中全体に埃がかかったような、軽いながら無視できない胸のつかえがあった。
 ふと、言葉一つも発せず俯いて、鞠乃の方を見ようとしない自分に気がつく。地面以外に目の置き場を探して、喫茶店のウィンドウに顔を向けてしまった。
 それは――酷い表情だった。元から大きくない目は垂れ下がり小ささが強調され、眼鏡もつられたのか鼻掛けになっていて、口は半開きでだらしなく、背中の中ほどまである長い髪は手入れをしているつもりだが、逆に暗い表情を助長してしまっていて、自分のことながらどこか不幸な雰囲気まで感じてしまう。
 流石にいけないと思い、そのままウィンドウに向かっていつもの表情と姿勢を取り戻した。
「志弦」
「ん、何?」
 後ろから急に話しかけられてびっくりする。今のを見られてはないだろうかとどぎまぎした。
「鞠乃との寮生活、大丈夫か?」
「全然問題ないよ。鞠乃が家事全部やってくれるし、仕送り十分だし、私のバイトもある」
 それは嘘ではない。昨日だって、バイトから帰った私がやらなくてはいけないことなど一つもないほど掃除も洗濯もしっかりしてたし、親からの仕送りはそれだけで暮らせるほど送られてきている。万一のため、というよりかは年頃にお金も入り用だからバイトをやってこそいるが、生活に支障が出るほどの重労働ではない。学生のルームシェアとは思えないほど安定した暮らしだ。
「……そうか」
「えぇ。毎度心配かけて御免ね」
「いや、それこそ全然。何かあったら連絡くれよ」
「ありがとう」
 正也のこういうところには私も助けられている。
 助けられては、いるのだが。

 こちらの生活を心配する正也と相変わらずの会話をしていると、そのうち目的地の外観が見えてきた。
 学校都市と言うと大袈裟、それ以前に順序が逆なのだが、私たちの通う学校はまさにそう言い表すことができると思う。
 さっきも表情直しでお世話になった喫茶店の他、ブティックやファンシーショップ、ショッピングモール、百貨店までもが並ぶ都市部に、とても窮屈そうに立っている角柱状の建物が公立銀丈高校である。
 四面のうち、道路に面した側の下部がアーチ状に繰り抜かれておりそこが校門となっている。そこをくぐれば、角柱に見える建物が中心だけ吹き抜けになっているのが分かる。正午には光が差し込んで明るくなるのだが、その他の時間は太陽を周囲の壁が遮って日陰になるという、中庭と呼ぶにはどうかと思われる設計。
 校門を除く他三面は玄関となっており、ここから校舎へと入ることができる。一つの学年ごとに一つの面、というように振り分けられているため混乱は起きにくく、自動的に校舎も一学年が一棟を占拠という形になっているため、学年差のいざこざもほとんど発生したことがないらしい。
 私たちは二年生なので、中庭中央にある噴水を避けつつ正面の玄関へ向かう。二年校舎とも言えるこちらが北棟で、校門が南棟になっており、方角についても分かりやすい構造だ。
 しかしそんな利点は通学者としては正直どうでもよく、初めてここに来た時から一年以上たった今でもこの建物に対するイメージは変わらず“狭い”である。
 元々ここは先に言った商店街らが立ち並ぶ都心部であったのだが、そこに無理矢理新設校など建てようとするからこうした無理な設計になったのだろう。ただでさえ土地の広さに無理があったところに、空から巨大な鉄柱でも落ちてきたかのような風貌である。学校が元からあって、そこに通う学生を商売客と見込んで各商店が発展したわけでなく、既に賑やかだった繁華街に学校がお邪魔したという流れがあるので、学校都市と呼ぶには順番が逆なのだ。
 校舎の位置関係上、中庭にいる人間は周囲四辺、しかも上階から見下ろされる形になる。建物の高さによる圧迫と、見られているような気がする落ち着かなさが、本来勉学に励むべき学校として健全に機能してないように私は感じていた。現代的と言えば聞こえはいいだろうが、いざ通ってみれば本当に好きになれない。
 私のこんな胸中を知る由もなく、仲良さそうに会話し続けて歩く二人と共に、正面の昇降口についた。
「じゃ、またな」
「えぇ。今朝もありがとう」
「じゃあね~」
 私と鞠乃は同じクラスなため教室まで一緒だが、別のクラスの正也とはここでお別れだ。午後の練習はあるだろうし、試合が終わればまた朝練も再開すると思われるので、また三人で登下校をするのは当分先のことだろう。
 一階の自分の教室へ入る正也を見送って、私たちは二階へと上がる。横に狭いくせ上には広いこの学校なのでエレベーターがあるのだが、登校時間の今は混雑してとても乗れたものじゃなかった。
 地道に階段を登っている最中、
「まさやんさーぁ、部活やってからさらに格好良くなってなぁい?」
「そう?」
 鞠乃がそんな言葉を発したとき、どきりとしたのは言うまでもない。
「夏場とかもう陽に焼けちゃって、顔付きとかも変わっちゃって、男の子らしさアップ! みたいなぁ」
「んー……長い間見てるから違いに気付かないんだけど……」
「あー志弦ちゃんひどぉい。まさやん泣いちゃうよー?」
「正也はそんなタマじゃないよ」
 寧ろ、私が正也に顔付き変わった? なんて言った瞬間笑い飛ばされそうなものである。想像して、絶対に言わないことにした。
 本人のいないところで勝手な話をしていると、あっという間に階段を登り終え教室の前だ。開けっ放しの横開きのドアは生徒を快く迎え入れているようだが、その実教室内はそれほどにこやかでない。敷居をくぐっても誰も寄って来ず、おはようの一言もなく、都会の高校は人付き合いの上なかなか淡白だ。
 とは言うが、実際には教室内で声を張るのが高校生ともなると恥ずかしくなる故のことかもしれない。席に座れば、
「おはよう」
 近くの席の子や周辺に立っていた生徒に挨拶はされる。
「えぇ、おはよう」
「はよー」
 言うほど交流がギスギスしているわけでもなく、かと言って深くもなく。あれほど元気だった鞠乃も、挨拶以上の会話をしようとはしなかった。
3, 2

  

 男女問わず学生が苦悩するものといえば、勉強とか宿題とかテストとか、学業に関する事項だろう。
「朝川さん……テストどうだった……?」
 午前の部最後の授業を終え、前の席の子がそんな話を振ってきた。ちなみにさっきの授業、不意打ちの小テストをぶつけられクラス中が沈鬱な雰囲気に包まれた。しかも成績に関与するところが大幅にあるという。進学も視野に入れなくてはいけない二年生の私たちには精神的に来るものがあった。
「全然よ。前日鞠乃に勉強教えてもらってたらまた変わってたかもしれないけれど」
「難しかったよね。て言うか、ふじたんに勉強教えてもらってるんだ」
 鞠乃の方を見てそう呼ぶ彼女。藤田という姓だからふじたんなのだろうが、苗字をもじったというより外見に由来するところが大きい気がするあだ名だった。
「えぇ。部屋一緒だから」
「あそっか、ルームシェアしてたんだっけね」
「そう」
 というのもあるが、要因としては私がバイトしている事の方が重い。
 学校帰りに直接バイト先へ向かわなければいけないし、シフトが入っている日は夜まで拘束されるため、帰った後に勉強する気力などほとんど消え失せてしまっている。
 対して鞠乃は、寮に帰ってやるべき家事を済ませたら残りの時間は自由に使える。夕食、掃除洗濯、果ては買い出しとこちらもやることはたくさんあるが、僻みでも嫌味でもなく純粋に、時間は鞠乃の方が持てていた。
 鞠乃も高校二年生ということで勉強ばかりに時間を費やしている訳ではないらしいが、ちょくちょくと予復習をして私の帰りを待つ日など多いようで、学力は鞠乃の方がそれなりに高い。勉強できない日がある私としては自力でやるのも限界があるので、鞠乃に教えてもらったほうが効率もあがるため大いに助けられていた。
 その当人は、横の席で机に突っ伏していたところ顔だけぷはっ、と持ち上げて、
「あたしが教えてもぉ、そんな変わんなかったと思うー……」
 垂れ目がちな瞳を糸のように細めてそうこぼした。
「じゃあふじたんも?」
「ダメダメでしたぁ……」
 語尾と連動して再び頭が引っ込んでいく。マスコット的な可愛らしい仕草なのだが、発言内容からして何とも声をかけづらい。前の子も鞠乃を見て苦笑しか出てこないようだ。
 ……さて、気持ちを切り替えよう。これから昼休み、昼食の時間である。
「朝川さん、今日もお弁当?」
 のつもりだったのだが、
「あ、鞠乃。お弁当作ってないよね?」
「うわあぁぁぁそうだったああぁぁぁ」
 食費節減のため普段は鞠乃が弁当を作ってくれるのだが、正也の来訪で私も鞠乃もすっかり忘れていた。
「志弦ちゃんごめーん……」
「別にいいわよ。ホラ落ち込んでないでパンでも買いに行こう?」
 鞠乃の手料理は美味しいからそれが食べられないのは惜しいが、食費の問題を加えても些細なことだ。そんなことよりこのしおれた鞠乃を立ち直らせるのが先決である。
「……なんか、二人とも楽しそう」
「え? どうしたのいきなり」
「いやまぁ。あーあたしも一緒にご飯食べたかったなー」
 寂しげに弁当箱を取り出す彼女。テストの如何を聞いたり弁当かどうか訪ねたり、彼女は交流の薄いこの学校で懸命に輪を広げようとしたのかもしれない。そう考えると少し申し訳なかった。
「御免なさいね、また今度のときにでも。鞠乃」
「ひゃあぅっ!」
 いつまでも沈んだままの鞠乃の首元に手を入れてやった。指を少し折り曲げて、ゆっくり引き抜くと悲鳴が一つあがる。
「ふふ、じゃあまた」
「あ、うん。いってらっしゃい」
 前の席の子に挨拶して、自分だけさっさと教室を出る。こうすると、
「……もぉ~!」
 鞠乃も誘導できた。

 学校の購買は校門側、南館の一階にある。遠方からこの学校に通う生徒もおり時間的に家で朝食を取れない人が、学校にきてすぐ寄れるようにという据え付けらしい。事実、中庭に向けてカウンターが開いており、そこから購入できるようにもなっている。
 昼時はそのカウンターも校舎内部のレジも混雑して大変だ。外に出る必要はないので私たちは店内で買い物をしたのだが、
「うー……っ」
 陳列棚で未だ、腰をかがめ唸る小さな姿一つ。私はさっと見繕ってパンを買ったのだが、鞠乃は随分な長考者で棚と棚を何度も行ったり来たりしている。
 購買の店内にはフードコートもあり、席を確保したいがため先に買い物を済ませた私は椅子に座って、哀れなその背中を見つめていたのだが……。
「……やっちゃった」
 あまりにも鞠乃が遅いため、先に食べ終えてしまった。手持ち無沙汰になり、待つ間の暇を潰すついでに飲み物の紙パックも潰し始める。
 手元を見もせずに上の口を開ける。鞠乃がフードコート側の陳列棚に戻ってきた。
 紙パックの横っ腹を内側に折り込んでいく。鞠乃はもうほとんどパンのない棚に向かい屈み込む。奥の方でも探してるのだろうか。
 折り込む手が底に辿りつく。片手で髪をすき上げ片手を膝に添える鞠乃。その憂いた仕草が少しだけ、様になってる。
 底の固い紙質に、折り込む手が止まる。屈み込む分スカートが上がってしまっている。サイズは最小でも鞠乃にとっては余る大きさで、丈の長さが膝下よりもあった。
 折り込む手は進まず、腕をテーブルに乗せる。腰回りも緩いスカートをベルトで止めているせいか、鞠乃の細い腰が一目瞭然。同時にお尻との差が否応にも強調されていた。
 腕は動かない。ついに彼女は両手で頭を掻きむしりしゃがみ込んでしまう。小さな背中がさらに小さく丸まる。
 頬がほわほわする。その姿が哀れで、可哀想で、なにより、とても愛らしい。
「……いやいや馬鹿。何考えてるのよ」
 さっさと紙箱を潰して、もう空のパンの袋も一緒にゴミ箱に捨てる。そして購買の袋を持って、およそ高校生とは思えない行動をとっている子供めいた背中に近づいた。
「鞠乃、これ」
「え……?」
 こっちを見る顔はうっすらと目が滲んでいる。そこまでなるか、と少し呆れる反面、苦しさとは違う息の詰まりを感じた。
「メロンパンにしといたわ。鞠乃、好きでしょう?」
「あ、あたしの分……?」
「先に一緒に買っちゃってたの。飲み物はまだ棚に余ってるから自分で買って。私はもう食べちゃったからちょっとトイレに行くよ。席も自分でとってね。もう随分人も退いてきたから座りやすいと思う」
「……うん! ありがとー志弦ちゃん!」
 パッ、と一瞬で切り替わる喜怒哀楽にこちらも一安心する。並んで買い物した際、嫌な予感がしたから保険で買っておいたがまさか的中するとは。
「私はここに戻らないから、食べ終わったら教室に戻りなさいね」
「うん。ごめんねぇ遅くてさ……」
 同年齢の人間に言う台詞ではないと自分で思いつつ、つい子供扱いしてしまう。鞠乃の幼げや仕草や外見もそうさせる要因だが、自分の心配性にも少し困りものだ。
 しかしあのまま放っておいたら、きっと鞠乃も私も危なかった。
 しゅん、とところ構わずしゃがみ込む鞠乃をずっと見ていたら、私はあの子にパンを渡す代わりに何をしたか分からない。
 トイレに行く、とは言ったが実のところそのつもりはなかった。
 見ていると色々の意味でつらくなる鞠乃から、体よく離れる言葉でしかない、つもりだった。
「はっ――」
 実際今私がいるのはトイレの鏡の前で、必死に冷たい水を手首に浴びせている。身体の末端から冷やして、顔の火照りを沈めるため。落ち着きを取り戻すため。
 長いこと水をだだ流しにして、呼吸が平常になったと自覚したところでようやく蛇口を閉める。息をついて一安心するが、教室にこのまま戻る気はなかった。食事をし終えた鞠乃が自分の席にいるとして、今すぐにあの子の隣に座れるかと問われれば難しいとしか言えない。
 どこか気が紛れる場所を、と思うのだがアテは全くない。ぐるぐると校舎間を行き来したり、無意味に階段を登ったりしてみる。
「……あ」
 そういえばこの施設はあまり利用したことがない。
 階段を登って、当校西、南、東館四階は図書室であることを思い出した。都心の図書館には及ばないだろうが、地方のそれには匹敵するのではないだろうか。
 昼休みの図書室はそれなりに人がいて、担われた役目は果たしているらしい。英語教材、数学参考書、漢字検定対策書など、西館には高校レベルの主要五教科を主軸とした勉学書を並べた本棚が多かった。ローマ字と厳しい字面の漢字に挟まれながら、図書室中央、つまるところ南館へ向かう。
 西館には勉強している人が多かったのと比べ、南館は単純にくつろぎに来た人がほとんどのようである。新聞記事のバックナンバーやスクラップファイル、俗っぽいのからお硬そうなモノまで揃えている雑誌欄など、勉強というよりは世情、趣味側に偏ったラインナップだが、それよりも目を惹くのが南館中央を広々と占拠しているソファ群である。
 暇潰しの散歩で足が疲れ、ソファに座ろうとしたが、三人座りのモノでも個人で占領している人などいて空いているところはなかった。妙な距離感のため、先客がいるソファにお邪魔しようとは思えない。
 生徒ひしめくくつろぎ空間を通り過ぎ、カウンターにさしかかる。司書さんが見えないが他の館を巡回中だろうか。ぼんやりと誰もいないカウンターを眺めながら歩いていると、裏方、恐らく司書室であろう部屋があるのを見つける。ドアの窓を見ると、そこにはカウンター業務から離れて休憩している司書の姿でなく、私の数少ない知人が。
「嘘っ」
 その人に対する印象と厳粛なる雰囲気の代表格とも言えるこの場を照らし合わせて、どこまでもかけ離れた両者の組み合わせに驚いてしまう。なんで彼女がここにいるのか疑問に思った後、その感情が興味へとシフトして、自然とその扉の方に気が行った。司書さんがいないのをいいことにカウンターに上がりこみ、司書室をノックしてみる。
 部屋の中にいた相手がこちらに気付いて、目を見開いたり眉をひそめたり、何か黒ずんだものを含んだ笑みを浮かべたりして、私を手招いた。見知らぬ人の座るソファと違って気兼ねする必要はなく、躊躇せずその中へと入っていく。
「俺に客なんて珍しいこともあるもんだ。久しぶりだなオイ」
「本当ね。でも何と言うか、相変わらずだわ」
「悪かったないつも通りで」
 自虐するように笑って答える彼女。
「何でこんなところに?」
「あー? 素行不良の生徒が図書室にいちゃ変かよ。変だろうなァ」
「いえ、そう言う意味じゃないんだけど……」
 女性らしからぬ言葉遣いと声質の低さのせいで、彼女と話すときは少し緊張する。
 腰ほどもある私より長い髪を前でパッツンに切り揃えた髪型までは、今時の女子高生には少ない髪型だろうがまだ普通の外見。しかしどこから手にいれたのか、女子着用義務のスカートではなく男子制服のスラックスを履き、ブラウスはベルトの中に収まっておらず、リボンに至っては影すら見当たらない格好で、その代わりとしてぶら下がっているのは学校指定のものではないネクタイ。椅子に座るその姿は背もたれに寄りかかりすぎるせいで腰の位置は浅く、姿勢が斜めになっている。足は片膝の上に片足首を乗せているような状態で、全体的に女子としては慎ましさに欠ける見た目である。
 これに加えて常なる汚い言葉遣いのため、彼女、雨崎 散咲――あまざき ちさは、学校中では悪名高い有名人であった。学生同士の交流が薄いこの学校で名を轟かせるなんて軽くできる芸当ではない。
「まーそう思われても仕方ねーかもしんねー。俺も真っ当な理由あるわけじゃねーし」
「じゃあまた、授業サボるためとか?」
「んなとこだ。あっちよりは、こっちのが人いねーし静かだしで都合もいい」
 あっち、と言いながらソファ群を指差す散咲さん。薄く小さいフレームの眼鏡がかかったその目は、虚ろでけだるそうな、ジトりとしたものだった。目つきは普段からこんな感じである。
「だからと言って、はいどうぞって司書室に上がらせてもらえるわけじゃないでしょう? 散咲さん図書委員とかやりそうにもないし」
「久々に会うのに散々言われんなオイ。合ってっけどよ。まぁそこら辺は簡単だぜ?」
 見た目と素行が悪いせいで、学校の先生からの評判はすこぶる低い。本人はそれを認めつつ、改善する気はさらさらなく今もこうなので、校内での自由なんてほとんどなさそうに思われた。
「ウチの図書室はかなりでけーくせ、それほど先公らは気にかけてねーんだわ。俺みたいなのにはうっせーけどここに関してはどうでもいいとか思ってんだろ。司書のバァさんも、学校側への要求とか提案とか、頭ごなしに却下されてたんじゃねーの?」
「つまり?」
「教師どものこと信用してねーんだろ。噂なんてもっぱら聞く耳ねーらしい。俺のこと見て最初ビビってたし小耳に挟んでもいたんだろうが、ちょっと真面目顔してそれっぽいこと言やすんなり通れたぜ」
「え、そんな……モノなの……?」
「流石に午前の授業全部ここで過ごしたからちょっとマズった感じだがまぁ、あの調子だといくらでも丸め込めんな。いい場所見つけたぜホント」
 外見に反し猫被りは恐ろしく上手く、それを利用した彼女独自の処世術は散咲さん一個人のみでかなり確立されている。今回も上手いこと言って抜けたんだろうなとは想像していたが、校内事情まで把握した上で踏み切っていたとは思いもしない。
 私が呆れて突っ立っていると、
「まぁ座れよ。当分バァさん戻ってこねーし」
 机に足を上げてそう催促する。行き場もないしソファに座れなかった無念があったので、遠慮なくその対面に腰を下ろさせてもらった。
5, 4

  

 彼女、雨崎 散咲は素行不良ではあるが人は悪くない。そのことは去年、一年生のときにクラスメイトだった私は経験的に知っている。
 登校時刻には遅刻するのが普通、下手をすれば昼休みになっても出席していないこともあって、彼女の平常点などあったものではないだろう。
 しかし、話してみれば普通に会話はできるし、誰に対しても変わりないこの態度と本人の気さくな性格から、こちらも気を使う必要を感じないため逆に喋りやすい方であった。つい先程教室で午前の授業終了直後、小テスト云々の会話を誰だかだったとしたが、仮にそんな話題で散咲さんと話したら「答えるべきテスト用紙配る前に、応えるべき期待を寄こしてみろよ」なんて具合に笑わせてくるだろう。
 授業態度と先生の評価はそれほどよくないがクラスの人気者である、みたいな人間はどの時代どの年齢のクラスでも一人ぐらいいるものだと思う。少なくとも私にとっては、散咲さんがそれに該当していた。
 また去年に関しては、散咲さんに対しそう言う評価を下している人は他にも多分いただろう。見た目は怖いが面白く、こちらの喋ることをときには真剣な顔で聞いてくれたり、オチをつけて軽く流してくれたりもする、付き合ってみて初めて人のよさが分かるタイプの人間だ。
 だが学校全体に広まった噂は、外見や授業態度とそちらの方面ばかりだったらしい。比較的人間関係に縛りがない一年生のときはいくら外見がアレでも彼女の地を知って絡んでいく人もいたが、二年生になってからはウィルス的に広まった噂とそれによって植え付けられた先入観に邪魔され、
「居づれーんだわ」
 あの散咲さんでも苦労しているようだ。
「一年の頃同じクラスだった人とか、今のクラスにいないの?」
「全然だ。廊下ほっつき歩いても、校舎広いからあんま目合わすこともねーし、クラス替えしてもう半年以上か? そんぐらい話してないともう声も掛けづらいんじゃねーか」
「やだ、そんなことないのに」
 確かに半年も交流がないと、友人だった人とも疎遠になって微妙な間柄になるとは思うが、こと散咲さんについてはそんな距離を感じなかった。彼女なら時間が大きく空いても関係なく前と同様の接し方をするだろうと、人柄から簡単に想像できたため、司書室の扉窓から顔を見つけたときに迷わず足を向けられたのだ。
「ま、いーんだいーんだ。寂しい思いすんのは今に始まったことじゃねーからな」
 そう言う散咲さんに正直私も、この人なら誰とも話せない今の環境とか何て事もないのだろうな、と思わずにはいられなかった。寧ろ同情でもしたら怒り出しそうだ。
 このサバサバとした彼女特有の価値観が、逆に遠慮を感じずに済むため付き合いやすい。
「で、どうだ? おめーの方はしばらくした内に“財布”の一つでも作ったか?」
「や、ちょっと……!」
 こういうところはほんの少しやりづらいが。
「んだよダセェな。んの年でそのツラしていつまでも姫様ぶってんじゃねーぞ」
「……悪かったわね」
 別に何かの童話に出てくるお姫様みたいに王子様の来訪を待っているつもりはないが、自分でも、高校二年生にしては私の顔は可愛げがないのは自覚している。目は細く、その欠点をさらに増長させるこれまた細いフレームの眼鏡に、髪型は遊び心のないストレート。身長だって女子では百七十台と高いぐらいで、鞠乃の頭が胸に来るのはあの子の身長が低いせいだけではない。制服も恥ずかしいと気後れしてしまって、スカートを上げたりブレザー或いはカーディガンなしで過ごしたりなんてできずにいる。
 まだ高校生なのだから可愛らしく飾りたいという願望は、女子として持ってはいるのだが。常日頃隣に鞠乃がいるとああはなれないなと諦念を感じる自分がいた。
「やっぱよー。年が年なんだし相応しい経験しとくべきだっつーの」
「う、うん。ねぇ、この話やめよう」
 気を紛らわせに来たはずなのに、いつの間にかまた鞠乃のことを考えていた。
 最近本当、どうかしてる。
「――へぇ」
 しかし察しのいい散咲さんはそうさせてはくれなかった。
「何かありそうじゃねーか、お姫さんよぉ」
 王城からティアラをくっつけたお姫様をさらった悪党みたいな台詞で迫ってくる。鞠乃を意識しすぎたせいか完全に話題転換の方法を間違えた。
「おめーのことだ。誰に言うことなく今まで心ん中に閉まってたんだろ」
 自分でも顔が引き攣るのが分かった。
「散咲さん御免。こればかりは勘弁して……」
「何のためにここに招き入れたと思ってんだよ。さっさと吐けオラ」
 無理矢理な言い分でにこにこ、いやにやにやと、嬉々として次々に逃げ道を塞いでくる。私が扉の前に立ったとき、悩みを抱えているなんて絶対思いもしなかったくせに。
「そんなつもりで来たわけじゃないわよ……」
「往生際わりーな。でも逃げれると思うんじゃねーぞてめぇ」
 机で頭を抱える私の背後に、いつの間にか散咲さんは回りこんでいた。ここは初めてだったな、力抜けよとか言いながら肩に手を置き揉みほぐしてくる。
「随分と信用ねーな。仕方ねーけど」
「コレは、信用の問題じゃないんだって」
「どんだけ思い悩んでるかは聞かなきゃ分かんねーが、ノイローゼんなるぐらい重いんだろ? 吐いた方幾分楽になるのは俺が保証してやっから」
「嫌……」
 この人の口車に乗っては本当に吐き出しそうになってしまう。これも去年、経験的に思い知ったことだ。
「それと、教室に帰れば誰一人寄ってこねー俺が誰かにバラせっと思うか?」
「そう、だけど……だからそういうんじゃ」
「ここで喋ったところで俺以外の誰にバレるわけでもねぇ。俺一人にぶちまけるだけで全部済む。楽になれんだよ……!」
「――う」
 語尾を強めて最後の台詞を言ってから、散咲さんゆっくりと自分がいた席に戻る。
 そして、まるで私が吐露するのが既に決定したかのように、
「さて、まず相手から聞いとくか」
「……あの、えっと、ね」
 私は決して相手の強引な説得に屈したわけではない。
 散咲さんの人柄を認めて、話すに問題ないと判断したのだ。

 さっきの購買の話から昨晩のベッドの上、それからどこまで遡ったか。
 自分でも正確に覚えていない心の異常発生時期当初まで話を続けてしまった。一旦喋りだすと止まらなくなるのはよくあると思うが、事項が事項なので何を馬鹿正直に包み隠さず喋っているのだろうかと時々冷静に馬鹿らしくなってくる。ただ恐らくもっとも愚かなのはそう思いつつも延々と口を開いている私本人だ。
「……」
 私の独白を黙って聞いている散咲さんだが、この空気というか、いつもと違う雰囲気に続きを催促されている節も少しある。そうこう言う内、結局全て話してしまった。
「何かと思って聞きゃー、妹の可愛さ自慢かよ」
 それが散咲さんの第一声。
「妹って……そう言われても仕方ないかもしれないけど一応違うよ」
「とはいえ去年からいっつも一緒だったしなーてめーら。クラスは愚か部屋までだろ?」
「えぇ、入学当初からクラスも部屋も同じ」
 さらに言うと、入学前から共に過ごしていたりするが。
「女同士でよく争わずそこまで付き合えんな……ふつーいつか片方が癇癪起こしてどっちも謝んねーで終わりだぞ」
「鞠乃と私で? ……想像つかないわ」
「重症じゃねーかバーカ」
 私と鞠乃の巡り合わせが普通ではないというのも一つの要因だが、それを抜きにしてもあの子と諍いを起こすイメージが全く沸かない。二人で暮らす上で鞠乃にはお世話になりっぱなしなので日頃から感謝しているし、仮に何か言いたいことがあったとしても、彼女となら穏便に話して済ませられる。それにそもそも、鞠乃に対する不満というのが一切なかった。
「じゃあ寧ろだな。そこまで思い入れてて問題もねーのに、何ビビってんだお前は」
「……え、っと?」
「いや、だからよ。さっさとコクったり抱いちまえばいい話じゃねーの?」
「っ――!」
 あまりにも直接的な表現に息を飲む。
「ちょっと、何言って」
「藤田から断られたり拒否られんのがこえーのか? さっきも言ったが、ぶってんじゃねーぞ」
「……大体あってるけど、それ以前の問題よ」
 まるで得心が行かないといった感じの疑問顔を浮かべられる。こう言っては失礼だが、散咲さんは普通の人と感覚が少しずれているかもしれない。だからこちらが言おうとしていることにもピンと来ないのだろう。
「だってまず、私と鞠乃は……女だよ」
「……まぁな」
 そう。私の悩みの種はこの一言に尽きる。
 今まで幾度、私か鞠乃のどちらかが男であればいいと願ったことか。
 日本国内は愚か世界中のほとんどの地で、同性同士の恋愛は法的にも世間的にも認められていない。人間の性機能や子孫繁栄の面からも勿論そうだが、男性は女性と、女性は男性と付き合うのが普通、というより当たり前という常識がこの世にはある。ただでさえ法的拘束がなくとも同性でくっつくことなく異性間の恋愛が一般的だと言うに、私の思考なんて、
「こんなの、異常じゃない……」
 あってはならない異常性癖。率直に言えばこうだ。
「妙にノリノリで話しやがるから、んなこと気にもしてねーのかと思ったら」
「ノリノリでもないし気にしないわけないよ……」
「別に俺は何とも思わねーが」
 散咲さんのことだからそう言うとは思っていた。仮に今目の前にいる人が散咲さんでなくとも、女の子が好きだと告白した人に対して真っ先に気持ち悪いと言う人はあまりいないだろう。性格的に散咲さんなら正直な感想を言いそうだが、その彼女はこの通りちょっとしたことでは動じない。
 ただ私にとってこの問題は、学業不振や寮暮らしのための金資源確保などよりは確実に重大なものだ。私は女なのだから男の人を好きになるのが普通、という世間的な認識もあり、私自身理性でそれを理解しているつもりである。しかし、完全に駄目……というわけではないと思うが、男の人に興味が向く前に鞠乃へ気が行ってしまい、頭で理解していることと実際の行動が矛盾して、普通のことができないという苦しさがある。
 そして何より、私のような同性愛者が、世間からは偏見の的になっている。
 こればかりは本当にどうしようもない。少し前、私が本格的に鞠乃が気になってしまう前までは、同性愛などありえないと自分で言っていたのだ。その自分でありえないと言っていたことを、今誰がどの口開いてやっているのかと理性が叱責する。
 好きなのだからしょうがない、と心のどこかで叫びたい衝動があるのだが、そう言わせては貰えない理性と常識とが、本心と葛藤を続ける。そしていつも勝つのは、人々の目や世間体を武器に脅してくる常識陣だった。
 そしていつしか私は本心をひた隠しにする術ばかり身につけて、鞠乃を抱いて寝るときも心音を律し、愛くるしいその姿を見ていても冷静さを取り戻し、誰にバレることなく今まで過ごしてきた。
「ルームシェアしてんじゃん。その部屋だけでいちゃつく分にはぜってーバレねーんじゃね」
「……鞠乃だって、常識人だよ。私の思いを聞いた瞬間、幻滅されたり軽蔑されたりするのは嫌」
 加え、今言った恐怖もある。世間の目を忌避するのも先決だが、まず本人が私を認めてくれないとしたら何一つ始まらない。
「今あの子に拒絶されたら……死んじゃうかも」
 過ぎた表現ではあるかもしれないが、可能性としてないことはない。今の幸せで不自由ない同棲生活は、私が理性でもって感情の暴走を必死で止めているから実現できていると言えよう。
「んだけどよ、さっき自分で言ったろ? 藤田と喧嘩するなんて想像できないって」
「えぇ」
「そんぐれー信頼関係厚いんだったら、何かすんなり通りそうじゃねーか?」
 散咲さんの口から紡がれる、甘い誘惑。
「……仮に、仮にね」
 鞠乃に私の本心を打ち明けて、受け入れられたらと考えるだけで、頬が火照って自然と気持ちが浮き上がるような想像が次々に出てくる。本当に、それが実現されたなら。実際に鞠乃に認められたらどれだけ幸せなことかと、夢を見るような感じでその瞬間の感情を妄想して、何度か口を半ばまで開きかけたことがある。
「私が本当のことを……鞠乃が好きだってことを言ったとして、鞠乃も私を好きだって言ってくれたとしても、ね」
 しかしいざその言葉を言おうとして踏み切れなかったのにはしっかり理由がある。
「私だけじゃなく、鞠乃にも苦しい思いをさせちゃうだろうから」
 それは怖いというよりは、申し訳ないという罪悪感と、鞠乃を守りたいという庇護精神の方が強く働いた結論である。
 確かに鞠乃と私が両思いであって、今よりも関係が進んだとしたら……と考えるだけでますます幸せになれる自信はある。
 だがしかし、いくら鞠乃の気持ちがどうあれ、同性愛者に対する偏見、そして私のような人間の世間体がひっくり返るわけではない。片想いがバレたら気持ち悪がられるし、お互いが愛し合っていても歪められた認識を正すことはできない。あの人達がいいのだからそれでいい、ではきっと済まないだろう。ほぼ確実に、肩身の狭い思いをする。
「私は鞠乃が好きだよ。だけども、それを打ち明けることで鞠乃が不幸せになるんだったら、それは好いている人間が取るべき行動じゃないと思う。そんな自分勝手な愛情、ないわ」
 私はあの子が好きだ。だからこそ、あの子を不幸にするようなことはしたくない。自分の欲望がために鞠乃が悲しんでしまうのだったら、
「今みたいに、私一人が苦しんでいればいい」
 私が我慢すれば、それで済む話なのだ。
「だから言わないし、言えないの。そして気付いてもらえないし、気付いてもらっても駄目」
「……蓋開けりゃ姫様どころか悟りを開いた仏かよてめーは。難儀なこった」
「こればかりは仕方ないわ。どうあがいたって人の認識は変わらないし、怖いものは怖いの」
 自分が言いたいことを言い切って、幾分か心の乱れが落ち着いたような気がした。誰かに打ち明けることで決意がまた新たに固まったり、自分の今の状態を整理できたりするみたいに。
「そりゃそうだが、俺が言ったのはてめーの性格だ」
 それもつかの間、冷静になった心にズキリとくる言葉が飛んできた。
「ぶっちゃけ俺も似たようなことやってっから気持ちは分からんでもねーが、お前の自己犠牲の精神は理解できねーよ。少しばかり過ぎてんじゃねーか?」
 似たようなこと……というのを、私は事情を知っているので何を指しているか分かる。私の秘めたる思いと同様、あまり知られたくないし、知られると身の上が苦しくなるモノだ。恐らくそれのことを言っているのだろう。
「案外何とかなってる……と言ってもおめーには気休めにはならねーかもだが、そうまでして抑えつけるモンでもねーよ。もっと気軽に考えてみやがれ」
「……ありがとう。でも」
 気休めと言われて全然そんな気がしないのは、彼女の言葉を丸々自分に当てはめることができないからだろう。
 まず彼女の秘密と私の抱える問題は根本的に別問題である。加え散咲さんはもう開き直りの精神で構えているが、私の精神力では万一のケースに到底耐えきれる自信がない。
「私は大丈夫だから。頑張る、から」
 だからこう返事をするしかなかった。
 それでもぴしゃりと言い切ることができず言葉尻がしぼんでしまうのは、我ながら本当にみっともない。自信のなさ、耐えることの痛みと苦しみに限界を感じていることを自分から喋っているようなものなのに。
「俺が少しつついただけで簡単に吐くくせ大丈夫、か。言うモンだな」
 そして散咲さんは本当によく人を観察する。あっさり心を見透かされて、今さっき改めて決めた覚悟やそれを押し通すプライドが一瞬でズダボロになりそうだ。
「まぁこの話であんまいじめてもな。それに全然救いがねーのも哀れだ」
「救いって……だから私は大丈夫だって」
「ということでだ、お前、藤田が好きなのは分かったが、それだけなんだろ?」
 私の強がりを聞くつもりはもうないらしい。
 自分で強がりと認めるのも情けない話だがそんなことはどうでもいい。それより、鞠乃が好きだけれどもそれだけ、という台詞が少し癪に障った。まるで私が鞠乃を愛玩動物か何か扱いしているように言うが、そんな失礼な人間ではない。
「違うわ。鞠乃は可愛いことには可愛いけどそれだけじゃない。あの子のお陰で今の生活が成り立ってる部分がたくさんあるし、私のこと気遣ってくれて、本当に大切な子だよ。さっきは妹じゃないって言ったけれど、個人的には鞠乃のこと、妹みたいに慕ってるわ」
「……わりー。色々勘違いさせたな。それだけってのはつまりはアレだ、鞠乃が特別なだけで別に女が好きなわけじゃねーんだろ? って意味だ」
 言い切って訂正されてから、顔が上気するのが自分で分かった。
「まっ、紛らわしいっ」
「んだけ好きで何で我慢するとか言えんのか全然理解できねー」
「忘れて。お願いだから何も聞かなかったことにして」
 勘違いさせられた怒りよりも、余計な告白をしてしまったことの恥ずかしさの方が堪える。
「とりあえず、そこらの女見てムラムラするわけじゃねーんだろ?」
「少なくとも散咲さんを見てそういう感情は出ないわね。そも、鞠乃に対してだって――」
 その先を言おうとして、昨晩と昼の購買での出来事を思い出して口ごもってしまった。
「おめーホント分かりやすいな」
 穴があったら入りたいという比喩は、まさに今この私の感情を表すのだろう。
「まーそこでだ。藤田の他に男で好きな奴を作りゃー自然と離れられんじゃねーのか?」
「あぁ……」
 提案された救いの手は、初めはそれなりに納得が行く、まともに思われるものだった。
 だが、
「う、んー……?」
 その考えが私の中になかった故斬新に感じたというのもあるが、いまいちその提案には素直に頷けなかった。既に鞠乃が好きなのに、他に好きな人を作るのが何だか二股とか浮気みたいで腑に落ちない。
「そんなのってあるのかな」
「我慢してストレス溜めるよりはよっぽど健全だ。精神的にやつれらっても後味わりーわこっちが。で、誰かいねーのか」
「急に言われても」
 これまたもの凄い恥ずかしいことだが、ここずっと、鞠乃一筋だったので正直男子になんて目が行ってない。そんな中、いきなりよさそうな男子はいないのかと無理難題を言いつけられても答えられるわけがなかった。
「アテがねーわけじゃねーだろ? 今朝のあいつとかよー」
「今朝?」
「あー。藤田とお前ともう一人、一緒になって学校来てたじゃねーか」
 つまるところ正也のことだろう。
「来てたけど……何で知ってるのよ」
「そりゃずっとここにいたしなぁ」
 その台詞を聞いて驚かずにはいられなかった。私たちの登校を見ていたということはつまり朝遅刻せず学校に来ていたということである。
「その時間からずっとここにいたの?」
「まぁな。四階だし」
 全然理由になっていない散咲さんの言葉に、何故遅刻しないで来たのに授業に出なかったのかと言及する気はすっかり失せてしまった。
「正也はまぁ確かに、古い付き合いで結構本人のこと分かってるつもりだけど」
「そのせいで恋愛対象外とでも言うのか?」
 図星で何も言い返せない。正也と別れたあとの鞠乃といい、妙に今日は正也に関する話題が多い気がする。それに恋愛絡みでだ。
「そういう散咲さんは、男の人をどこで見てるのよ」
 男性に関する話題にシフトした途端、自分の中にピンとも来なくなったので、逆に参考になるような答えを求めるつもりで切り返しをしてみた。
 口汚い散咲さんの言葉には慣れたつもりだったが、半年以上振りに会話して抵抗が働いたのだろうか。あてつけのようにそう質問してから、失言だったとすぐに後悔する。
 お前には呆れたと言わんばかりの半目をしていた目つきが、どこか遠くを見るような虚ろさを滲ませて、私から視線を外した。
「男はな、コレだコレ」
 親指と人差指で輪を作り、手の甲を下にしてゆらゆらと振る。私への呆れから、自分への嘲笑へ、表情を作る目が変化したとき、相手が散咲さんとは言え流石に罪悪感が沸いた。
「あ……御免なさい」
「気にすんな。それよりよー」
 ふっ、とまた気だるげなジト目をして時計をみる散咲さん。つられて私も見たのだが、
「おめー授業大丈夫か?」
「――!」
 その時計の針が正しければ、既に午後の第一授業が始まって半分が過ぎていた。
「えっ、チャイムはっ?」
「聞こえなかったな。俺は別にいんだけどよー真面目な朝川さんは困りモンだな」
 散咲さんのことなので本当に全く気にしないし、寧ろ授業を面白く休めてよかったとか思っているのだろうが、私にとってこれは凄いショックだった。特に何の理由もないのに欠席してしまうなんて不届き極まりない。
 会話に夢中になってチャイムすら聞き逃したか。どうあれともかく教室に戻ろうとして一直線に扉に手を掛けて、
「朝川」
 後ろから呼ばれる。返事もしないで身体だけ散咲さんの方に向いて、
「苦しくなったら話に来な。俺はしばらくここに居つく」
 意訳すると授業はサボりがちになる、とおよそ褒められたものではないその台詞に、私は首を縦に振ることで感謝を伝えた。
 悔やまれることに、最後の授業もほとんど頭に入ってこなかった。
 さっきのサボリもあり、ただでさえ授業に遅れている部分があるのにこの体たらくではいけないのだが、どうしても散咲さんとの話を回想する自分がいた。
 そうこうしてる内ホームルームも過ぎ去り、掃除担当でもない今日は帰宅を残すのみとなった。
 鞄を持って教室から出ると、鞠乃が後ろからついて来る。
「志弦ちゃん待ってー」
 細く短い足で私の横に並び、一緒に南館の玄関へと歩き始めた。
「鞠乃、今日は用事とかないの?」
「んっとねー、買い出ししなくちゃいけなかったかも」
 指を口元に当て、用件を思い出す鞠乃。
「じゃあどこかお店に寄るんだ」
「でもなぁ。志弦ちゃん先お家に送ってから、あたしだけ行ってくるよ」
「やだ、そんな気遣わなくても大丈夫よ。学校下まで戻るの大変でしょ?」
 学校下とはつまり駅周辺商店街の呼称である。駅から坂を登ったところにこの学校があるためだ。
 立地が立地なので、この近くの寮を取ることができず、私たちは数駅離れたところから電車で通学している。定期券を毎月買っているため、出戻りで乗車費用が掛かることを懸念する必要はないが、私の容態が心配だからといって往復するのはやはり面倒だろう。
 まぁ本心としては、別に具合が悪くないから学校下で気晴らしをしたいだけなのだが。
「寮近くのスーパーで済ませるよぉ。学校下のショッピングセンターとかだと、広くてどこに何があるか分かんないしヤなんだ」
「モノは多いじゃない。買い出しなんだから色々食材、見ておきたいんじゃない?」
「うーん……とりあえず、志弦ちゃんはお家で休んでなきゃだーめ」
 こちらの意図を感じ取られたか、あっさり自宅安静を命じられた。
「何か欲しいモノとかあったー?  あたし見てくるよぉ」
「そういうわけじゃ、ないんだけどね」
「そなの? んじゃぁ買い出しの方は任せてよ! 夜ご飯はさらっと食べやすいの作ってあげるからねぇ」
 あれよあれよの内に流されて、私の留守は決定された。

 寮にいるならいるで別にいい、というのが浅薄であると気付いたのは、実際に留守をし始めたときからだ。
 一人で布団に潜っているときとはどうしてこうも悶々としてしまうのだろうか。制服も着替えられないまま鞠乃にベッドへ寝かしつけられ、彼女が買い出しに出かけた後、布団に染み付いた鞠乃の匂いに後押しされるようによからぬ妄想がドンドンと加速度的に沸いてきた。自分で言うのも何だが、子供っぽい鞠乃の世話役を自負している私が、あの小さな背に付きっきりで看病され、夜ご飯もベッドの上でうどんかおかゆかの軽食を、鞠乃が吐息で冷ましてくれたものを“あーん”の手法でいただき、終いには普段私の胸の中で寝る鞠乃が逆に私の頭を抱きかかえて、後頭部の辺りを手でさすりながら一緒に寝てくれて……というところまで、立場逆転のこっ恥ずかしいシチュエーションを脳内で進めてしまい、いっそ死んでやろうかと一考するぐらいまで後悔した。
 こんなことで安静も落ち着きも何もなかったからベッドから飛び起き、バイトも何もない帰宅後のゆったりとした時間をくつろぐことにした。
 が、駄目。
 制服から部屋着に着替える最中、寝室に色々と置かれている鞠乃の私物にどうしても目が行ってしまい、何てことはないモノのはずなのに妙に意識してしまう。ずっと見ていると自分の懐にしまいこみそうで怖い。目を瞑って何も見ずに着替え終えて寝室を抜け出し、リビングにある自分の椅子に腰を下ろす。対面にある座椅子には誰もおらず、二人で暮らすにちょうどいい大きさの間取りは、留守中で一人でいる私には随分と広く感じる。ふと、寂しさと退屈を覚え、身体を動かしたい衝動に駆られたのでやるべき家事はないか探してみた。
 しかし寮生活も一年を越えると流石というか、普段家事をしてくれる鞠乃の仕事はほぼ完璧で、掃除や片付けなどが手付かずの場所が見当たらない。炊事は献立を決める鞠乃でないとできないし、逆に私が勝手にやると怒られそうでもある。一通り部屋中見回したがやるべきことは何一つ見つからず、諦めて窓の外を見やったら、すっかりと陽が落ちて暗くなっていた。
「……鞠乃?」
 帰ってきたときはまだ若干夕日が残っていたのに、ここまで暗くなってもまだ帰ってきていない。スーパーの買い出しにしては随分と遅かった。
「やばい――!」
 失念していた。夏も終わりを迎え秋に入り始めて、日が短く夜が長くなってきたのだ。
 それだけなら何ら問題はない。いくら子供じみているとは言え、実際に子供な訳ではないのだから夜道をてくてくとただ歩いて帰ってくればいいだけの話。しかしそんな簡単な道理が、彼女に限っては通らない。
 鞠乃は――ある事情で、異常なまでに暗闇を怖がる。
 嫌な予感がどんどん増して、すかさず寝室に戻り携帯であの子のところへ電話をかけた。
 呼び出し音が途切れるのが早い。まるで誰かの電話を待っていたかのような反応だ。
「もしもし鞠乃っ?!」
『うぅ……志弦ちゃん……』
 電話口の向こうで弱々しい声が聞こえる。明るいスーパーの中ですっかり暗くなった外を眺め、足を竦ませている小柄な姿がありありと想像できた。
『ごめん……帰れなく、なっちゃった』
「私の方こそ、全然気付いてやれなくて悪かったわ。今迎えに行くから」
 肩で携帯を押さえながら再び着替えていると、
『駄目だよ志弦ちゃん、休んでないと……』
 まだこんなことを言っている。気晴らしの外出ができなかった苛立ちや、私の容態を見て平気だということに気付かない鞠乃の心配性に怒りを通り越して呆れが生まれた。
 だがこの状況で感情のまま喚き散らしても仕方がない。癇に触っている私の心境よりも、闇を見て怯みあがったあの子の心の方が断然苦しいだろう。
 肩と首で挟んだ携帯を、手で掴み直して口元から外し、深く息をつき、再び戻してから、
「大丈夫よ」
「だって、志弦ちゃんが授業休んじゃうぐらいなんて」
「学校にいるときから大丈夫って言ってるでしょ。この際だから言うけどサボってたのよ、授業」
『えっ……?』
 純真な鞠乃のことだから邪推なんてしないのだろう。どこまでも私がやむを得ない理由で欠席したものだと思い込んでいる。だったら本当のことを喋って理解させるしかない。
「昼休みに教室行かないでぐるぐる校舎内散歩してたら、図書室で散咲さん見つけたのよ。覚えてる? 去年一緒のクラスだった雨崎 散咲」
『お、覚えてるよぉ』
 まぁ、学校中に名が知れ渡っている人間を、しかも一年もクラスが一緒であったならばそう忘れることはできないだろう。
「でも散咲ちゃんが、そんなところに?」
「司書室が居心地いいんだって。嘘だと思うなら明日そこ行って聞いてごらん? 朝川なら俺の隣でサボってたぜ、って証言してくれるから」
『あ、やっ、疑ってるわけじゃ……』
 サボるつもりはなかったし、授業に遅れたのはチャイムが聞こえなかったせいで厳密にはサボりではないのだが、そんな瑣末なことはどうでもよかった。とりあえず、
「それに、どれにせよ」
 未だにお願いしますもできない意地っ張りを頷かせることが最重要である。
「風邪引いて寝込んでなきゃいけなくても、薬飲まないと動けないぐらい酷いときでも、鞠乃が困ってたらどんな体調だってすぐ迎えに行く。例え誰にどれだけ止められたって、絶対行ってあげるから」
『……』
「幸い体調は悪くないわ。すぐ行くから店の中で待ってなさい」
 言って、着替を再開しブラウスのボタンを留めたところで、
『お願い、します』
 その台詞を聞いてようやく私は、承諾の意で電源ボタンを押すことができた。
7, 6

  

 通う学校が都会にあるとは言え、そこから駅を何個も離れてみれば喧騒はどこへやらだ。
 私たちの寮があるこの辺りは閑静な住宅街で、一軒家やマンションもほどほどにちょくちょく空き地が目立つ、中途半端に開発された地域である。夜も煌々と明るい学校下と比べ、ここら辺りは銀幕が降りた舞台裏のようである。
 寮から歩いて十分ぐらいのごく短いところにスーパーはあり、いくら暗いのが駄目と言えどこの距離なら努力すれば、と思わなくもないのだが、鞠乃の場合は例外中の例外である。多分、一生克服することができなそうな、それぐらい重く深い傷をあの子は持っている。
 軽装で全速力で走って、二桁に及ばぬ時分でスーパーにたどり着いた瞬間、自動ドア手前で待っていた鞠乃は私を見つけるなり思いっきり胸に抱きついてきた。
 ただ何も言わずすがり寄り、震える腕を背中へグッと回す鞠乃を、私も言葉なしに頭を撫でるぐらいしかできなかった。
 いや、恐らくそれで十分だったろう。
 私はここにいると、身体で触れ合って感覚で伝えてやることが、きっと鞠乃を一番安心させられる。
 あなたはこの場に独りじゃないと、頭を撫でて教えてやることで、彼女の恐怖を取り除いてあげられる。
 それが今の鞠乃に最も必要な行為だ。

 人目も憚らず……というより憚れず、しばらく店先でそうして鞠乃を落ち着かせて、ようやく歩き出したのは随分経ってからだった。
 顔を離した後も、小さい手を握って暗い夜道を歩いている最中も、鞠乃は一言も喋らなかった。恐怖に沈黙で耐えるよりは、寧ろ他愛のない話をして気を紛らわすタイプの彼女には珍しい。
 かと言ってこちらから何か話を振ろうにも、少し声を掛けづらい雰囲気がある。少しでも彼女の自制心を揺り動かしたら、一瞬で崩折れてしまいそうな儚さを感じられた。
 家に帰って、仮病による予定そのままに軽食のうどんを作るときも食べるときも、お風呂を済ませて次の日の準備を整えるときも、もうあと寝るだけになるまで、鞠乃はずっと口を閉ざしたままだった。せいぜい私の声掛けに「うん」と頷くぐらいで、普段からは考えられないほど静かな一日となった。
 しかし変化と言ってもそのぐらいで、寝るときはやはりいつも通り鞠乃が壁側、私が外側で一緒にシングルベッドの中へ、である。寝る場所がここしかないという問題もあるし、恐らく夜道の件があったためなおさら添い寝をしたがることだろう。
「スタンドだけじゃ少し暗いよね。今日は天井の電気もつけよっか」
 気を利かせてそう提案したつもりだったが、意外なことに鞠乃は首を横に振った。
「ん、そっか。じゃあ消すよ」
 あまりの反応の薄さに、心配する心がますます増大する。なのに、何も喋らない鞠乃に「大丈夫?」の一言も掛けてやれない。露骨に私が気遣う言葉を発した瞬間、鞠乃が何だか壊れてしまいそうで踏み切れなかった。
 そんな私にできるのは、それこそ他愛のないような話を振って気をそらせようと試みるのと、ベッドの中でか細い四肢を抱きとめてあげることぐらいだ。
 スーパーで抱きついてきたときよりも、布団の中で縮こまっている今の方が、余計に鞠乃が小さく、そして脆弱に思える。いつもはべったりくっついてくる鞠乃だが、今日に限って腕は自分の前で折り込んで、寄って来ることなくうずくまっていた。だから増して小柄に見えるのかもしれない。かつて今日のような日は何度かあったが、ここまで怖がったのは初めてで、私としても少し戸惑いを感じずにはいられなかった。
 あまりにも心配で――気づいたら、こちらから鞠乃を抱きかかえていた。
「ふはっ、ぁ」
 急なことに驚いてか、素っ頓狂な声を上げる。構わず、右腕を鞠乃の頭の下に敷き、左手を後頭部に添えて引き寄せた。
「志弦、ちゃん……」
「どうしたの?」
 驚きと困惑の入り交じった声音に、何が不思議かと言わんばかりに平然と答えてみる。こちらは別に、いつもと同じ体勢になっただけだ。
「いつもの鞠乃らしくないじゃない。一人でしょんぼりするなんて」
 ふわふわの髪をゆっくりと左手で往復してると、それに合わせて鞠乃が小さく肩を竦める。そのうち呼吸も揃えて、普段のこの体勢に慣れてきたようだ。
「……いつもの、あたし、かぁ」
 ボソリとこぼす言葉が意味深で、言及したい心が強く沸き上がる。しかしそこは私が言わせては駄目だ。喋りたいなら鞠乃の意思で自分から言わなければ。
「いつものあたしなんて。らしくない、なんて……っ」
 いつになく深刻そうに話す鞠乃に、こちらも少し気構えてしまう。
「……今日さ」
「えぇ」
「買い出し行って、あたしが帰れなくなっちゃったときにね。頑張って自力で帰ろうとしたんだよ」
 ゆっくりと、少しずつ鞠乃が語り始める。
「でも足動かなくって、周りを見たらますます暗くなっていって、他の人は平気で外に出ていくし、あたし一人だけ出口の前で立ったままで……皆帰っていくのに、あたしだけそこにいて、寂しくなっちゃって……」
 弱々しくしぼんでいく語尾を聞き取って、たまらずこちらから身を寄せていく。私はここにいると、主張せんばかりに。
「歩ける気は全然しないのに、だけど絶対志弦ちゃんを呼んじゃ駄目だー、っていう思いがあって」
「それで、あんなに遅くなったのね」
 私が一人寮の中、暇で暇で仕方なく部屋中をぐるぐるしている間に、鞠乃がそんな苦悩をしていると知って、胸の奥がきゅぅ、と締め付けられるような思いがした。
「この先も暗い道を歩けないままでどうするんだって、いつかは越えていかなくちゃいけない壁なんだって、頭の中では分かってるのに……本当に動かなくて、そのうち怖さの方がおっきくなってきちゃって……そしてそのとき、電話が鳴ったの」
「……御免ね、遅くなって」
「ううん」
 私の左手と右腕に挟まれて上手く動かせないだろうに、小さく首を振って否定する鞠乃。その挙動を意外だと感じてしまうのは、鞠乃をまだ子供っぽいと見ていることの現れだっただろうか。
「出ちゃ駄目だ、って気付いたのは、もう志弦ちゃんの声が聞こえてきたあとでさ。取っちゃった、の方が正解なのにね。あたしトロいなぁ……」
 やはり心の底では、私の電話を待っていたのだろう。呼び出し音が鳴ってから鞠乃が出るのがものすごく早かったことを思い出す。
「志弦ちゃん病気なのに頼ったりしたら駄目だって、電話しちゃ駄目だってずっと思ってたのに……電話、掛かってきたりなんかしちゃったら……すぐ取っちゃってさぁ」
「鞠乃、そんな無理することでも」
 徐々に涙声になる鞠乃の言葉に、思わずその努力を否定するような台詞を吐いてしまって後悔する。これは私のことを思ってくれたのと同時に、自分の傷を治そうと必死で戦う鞠乃の決意でもあったのに。
「あたしは自分で帰んなくちゃなかったのに……そこで志弦ちゃんが、あの言葉を」
 ――鞠乃が困ってたらどんな体調だってすぐ迎えに行く。例え誰にどれだけ止められたって、絶対行ってあげるから。
 自分が発した言葉を思い出す。
 何が何でも頑張って夜道を帰ろうとしていた鞠乃と、何が何でも鞠乃が弱っていたら助けに行くと言った私。
 少し似ているようで、少し噛み合っていなかった。無理をし心配で気を揉ませるか、手を差し伸べて気負わせてしまうかのお互い。
「甘えちゃ駄目だって、自分で帰るんだって、電話中もずっと思ってたのに、志弦ちゃんがあぁ言ってくれて……やっぱり、コロっといっちゃった」
 余計なことをしてしまっただろうかと自責の念に駆られて、何も言えない。
「ねぇ、志弦ちゃん」
「……えぇ」
「いつものあたしなら、外が暗くなったら真っ先に志弦ちゃんを呼ぶんだよね?」
「……」
 先程の振りは失言だった。それも完全に。
 こう捉えられてしまうと、フォローのしようがない。
「暗くなって怖くなって足動かなくなったら、志弦ちゃんに助けてもらう。それがいつものあたしで、あたしらしいんだよね……?」
「ま、鞠乃」
「いつまでもそんなあたしじゃ……駄目、だよね」
 私には、そうだよとも、そうじゃないとも言えなかった。
 どの言葉も、私が言っては無責任になってしまう。どの答えだって、彼女のためにならない。
 そうしてしばらく気まずい沈黙が流れて、
「……あのね」
 十分に溜めてから、鞠乃がまた話し始めた。
「とっても、すっごく嬉しかった。志弦ちゃんにあんなにまで言ってもらえて、こんなにも思われてるんだなぁって……ちょっと、勘違いしてるかもだけどさ」
 それは違う。本当にそう思ってる。とすぐに訂正できなかったのは、そう言うことで彼女の努力を踏みにじることになりかねないのではという懸念があったからだ。
「それでね……言ってもらった瞬間、すごい、ホント変な話なんだけどさ」
 その先を言うのを躊躇うように、また少しの溜めがあって、
「志弦ちゃんに、惚れそうになっちゃって、さ」
「えっ――」
 突然の告白に、反射的に驚嘆の声が出てしまった。その直後に、
「ごっ、ごめん! ゴメンゴメン! その、何でもないのっ、わすれ、て?」
 私の驚きを否定的に受け取ったのか、照れ隠しのように誤魔化し始める鞠乃。
 狼狽するその姿を見て、このとき、私の本心を包み隠さず全てぶちまけてしまおうかと、本気で迷った。
 今の言葉は驚愕で引いてしまった声じゃなく、不意打ちを受けて思わず出てしまった歓喜の声であるとか、少し前から鞠乃が気になっていて毎晩一緒に寝るたびドキドキして心音がとんでもないことになっていたとか、散咲さんと会って話していたのもあなたのことでうっかり時間を忘れてしまったとか、正也と仲良さそうに話していると嫉妬してしまうとか、とにかく好きで好きで仕方がない……等々。
 世間体や人目や体裁など、今までずっと私をがんじがらめにして妨害してきた常識という障害たちを、なりふり構わずかなぐり捨てて真心を告白してしまおうかと、究極の選択を迫られたような心境で検討した。
 悩み、一歩踏み出そうとして、未来のヴィジョンが見えて怯んでしまい、一歩下がって……と、脳内で一人勝手にシーソーゲームをしていたときだ。
「変、だよね」
 ふと、前か後ろか置き場に困っていた足が、虚空を踏んで真っ逆さまに落ちていった。
「おかしいよね。志弦ちゃん、女の子なのに……。女の子同士で好きになるなんて、どうかしちゃってるよね、あはは」
 どこが、どこまでが鞠乃の本心かは分からない。
 しかし確実に、照れ隠しでも自身の正常化でも何でも、今の彼女の台詞で、私の全ての逡巡はノーという結論だけを置いて吹き飛んだ。
「ぁふぁ」
 姿勢を前屈みに変える。鞠乃の頭を顎の下に入れ込むことで、彼女からこちらの顔は見えないのだ。
「志弦ちゃん……?」
 変じゃない。おかしくない。どうかしちゃってなんかない。そんなこと言えなかった。
 それは鞠乃の正当化でなく、自分の擁護にしかならない。私の私に対する気休めでしかない。加え現に、私の思いと鞠乃の嘘か本当か掴めぬ発言は、変でおかしくてどうかしちゃっているものである。
 それを無理に正常化するより今の私がするべきは、何も言わずただ黙って、昂揚と絶望が間髪なく訪れた心を落ち着かせ、動揺一つなかったかのようにいつもと変わらない一定の心音を鞠乃に聞かせてやることだ。
「どしたのぉ?」
「御免ね、私眠くてさ」
「……そっか。おやすみね」
 きっと鞠乃も触れられたくないのだろう。詮索せずそのままにしてくれる。彼女もまたいつも通り、私の腕の中で眠ることにしたようだった。
 ――明日は、鞠乃より早く起きなくてはいけないだろう。
 朝の私の顔はきっと、とても見れたものじゃなくなってる。
 〆
8

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